「真っ暗・・・」 火陵は闇の中にいた。おそらく、闇の中。目を見開いているはずなのに、その瞳には何も映らない。捉えられる物がない。 だから、おそらく闇の中だろうと火陵は思った。 全てが闇に包まれたこの世界では、足下に何があるのかすら分からない。 それは、一歩を踏み出すのことに勇気を必要とする。しかし、 「また、だ」 それは、夢の中。火陵がいつも見る闇の夢だ。だから火陵は躊躇することなく一歩を踏み出す。 やはり、足下の地面は続いていた。歩みを遮るものは何もない。延々と平らな道が続いている夢。それは いつもと同じ夢だと思っていた。けれど、 「・・何か、聞こえる」 静寂が次第にその姿を変えていく。微かに聞こえてくるのは、 ・・・カチ・・・カチ・・・カチ・・・カチ・・・ 「――時計?」 それは、時計が秒針を刻む音のようだった。規則正しく 響くその音には、時折軋む音が交じる。 それは、大きな歯車が軋みつつ廻っている音。 「――なんか・・ドキドキする・・・」 火陵は片手で胸を押さえる。 まるで急かすように鳴り響く時計の音。 しかし、それもスムーズにはいかず、時折軋む。それが火陵の心を急かしている。鼓動が僅かに早まり、同時に 先を急ぐわけでもないのに、足も速まる。 いったい何が自分を急かしているのだろう。何故、急かすのだろう。 そして、急かされたこの足は、何のために、どこに向かっているのだろう。 歩けども歩けども、何も見えてこない。強いて言えば、闇ばかりが見えている。 いつも闇の中にポツンとある扉さえも、今日は見えてこない。そして、その扉の側にいる 名前も知らない、けれど懐かしい人の姿も見えて来ない。ただただ、時計の音のみが聞こえてくる。 急かす。焦りばかりが募る。 そして―― 火陵は目覚めた。 「――ん〜・・」 目覚めは最悪だった。眠りが浅かったのだろう、強い眠気が襲いかかってくる。その眠気に誘われるまま瞳を閉じたのだが、 「―――」 火陵はガバッと飛び起きた。眠気は消えないけれど、それを無視してベッドから下りる。 瞳を閉ざすと、まだあの音が聞こえてくるような気がしたのだ。 ・・・カチ・・・カチ・・・カチ・・・カチ・・・ 焦りばかりを生む時計の音。再度眠りについたとしても、おそらくあの夢しか見ないだろう。 「眠い!」 あの夢を余程見せたいのだろうか。執拗な眠気を追い払うため、 すぐさま洗顔を済ませた火陵は、一階へと下りていった。リビングへと向かうと 、そこには朝食の準備をしてくれているのだろう風樹と、 それを手伝っているらしい夜衣の姿があった。螺照はでかけているのか 、姿が見えない。水日は間違いなくまだまだ夢の中なのだろう。 リビングに入ってきた火陵に、風樹と夜衣は気付いていないらしい。火陵の方も声をかけることはせず、入り口に立ち止まったまま、二人の姿を見つめていた。 二人の様子は、どこかぎこちない。というのも、風樹に責任があるようだった。風樹は明るい少女だったが、初対面の人には一歩距離を置いてしまうところがあり、それが異性であればなおのこと風樹は人見知りしてしまうのだった。やはり、昨日やって来たばかりの夜衣を前に、少々緊張しているらしい。その異性に対しての初々しさに、火陵は思わず笑みを零す。とは言うものの、彼女も同様に初対面の人に関しては人見知りをする質ではあったが。 「あ。火陵!」 そろそろ風樹観察にも満足してた火陵が入り口からソファに移動してようやく風樹も彼女の存在に気付いたらしい。喜々とした声を上げる。やはり夜衣との会話には慣れないらしく、火陵がやって来たことで少し安心したようだった。 「おはよーう」 「珍しいね、火陵。自分で起きてくるなんて」 「まあ、たまにはね」 「おはようございます。火陵さん」 「おはよう、夜衣」 未だこの家では聞き慣れない夜衣の声。その声に違和感を感じる。それと同時に、新鮮味も感じる。それを隠して、火陵は笑みを向けた。 昨日会ったばかりなのだから、慣れないのは仕方のないことだろう。そして、この家には螺照以外、男がいなかった。姦しい小娘三人の空間にやってきた少年の存在は、違和感をもたらすのと同時に、新鮮味をもたらしてくれる。