【第二章 開かれし記憶の扉】


 男は感極まった様子でしばし顔を伏せていたが、次に三人へと向けられた表情は、今まで彼の見せていた厳格な雰囲気を脱ぎ捨てたものだった。そして、その唇から零された言葉にも、優しさがにじみ出ている。
「火陵。それに水日殿、風樹殿、よくぞ戻って参られた」
「うへっ!?」
「こら
 先程まで火陵にばかり視線をやっていた男が、突然自分たちの名前を呼んだこと、そして何よりも自分の名前に殿とつけられたことに、ついつい風樹は間抜けな声を上げる。だが、隣に立っていた水日がすぐさまそんな風樹の腕をつねった。勿論、誰かに見咎められるような愚かなミスは起こさない。
 そんな水日の技術と、痛みの悲鳴を懸命に堪えた風樹の努力とで、男は何も追求することなく、視線を火陵へと戻して言った。
「火陵、こっちへ」
「え? は、はい」
 突然手招かれ、火陵は恐る恐る男の前へと歩み寄る。
 いったい何だろうかとどぎまぎしている様子の火陵を、男は驚くほどに優しい瞳で見つめていた。それを見て、火陵の体から無駄な力が抜ける。けれど、すぐにまたその肩が強張ってしまったのは、
「火陵、帰ってくる日を今か今かと待っていたよ」
 そう言って男が徐に手を伸ばしたからだった。そして、その手は戸惑う火陵に構うことなく、その肩を引き寄せ、
「あ、あの・・っ!」
 火陵の体を優しく抱き締めたのだ。
 これには当然火陵も、そしてそれを見守っていた水日と風樹もぎょっとする。火陵のお姉さんを自負している水日に関しては一瞬握り拳を作るが、冷静にもそれをすぐにといた。男の優しい瞳と仕種に、彼が火陵に対してよからぬことを企てているわけではないのだと察することが出来たから。
「あの・・・」
 どうしていいものかと火陵が男にかけた遠慮がちな声に応えたのは、三人の後ろに控えていた螺照だった。そしてその言葉は、この男を知っているかもしれないという火陵の予感に答えを告げるものだった。
 火陵を安心させるように、螺照は優しい声で言った。
「火陵様、そのお方は、あなた様のお祖父様ですよ」
「えッ!!?」
 螺照の言葉に、火陵は男の耳元に口があることなど忘れ、思い切り驚きの声を上げる。
 男はと言うと、耳元で火陵が叫ぼうが否が、そんなことなど気にした風もなく、火陵の体を僅かに離し、けれどその両肩に手を置いたまま火陵の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「そうか、未だ記憶が戻っておらんのだな」
「はい」
 答えたのは螺照。
 その答えを聞くと、男は今度は完全に火陵の体を離した。
 火陵はすぐさま水日と風樹のいる場所まで早足に戻る。祖父だと告げられたこの男が危険な人物ではないことは認めるが、それでも心を開くにはまだ彼のことを何も知らない。そして、そもそも祖父だというその事実を認めることすら難しい。火陵が完全に警戒心を解くことはまだできそうにない。
 それは水日や風樹にしても同様らしく、男から解放され戻ってきた火陵を水日と風樹も迎え入れ、自分たちの間に挟むようにして置いた。そして顔を寄せ合い、水日が口を開いた。
「ちょっと、おじいちゃんって・・・それにしては若すぎじゃない?」
「風樹ちゃんも右に同じっス!」
「私も同じく! それに、覚えてないんだもん」
 三人にはあの男が火陵の祖父であることを証明することはできない。頼りになるはずの火陵の記憶は硬くその扉を閉ざしており、うんともすんとも答えてはくれない。祖父という近しい人間―家族を見てさえも何も感じない。それほどまでに記憶の扉が硬いのか、それとも本当に目の前の彼を知らないのか。疑心はすぐにその首をもたげる。そうして失礼かとは思いつつ、三人はうろんげな視線を男へと向けてしまっていた。
 そんな三人に気付いた螺照が彼女らの肩を優しく叩く。 本当ですと、その優しい掌が三人に伝えてくる。 しかし、火陵たちが完全に納得するには至らず、小首を傾げるのみだ。
 螺照は少し考えた後、男の前に恭しく膝をつき口を開いた。
「今日はお三方ともお疲れのご様子。今日の所は
 男も螺照と同じ考えだったのだろう、螺照の言葉を途中で遮り、大きく頷いて見せる。
「そうだな。部屋は用意してある」
 その男の言葉に、どうやらこの場から解放されるらしいことを察した三人はほっと安堵の溜息を洩らしていた。しかし、「じゃあね!」と、速攻で解放とはいかないらしい。
 椅子から腰を上げた男が、三人の前に立つ。
「記憶が戻っておらんのでは、混乱していることだろう」
 労るような瞳で三人を見遣る。
 その瞳を困惑と共に三人は見つめ返すしかない。この先記憶が蘇ることがあればこの混乱は収まってしまうのだろうか。この「え? 夢ですよね?」と夢オチでかたをつけてしまいたくなる現状をすんなり「あ、そうそうそう。こんな感じ」と受け入れることが出来るようになってしまうのだろうか。それはそれで嫌だと三人は思った。
「今日はゆっくり休みなさい。詳しいことは、明日話すとしよう」
「・・・は、はぁ」
 さすがの水日も威厳を纏い、おそらくこの部屋の中で誰よりも偉い立場にあると思しき男の言葉に待ったを入れることはできなかったようだ。大人しく頷いた火陵の後について、水日と風樹も首を縦に振って見せた。
 男の前についていた膝を上げ、立ち上がった螺照が三人に向き直ると言った。しかし、その言葉を途中で遮ったのは火陵の祖父だという男だった。
「では、御案内いたしますので
「良い、螺照。そなたには、まず会わねばならん者たちがいるではないか」
 その言葉に螺照は驚いたように男を見る。そんな螺照を男は優しい瞳で見つめ返していた。
「・・・ありがとうございます」
 しばしの沈黙の後、螺照は再び男の前に膝を着き、深く頭を垂れた。そんな螺照に、男は笑みを零した。
 それはとても穏やかな笑みで、彼が今纏っている厳格な雰囲気だけが彼の全てではなく、穏やかな性分を持ち合わせていることを三人は知る。その瞬間に、僅かだが彼への警戒心は解けたようだった。
「では・・・夜衣」
「はい」
 螺照に微笑みかけた後、すぐに男は夜衣を見た。
「見知った人間の方が良いだろう。夜衣、火陵たちを部屋へと案内してはくれまいか?」
「御意」
 軽く頭を下げ、夜衣は男の命を受ける。そして、火陵たちの前に立ち、夜衣は優しい声音で言った。螺照と引き離されることを不安に思っていることを彼女らの表情で察したのだろう。
「さあ、参りましょう。こちらです」
「う、うん」
 男と、そして大きな広間に背筋を伸ばして立っている数人の男女に深く頭をさげる螺照と夜衣の姿に習って、火陵たちもぎこちなく会釈をすると、二人に連れられるがまま赤い絨毯の上を行く。そして、その背に痛いほど突き刺さってくる視線を感じながら扉をくぐり、ようやくその部屋を後にしたのだった。一気に肩の力が抜け、三人は表情を緩め視線を交わした。
「それでは夜衣、あとは頼むよ」
「お任せください」
 自分を余所に話している二人に気付き、やはり螺照が自分たちの側から離れてしまうことを確認した火陵たちは不安げに顔を見合わせる。
 けれど、螺照はよほど彼を待っているという人に会いたいのだろうか、いつもならばそんな火陵たちの感情を敏感に感じ取ったのだろうが、今ばかりは何も言わない。気付かなかったようだった。
「では、またあとで窺いますから、夜衣に大人しくついていってくださいね」
 しかし、その台詞は小さな子供を心配するお母さんのもので、三人は思わず笑みを零し、
「「「は い」」」
 と、こちらも子供よろしく元気の良い返事を返す。
 再度三人に笑みを向けてから、螺照は彼女らの元を駆け出して行ってしまった。
 そんな彼の背中を、三人がヒラヒラと手を振りつつ見送る。その表情には再び不安の色が浮いていたが、それを見つけた夜衣が明るい声で彼女らに声をかけた。
「さあ、行きましょう」
 歩き出した夜衣の後ろについて、三人も渋々歩き始めた。城の門を正面に、左の方へと走っていった螺照とは反対の方へと三人は連れられていく。
 廊下を行き、途中現れた階段を上っていく。緩やかに螺旋を描いているその階段をひたすら上っていく。その途中途中で廊下が姿を現すが、それを幾つか通り過ぎ、おそらく四、五階くらいだろう廊下へと夜衣は足を向けた。
 静まりかえった廊下を四人は歩いていく。
 ふと、火陵が天井を見上げれば、いつの間にかそこには夜空が広がっていた。 月明かりにうっすらと照らされた白い雲が風に乗って空を滑り、一体何を囁き会っているのだろうか、キラキラと瞬く星たちの姿もそこにはある。
 そして、

