火陵は廊下を必死で駆けていた。
 階段を駆け下り、2階の廊下へと出る。そのまま階段を下りることも考えたが、男が追ってきているのであれば2階へと出て、彼の考えつかないルートで校庭へと出ようと考えたためであった。
 再び渡り廊下を通り、自分たちの教室のあった棟に戻る。そして階段を下りようとしたその時だった。
ッ!!」
 音など聞こえなかった。しかし、唐突に背後に人の気配が現れ、振り返る間もなく腕を掴まれる。悲鳴は喉の奥で消えた。
 弾かれたように振り返ると、そこにいたのは、
「夜衣・・ッ!!」
 夜衣がいた。途端に安堵感が火陵の中に広がる。自分でも気付かぬ間に、火陵は夜衣に縋り付いていた。それほど男に一人追われている時間は恐怖だった。
 突然縋り付いてきた火陵に、夜衣は一瞬戸惑ったものの、すぐに彼女を安心させるように肩を優しく支える。そして、やはり優しい声音で告げた。
「遅くなってしまい申し訳ございませんでした」
「夜衣
「もう大丈夫です。ご安心下さい、火陵様」
 その言葉はとても穏やかだった。しかし、唐突に火陵の腕を引き、半ば強引に自分の後ろへとやったその動作は性急なものだった。
 まさかと夜衣の後ろから顔を覗かせると、やはりそこにあの男の姿があった。男は夜衣の姿を見て、僅かに驚いているようだった。しかし、その驚きもすぐに消え去る。
「貴様・・!」
 途端に表情を険しくし自分を睨みつける男に、夜衣は臆することはなかった。真っ直ぐに男を見つめ返し、対峙する。そして、僅かに両手を広げ、火陵を守るように男との間に立った夜衣は、凛とした声で言い放つ。
「火陵様は渡しません」
 漫画や小説の中でよく見聞きする胸きゅんワードだったが、今の火陵にそんなことを感じる余裕などない。
 その場は今、空気が震えるほどの殺気が充満していたのだ。バチバチと夜衣と男との間に漂う空気が火花を散らしてもおかしくないほどに張りつめた空気の中、火陵はただ夜衣の後ろで立ち尽くしていた。
 きっと短かったのだろう。しかし火陵にとっては長すぎた沈黙は、唐突に破られる。先に動いたのは男の方だった。
何? アレ・・」
 男が徐に持ち上げた腕、その掌の先の空気が歪み、何もない空間に仄かな光を伴った風が生まれるのを、火陵は茫然と見つめていた。男の掌中から現れた風はすぐにその形を透明にうねる玉のようなものへと変える。そこから風が轟々とうなりを上げている様に火陵は、教室を破壊し自分に向けられていたのがその不可思議な玉であることに気付く。
 バチバチバチ ・・
 轟々と鳴る風の合間に、空気の歪みから何かが弾けるような音が響き渡る。そして、ついに男の手からそれが放たれた。
「夜衣!!」
 逃げようと夜衣の腕を引いた火陵だったが、夜衣はそれをやんわりと断り自らも手をかざす。そして、その掌から躍り出たのは、
!!?」
 赤赤と燃えさかる炎だった。
 夕闇が廊下を覆い尽くす中、突然夜衣の掌から現れた炎は辺りを一瞬にして昼間へと変えてしまっていた。
ッ!」
 あまりの目映さに目を閉ざし夜衣の背に縋り付いた火陵に、夜衣が優しい声で囁く。
「大丈夫です。火陵様」
 その言葉にそっと瞳を開くと、炎は消え辺りは夕闇の中に戻っていた。そして、男へと視線を向けるが、
「え!?」
 そこにあの男の姿はない。忽然と男の姿が消え失せていたのだ。夜衣の炎が男を焼き尽くしたのかと一瞬ぞっとしたのも束の間、突然頭上に影がさし、あの男が夜衣の目の前に降ってきたのだ。
「お下がり下さい!」
 夜衣の言葉に火陵は言われるがまま、すぐさま夜衣から離れる。
 夜衣は頭上から飛び降りてきた男を避け、次いで繰り出された男の拳を受け止め、押し返す。
 それは一瞬の、本当に瞬く間の出来事。火陵の目には、とにかく二人が早く動いたことしか分からなかった。視認することも出来ないほどの攻防だった。
 そして息をつく間もなく、再び辺りが光に包まれる。その光へと視線を遣ると、夜衣の腕に炎が巻き付き、そして放たれた光景が瞳に飛び込んできた。そのまま視線は龍のようにうねりながら男へと向かっていく炎を追う。
 炎は彗星が空に尾を引くようにヒラヒラと黄金色を闇に零し波打ちながら、それを逃れようと高く飛んだ男を追い、ついには彼の腹に打ち込まれる。炎に包まれるのかと思った男は、しかし、そのまま炎の龍に連れ去られるようにして廊下の向こうへと跳ね飛ばされていった。

