お決まりの鬼ごっこを終えた三人は再び朝食を再開する。すでに先程の鬼ごっこの事など忘れたかのように、三人はいつも通りの会話を交わし、時間はゆったりと過ぎていく。
 そんな中、他の二人にも増してゆったりと朝食に勤しんでいる少女が居た。火陵かりょうだ。ぱくぱくと順調に朝食を口に運んでいる水日すいひ風樹ふうきに対して、火陵だけがのんびりと朝食を口に放り込んでは、もーぐもーぐもーぐとノンビリ咀嚼している。マイペースな火陵らしかった。
 では水日はというと、いや、そこまで急がなくてもいいでしょ!? と思わずツッコミを入れたくなるほど、彼女の食事は早かった。それは、水日が一番起きてくるのが遅いため、誰よりもスピードを上げて朝食に臨まなければ、朝食抜きで学校に行かなくてはならないという朝を、十数年も過ごしてきたからに違いない。それに加え、彼女は火陵と風樹の姉的な存在であるということもその理由の一つだろう。朝は、一向に起き出して来ない幼馴染みの所為で、風樹が大抵の面倒事を引き受けてはいるが、普段、それは水日の役目となっていた。のんびりマイペースな火陵と、お転婆で落ち着きのない風樹を急かしたり叱りつけるのはいつも水日だった。同時に家事をかってでるのも主に水日だ。小さい子供を持つお母さんよろしく、水日はさっさと食事をし、それから洗濯などの家事に勤しむのだった。
 と、それぞれ朝食を頬張っていると、壁掛け時計が賑やかな鳥のさえずりを響かせた。時刻は、九時。
 時計が時刻を告げたと同時に、大きな声を出したのは水日だった。
「おっと、行かないと!」
「え? 何処に??」
 ガツガツと皿の上に残った朝食を口の中にかきこみはじめた水日に、火陵が目を丸くして訊ねる。
 すると水日は手を休めることなく、けれど口から食べ物のかすをまき散らすこともなく、器用に答えた。
「今日ね、ホラ・・あの、駅前のデパート! 新装開店なのよ! 安くなってるって、きっと♪」
「おばちゃんか、アンタは!」
「・・おばちゃんか、アンタ」
「何か?」
「なっ、何でもない!!」
「何でもなーい
 言わずもがな、命をはったツッコミが風樹のもので、その後ろで密かに繰り出されるツッコミは己の身が可愛い火陵のものだ。 常に火陵は風樹という名の盾に守られている。それを当人達が意識しているのかどうかは謎だったが。
「ねえ、火陵と風樹も行かない?」
「行く行くー♪」
 その問いに元気よく手を挙げて答えたのは風樹だった。 火陵はと言うと、少々迷った末、申し訳なさそうに首を左右に振った。
「うーん。私はいいやー。眠くってさ」
「まだ眠いのか、おのれはー!!」
「夢見が悪かったの!」
「さんざん寝たくせに!!」と喚いていた風樹だったが、火陵のそのセリフに、「そっか」と相槌をうち、口を閉ざした。
 火陵は、良く夢を見る少女だった。そしてその夢は、時に正夢となった。否、時にという確立ではすでに なかったかもしれない。「予言者なんじゃねー!?」と思わず盛り上がってしまうほどに、 火陵の夢はよく正夢になるのだった。そうした夢を見る眠りは火陵にとってあまり心地良いものではないらしく 、翌朝には眠そうな顔をした火陵が居た。そのことを知っている風樹と水日は、 夢見が悪い時に関してだけは「寝ぼすけがァ 」と火陵を責める事はしなかった。
「そっか。じゃ、ゆっくり寝てなさいね」
 よしよし、と子供にするように火陵の頭を撫でたのは水日だった。
「は――い。お土産よろしくね―― ママ
「だそうよ、パパ
「誰がだ!」
「はい、準備準備――――!!」
 軽快なやりとりと同様に、水日と風樹はさくさくと朝食を終え立ち上がる。バタバタと廊下を駆け準備をする二人の様子を眺めながら、火陵だけがのんびりと朝食を食べ続けている。少量を口に運んではもーぐもーぐもーぐもーぐ。遅い!!
