白いブラウスと紺色のベスト。胸元には臙脂色のリボン。そしてスカートは濃い緑を基調とし、赤や青を交じらせたチェックのスカート。終業式以来袖を通していなかった制服を纏い、火陵は夜衣を伴って高校へと向かっていた。その道のりはひたすら緩やかな上り坂を上っていく。15分ほど上っていくと火陵たちの通っていた学校があり、そこからは街を見下ろす事も出来るなかなかの景色が待っていた。
 いつもは水日と風樹と共に、ワイワイギャーギャー言いながら通っているその道を、今火陵は夜衣と沈黙を共有しながら歩いていた。
 その沈黙は、居心地の悪いもの。
 家からそこまでの距離に、二人に会話はない。 二人で外出は初めてのことではないのだが、二人の周りには緊張感という 名の薄いヴェールが張り巡らされていた。否、正確に言えば、緊張感を体中に 張り付かせているのは夜衣だったが。
 最初、火陵の胸を微かにつつくだけだった嫌な感覚は、隣に立つ夜衣の張りつめた雰囲気に触発され、ちりちりと肌を焦がすような緊張感へと姿を変えていく。
 その緊張を忘れようと、火陵は一度瞳を閉じ、息を吐き出す。 そして視線を空へと向ける。
 そこに見えるのは曇った空。月も、星も見えない。それが更に火陵の胸に巣くう嫌な感じを育てていく。
  しかし、その雲が晴れた時、 火陵は唐突に、けれど確実に運命さだめが織りな す激流に飲み込まれていく。まだ凶兆の証が雲に隠れている今 が、彼女に与えられた最後の平穏な時間 なのだと言うことを知っているのは、運命だけだった
 沈黙に耐えかねたのは火陵だった。
「・・・どうかした?」
 そう火陵が問うと、
「え?」
 夜衣はきょとんと目を瞠った。
 そんな夜衣の反応に、この緊張感は自分の勘違いなのだろうかと思ったが、納得は出来ず、更に問いを重ねてみる。
「何か・・緊張してない?」
いえ」
 そう言って、夜衣は微笑みを返してきた。
 その答えが嘘であることは分かっていた。 その笑みが嘘を彩るものであることも分かっていた。 しかし、彼に真実を口にする気はないようだ。気にはなるが、 これ以上火陵が詰問を続けることはなかった。続けたとしても、彼は 答えてはくれないだろう。答えられるのならば、最初から嘘など口にはしないのだろうから。
 夜衣の表情に笑みは戻ったが、しかし、緊張を孕んだこの雰囲気が和らぐことはない。
 そんな中で、次に口を開いたのは夜衣の方だった。
「・・・今日は、夢をご覧になられましたか?」
「夢?」
 唐突な質問だった。しかし、これで夜衣との間の沈黙が消せるのならば構わない。火陵は答えるべく口を開いたのだが、
「・・・あれ? 見たんだけど・・思い出せない」
 いつもならば鮮明に覚えている夢を、今日は全く思い出すことが出来ない。
 確かに夢を見たことは覚えている。いつもの、あの、闇の中で男と話す夢。しかし、今日は一体どんな話をしたのか どうしても火陵は思い出せず、口を噤んでしまっていた。
 しかし、会話は途切れることなく、夜衣が次なる問いを口にした。
「夢の中に出てこられるという方は、どんなお方なんですか?」
 その問いにも、火陵は答えることが出来なかった。
あれ? 顔が分からない。黒い服を着てたことは思い出せるんだけど・・・何でだろう? 顔がぼやけててよく分からない」
 あんなにも鮮明な夢の中で、唯一男の顔だけが不鮮明。
 火陵はまた答えることができなかった。
 そして、ついに沈黙が下りる。
 気付けば、太陽は完全にその姿を消してしまっていた。それでも、僅かに橙の光が残っている。
 空を見上げれば、雲の切れ間から一等星が姿を見せていた。しかし、未だ月の姿は見えない。建物の影にでも隠れているのだろうか。
 そんなことをぼんやりと考えている内に、白い正門が火陵と夜衣を出迎える。そしてその門扉は、拒むことなく開かれていた。
「じゃあ、すぐ取ってくるからちょっと待ってて」
「はい」
 火陵は夜衣を正門前に立たせると、ヒラヒラと手を振って広い運動場を突っ切り、校舎へと消えていった。その背中を、夜衣が心配そうな瞳で見つめていることに、火陵が気付くはずもなかった。
「なんか・・・恐ッ
 校舎に入った火陵は、そこがあまりにも静かであることに一瞬戦慄を覚える。いつもは生徒達で大いに賑わいでいる場所であるだけに、夕闇に包まれた校舎内の静寂にはぞっとするものがある。
 早めに用を済ませて夜衣と合流するため、火陵は息もつかずに三階まで駆け上り、自分が毎日のようにやって来ていた教室へと向かう。そして閉ざされたドアに手を伸ばすと、ドアは難なく開かれた。
「あ、開いてる」
 鍵が開いていることにホッと安堵したあと、火陵は教室の電気をつけた。そして、教室の後ろにある自分のロッカーから、英和・和英辞書を手に取ると、屈めていた体を起こした。
「よし」
 早々に目的を遂げた火陵が何気なく視線を窓に向けた、その時だった。

