真夏の太陽が人々の頭上にさしかかる午後0時。 キッチンには、ただでさえ蒸し暑いというのに、ぐつぐつと煮え立った湯から上がる水蒸気に、誰から見ても間違えようもなく「うへ〜」と表現されるであろう顔をし昼食の準備をしている風樹と、そんな彼女の隣で鍋に投入するパスタを片手にお手伝いをしている夜衣の姿があった。 初めて共にキッチンに立った時のような気まずさは、もう微塵も窺えない。異性に対しては会った瞬間には人見知りしてしまう風樹だったが、既に夜衣には馴染んだようだった。 「パスタ、GO!!」 「はい」 風樹の威勢の良いかけ声に小さく笑いながら夜衣が鍋にパスタを投入する。 次第にしんなりと湯の中に体を静めていくパスタを夜衣が見つめていると、風樹が突然声を幾分潜めて口を開いた。 「夜衣、朝、水日に怒られたっしょ」 「え?」 唐突だがその通りだった風樹の言葉に夜衣が驚いたように彼女を見遣ると、風樹はカウンター越しに、リビングのソファでじゃれて遊んでいる火陵と水日から視線を夜衣へと向け、にかっと快活に笑った。 「あったり ♪」 夜衣の表情から自分の推測が当たっていたことを悟ったようだった。 「・・どうしてお分かりになったんですか?」 夜衣は不思議そうに瞳を瞬かせる。 確かに水日と話をしている時に風樹と火陵が二階から下りては来たが、会話の内容までは聞こえていなかったはずだ。その証拠に二人は自分たちより早く起き出していた水日に驚くだけで何を話していたのかは問わなかった。 もしかしたら、分かっていたから問わなかったのかもしれない。 その証拠に、風樹は一つとして言葉を迷うことなくその理由を紡いでみせた。 「昨日火陵と話したわけさ。記憶取り戻したらバラバラになっちゃわないかな、って。水日は過保護だからさ、不安がってる火陵をほっとけなくて、夜衣に釘さすために早く起きたんじゃないかなって思ってね」 その言葉に、夜衣が何も言わず頷いてみせると、風樹は「やっぱり」と笑った後、やはりリビングにいる二人には聞こえないよう声を抑えたままで笑いながら言った。視線は、湯の中でふらふらと踊っているパスタに向けられたまま。 「水日って野蛮・・・訂正訂正! 強いじゃん? あれもね、あたし達のためなんだよ」 夜衣がその言葉に再度目を瞬いたのを横目に見て、風樹は言葉を付け加える。 「あたしたちみんな血が繋がってないからさ、螺照ともそうだし。本当の親のことも何も知らないし、覚えてないし。なんか、複雑だからね 」 そう言いつつも、風樹の顔から笑みが消えることはない。くるくるとさいばしで鍋の中をかき回している。 「そんで昔はさ・・・時々だけど、イヤ なこと言う子がいたりね〜。そんなガキんちょをボコにしてたのが水日」 「 そうだったんですか」 風樹は笑い話のように話すが、本当は辛かったのだろうと夜衣は察する。彼女らがどんな風に幼少の時代を過ごしてきたのかは分からないが、何も知らないことは辛かったのだろうし、何よりも不安であったのだろうことは夜衣でも察することができた。 そんな心遣いは不要だとでも言うように、風樹は変わらず笑っている。 「アレは見てて楽しかったよ〜。『次言ったら○玉蹴り潰すからね 』って、超笑顔で、だからね。相手の子チビってたんじゃないかな」 言って、風樹はカラカラと笑う。 水日の気の強さは知っていたが、まさかそこまで強烈な攻撃を加えていたとは思いも寄らなかったのだろう、最初夜衣は驚いたような顔をしていたが、その顔も次第に笑みを刻む。その様子を想像してみたのだろう。愛らしい顔をして、容赦なく少年の急所を蹴りつけ勝ち誇ったように笑みを浮かべている水日の姿は想像に難くなかった。と言ったら水日にお仕置きを受けてしまうことを学習して知っている夜衣は決して口には出さなかった。 くすくすとひとしきり笑った夜衣は、視線をリビングに向けた。その瞳の先にいるのは、クッションをボール代わりに、水日と投げ合って遊んでいる火陵だった。 