火陵は眠りの中にいた。夢の中にしてはあまりにも意識がはっきりとしているが、足下に広がっているのが暗闇であることで、火陵は己がまたあの夢の中に誘われたことを知る。 そこは、いつもの闇の中。否、いつもとは、すこしばかり景色が変わっている。今日ばかりは、闇を照らすものがあったのだ。闇の中、いくつもの小さな燈火が、火陵の足下を覆っている。火陵の前に、一筋の道を残し、あとは全てこの燈火が地面を覆い尽くしていた。 その炎は、赤。しかしそれは目を瞠るほどに鮮やかなバラの赤ではない。僅かにくすんだ赤。乾いた血に似た色をしていた。 そんな燈火たちを見つめながら火陵はゆっくりと歩いていく。 真っ直ぐに伸びた道。その先には、男がいた。いつも夢の中にいる、あの長身の男がいた。彼は火陵の存在に気付いていないのか、彼女に背を向けるようにして立っている。 男に声をかけることはせず、黙ったまま彼の隣に並ぶようにして立ち止まった火陵は、男が掌に一つの炎を浮かべていることに気付いた。 「綺麗・・・」 それは、闇の中に落ちているくすんだ燈火とは違う色彩をしていた。鮮やかに赤赤と燃える炎。その炎が揺らめくたびに真紅の炎の先から黄金色がはじけ飛ぶ。今まで見たこともない美しい色彩の炎だった。 「熱くないの?」 掌に小さな炎を乗せ、じっとそれを見つめている男に、火陵は問う。すると彼は穏やかな微笑を浮かべながら答えた。 「ああ。熱くないんだよ。これは、私の炎だからね」 「え?」 自分の言葉に、きょとんと首を傾げる火陵を見て、男は小さく笑った。 「考えてごらん、火陵。炎は全てを司る。炎は我らを獣から守り、しかし時として人の命の燈火を消す業火へと変ずることもある。そして、人の命の燈火もまた美しい炎の形をしている。この者たちのように」 そう言って男は視線を足下の燈火たちへと移した。それにつられるようにして、火陵も視線を落とした。 「・・これ、みんなそう?」 このくすんだ色をした燈火たちも命の燈火なのかと問うと、男は徐に頷いて見せた。 「そう。運命に抗いきれず散って逝った燈火たちだ」 言って男は悲しげに瞳を細め、やがてそのまま瞳を閉ざした。 そんな男の横顔から、足下の燈火へと視線を移した火陵は、一つの炎に目をとめた。そして、その炎の傍まで寄ると、しゃがみこむ。 「ねえ、これだけ明るいよ?」 火陵が見つめている炎だけが、周囲のくすんだ燈火たちとは違い、鮮やかな紅を燃やしていたのだ。 「それはそなたの炎だからだよ。火陵」 いつの間にか火陵の隣に並んだ男が、そう言って火陵が見つめている炎を片手で掬い取る。炎は男の手を焼くことなく掌に乗っていた。 「・・・私の?」 男の言っている意味が分からない。火陵がぼんやりと問い返すと、男は徐に頷き口を開いた。 「そうだ。荒れ狂う運命の中においても、未だ消されることなく燃え続けている、そなたの燈火だ」 「綺麗だね・・」 目の前に差し出された炎を火陵は見つめる。ゆらゆらとゆらめく様は、いくら眺めていても飽きない。しかし、見つめているだけでは飽き足らなくなったのか、火陵は徐に差し出された炎へと手を伸ばしていた。だが、その手は炎に触れる直前で止まる。 「・・私にも、触ることができる?」 男のように炎に焼かれることなく触れることが出来るか不安になったようだった。上目遣いでそう訊ねてきた火陵に、男は笑った。 「勿論だ。触ってごらん」 そうして再び目の前に差し出された炎に、火陵は徐に手を伸ばし、そして両手で掬い上げる。男の言う通り、炎が火陵の掌を焦がすことはなかった。