もう、変化などあるはずもないと思っていたこの家の中に唐突に訪れた変化は、火陵の胸を膨らませる。新しく兄弟が生まれた気分だった。 ――兄弟は勿論、本当の家族のことすら覚えてはいないのだが。 「あとは水日だけかー・・・・」 朝食を準備し終えた風樹が、夜衣に手伝ってもらい皿をテーブルに並べていきつつ、そう口にした。そして、じろ――っと火陵に視線を遣る。 その視線に気付きつつも、火陵はあえてそれを無視していると、 「あたしはさァ、朝ご飯の準備したんだよねええええぇ。お仕事したんだよねええええぇぇぇぇ」 という嫌味ったらしい風樹の声が次第に近づいてきた。それでもなお、風樹に背を向け無視していると、ついに風樹の手が火陵の肩に触れた。 「よっしゃ、行ってこ――――――――い♪」 「断固拒――――――――否」 「・・・・・」 「・・・・・」 満面の笑みで二階を指差した風樹と、満面の笑みでそれを拒絶した火陵。そうして落ちた沈黙は、痛い。バチバチバチッ! と笑顔満面の二人の間には火花が散っている。 「あ、あの・・・」 唐突にバトルを始めた二人に夜衣が目を瞬く。水日の寝起きの悪さを知らない夜衣には、二人が何故こんなにも水日を起こすことが嫌なのか分からない。 「僕、行って来ましょうか?」 そうすることが一番良いような気がした夜衣がそう持ちかけると、唐突に風樹はソファに飛び乗り、火陵はと言うとソファを飛び越えキッチンへと猛ダッシュをかました。 そんな明らかに唐突な二人の行動に夜衣が唖然としている前で、二人がそれに構うことなどない。 「火陵! フライパンの盾を用意!!」 「包丁の剣もつけますね」 「うむ。よかろう!」 そうしてキッチンからフライパンと包丁を持って返ってきた火陵は、 「夜衣、頑張って」 そう言って、手に持ったそれらを夜衣に渡した。どうやら、水日から攻撃をしかけられた際に使え、ということらしい。フライパンは盾に、包丁は剣として。 勿論、冗談である。 だが夜衣にはまだそんな二人のユーモアが分からない。いや、ユーモアと称するにはあまりにも二人は本気の目をしていた。それほど毎朝の責め苦なのだ、水日を起こす作業というのは。 「あ、あの・・」 「ありがとう、夜衣! その勇気を称え、敬礼!!!」 「はいっ!!」 ソファの上で敬礼する風樹に倣って、火陵も敬礼する。そんな二人に戸惑いつつも、夜衣はやんわりと笑って言った。その笑みは非常に弱々しいものだったが。 「これは、いいですから」 「な、なんとおおおおおお!! 死ぬ気か、夜衣!!」 と、ソファの上に泣き崩れる風樹を余所に、 「だよね」 早くも風樹とのお遊びに飽きたらしい火陵が、フライパンと包丁をキッチンに戻しに向かった。 「英雄じゃ! このお方は英雄じゃああああああ」 未だ叫んでいる風樹のことは無視し、火陵は夜衣に声をかける。夜衣はと言うと、風樹の絶叫に茫然としていたのだが、火陵に声をかけられ我に返る。彼はまだ、流す≠ニいう技を身につけていなかった。 「ああいうのは無視すれば良いんだよ」 言って火陵は微笑んで見せた。 「は、はあ。そうですか」 納得がいかないようだったが、夜衣は頷く。彼は流す≠ニいう技を習得した。 「あのね、水日って寝起きが悪いんだ。寝惚けて叩かれたりするの。だから私たちは嫌がってたワケ」 叩かれる、などという可愛いレベルではないのだが、夜衣に任務を返上されてはたまらないので少々ソフトに表現してみる。 「そうなんですか。いいですよ。僕が参ります」 明らかに嫌な仕事を押しつけられたにもかかわらず、夜衣は微笑んで見せる。彼が、その事実に気付かなかったわけではないだろう。それでも夜衣は快諾して見せた。 「皆の者ォ、祈れ! 神に祈るのじゃあああああ!!」 どういう風に話が展開しているのかは分からないが、神に祈りだした風樹の存在は完全に無視し、火陵は夜衣に問う。 「・・いいの?」 昨日、この家にやってきたばかりの夜衣が、自分たちに遠慮していやいや引き受けているのではないかと思ったのだ。そうならば、止めなくてはならない。しかし、夜衣はやはり微笑み、 「いいんです、火陵様」 と頷いた。彼が自分たちの嫌がっている仕事を自ら請け負ってくれているのだと言うことが、彼の言葉と優しい笑みから窺えた。 