「風樹さん、火陵さんがどんなお子様だったか、お訊きしてもよろしいですか?」 夜衣の問いに、風樹も夜衣と同様にチラリと火陵に視線を遣ったあと、「いいよいいよ」と朗らかに請け負って見せる。 「火陵があたし達の中では一番変わったんじゃないかな。今ではおっとりしておとなしくなったけど、昔は活発だったよ」 「そうなんですか」 そう言って火陵を見つめたまま顔を綻ばせる夜衣に、 (やっぱ婚約者説が有力か・・!?) と密かに考える風樹だったが、視線でその先を夜衣に促されると、すぐに思考を切り替え懐かしい昔を思い描く。 「ちょっかい出してくる男の子相手に傘でチャンバラやったり。ホント男の子みたいだったよ。・・・・まあ、今も実はそうだけどさ」 「そうですか?」 「見た目に騙されちゃ駄目だよ 。あの子真剣になると恐いよ〜。目が途端に変わるもんね。ある意味水日よりも恐い時あるもん」 大人しい子ほど切れたら恐いものだと、風樹は笑いながら付け加えて言った。 そんな風樹に夜衣も笑みを見せながら問うたのは、 「では、風樹さんは?」 という質問だった。 まさか自分の子供の頃についても言及されるとは思っていなかったのだろう、 風樹は一瞬きょとんと目を瞠ったが、すぐに笑みを顔に戻してその問いに答えた。 「あたしは変わんないよ 。ずーっとこんな感じ。 あたしは何があっても賑やかでバカなことを言ってる係なのさ♪」 そう言って快活に風樹は笑う。 きっとこの明るい少女が、辛いことがあった幼少の時、この家に明るい光を差し込んでいたのだろうと夜衣は察する。彼女自身も辛かっただろうが、それでも彼女はこうしてカラカラと楽しそうに笑っていたのだろう。 その努力をどんな言葉で労ったらいいのだろうか。それはどうしても分からない。だから、 「適任ですね」 そう言って、笑みを向ける。 きっとこの少女は、自分の辛かった時のことなど、人に察して欲しくはないのだろう。そんな少女だと知っていたから、夜衣はただその言葉だけを捧げる。 「ありがとさ ん♪」 風樹が快活な笑みと共にそう口を開いた時だった。 「ただいま 」 玄関から螺照の声が響く。 「お帰り」 それに答える火陵の声。続くのは水日の声で、 「風樹! ご飯一人前追加 !」 という注文。 「はいよう! 頑張るぞぅ、夜衣!」 「はい」 答えるキッチンでは、先程投入したパスタがちょうどゆであがったところだった。 蝉の声が遠くから聞こえてくる。 午後二時を過ぎた頃。僅かながら傾き始めた太陽だったが、それでも光の強さは衰えない。じりじりと焦がされたアスファルトは鉄板と化し、ゆらゆらと持て余した熱気を大気中に放出している。 さすがの元気娘三人も外に出る気分になることは出来ず、水日の部屋に集まりクーラーの冷気の下、夏休みの宿題に勤しんでいた。 それぞれ得意の科目をこなし、出来上がればその科目が苦手な者に譲渡し書き写すという姑息だが実に賢い手を使い 、彼女らは毎年この夏休みに課される宿題というお邪魔者を退散させていた。 風樹が数学・科学など理数系科目を。 火陵が古典・漢文・現代文、国語全般を。 そして水日は、 「二人とも、頑張って」 応援だ。 「「水日も何かしろ ッッ!!!」」 「じゃあ、夜衣の相手」 「「 」」 と、お勉強嫌いの水日は断固としてペンを握ろうとはしない。挙げ句の果てには夜衣を部屋に引っ張り込み、お喋りに精を出している。黙って応援ならまだしも、ぺちゃくちゃとお喋りをかます水日に、火陵と風樹は部屋の隅にコソコソと集い互いの怒りを確認し合う。 「くっそ! 一度でいいからヤツをぎゃふんと言わせたい!」 息巻く風樹に、 「いや、アンタ、今時ぎゃふんって」 気持ちは大いに分かるがその表現にどうしても納得のいかない火陵が苦笑する。 「ここは一発 落とし穴でも!!」 言わずもがなだが、勿論小声での会話である。 「昨今、アスファルトばっかだよ。