闇が広がっている。 「また、だ・・」 火陵は夢の中にいた。そこは、今朝も訪れた夢の中。 目の前に掲げたはずの己の掌すら視認することが出来ないほどの暗闇に包まれながらも、火陵は真っ直ぐ歩いていた。 ・・・カチ・・・カチ・・・カチ・・・カチ・・・ 歯車が回る音が響いている。そこに時折混ざるのは、ギィ・・・と、歯車の軋む音。それでも止まることなく、音は刻まれ続ける。一秒、一秒。それはまるでカウントダウンのようで、火陵の胸を焦らせる。自然と、歩みも早くなる。そうして何処かにゴールが用意されているわけでもないのに、火陵は駆けだしていた。 鼓膜を揺らすのは、己の足音と、時を刻む歯車の音。 唐突に、ゴールは訪れた。 「」 火陵は歩みを止め、視線を巡らせる。目の前に、 巨大な歯車がその姿を現していた。己の掌すらも見えない 闇の中であるはずなのに、その歯車だけは視認することが出来る。まるでライトアップされているかの如く、闇の中にその巨大な歯車が浮いていた。 一つ、小さな歯車が回っている。そしてその隣では、幾つもの歯車が噛み合い、軋みつつも廻っている巨大な歯車たちがいた。 ・・・カチ・・・カチ・・・カチ・・・カチ・・・ 火陵は、じっとその歯車の刻む時の音に耳を傾けていた。相変わらず、心はその時の音に焦れるけれど、それでも火陵はそこに立ち続けていた。そうしてどれほどの時が経ち、歯車がどれほど回転した頃だったろうか、不意に背後に人の気配を感じ、火陵は首をゆっくりと巡らせる。 「あなたは・・」 そこには、男がいた。黒い服に身を包み、闇に溶け込むようにして立っている。けれど彼の姿もまた歯車と同様に闇に埋もれることなくそこにある。見ることが出来るのだ。 そして、その男を火陵は知っていた。 昨夜の夢で会った男だった。扉を開けた火陵を咎め、未だだと諭したあの男だった。 男は火陵に向けて微笑んだ後、彼女の隣に立ち、巨大な歯車を見上げた。そして、火陵と同様に、歯車の刻む時の音に耳を傾けているようだった。瞳が閉ざされている。 それを見て、火陵もまた視線を歯車に戻した。 ・・・カチ・・・カチ・・・カチ・・・カチ・・・ 「回る」 唐突ではあったが、その声は火陵を驚かせないよう、穏やかな調子で男の唇から零れた。 火陵が隣に立つ男を見上げると、彼は不意に腰を屈め、足下に手を伸ばした。そこにいったい何があるのだろうか。火陵にとってはただの闇でしかないが、男にはその闇の中に何があるのか、見えているようだった。 「・・これは?」 男が足下から拾い上げたのは、一つの歯車だった。男は次に巨大な歯車に手を当てた。 ・・・カチ・・・カチ・・・カチ・・・カチ・・・ 時の音が、小さくなる。 見ると、巨大な歯車が止まってしまっていた。ただ一つだけ、小さな歯車が 廻り続けていた。 「・・どうするの?」 拾い上げた歯車を、男は徐に止まっている歯車に噛み合わさせた。すると、 ・・・カチ・・・カチ・・・カチ・・・カチ・・・ 再び、巨大な歯車が回り始めた。そして、男がはめた歯車は、先程まで一つだけで回っていた歯車とも噛み合い、回り始める。全ての歯車が一つになり、回り始めていた。 「今は一つで回っている運命の輪も、いずれ大きな輪と共になる」 男の声は穏やかで、火陵は懐かしいとその声に感じる。 やっぱりこの人を知っている。 失われた過去の中には、この男も存在しているのだろう。 「そなたの運命も、いずれ全てを絡め取り、大きく回り始める」 男の言っている意味は全く分からない。ただ、遠慮がちに頭を撫でる男の掌の温もりに、やはり懐かしさを感じる。 「全ては、赤い月が昇った夜、始まる」 男は、言った。 「赤い月・・?」 ・・・カチ・・・カチ・・・カチ・・・カチ・・・ 歯車が回っている。軋みながらも、全ての歯車が絡み合い、回り続けている。 闇の中で。 そして隣に立っているこの男も、闇の中にいる。