という事実よりも何よりも火陵が驚いたのは、 (はい? 何と言ったよ、少年!!) と火陵が口を開く前に、 「様!!?」 と、先に声を上げたのは、自分たちの会話など聞いていないだろうと思っていたが実は聞いていたらしい風樹だった。そのまま夜衣からの返答を待つことなく、風樹は勢いよく喋り出す。 「おいおいおいうぉい! コレの何処に様を付ける程、すんばらすぃ所があると申すかな、ボーイ!?」 「コレ呼ばわりするな! 妄想狂め」 「あの・・すみません。クセで」 と、大あわてでそう釈明した夜衣の言葉に、 (―――クセって・・・) (召使いごっこ!?) 「そっか」と曖昧に返事をし、辛うじて微笑んで見せた火陵と、「!?」と目を瞠る風樹だったが、それ以上追求はできなかった。 どうやら彼も一癖ありそうだと二人が思っていると、夜衣が歩き出した。 「じゃあ、水日さんを起こしに行って参ります」 (今度はさん≠セ!) (私だけ様=`? 女王様っぽいのかな、私) と風樹が鋭くチェックし、火陵が何だかアホなことを密かに考えつつも、二階へと上がっていく夜衣の後ろをついて行く。一応、何かあった時には少しでも夜衣を助けてやろうというこの家の新人への配慮と、夜衣が水日の凶暴性を目の当たりにしてどんな反応を見せるのか確認のためらしい。言わずもがな、後者の方が比率はべらぼうに高いのだが。 「水日さん。おはようございます」 夜衣はまず部屋の外から戸を叩いた。しかし、勿論返事はない。どうしたものかと視線を背後の二人にやると、彼女らは揃って、 「開けていいよ」 「開けるのじゃ!」 と、何故か小声でアドバイスしてきた。水日を起こしたいのだから普通の声量でもいいだろうにと密かに思いつつも、夜衣はそれを指摘しなかった。彼は未だツッコミ≠ニいう技を持っていなかった。 「じゃあ・・」 と、遠慮気味に水日の部屋の戸を押し開く。 「水日さん。朝ですよ」 部屋にはいることはせず、再度声をかけたのだが、ベッドで丸まっている水日はピクリとも動かなかった。どうやら、揺すらなくてはならないらしい。しかし、年頃の女の子の寝顔を勝手に見てしまってもいいものかと再度視線を先輩二人に遣ると、 「いいよいいよ。入っちゃって」 「突撃!!」 と二人からお許しが出た。やはり小声だ。 夜衣はなるべく寝顔は見ないようにしようと決め、水日のベッドへと歩み寄る。今までその背後にべったりくっついていた火陵と風樹がついてきていないことに、夜衣は気付かなかった。 「水日さん、朝ですよ。起きて下さい」 そう言って水日の肩を揺らす。 その様を、ドアの外からじっと見つめている火陵と風樹。もしも水日が暴れた時、自分たちまでとばっちりをうけないよう、部屋の中には入らないようにしているらしい。その様子からして、夜衣を守る気がほぼないことが窺える。 「水日さん」 声量を僅かに上げ、夜衣は思いきって両手で彼女の体を揺らした。 「わぉ、豪快♪」 「血の雨がふりゅううううううううう!」 と外の二人が、夜衣の大胆な行動に慌てたその時だった。水日が身じろぎし、徐に腕を持ち上げた。そして、 「ん゛あっ!!」 よく分からない奇声を発したかと思うと、 ビュッ!! 出た。鉄拳。 「夜衣!!」 「成仏してけろ」 「お前が成仏しろや」 「痛っ!」 そろそろ、よく分からないキャラの風樹がうざくなり、火陵は夜衣を助けに走るよりも先に風樹の頭をはたく。どうしてもコチラを退治する方が優先されてしまったらしい。 「夜衣、大丈夫!?」 風樹を退治し終えた火陵が慌てて夜衣に視線を戻すと、夜衣が水日の鉄拳一発目を片手で受け止め、続いて襲いかかってきた平手を片手で流し、更に更にぶお!! と振り上げられた足を避け、更に更に更に、「もう一発!」と繰り出されたひねりのきいたパンチを夜衣は事も無げに受け止めたのだ。一瞬にして水日からの猛攻撃を全て避けてしまった夜衣に、火陵はポカンと目を瞠る。同様に、風樹も隣で口をぱくぱくさせている。 「ん」 「おはようございます。水日さん」 「おはよー」 なんと、水日が起きた!! その奇跡の瞬間を目撃した二人は、はっと我に返りそれぞれ歓声をあげた。 「夜衣、スゴイよ!」 「お主、何拳の使い手だ―――――ッ!!?」 