「 また・・・」 ぽつりと、火陵は呟いていた。その呟きが、限りなく広がっていた静寂を、一瞬破る。 火陵は、静寂の中にその身を置いていた。そしてそこは、一面の闇。 また、あの夢だ。飽きるくらいに同じ夢。 昨日訪れた時には、地面を埋め尽くしていた燈火の姿が今は消えている。それだけの変化。あとは、いつもと同じ闇と静寂。 そして、耳を澄ませば聞こえてくるのは時を刻む音。 しかし、 「 あれ? 違う」 今日ばかりは、火陵の鼓膜を震わせたのはいつもと同じ時の音ではなく、微かな歌声だった。 か細く高い声が、淡々と歌を紡いでいる。綺麗で繊細。そして、もの悲しい旋律だった。 どこかで聞いたことがあるような歌。しかし、一向に思い出すことは出来ない。 「これは ・・」 ぽつりと、誰にともなく問うた言葉に返ってきたのは、いつものあの声だった。 「神の声だ」 「 」 視線を巡らせると、いつの間にか己の隣に男が佇んでいた。黒い服を着た、いつものあの男だ。いつもこうして気配もなく訪れるため、その男が隣に立っていることには驚かなかった。しかし、火陵は男の表情を目にして僅かに目を瞠っていた。 「・・・どうかしたの?」 いつもは穏やかな男の表情が、今日に限っては険しかったから。 目を瞬いて問う火陵に、男は険しい面持ちのまま、彼女に向き直ってその名を呼んだ。 「 火陵」 辛そうに眉をひそめた男は徐に腕を伸ばし、火陵の体を自らの腕の中へとおさめた。 「 ・・」 一瞬驚いたものの、火陵が男の腕を拒むことはなかった。すぐに肩の力を抜き、男へと体を預ける。 そうしてしまえるほど、男の腕が優しかったから。そして、懐かしかったから。 男は火陵を優しく抱き締めたまま、彼女の耳元で呟くように言った。 「運命の輪が廻る 」 「え?」 火陵を抱き締めている男には分からなかったが、火陵は怪訝そうな顔をする。男のその言葉の意味を計りかねた。しかし、男は火陵の疑問に答えることはしない。 「赤い月。星宿のままに ・・」 「・・何、言ってるの?」 男の言っている意味が分からない。 火陵は男の体を押しやり、彼の顔を見つめ無言で説明を問う。 しかし、男はそんな火陵の視線に困ったように薄弱な笑みを浮かべた後、やはり詳しいことは一切言わなかった。更に、抽象的で、火陵には何のことだか全く分からない言葉を唇にのせた。 「火陵。私はそなたの側にいる。全てを見届けよう。己が信ずる道を行くのだ」 「・・・・」 やはり、何を言っているのか分からない。 歌が、まだ聞こえている。 沈黙が二人の間に訪れた瞬間、火陵は遠くでまだ誰かが歌っていることに気付く。 それは先程と変わることなく、細く高い、悲しい旋律で奏でられている。耳を澄ましてみるが、その歌詞まで聴き取ることは出来なかった。 「火陵」 男が火陵を呼ぶ。 彼にこの歌は聞こえているのかいないのか。そんなことを火陵はふと疑問に思う。彼ならば、この歌が何なのか知っているはずだと、確信にも似た思いがよぎる。しかし、彼が自分の疑問に答えてくれることはないだろう。 「何?」 歌への疑問を心の奥底に封印し、火陵は男に向き直る。 彼は、沈痛な面持ちをしていた。 そして、 「そなたと共に戦えず・・すまない」 そう言ってより一層眉根の皺を濃く刻んだ。 火陵にはやはり、彼のことを言っているのか、分からない。けれど、訊ね返す気は起こらなかった。 「・・・いいよ。気にしないで」 ただ、そう頷いていた。それは、男があまりにも悲しそうな顔をしているから、とにかく気にすることはないのだと、そう言ってあげたかったのだ。