 その様を、火陵は言葉もなく茫然と見つめていた。
ホントにコレ、夢なんじゃ・・・?)
 しかし、
「参りましょう」
 そう言って取られた手の温もりと力強さ。思い出したように痛んだ肩。そのリアルな感触が、今この現状が夢ではないことを肯定する。
(でも
 そこから先の思考が紡がれる前に、夜衣に手を引かれるまま火陵は駆け出す。しかし、ふと背後に気配を感じ、火陵は振り返っていた。
「夜衣!」
 火陵の声に夜衣が振り返る。炎の龍に跳ね飛ばされていった男が、あの不思議な玉を夜衣に向けて放った所だった。
!」
 夜衣がそれを受け止める。火陵では受け止めることは叶わず紙切れのように吹き飛ばされてしまっていたのに、夜衣はそれをいとも簡単に受け止めている。そのことに火陵が驚いている間に、男は恐るべき早さで廊下を駆けてきたかと思うと、夜衣の頭上を飛び越し、火陵の背後に立つ。それに気付いた夜衣が男の放ったものをはじき飛ばし、火陵を再び己の背後へと押しやり叫んだ。
「火陵様! 今の内にお逃げ下さい!」
「でも
 そこから先の言葉を夜衣は待たなかった。
「お早く!!」
 その声に背を押され、火陵は駆け出していた。
 自分のために男と戦っている夜衣を残し一人逃げることに罪悪感がなかったわけではない。勿論、夜衣のことが心配ではあるのだ。しかし、それでも足は止まらない。必死で逃げようとしている自分自身に薄情さを感じつつも、それでも恐怖から逃れることの方が先決だとひたすら逃げる。
 元来た渡り廊下を駆け逃げる火陵の背後で爆音が響き渡る。何が起こったのかと振り返ろうとした火陵の背に爆風が吹き付ける。背中に流していた長く美しい髪が激しく揺れた。爆風が、まるで止まるなとでも言うように背中を押す。そうして押されるがまま、火陵は走り続けた。
(もう、泣きそう・・)
 じわりと滲む涙が、頬を伝い零れるのだけは堪えようと唇を噛む。
 腕の傷がジンジンと痛む。打ち付けた右肩も今更になって痛み出す。しかし、そのどちらよりも、恐怖が一番の苦痛だった。どうすればこの恐怖が終わるのかが分からない。己の力では何も出来ないことは一目瞭然だった。ただ逃げることしかできない。そのことがとても怖ろしい。
 再び火陵が唇を噛んだその時だった。
!」
 少し離れた背後で、とんと地面に下り立つ音が聞こえたのだ。それは男が夜衣の頭上を越し、己の背後に下り立ったその音と同じ。
 火陵は更に足を早めると、視界に入った理科室へと駆け込む。そしてそのまま更に奥の準備室へ入ると鍵を閉めた。それが無駄な抵抗であることは自覚していた。あの男は不思議の力でもって風を起こし硝子を割り、扉でさえ吹き飛ばしてしまうのだ。それでも少しでも抵抗を試み、安心を得たかったのだ。更に奥へ奥へと入った火陵は、床にどんと置いてある棚の戸を開き、その中に体を押し込める。小さすぎる棚に火陵の体は収まりきらなかったが、それでも暗闇に包まれ始めている部屋の中であれば、男も見つけ出せないかも知れない。
 微かな望みを胸に抱きつつも、
助けて・・」
 口を開けば自分らしくないと後から考えれば笑えるような、か弱い言葉しか出てこない。
 今まで、男勝りとまでは言わないけれど、それでもそんじょそこらの女の子よりも精神的に強いのだという自負があった。上背があり、中性的であったため、男の子のように扱われ、そうして慕ってくる女の子を守るくらいの気概で生きてきた。しかしながら、その自負ももう粉々に打ち砕かれている。どんなに抵抗してもびくともしなかった男の力と、今まで見たこともないようなおかしな力を持ったあの男に敵う自信など生まれようもない。己の無力さを知らしめられ、抵抗する術も敵う見込みもない、まさに絶体絶命という名に相応しいこの状況では、弱音しか唇を越えなかった。
「水日・・風樹・・」
 思わず呼んでいたのは、常に一緒だった幼馴染みの名前。
 いつもいつも彼女らが一緒にいてくれたのだ。捨て子と心ない言葉を吐きかけられるその時も 、そんな同級生に仕返しを企て実行するその時も、そしてそれがばれて先生に怒られるその時にも二人がい てくれたのだ。だから、何も恐いことなどなかった。そう、こんな風に一人きりで恐い思いをしたことはなかった。いつも二人がいてくれた。その二人が今はいない。
 水日が言ったように辞書を取りに行くのなんて、またにすれば良かったのかもしれないと後悔する。それと同時に、
(あ、辞書・・)
 一体いつ手放してしまったのか覚えていないが、己の手に辞書はなかった。
 これでは本当に何をしに来たのかが分からない。ただ、怯えるためだけにやって来たようで、火陵はたまらなくなる。
「ああ、もう・・」
 瞼にかかる前髪をかきあげ、そのまま片手で顔を覆う。その下に隠した顔は、泣き顔のように歪んでしまっていたから。
 今泣きだしてしまったら、もう涙を止める自信はない。火陵がきつく唇を噛みしめたのと、 恐れていた時がやって来たのはほぼ同時だった。
 ドォン!!
!!」
 理科室の方から響いてくる爆音。おそらくあの男がやってきたのだ。
 火陵はますます体を縮める。その体が、ガタガタと震え始める。その震えは、次第に近づいてくる足音と共に大きさを増す。
(あの男が来たんだ・・・!)
 湧き上がる恐怖の隅で、彼と対峙し、自分を逃がしてくれた夜衣がどうなったのかという心配が顔を覗かせる。
 しかし、それも一瞬だった。
 足音が更に近づいてくる。そして、再び、