感動したように拍手を送るのは火陵。水日の必殺拳を封じた夜衣に恐怖しているのは風樹。 「カッコイイ 優しそうなのにね」 「一撃必殺! エレファンツですら小指で仕留める水日の殺人拳を止めるとは・・・・!!」 「ぬぁ〜んですってえええええええええ? 風樹ちゃん?」 「な、なんでもありましぇん!! い、今朝食のご用意をば!!」 「をば!!」 言って、風樹を先頭にして火陵たちは夜衣をその場に残し駆け出す。せっかく二人共が水日を起こすという荒行から逃れられた奇跡のモーニングだというのに、今更鉄拳を頂戴するのは勿体ない。水日を起こしてくれた夜衣にも申し訳がない。火陵と風樹は猛ダッシュで一階まで逃げおおせたのだった。 「いやァ、ちょっと奥さん、見ました〜? 夜衣の技」 「見ましたわよォ。夜衣ったら、隠れた特技を持ってるのね〜」 リビングに戻りテーブルに腰を落ち着けた二人が、何とはなしにおばさんキャラで話していると夜衣を連れて水日が階段を下りてきた。その足取りは軽く、鼻歌が自然と零れるくらい、水日は機嫌が良いようだった。 (ありえない!) 火陵は我が目を疑っているのか、ゴシゴシと手の甲で瞳を擦っている。 (ありえないありえないありえない!!) 風樹に至っては、三回も「ありえない」を繰り返してしまうほどその様子を驚きを持って見つめている。低血圧の水日が、あんなにニコニコと一階へ下りてくるのを見るのはどれくだいぶりだろうか。もしかしたら初めてのことかもしれないと二人が目を瞬く前で、水日は鼻歌を止め、口を開いた。 「こんな目覚めの良い朝は久しぶり〜 やーっぱり、朝一番に見るのは、あんなのより、夜衣みたいな綺麗な顔よね」 その水日の台詞に、火陵と風樹は顔をつきあわせる。そのこめかみがピクピクと痙攣しているのは怒りの所為だろう。いつもいつも危険を冒し水日を起こしているというのに、「うへ〜」と機嫌悪く下りてきていたのが自分たちの顔の所為だとのたまう水日に、二人はその瞳に涙を浮かべ、硬く抱き合いながら怒りを分かち合う。 「あんなのってどんなのだよおおおお! 誰のコトを言ってるのさ、あァん!?」 「泣かないで、風樹! 毒盛ろう、毒」 「水日には効かないよーう!」 「くそぅ!! あのくノ一めが!!」 「闇討ちじゃ闇討ち!!」 「ほぅ、お主も悪よのう」 「いえいえ、お代官様こそ」 「ぐへへへへへへへへへへへへ」 「うほっうほっうほっうほっ」 「――――」 抱き合ったまま気持ち悪い笑い声を迸らせている火陵と風樹に、流す≠ニいう技を使いこなせず、ましてやツッコミ≠ニいう技をまだ会得もしていない夜衣が茫然と見つめている。その横で水日が彼の肩を労るように叩いて言った。 「気にしなくて良いからね、夜衣」 そうして夜衣は再び流す≠アとを教わったのだった。 ようやく始まった朝食はいつにも増して賑やかだった。火陵が、夜衣が加わって新鮮だと感じたように、水日と風樹もまたそうした感覚を持っていたのだろう。何かと夜衣に問いかけては笑い、自分たちのことを面白おかしく話しては笑う。そんな賑やかな朝食の中で、火陵だけが忙しなく瞳を瞬き、欠伸を連発している。そのことに気付いたのは彼女の正面に座っている風樹だった。 「どしたの? 火陵。寝不足かい?」 「なに? また夢?」 風樹の言葉で、火陵が眠たそうにしているのを知った水日は、察しを付けて問う。火陵がいつも似たような夢を見ること、そしてその夢を見た日は決まって眠気が強いのだと言うことを、水日も風樹も知っていた。 「あの夢?」 問うたのは新人の夜衣だった。 「うん。私ね、よく似たような夢を見るんだ。暗闇の中に立ち尽くしてる夢。歩いても歩いても何もない夢。 でさ、今日はその暗闇の中でカチカチカチカチずーっと時計が鳴ってるんだよ〜。もう急かされてるみたいで気になって気になって」 「わー、それはちょっと勘弁」 寝た気にならないよ、と肩を竦める風樹に、火陵はうんうんと頷く。 「でしょーぉぉあああああ」 相槌を欠伸へと変える火陵に、水日が苦笑しながらも彼女の頭を撫でて言った。 「お昼寝しなさい、お昼寝」 「うん。そうしようっと」 その眠りの中で、新たなものが自分を待っているのだと言うことを、今の火陵には知るよしもなかった。 |