 白銀の星と雲に囲まれ、夜空の中央に君臨しているのは、赤い月。
 それは、自分たちを取り巻くものが、辛うじていつもの正常なもので構成されていたあの日、そして唐突に全てが到底理解不能なことばかり充満した世界へと突き落とされることになったあの日の夜、空に悠然とその身を横たえていた赤い月だ。
 見事なまでの、赤。
 思わず足を止め赤い月を見つめている火陵に気付き、風樹も足を止める。そんな二人に会わせて夜衣と水日も廊下の途中で火陵を振り返った。

 じっと天井を見上げている火陵につられて、水日と風樹も天を仰ぐ。そこは吹き抜けになっており、おそらく硝子で天井が作られているのだろう、夜空を窺うことができた。そして、彼女らも火陵がじっと見つめているその月を見つけ歓声を上げていた。
「うわ、赤 い!」
「美味しそう じゅる」
「何よ、その感想」
「だって、何か・・・美味しそうじゃん?」
「全ッ然!」
 ぎゃーぎゃーと喚いている幼馴染み達の隣で、火陵はまだ空を見上げたままでいた。

 赤い月。
 この異質な現状が自分たちを覆ったその時、自分たちを見つめていた赤い月。それが、再び空に昇っている。
 何故か、心臓が早く鼓動を奏で始める。赤い月が、何故か火陵を早く早くと急かす。どこかへ 何かへ導こうとしているのか、否か。
  もう、止まらない。
 何かがあの最初の月の夜に始まり、そして今も動き続けている。きっともうこの何かが止まることはないだろうと、火陵は悟る。
 その根拠は、ない。
 やはり正体の分からない何かがそれを火陵に諭している。
 その何かを表す言葉は、分からない。だが、
(きっと、あの人ならこう言う・・・)
 あの夢の中で出会う男は、きっと動き始めた何かをこう例えるだろう。


  運命さだめの輪、と。










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