火陵を傷付けることなく、しかし、これまでと変わらぬ鮮やかさで燃え続けている。 「やった」 美しい炎を手に乗せ笑みを零した火陵の姿を、男が微笑みながら見つめている。そんな男に笑い返してから、火陵は掌中で燃え続けている炎へと視線を戻した。 美しい炎。 その炎は、翻るたびに黄金色の尾をひらめかせる美しい色彩をしていた。それは、確か男が持っている炎と同じ色彩。それを確かめようと視線を男へと向ける。やはり彼の持つ炎も同じ輝きをしていた。その事を確認した火陵が、喜々とした表情で彼へ声をかけたその瞬間だった。 「ねえ、見て! 私の炎も ッ!」 火陵の台詞は、声にならない悲鳴で掻き消されていた。 突然炎が燃え上がり、掌から溢れ出したのだ。 驚いた火陵が掌を振って炎を放り出そうとしたが、それを炎は許さなかった。離れない。火陵の掌から溢れ出した炎は彼女の腕を伝い、彼女の胸を、腹を肩を首を伝い、一瞬にして火陵の全身に覆い被さってきた。 「や・・ッ、イヤだ!!」 どんなに暴れても、炎は火陵から離れようとはしない。 「助けて!」 火陵は隣に立つ男に縋り付く。しかし、男は顔色一つ変えず、火陵を見つめていた。そして、穏やかな声で言った。 「火陵、大丈夫だ。炎がそなたを傷付けることはない。それは、そなたの炎なのだから」 しかし、炎に全身を包まれ、パニック状態に陥っている火陵に、その言葉は届かない。 「ヤだ!! 助けて! 助けて!!」 火陵の体を覆い尽くし、悲鳴すらも飲み込みながら、炎は激しく美しく揺らめき、燃えている。その中で、火陵は必死で助けを求めていた。 必死で、男を呼んでいた。 「助けて!! 父上!!」 夢は、そこでブツリと途切れた。 「 ・・・!」 己の叫び声で、火陵は目を覚ましていた。かっと見開いた瞳に飛び込んできたのは、驚きに目を見開いている螺照の顔だった。 ちょうど火陵を起こしに来た螺照が、驚いたように火陵の顔を見つめていた。僅かに険しさを含んだその表情から、その驚きは突然目を見開いた火陵に対してのものではないようだった。だが、夢から現実へ舞い戻ってきたばかりの火陵がそれに気付くことはなかった。 「」 開いたままの口を徐に閉ざす。 今、目覚めるこの瞬間、この唇で何かを叫んだはずだった。その声で目を覚ましたのだ。確かに、自分は何かを叫んだ。それは覚えている。しかし、 (今、私は何て言ったんだっけ・・・) それだけは、どうしても思い出せなかった。 「螺照。私、今、何か言ってなかった?」 ゆっくりとベッドから体を起こしながら、火陵は立ち尽くしている螺照に問うた。 「・・・いえ、何も」 しばしの沈黙の後、螺照は首を振ってそう答えた。 「そっか」 誰かの名を呼んだような気はしたが、どうやらそれは夢の中での出来事だったらしいと火陵は思い直す。 しかし、火陵は気付かなかった。螺照の穏やかな笑みにごまかされ、彼のいやに驚いた顔と、答えを唇に乗せるまでの間に。 「あー。怖かったぁ」 うーん、と体を伸ばしながら洩らした火陵の言葉に、螺照が首を傾げる。 「夢ですか?」 「そう。火に包まれる夢だった。綺麗だったけど・・急に燃え上がって私を包んで。怖かった」 その時の恐怖を思い出したのか、表情を曇らせる火陵を見て、螺照は穏やかに微笑み、彼女の肩を叩いて言った。 「大丈夫ですよ。炎が火陵さんを傷付けたりはしません。大丈夫」 「」 螺照が口にしたその台詞は、夢の中のあの男と同じものだった。 (そうだ。思い出した! あの時・・) 炎に包まれ、男に助けを求めた時に彼はそう言っていた。