きっといつもここで火陵を待っているのだ。知っているけれど、知らない男。 「・・ねえ、私はいつ貴方のことを」 知ることが出来るの? その台詞に男が答えることはなかった。そもそも、火陵がその問いを紡ぐことすら出来なかったのだから。 「火陵! ごはんだよん!!」 風樹の賑やかな呼び声に、火陵は目を覚ましていた。どうやら、 昼から夕食の時間までぐっすりと眠ってしまっていたらしい。 「はい」 風樹に返事を返し、火陵はベッドから体を起こす。風樹や水日、螺照や夜衣を待たせないようにすぐさま部屋を出る。一階へ下りる途中、壁に大きく開いている窓から空へと視線を遣ると、暗くなり始めていた空に、大きな月が浮いていた。 「・・赤い月」 しかし、夜を待つ月の色は、白銀。 火陵は立ち止まり、空を見上げる。沈んでいく太陽と、次第に黄金色へと変わっていく月。 「そう言えば・・」 火陵は思い出す。一昨日、夜衣がこの家にやって来たその時、螺照は夜衣を見て最初に問うていた。 『・・まさか、月が』 と。 彼らも、月のことを口にしていた。 「何なんだろう・・」 答えは分からない。聞いて良いのかも分からない。 しばし窓から見える月を眺めていた火陵だったが、 「火陵! 起きてる?」 今度は、水日の声だった。 「ゴメン! 今行く!」 火陵は慌てて視線を月から外し、階段を駆け下りていった。 その直後、火陵が見上げていた月は、ゆっくりと流れてきた雲の下に、その姿を隠してしまっていた。 いつもながら賑やかな夕食を終え、夜は完全に更けていく。家々の明かりが次々に消えていき、水日と風樹の部屋の電気も消される。けれど、そんな時間になってリビングの明かりが灯される。 「・・・眠くない」 浅い眠りではあったものの昼から夜までずっと眠っていた火陵は、眠気が訪れずに困っているようだった。 リビングに下りてきた火陵は何をするでもなくソファに座り、クッションを胸に抱え、ぼ〜っと視線を漂わせている。熱帯夜とまでは言わないが、締め切った部屋の中はかなり蒸し暑い。だが、火陵は窓を開けることはせず、代わりに扇風機を付けた。窓を開けると、明かりに寄ってくる虫たちが部屋の中に入ってくるのが嫌だったのだ。 そうして、ソファに扇風機を向け火陵がぼ〜っとしていると、突然リビングのドアが開いた。 驚いて火陵が振り返ってみると、 「あ。夜衣」 そこには、穏やかな微笑を浮かべている夜衣の姿があった。 「眠れないんですか?」 穏やかな声で問われ、火陵は素直に頷いて見せた。そうして、今度は火陵が訊ねる。 「夜衣は?」 「どなたか起きていらっしゃるなと思って」 「そっか」 どうやら夜衣がすぐに寝室に戻る気がないらしいことを見て取った火陵は、「来い来い」と彼を手招く。未だ一日しか彼と生活を共にしていないのだが、それでも彼が心優しい少年であることを火陵が知るには十分だった。 彼は常に笑顔を絶やさず、火陵たちに気を遣ってくれていた。それは彼にとって苦になるのではないかと心配していたのだが、どうやら人に気を遣うのは彼の性分らしい。そして今、彼が自分と共に眠れない夜を過ごしてくれようとしていることを、火陵は察したのだ。 火陵の手招きに従って、夜衣は彼女の隣に腰を下ろした。 そうして二人でいる空間に気まずさがないのは、少し不思議なことだった。それは、初めて出逢った日にも感じたものだった。 きっと彼は自分のことを知っている、自分も彼のことを知っているのだとそう思った。 そして、 『あなたも、私が忘れている、昔の私を知っている人?』 そう問うた火陵に、夜衣は一瞬目を瞠った後、頷いて見せた。 二人の間に流れる沈黙が気まずさを生まないのは、その所為なのだろう。彼が自分のことをよく知っているだけでなく、自分も彼のことをよく知っているのだ。確信を持ってそう言える。 「ねえ、夜衣」 火陵は知らず彼に声をかけていた。 