しかしその言葉も、男が何を謝っているのか理解していないのだから、何の励ましにもなっていなかったのかもしれない。 男は、僅かに眉根の皺を解いたが、それでもいつものあの穏やかな表情に戻ることはなかった。そして、押し殺した声で囁く。 「 私は、そなたさえ幸せになってくれればそれでいいと思っている。この思いを、罪と罵る者もいるだろう。それでも、私はそなたの幸せを一番に願いたい」 「 ・・」 目を伏せ、苦しげにそう呟いた男に、火陵も目を細める。 彼の自分への思いが、真っ直ぐに伝わってくる。それは喜ばしいものであるはずなのに、悲しみばかりが胸をいっぱいにするのは何故だろう。彼が、悲しい顔をしているから? 男は火陵が悲しげに目を細めたことを雰囲気で察したのだろう。俯けていた顔を上げた男は、精一杯の笑みを火陵に向けた。しかしその微笑も、淋しさを滲ませたものだったが。 「己の信ずる道を行くのだ。良いな、火陵」 「・・・うん」 大人しく、火陵は頷く。 彼が何を言っているのかは已然分からないが、彼が自分が悲しい顔をしているのを見たくないのだということだけは分かった。だから、悲しみを消して、大きく頷いてみせる。 すると男は小さく息を吐いた。安堵の溜息だったのか、それとも何も伝わらないことへの悲しみだったのか。 名残惜しそうに、男は再度火陵を抱き締めていた。 抱き締められる直前に窺った彼の表情は、沈痛なものに戻っていた。先程よりも抱き締めてくる腕の力が強い。 一体、何がこんなに不安なんだろう・・? そんな疑問を禁じ得ないほど、男は苦しそうだった。 だから、火陵は男の背に腕を回し、努めて明るく口を開く。 「大丈夫だよ。だから、心配しないで。私は、きっと大丈夫だから」 すると男は徐に火陵の体を解放した。 「火陵・・」 笑みと共に彼の次の言葉を待っていると、男はふいに厳しく引き結んでいた唇を、微笑の形に変えた。いつも通りの彼の表情に戻ったのを見て、火陵はほっとする。そして、自然と笑みが零れた。 同様に、男も笑ってくれる。それが嬉しくて、火陵は男に手を伸ばしていた。 その時、 「 終わった」 歌が途切れたことに気付き、火陵はどこへともなく視線を向ける。闇が、再び静寂を纏う。唐突に訪れた静寂は火陵の胸に不安を植え付ける。慌てて男へと視線を戻した火陵だったが、 「 あれ?」 そこに、男の姿はなかった。 一瞬目を離した隙に、彼はいなくなってしまっていた。 「ねぇ。・・・ねぇ!」 名前を呼べたらどんなにいいかと歯噛みしながら、男の姿を捜す。 けれど、彼はいない。 闇の中を何処へ向かうでもなく歩き回り、男の姿を捜してみるが、どこにも彼の姿はない。いつも忽然と現れる彼だったが、もう現れることはないのかもしれないと、火陵はそう感じていた。 彼の名を、思い出したい。 きっと、知っているはずなのだ。すぐに、分かるはずなのだ。 「 赤い月・・・」 そう。赤い月が昇れば、全てが分かると言っていた。 火陵は、闇の中立ち止まる。 そして耳を澄ませる。 遠くから、ギシギシと歯車が軋む音が聞こえてくる。そして、すぐに、 カチ・カチ・カチ・・・ 歯車が時の音を刻む音が静寂に代わって闇を支配する。 「運命の輪が廻る 」 ふと、脳裏をよぎった男の台詞。 それを火陵は反芻する。何度も何度も反芻する 。そこから何が分かるわけでもないが、反芻を繰り返す。 そして、やがて、夜が明ける。夢が、醒める。新たな一日が始まる。 それは、朝日と共に始まり 赤い月と共に終わる、運命の日となるのだった。 |