 ドン!!


 凄まじい爆音と共に、ドアが外れ火陵の視界の隅を横切っていった。そのドアと爆風によって、準備室に並べてあった実験器具たちがなぎ倒され、無惨にも床へと落ち壊れていく。
 そして足音が、準備室に入ってくる。
(気付かないで・・!)
 息を潜め、火陵は更に体を小さくし、祈る。暗闇に紛れ、どうか自分のこの姿が男の瞳に映りませんように。
 しかし、その願いは叶えられなかった。
 足音は迷うことなく火陵へと近づいてきて、止まった。

 心臓を冷たい手で鷲掴みにされたようだった。体中がひどく冷たいものに覆い尽くされたように寒気を走らせ始める。
 恐怖はもはや火陵の理性を崩壊させてしまいそうなほど大きくなっていた。それでも火陵はまだ己を見失わなかった。
 震える息を吐きながら、ぎゅっと閉ざしていた瞳を開ける。
 やはりそこにあの男がいた。変わらず冷たい目をして男が自分を見下ろしていた。
「来ないで!!」
 その願いもまた聞き届けられることはない。ゆっくりと男は歩み寄ってくる。
 最早、逃げ出すことは出来ない。出入口はたった一つ。男の隣をすり抜け、唯一の出入口から脱出できる可能性は皆無。またあの男の強く素早い腕によって囚われてしまうに違いない。
 火陵は、逃げることを諦める。しかし、まだ希望は捨てていなかった。
 目の前で歩みを止め、うずくまっている火陵と視線を合わせるように地面に膝を突いた男に、火陵は震える声で訴える。
殺さないで」
 懇願する。プライドも何もかも捨てて懇願する。
 否、それは半分演技だった。
 火陵は今までの人生、十数年間という短い時間ではあるが、その時間をこの顔で生きてきた。人よりも容姿が優れている自負はある。己のこの顔が他人にどのような効果をもたらすのかを火陵はよく知っていた。だから、健気に懇願してみせる。

 火陵の期待通り、男が僅かに目を瞠る。そして、その瞳が細められるのを火陵は期待と共に見つめていた。
 もしかしたら、見逃してくれるかも知れない。
 そもそも、何故自分が命を狙われるのかが分からないのだが、この際そんなことは関係ない。
 男はしばし沈黙し、じっと火陵を見つめていた。
 その唇に「分かった」という言葉が乗せられることを火陵は一心に祈る。しかし、火陵の祈りはことごとく敵わなかった。
 男は無慈悲にも言った。
「・・・お可哀想だが、死んで頂く」
 そして、徐に火陵へと手を伸ばす。
殺される・・!)
 万事休す。
 火陵が覚悟を決め、ぎゅっと瞳を閉ざした、その時だった。
ッ!」
 男が痛みに呻く声が聞こえ、何事かと火陵が閉ざしていた瞳を開く。すると目の前が、真っ赤に染まっていた。
 それは、炎の赤。
ッ! イヤだ!!」
 突然、何処からともなく現れた炎は、瞬く間に火陵の体を包み込んでいた。このまま焼かれてしまうのかと怯えた火陵だったが、ふと思い出す。
(これは・・・)
 鮮やかな紅を燃やす炎。時折黄金色にはためくその炎には見覚えがあった。
(これは あの夢で見た炎)
 闇に包まれた夢の中で、黒い服を身に纏った男が手にしていたものと同じ炎。くすんだ色をした燈火ともしびたちの中、一つだけ鮮やかさを保っていたいた炎と同じ。そして、その炎を見て彼は言った。