そして、助けてくれない男を呼んだのだ。目覚める直前に、確かに彼のことを呼んだのだ。 (何て呼んだんだっけ・・・?) どうしても思い出せない。 眉を寄せて火陵が考え込んでいるのを余所に、螺照は部屋のカーテンを開き、ついでに窓も開ける。 「お部屋の中が熱くなっていた所為かもしれませんね」 窓から舞い込んでくる風は、僅かに熱気を孕んではいたが、それでも十分涼しさを味わえる。熱帯夜だったわけではないのだが、それでも閉め切った部屋の中では、かなり温度が上がっていたようだった。 部屋の空気を僅かながら冷ましてくれる風を背に受けながら、螺照は火陵のところまで戻ってくると、汗で額に張り付いている火陵の前髪をそっと払う。 「眠そうですね。もう一眠りしますか?」 「うん」 その言葉に、火陵は甘えることにして頷いていた。しかし、なかなかベッドに横になることは出来なかった。眠りの中に落ちたら、またあの夢へと誘われるかもしれない。そして、炎に包まれる夢をまた見なくてはならなくなるかもしれない。そんな不安が、眠ろうという意識を遮ってしまっていた。 「大丈夫ですよ、火陵さん」 火陵が抱えている不安に螺照は気付いたのだろう。彼女の頭を撫でながら、螺照は火陵に言い聞かせるように言った。 「炎は貴方を傷付けたりしない。きっと、守ろうとしていたんですよ」 「守ろうと?」 「炎で火傷をしましたか?」 螺照に問われ、火陵は思い返してみる。赤赤と炎は燃えていたが、掌に乗せた時も、体を包まれた時も、そう言えば熱さは感じなかった。 「・・・熱くなかった」 すると螺照は穏やかに微笑んでいった。 「そうでしょう? 貴方を傷付けようとしていたんじゃないんです。怖がらせようと思っていたわけでもないんですよ。もしかしたら、じゃれついてきただけかもしれませんね」 今まで、炎にじゃれつかれるなどという表現は聞いたことがない。新鮮であると同時に不自然なその例えに、火陵は笑う。そして、頷いていた。 「うん。そうかもしれない」 そうしてベッドに体を横たえた火陵を見て、螺照は良かった微笑む。 「お休みなさい」 「うん。お休み、螺照」 螺照の手が再度頭を撫で、離れていく。そして部屋のドアが閉ざされたことを確認してから、火陵は瞳を閉ざした。眠りは、すぐに火陵の元へ歩み寄り、彼女を連れ去っていった。 結局、火陵が次に目を覚ましたのは、昼をとうに過ぎ、3時を目前にした時間だった。誰も自分を起こしに来なかった所為で、こんな時間まで眠ってしまっていた。空腹に叩き起こされ、リビングへと下りた火陵は、自分が何故こんな時間まで眠ることができたのかを知ることになった。 「あれ? みんなはいないの?」 リビングには、夜衣の姿しかなかった。二人の部屋にも、人の気配はなかった。どうやら夜衣以外はいないらしい。 「先程お出かけになられましたよ」 「そっか」 どうりで起こされないわけだと納得しながら、火陵はソファへと腰を下ろした。眠りすぎた所為だろうか、僅かに頭が痛かった。 火陵の向かいのソファに座っていた夜衣だったが、火陵がソファに座ると立ち上がった。 「お食事、用意いたしますね」 そう言ってキッチンへと向かう夜衣に、火陵が慌てて彼を止める。 「え? いいよいいよ。私やるよ」 しかし夜衣はそんな火陵を宥め、ソファへと座らせて言った。 「いえ。いいんです。火陵さんは座っていてください」 「じゃあ・・・ありがとう」 さすがに、ソファに座り直させられては、それ以上遠慮するのも失礼かと、火陵は大人しく夜衣の言葉に甘えることにした。 