 火陵の体を、寒気が駆け抜けていった。そのまま火陵は、視線を囚われたまま硬直する。
 窓の外にぽっかりと浮かんでいたのは、驚くほどに大きな月。そして、その色は、今まで目にしたこともないほどに赤い。
赤い、月・・・」


  全ては、赤い月が昇った夜、始まる。


 不意に蘇ったのは、夢の中で出逢ったあの男の言葉。
思い出した・・!)
 今朝見た夢。その夢はいつもとは違っていた。微かに聞こえる歌は高く切ない旋律。そして、自分を迎えたあの男の表情。今までに見せたことのない苦渋の表情をしていた男。そして、自分を抱き締める彼の顔には、溢れ出んばかりの愛情がたたえられていた。
(それでも、思い出せない・・)
 何もかもが鮮明に蘇ってくる夢の中で、唯一男の顔だけが判然としない。思い出せない。
 けれど、男の残した言葉は、一字一句違えることなく火陵の脳裏をよぎっては消え、また現れる。その言葉を反芻しながら、火陵はじりじりと後退していた。瞳は赤い月に吸い付いたまま離れない。しかし、体は一刻も早くここから離れたいと叫んでいる。あの赤い月から逃れたいと怯えている。
 火陵の体をえもいわれぬ恐怖が包み込んでいた。
 そして、その恐怖に絶えきれず、火陵が駆け出そうと決めたその瞬間だった。


 ガシャ ン!!


ッ!」
 突然、凄まじい爆風が窓を突き破り火陵に襲いかかってきた。火陵の鼓膜を激しく揺らす、硝子の砕け散る音。そして、爆風によって容赦なくドアに叩き付けられた火陵に、更に砕けた硝子の破片が肌をかすめていった。
 咄嗟に両腕を上げ瞳を庇った火陵の腕に、幾筋かの血の筋が現れる。そして、ポタポタと教室の床を赤く染めた。
 その赤は、月の赤。
 そして今、その月の赤に、一つ小さな黒い影がさしているのを火陵を見た。
鳥・・?)
 しかし、その答えはすぐさま否定されることとなる。最初、鳥のように小さく見えていた黒い影は見る間にその姿を大きく変え、次の瞬間、

 硝子は砕け散り、窓枠も僅かに歪んだその窓際に、一人の男が立っていた。
・・どこから・・・」
 疑問は思わず声となって唇から零れ落ちていた。
 答えは分かっている。その得体の知れぬ男は、確かに窓から現れたのだ。
 しかし、この教室は三階にあるのだ。そこまでこの男がどうやって登ってきたのかが、火陵には分からない。しかも、彼はまるで鳥のように宙を飛んできたようにすら見えたのだ。
 驚きはすぐに恐怖へと姿を変える。
逃げなくちゃ・・・!)
 一歩、火陵が後退したその時、
「・・・・」
 何も言わず、男が腕を上げ、大きな掌を火陵へと向ける。
 それが、合図となった。
!」
 火陵はわけも分からず駆け出していた。走れと、頭の中で誰かがそう命じたのだ。それは人間の本能が鳴らした警鐘。
 ドアを開け放ち廊下に出たその瞬間、先程教室の窓ガラスを吹き飛ばした風が、火陵を通したばかりのドアを攫い、廊下の向こうの中庭へと吹き飛ばしていた。その風は廊下を駆ける火陵の足をも掬うほどの凄まじさだった。
 辛うじて横転することだけは避けた火陵は、ひたすらに廊下を駆ける。
 これ程までに、『廊下を走らない』という決まりを小気味よく破ったことはない。
(何なんだろう、これ・・?)
 もつれそうになる足とは対照的に、火陵は冷静にそんなことを考えていた。脳が、この状況を現実として捉えることを拒否してしまったのだろうか。いやに冷静な自分に火陵は驚いていた。
 そうして渡り廊下を駆け、別の棟に飛び込む。すぐさま左右に別れ伸びている廊下に突き当たり、火陵は一瞬足を止める。
(どっちに行けば・・)
 そして、火陵はふと振り返る。渡り廊下の先に、あの男がいた。自分を追ってきているのは確かだったが、その足取りは遅い。走ってさえおらず、悠々と歩いてきている。
(何? あの男・・)
 そのことが、火陵の足を一瞬そこに縫い止めてしまっていた。
 そして、


 ゴオォッ!!