  炎がそなたを傷付けることはない。それは、そなたの炎なのだから。


 脳裏をよぎった彼の言葉が、火陵を冷静にする。
 そして気付く。炎の包まれているのに、熱くない。自分に手をかけようとした男の腕は焼いたようだったが、火陵を傷付ける様子はない。
・・守ってくれてるの?」
 その問いに答えるように、また黄金色が宙に舞う。そして、更に救いの手が火陵に述べられる。
「火陵様!!」
 夜衣の声が響いたと同時に、目の前にいた男の姿が吹っ飛んでいった。男の体によってなぎ倒された棚が倒れ、その中の器具が床に落ち無惨にも砕け散る。薬品の匂いが鼻を突いた。
 次いで目の前に現れたのは、頬に僅かに傷を負った夜衣の姿だった。炎の先に夜衣の姿が微かに見える。そして、夜衣が手を差し伸べたのが分かった。
「行きましょう! ッ」
 しかし夜衣の伸ばした手は、火陵を守ろうと燃えさかる炎によって阻まれる。そのことに気付いた火陵は慌てて声を上げる。叶うかは分からないけれど、
「ダメ! 夜衣は傷付けないで!!」
 ようやく火陵の祈りが届く。炎は火陵の言葉のままその姿を忽然と消していた。
 それを見て夜衣はすぐに火陵の腕を掴み、少し強引とも思える仕種で火陵を起こすと、
「ご無礼、お許し下さい」
 火陵が「何!?」と問う間もなく、ひょいと両腕に火陵を抱え上げていた。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。火陵も乙女の端くれ。だがしかし、「お姫様抱っこ、初体験 きゃ 」という心境には到底なることはできない。それより何より、夜衣のあの細い腕でどうして自分のような上背のある女が持ち上げられるのかが不思議で仕方ない。
 が、すぐにその思考も中断を余儀なくされる。
「しっかり掴まっていて下さい」
 言うなり夜衣が理科準備室の窓を割ったのだ。そして、何をするのかと思いきや、火陵を抱えたまま窓のさんに足をかけ、身を乗り出したのだ。
「え!!? ウソッ!! ムリムリムリムリ ッ!!」
 火陵の必死の抗議も虚しく、
「行きます」
 と穏やかに言い、
「わ ッッッ
 躊躇うことなく夜衣は二階の窓から火陵を抱えたまま飛び降りていた。
(死ぬ死ぬ死ぬ! 絶対死ぬ !!!)
 と覚悟を決めた火陵だったが、夜衣はというと、すとんと重力を感じさせない様子で無事校庭へと下り立っていた。
・・・・・天使? もしかして夜衣は炎を吹く天使なの??)
 なんてあり得ないことすら考え始めた火陵だったが、それを止めることはできない。もう、あり得ないことがてんこ盛り過ぎた。
「このまま家まで行きますね」
 完全にパニックを起こしている火陵は、わけも分からぬままコクコクと首を縦に振っていた。
 そして夜衣は火陵を抱えたまま校庭を駆け出す。
どんだけ怪力やねん・・)
 何故か関西弁でツッコミをかましてしまうのだが、そのツッコミに覇気はない。完全に茫然自失状態の火陵を抱え、夜衣は校庭を駆け抜け学校を出ると、更に火陵を驚かせる行動に出た。
!?」
 夜衣は火陵を抱えたまま軽々と地面を駆け、更には地を離れ、屋根から隣のそのまた隣の屋根へとジャンプを繰り返し、恐るべき早さで家への帰路を駆け 否、跳び始めたのだ。
ホントに天使!!?)
 珍しく乙女チックな仮定を本気で信じつつある火陵だったが、すぐにその仮定を打ち消す。
(ないないないない! あり得ない!!)
 では、やはりこれは夢なのだろうか。腕の傷も、肩の鈍い痛みも、身を引き裂くような恐怖も、夜衣の腕の温もりも、全て夢の中の出来事
 トン、と夜衣がまた屋根から大きく跳躍し空へと舞い上がる。

 いつのまにか雲が晴れた夜空に、赤い月がいた。
 届くはずもないが、僅かながらに己へと近づこうと地面を離れる火陵をじっと見つめているかのように、大きな赤い月がそこにはいた。


 赤き月の下、運命さだめの輪が 廻り始める。








** back ** top ** next **