キッチンへと向かっていく夜衣の後ろ姿を見つめながら、火陵はぼんやりと考える。そう言えば、二度寝してから数時間もの間眠っていたのだが、夢を見なかったような気がする。否、見たのかも知れないが、夢のことは全く思い出せない。 それとは逆に容易に思い出せるのは、昨夜からの眠りの中で見ていた夢のこと。 美しい炎の揺らめきと、鮮やかさを失った命の燈火。そして 「どうぞ」 火陵の思考を遮ったのは、夜衣の声だった。その穏やかな声にハッと我に返ると、目の前のテーブルに、おそらく朝食として螺照か風樹かが用意してくれていたのだろう、目玉焼きとサラダが並べられていた。 「あ、ありがとう。いただきます」 心の底から礼を述べた後、火陵は朝食―時間的にはもうおやつの域だが―を 食べ始める。空腹の所為で、向かいに座った夜衣に話しかけることなく、黙々 と箸を動かしていると、意識はまたいつの間にか思考の波にその体を委ね始め てしまう。 考えるのは、夢のことばかり。 夢から目覚める直前、あの男のことを自分は何と呼んでいたのだろうか。 そればかりを考えてしまうのは、思い出せそうで思い出せないから。 もう少しで思い出せそうなのに、あと一歩のところで出てこない。 邪魔をするのは、時計の音。その音の所為で、更に蘇る夢は 大きな歯車の夢。しかし、それを連想させた時計の音はリビングにあ る壁掛け時計から流れている。いつもは賑やかなリビングの中にある ため聞こえてこない音が、静寂によって露わとなり、耳につく。 (静か・・・) その時になって、火陵は改めてその場の沈黙に気付く。いつの間にか、食事の手も止まっていた。視線を夜衣へと向けると、彼は心配そうに自分を見ていた。 「・・・なんか、お腹すかないや。寝過ぎたかな〜」 誤魔化すように、火陵は笑いながら言った。勿論それは嘘だった。 「え? でも」 「ごめんね。用意してもらったのに」 お腹が空いてらっしゃるんじゃないですかという夜衣の言葉を遮って火陵は言った。 「・・いえ、それは構いませんが。お加減でも?」 まだ夜衣の心配そうな表情は消えない。 「元気だよ。ちょっと・・悩めるお年頃なわけさ」 そうしておどけてみせると、ようやく夜衣も安堵の表情を浮かべてくれた。それを認め、火陵も密かにほっとする。今は、何も訊ねて欲しくなかったのだ。答えようにも、何も分からないから。何故あんな夢を毎晩見るのか。あの男は誰なのか。あの歯車は? あの炎たちは? そして、自分が男のことを何と呼んだのか。何一つ、分からなかったから。 「よし! ちょっと外の空気でも吸ってこようっと♪ 気分転換、気分転換」 家の中にいても、また思考の波に絡め取られてしまうだけだと、火陵は立ち上がる。散歩には気候が少々暑すぎる時間帯ではあるのだが、家の中にいるよりはマシだろうと火陵はリビングを出ようとした。しかし、それを止めたのは夜衣だった。 「あの!」 「何?」 立ち止まり振り返ると、夜衣は僅かな逡巡の後、 「僕もご一緒してはいけませんか?」 と遠慮がちに言った。 「いいよいいよ。一緒に行こう」 夜衣の願いを断る理由などない。それに一人で歩くより、連れがいた方が気が滅入ることもないかもしれない。火陵は笑顔で快諾し、夜衣を手招いた。 そんな火陵に、夜衣は顔を綻ばせる。 「ありがとうございます」 夜衣を連れて歩いたと知ったら、水日が羨ましがるだろうと考え、思わず笑みを零しながら、火陵は炎天下の散歩に出かけたのだった。 |