業者雇わなくちゃ」 「じゃあ、雇うか。殺し屋」 「夜衣がいるじゃん!」 「いたいたいた !!」 「あ。誰の手も汚さずに済む方法が一つ!」 「言ってご覧!!」 「なんでお前が上からモノ言うとんねん。ま、いいや。あのね」 「うんうん」 「水日の鞄、もしくはベッドにバッタ投入」 「 」 火陵の笑顔での提案に風樹の笑みが凍り付く。だが、火陵はまだそのことに気付かない。 「調達なら任せてちょ」 「 ・・・悪いことは言わない。やめとこう」 火陵の両肩をがっちりを掴み、風樹が真剣な瞳で火陵を諭す。 「いくら火陵でも、生きては帰れないと思う」 風樹のその言葉に、火陵は思い出す。 水日がバッタなどの昆虫嫌いだということに気付いていなかった頃、虫が大好きだった火陵は学校で採取したおんぶばったを誇らしげに水日に見せに行った。 行ってしまったのだ。純粋に水日に見せてあげようと思っただけなのだ。そこからの記憶がないのが何故かは、皆様のご想像の通りだ。 「 そうだね」 遠い目をし、左頬を愛おしげに撫でた火陵は己の意見の恐ろしさに気付く。そして水日の恐ろしさを思い出す。 悪意がなかったから気絶させられるくらいで済んだのだ。計画的な犯行と知られれば、命はない。いつもは自分にまで鉄拳が飛んでこないという暗黙のルールがあるのは知っているが、それすら破られ死に至らしめられてしまう可能性大!! 「まだ死にたくない」 「うん。あたしも守りきる自信がない」 二人は暗い表情で呟く。 と、その時だった。 「お二人さん。な に企んでるのかな」 「ひいいいいいいいぃぃぃぃぃっ」 「 」 音もなく自分たちの背後にまで迫っていた超笑顔満面の水日に、二人は身を寄せ合う。そして、 「いッ、いやいやいやいやいやいやいやいや、何でもござーやせん!!」 と風樹が床に頭をぶつけながら土下座を連発すれば、 「すすすすすすうすすすすすすっす水日様は、どうぞ夜衣を愛でてくださいませ」 と、火陵が白目を剥きながら目を泳がせる。 そんな二人のリアクションに満足したのだろう、 「そう? じゃあ、遠慮無く」 と、これ見よがしに鼻歌を歌いながら、茫然としている夜衣の隣に戻っていった。 「ちきしょうちきしょうちきしょ う!」 「頑張ろう! 頑張ろうね、風樹!!」 「うん! いつか・・・!!」 と悔し涙を零しつつがっちり握手を交わした二人は、すごすごと宿題へと戻るのだった。下剋上達成はまだまだ遠いようだった。 「あ。しまった」 宿題を順調に減らしていた火陵が突然そう言って顔を顰めたのは、夕刻にさしかかり窓から橙色の光が差し込んできた時分のことだった。 ちょうど部屋の電気を付けようと立ち上がっていた風樹が火陵を振り返る。 「どしたの? 火陵」 「風樹、水日、辞書持って帰った?」 「何? 漢文??」 辞書なんて必要だっただろうかと首を傾げつつそう問い返してきた水日に、火陵は違う違うと首を左右に振って見せる。 「ほら、感想文感想文」 その言葉に、水日も風樹も思い出したようだった。水日がこれでもかと顔を顰めれば、続いた風樹もしまったと頭を掻く。 「あ゛ 。英語で感想文書けってゆーウザイやつね」 「持って帰んなかったよ」 「そっか 」 二人の返答に、どうしようかとしばし顎に指を当て考え込んでいた火陵だったが、すぐに「よし!」という声と共に立ち上がっていった。 「取りに行ってくる」 「今? もうちょっと後でもいいよ、火陵」 「ううん。今行っておかないとずるずる先延ばしにしちゃいそうだからさ」 もう暗くなってきたし危ないからと止める水日に火陵は首を振る。 「思い立ったが吉日! 行ってくるね」 と、それ以上水日と風樹が止める間も与えず部屋を出ようとした火陵だったが、それをすぐさま止めたのは夜衣だった。 「お待ち下さい! 僕もご一緒します!」 「 う、うん。いいけど?」 突然勢い込んで口を開いた夜衣に、火陵はそんなに一緒に行きたいのかと、少々驚いたように夜衣を振り返る。