ッ!!」
 襲いかかってきたのは、あの風だった。
 腕を上げ顔を庇い、足を踏ん張り風を受け止めようと咄嗟に体が試みたのだが、
痛ッ!」
 体はいとも簡単に地面から浮かされ、そのまま壁へと叩き付けられていた。
 まともに壁に叩き付けられた火陵は廊下にうずくまり、鈍い痛みを訴えている右肩を押さえる。骨が折れたか、はたまた脱臼したのではないかと思うほどの痛みが全身を駆け抜けていったが、それも一瞬で、すぐに肩が痛みを伴いながらも動くことを確認する。
 次に火陵が確認すべく視線を渡り廊下へと向ける。男の所在は、すぐに判明した。
!!」
 驚くほど近くに、男の姿があった。
 音もなく、それとも、痛みに気を取られ男が駆けてくる音 を聞き逃してしまっていたのだろうか。その大きな体の全てが火陵の視界に収まりきらないほど、男は目の前にいた。

 ゆっくりと、火陵は視線を上げる。すぐに、男の冷たい瞳と目が合った。
 その向こうに、赤い月が見える。赤い月を背負い、男は火陵を見下ろしていた。
 完全に瞳が男の瞳に囚われる。それでもまだ火陵は逃げることを諦めなかった。彼女の中にある恐怖が、とにかく男から離れたいと願っていたのだ。
 しかし、
「やっ !」
 壁と男との間をすり抜けようとしたが、それは叶わなかった。すぐさま右腕を凄まじい力で掴まれていた。打ち付けた右肩がその瞬間ひどく痛んだが、それでも火陵は抵抗を試みる。
「離して!!」
 男の腕から逃れようと懸命に腕を振るが、男は微動だにしない。そして、凄まじい力であるにもかかわらず、彼は涼しい顔で、まるで赤子の腕をそっと握っているような顔で火陵の腕を捉え続けていた。
「離せ! 離せ!!」
 自由の残っているもう左手で男の頬を打とうとした火陵だったが、その腕もたやすく囚われてしまう。
 火陵の自由は完全に奪われてしまっていた。
離せ」
 抗う声は、途端に小さくなる。逃れることが容易ではない。否、逃れることは叶わないと悟ったのだ。捉えられた腕と、奥歯が震えている。分かっていてもそれを止められない。そして、すぐに抗う声すら出なくなった。震える吐息だけが静寂に響く。
 男は瞳だけは抵抗を続けているのだろう、己を睨め付けるように見上げてくる火陵の瞳をじっと見つめ返していた。
 まじまじと凝視されていることに気付いた火陵は戸惑いを隠せず視線を彷徨わせる。そうして火陵は気付いた。男がおかしな服を着ていることに。
 ところどころすり切れた黒い外套の下から見える服はやはり黒。しかし、そのデザインは普通の洋服ではなかった。何処かの民族衣装 だろうかと記憶を巡らせてみても、答えは出てこない。今までに見たこともないような、変わったデザインの服を身に纏う男の瞳もまた不思議な色をしていた。紫。欧州の人間かと疑うが、髪は見事なまでの黒色をしている。
 そして、薄い唇から零れた言葉も火陵が扱うのと同じ日本語だった。しかし、その言葉の意味は、火陵には分からなかったけれど。
先代によく似ている」
 火陵が訝しげに眉を寄せたことに気付いた男が、更に言葉を紡ぐ。その言葉も、火陵には全く意味の分からないものだった。
「・・・まだ封印されたままなのか」
(何言ってんの、この人・・)
 火陵の胸に、再び恐怖が蘇ってくる。気でも狂っているのではないだろうか、と。
 しかし、それだけでは説明の付かないことが多すぎる。もしかしたら、自分の方が夢を見ているのかも知れない。あの、闇の夢のように、痛みすらもリアルで、しかし非現実的な夢を見ているだけなのかも知れない。
 そうであればどんなにか幸せだろう。
(早く起こしに来てよ、風樹 !)
 しかし、目覚めはやってこない。
 そして、男は再び口を開く。その台詞は、夢であればと火陵が更に願うようなものだった。
「お命、頂戴する」
「!!」
 何でもないことのように、男はそう告げた。
 一瞬驚きに目を瞠った火陵だったが、はいそうですかと男の言葉に従うわけにはいかない。すぐに驚きから醒め、再び抵抗を試みるが、男に捕らえられた腕から逃れることはできない。それでも火陵は抗う。
「イヤ ッ!!」
 渾身の力で叫んだ、その瞬間だった。カッと、全身が熱くなったのを火陵は感じていた。それは火陵の気の所為などではなく、
!」
 その熱は火陵の両腕を掴んでいた男の掌にまで伝わっていた。 男の手が弾かれたように離れたその瞬間、火陵は駆け出していた。今度は迷わない。 正門近くに出ることの出来る階段を目指して一目散に駆けていく。
 そんな火陵の背中を男が見つめている。
 そして、突然の熱に襲われ火傷を負った掌をチラリと見遣った男は、ポツリと呟いていた。
目覚めつつあるのか・・・」
 その言葉は火陵には届かない。届いていたとしても、彼女にとってはただ訝ることしかできない台詞ではあったが。
 男は見ていた。火陵の体が突然熱を帯びたその瞬間、彼女の黒い瞳が、紅へとその色を変じた様を。そして、その紅の瞳はまさに
「・・流炎羅るえんら族」
 そして、男は再び歩き出していた。その紫色の瞳が険しさを増している。
 目的は一つ。
  彼女の命を奪うため。




  其は天に仇なす紅蓮と成らん




 星宿せいしゅくが奏でるがまま、 運命さだめの輪は軋みながらも廻り始めた。







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