それは、 知りたい・・ 再び頭をもたげた、そんな欲望の所為だった。 「何ですか?」 「私、多分夜衣のことすごくよく知ってるよね?」 「え?」 「小さい頃・・記憶がない頃、会ってるよね?」 「」 夜衣は沈黙する。その瞳が困ったように泳ぐのを見て、火陵は申し訳なかったと感じ、それ以上彼に詰問することはしなかった。口を閉ざし、クッションを抱え直す。せっかく閉ざした唇が、欠伸によって開かれる。ようやく眠気が訪れてくれたらしい。夜衣を拘束するのも申し訳ない。そろそろ部屋に戻ろうかと火陵が考え始めたその時だった。 「記憶を取り戻したいと、思われますか?」 「・・・」 夜衣の問いに、今度は火陵が黙る番だった。つい先程生まれたばかりの知りたい≠ニいう欲望は、いつの間にかその姿を消してしまっていた。代わりにやってきたのは不安。知っても良いのかという不安。それを連れてくるのは、夢の中の男の声。 『今は未だ、駄目だ。今は未だ・・』 その声を遮るように、夜衣が言葉を紡ぐ。 「僕は、火陵さんが知らない火陵さんを知っています。とても近くにいたんです。だから、教えて差し上げることはできます。でも」 「・・・でも?」 唐突に口を閉ざす夜衣に、火陵は眉を寄せる。そうして促すと、しばしの逡巡の後、彼は口を開いた。 「そうして差し上げることが貴方にとって良いことなのかどうか、 僕には分からないのです」 夜衣の言葉に、火陵の中に生まれた不安が、その大きさを増す。その不安は、常にあるものだった。どうして自分は記憶をなくしてしまったのだろうか。何か辛いことでもあったのだろうか。そして、記憶を取り戻した時、今のこの自分はどうなってしまうのだろうか。不安は尽きることなく、次第に大きくなっていく。 「もしかしたら、何も知らないままここで水日さんと風樹さんと生きて行く方が貴方にとって幸せなんじゃないかと、ここに来て思いました。だから僕は、貴方が記憶を取り戻すことが良いことなのかどうか、分からないんです」 「・・私の過去は、辛いもの?」 「辛いこともあったと思います。けれど、幸せだった時間も確かにあります。だから、僕は迷っているのです。貴方に全てを教えて差し上げることを」 そう言って夜衣は視線を落とした。 そんな彼に、火陵はそれ以上質問を重ねることは出来なかった。これ以上訊ねても、不安ばかりが増すと思ったのだ。 ・・・カチ・・・カチ・・・カチ・・・カチ・・・ 不意に耳の奥で蘇る時の音。何故か急かされているような、焦りが生まれてくる音だった。 急速に何かが動いている。 自分の知らない所で、何かが廻り始めている。夢の中の、あの歯車だろうか。それとも、夢の中で男が言っていたように、運命の輪が、廻っているのだろうか。 何もかもが分からない。自分のことも、今自分の身に何が迫っているのかも。 「・・赤い月が昇ったら、分かる?」 夢の中で男が口にした言葉を思い出し、そう火陵が問うと、夜衣は予想外の反応を見せた。 「どうして、それを!?」 夜衣は目を瞠り、勢いよく火陵に視線を向けた。その過剰な反応に火陵は驚くと共に、やはり赤い月の夜に何かが起こるのだと確信する。 「・・教えてくれたんだ。夢の中で、男の人が」 その言葉に、夜衣は小さな声で茫然と呟いていた。 「炎輝様・・」 「・・え? 何?」 あまりにも小さすぎる呟きに火陵は問い返したが、夜衣がそれに答えることはなかった。 「い、いえ。何でもありません」 そう言って、夜衣は何かを考え込むようにして視線を落とし、再び口を閉ざしてしまう。 おそらくこれ以上何を問うても夜衣は答えないだろうと察した火陵も、仕方なく口を閉ざした。 沈黙が落ちる。その中で、扇風機の音だけがリビングを支配している。 火陵の長い黒髪を揺らす、扇風機の風。しかしその弱々しい風では、火陵の胸の中に生まれた不安を吹き飛ばすことは出来ないようだった。 |