砂糖とミルクを出し、火陵は螺照を訪ねてきた少年と共に、螺照が帰ってくるのを待つ。 特に話すことなどない。時折、他愛のない事を口にし、沈黙を過ごす。
「あ。お菓子、食べる? 水日・・一緒に住んでる子が作ったんだけど、美味しいから」
 少年の向かいのソファから立ち上がった火陵は、少年の返事を聞くことなく、冷蔵庫を開け、 言った通り、水日が作っていたアップルパイを取りだした。
「ありがとうございます」
「甘いもの、大丈夫?」
「はい。火陵さ・・火陵さんは、甘いものお好きなんですか?」
「うん。大好き
 その答えに少年は笑みを零すことで答え、再びその場には沈黙がおりる。 けれど、火陵も少年も、それを無理に破ろうとはしなかった。
 その沈黙は、どこか穏やかだったから。
 気まずさなど微塵も生まれない。おそらく、なくなっている記憶の中に、 彼との記憶もあるのだろう。こうして沈黙を共にした事もあったのだろうと、 火陵は確信に近い思いを抱いていた。
 彼は、自分の忘れてしまった過去を知っている。
 そして自分は、彼の事を知っている。
 確かではないが、確信に変えてもいいその予感がそうさせたのだろうか。 火陵は少年に対して、敬語を使う事をやめていた。先程、「堅苦しいですし、 敬語はやめにしませんか?」そう少年が切り出してきた。火陵は迷うことなくそれを承諾した。 けれど、敬語をやめにしようと言い出した少年は、火陵に敬語を使う事をやめなかった。「どうして?」と訊ねると、 「僕にとってはこれで自然ですから」と、そんな答えが返ってきた。 その言葉に首を傾げたものの、火陵はそれ以上少年に追求する事はなかった。少年の言う通り、 今の状況が自分たちにとって一番自然であるように感じたから。
「・・名前、きいてもいいかな?」
「あ、失礼しました!」
 名乗っていない事を詫びる少年に、火陵は「いいよいいよ」と笑みを返し、口を開いた。
「私は・・貴方はもう知ってるみたいだけど、火陵」
 少年は、既に自分の名を知っていた。螺照の知り合いであるからだろうか。 それとも、やはり彼はなくした記憶の中に居る人なのだろうか。そんな疑問が口をついて出る前に、 少年の方が先に口を開いた。
「僕は、夜衣やいと申します」
 少年が涼やかな声で名乗る。
「・・やい」
 あまり聞いた事のないその名の響きに、火陵は思わず小さな声で反芻する。 すると夜衣と名乗った少年は、そんな火陵に優しく諭すように言った。
「夜の衣と書いて、夜衣です」
「へー、綺麗! 似合ってるね」
 その台詞に、夜衣は驚いたように目を瞠った。
「・・・そう、ですか?」
「うん。夜の衣ってきっと月の光の事でしょう? 貴方の雰囲気が穏やかだから・・月の光って、ピッタリだよ」
「―――」
「・・・何かマズイこと言った?」
 驚いたように見開かれた瞳で自分を見つめている夜衣に、火陵はしまったと口を閉ざした。 何かおかしな事を自分は言ってしまったのだろうか。遠慮がちに問うと、夜衣は「いいえ」と首を横に振って言った。
「驚いたんです」
「どうして?」
「・・昔、貴方と同じ事を言ってくれた人がいました」
 そう口にする夜衣の瞳は、穏やかに細められていた。おそらく、その人の事を思っているのだろう。けれど、その瞳は火陵を見つめていた。とても穏やかで、優しい瞳。それを見つめ返し、火陵は微笑む。やはり、彼に夜衣という名はピッタリだと、そう思った。
 その時、玄関のドアが開く音が響く。
「帰ってきたみたい」
 水日か、風樹か。リビングのドアを開けようと火陵が手を伸ばしたのと同時に、 リビングのドアが押し開かれた。そこに姿を現したのは、水日でも風樹でもなく螺照だった。
「あれ? 螺照??」
 いつも夕方にならないと帰ってこない螺照が何故こんな時間に帰ってくるのだろうか。虫が知らせたのだろうか。 首を傾げ出迎えた火陵に、螺照は笑みを返す。
「ただいま帰りました」
 そう言い終わるか終わらないかの内に、螺照の視線はソファに座っている夜衣へと向けられていた。そして、その瞳が驚きに見開かれる。そんな螺照に、夜衣は立ち上がり丁寧に頭を下げた。
「―――夜衣・・」
 震える声で、螺照が彼の名を呼んだ。それを火陵は何も言わずに見つめる。いつも穏やかな螺照が、今は険しい顔をしていた。
「螺照様、お久しゅう御座います」
 夜衣の丁寧な挨拶に答える余裕も螺照にはなかったらしい。螺照はすぐさま夜衣に問うた。
「・・まさか、月が――?」
 その問に、夜衣は何も言わず、徐に頷いて見せた。
「――・・火陵さん。申し訳ありませんが、席を外してもらえませんか?」
 二人のやりとりに火陵が首を傾げていると、螺照は険しかった表情を緩め、火陵の肩に手を触れて言った。 そんな螺照が、いつもの彼を必死で装おうとしているのだという事に、火陵は気付いていた。 肩に触れた震える手が、それを物語っている。その理由を、火陵は知りたいと思った。だが、


 ――今は、未だ。


 そう呟いたのは、夢の中の声だったのか、それとも自分自身だったのか・・。
「・・うん」
 火陵は頷いていた。
「じゃね、夜衣♪」
「はい」
 螺照の異変に気付かなかったふりをして、火陵は夜衣に手を振る。わざと明るく振る舞ってしまったのは、 螺照から伝染したのだろうか、胸の中に生まれた不安を消してしまいたかったからかもしれない。
 リビングを出、硝子張りのドアをチラリと振り返ると、 二人がすぐさまソファに腰を下ろし話し始めていた。 その横顔は、どちらも険しい。重々しい雰囲気が漂うリビングから少しでも早く離れたくて、 火陵は駆け足で階段を上り、自分の部屋へと向かう。
「・・・何かあったのかな・・・?」
 疑問を口にすると、ますます不安が胸の中をかき乱すようだった。






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