同様に水日と風樹も、あまりにも勢いよく口を開いた夜衣にきょとんとしている。 そんな三人に気付いた夜衣は少々気まずそうに視線を泳がせながら言い訳のように口を開いた。 「あの、お三方が通っていらっしゃる学校を、見てみたくて」 「そっか。うん。いいよいいよ」 すぐに笑顔で快諾してくれた火陵に、夜衣がほっとしたのだろう表情を和らげる。 「じゃあ火陵を頼むね、夜衣」 「はい」 「ちょっと水日、そんな子供みたいな言い方しないでよ」 「さあさあ、早く着替えておいでよ」 暗くなる前にと急かす水日の言葉に従って火陵は水日の部屋を出る。だが、扉を閉める前に思い出したように夜衣を呼んだ。 「あ、夜衣。すぐ着替えてくるから下で待ってて」 そう言い残し、火陵は水日の部屋のドアを閉ざした。 残された夜衣が不思議そうな顔をしていることに気付いた風樹が口を開いた。 「あのね、うちの学校、制服じゃないと入っちゃだめなんだよね」 「そうなんですか」 もう外出しても差し支えのない格好をしている火陵が何故さらに着替えなくてはならないのか分からなかった夜衣は、風樹の説明に納得して頷く。そして下の階で待っていてくれと言った火陵に従い立ち上がる。 「それでは、行って参ります」 「行ってらっしゃ い♪」 「早く帰ってきてね」 風樹と水日それぞれに見送られ水日の部屋を出た夜衣は、駆け足で階段を下り、リビングへと入る。そこには、ソファに腰を下ろし、コーヒーをすすっている螺照の姿があった。 リビングに夜衣が駆け込んできたことに気付いた螺照は、すぐさまカップをテーブルの上に戻し、 素早く立ち上がって夜衣を振り返った。それは、 己の縄張りの中に敵が侵入してきた獣のように機敏な動きだった。表情も同様に険しい。 しかしそれも、夜衣の穏やかな表情を確認すると消えた。 「螺照様。火陵様が学校へ行かれるそうなので、僕がお供させていただきます」 「分かった。こちらは私に任せてくれ。火陵様をよろしく頼むよ、夜衣」 「御意」 それは、ただ学校へ忘れ物を取りに行く火陵の付き添いを報告し認めるだけの行為であるにもかかわらず、あまりにも大仰なやりとりだったが、そこにそれを疑問に思う者はいなかった。 再びソファに腰を下ろし、コーヒーカップを手に取った螺照だったが、それを口に運ぶことはしない。じっとコーヒーの水面を見つめ、低い声で押し殺すように螺照は言葉を吐き出していた。 「 ・・嫌な感じがする」 その言葉に、夜衣はしばしの沈黙の後、 「・・・僕もです」 頷いて見せた。己が感じている胸騒ぎを、螺照も感じているようだった。その事実が、更に夜衣の胸騒ぎを大きくする。 「気を付けてくれ。本当に」 「はい。分かりました」 念を押す螺照に、夜衣は大きく頷いてみせる。 「お待たせ !」 二階から駆け下りてきた火陵がリビングのドアを開ける。その瞬間に、部屋の中に張りつめていた緊張感は霧散した。火陵の明るい声がそれを促し、二人が一瞬にしてその面に笑みを戻したのがその原因だった。 「気を付けて行ってきてくださいね」 先程まで重苦しく吐き出されていたその言葉も、火陵に向けられるものとなれば、いつもの調子に戻る。 「は い。行って来ます」 だから火陵は気付かなかった。 「行ってらっしゃい」 玄関まで見送りに来た螺照が、そう言って手を振った後、夜衣に目配せをしたことに。 そして 火陵と夜衣を迎え入れた外の空気は、まだまだ熱を多く含んでいたものの、昼間よりも随分涼しくなっていた。空を見上げると、 青かった空は夕焼けに染められ見事なまでに橙色に染まっている。太陽の光が既に届かなくなっている部分には、夜の闇が顔を覗かせ始めていた。 歩み始める火陵の隣に夜衣が並ぶ。 「まだまだ熱いね」 「そうですね」 火陵は気付かなかった。夜衣ですらも気付かなかった。 昇り始めた月の色が、いつもとは明らかに違う色をしているのだということに。 |