 そんな火陵がようやく朝食を終えた頃、水日と風樹も準備を済ませて二階から降りてきた。
 水日は肩までの髪を高くに結わえている。服装はというと、シンプルではあるが、胸の辺りにおしゃれなプリントが施されているノースリーブ。下はスリムなジーパンにキラキラと飾りが光るミュール。彼女のスタイルの良さが際立つ格好だった。
 風樹はというと、櫛を通しただけの髪に、服装はポップなプリント柄のTシャツ。七分丈のズボンと、靴は動きやすいスニーカー。飾らない、元気な風樹らしい格好だった。
「じゃ、火陵、行ってくるね――♪」
「ほ――い」
 ヒラヒラと手を振る風樹に、火陵も同様に手を振り返す。
「外行くときには、ちゃんと戸締まりするんだよ?」
「了解了解」
 お母さんのような台詞をよこす水日に、「大丈夫大丈夫」と笑って見せ、火陵は玄関まで二人を見送る。
「「行って来ま――す!」」
「行ってらっしゃーい」
 パタンと閉まったドア。その途端、先程までドタバタと賑わっていた家の中が、しんと静まりかえる。あまりにも唐突なその静寂に、一瞬火陵の胸をよぎるのは、淋しさだ。すぐにでも準備をして二人の後を追おうかとも思ったが、すぐさまその考えは断ち切った。淋しくてあとを追うなんて、幼い子供でもあるまいし。
 居間に戻った火陵は、自分が食べた食器を手に取り、キッチンまで運ぶ。そこには、水日と風樹の使った食器も置いてあった。いつもなら、お姉さん役・お母さん役と言っても良い水日が洗い物までしてくれるのだが、生憎と今日は自分がその役目を引き受けなければならないらしい。
「よし」
 食器とスポンジを手に取り、さっそく火陵は皿洗いを始める。
 この家で、火陵の仕事と言ったら、この時たま回ってくる皿洗いか、 洗濯を取り込む事だけだった。食事は、この家の主であり三人の兄のような存在でもある 螺照らしょうや、お料理大好きっ子の水日がいつも用意をしてくれる。 洗濯もしかり。二人と、そして風樹に任せておけば、火陵には何の家事も回ってこないのだが、 それでは申し訳がない。なので、細かい事に気の利く火陵は、 洗濯物が乾いている事に気付けばそれを取り込み、洗っていない食器があれば洗う。 そんなちょっとした仕事を引き受けるようになっていた。 すべて頼り切るには、少々罪悪感が伴うから。それは、この家に住む四人が、血の繋がった家族ではない所為かもしれない。
 水音と、食器同士が触れ合う涼やかな音。それを楽しんでいると、すぐに皿洗いは終了した。
 すぐさま居間に戻った火陵は、テレビの前に置かれたソファにごろりと寝っ転がった。ふかふかのクッションが、火陵の体を受け止める。座り心地、寝心地共に最高なこのクッションは、常ならば血みどろの奪い合いが繰り広げられるポイントだ。
「取ったァ!!!」
 と風樹がソファに飛び込めば、
「どぅりゃああああ―――――!!!」
 と水日が、勝ち誇ったようにふんぞり返っている風樹を確実に殺す勢いで、ソファにダイブする。その肘は、風樹の顔を狙っている。
「だああああああああッッ!!!!」
 死の危険を冒してまでソファを死守するガッツのない風樹はすぐさまソファから転がり、
「ぃよっしゃああああ!」
 水日の勝利の雄叫びがこだまする。
 そしてそれを火陵は今のところ黙って見つめている。しかし、その目は虎視眈々と下剋上を試みているのだった。
「ちくしょー」
 悔しさに歯噛みしつつ、風樹は勇気を出してソファに寝ころんでいる水日の足の裏をくすぐり始める。水日の相手を殺そうとまでした攻撃に比べれば可愛いものだが、その効果はてきめん、
「ちょっと! や、やめ…っ! あはははははは! ちょっと、コラァ!ははははは」
 と、水日はたまらずソファから転げ落ちる。
「奪還!!!」
 その隙を見逃さずソファにダイブする風樹。床の上では水日がゼィゼィと肩で息をしている。
 そこで火陵が口を開く。
「おめでとう! さすが風樹ちゃん」
「いやいやいや、それほどのことでも・・・・あるよ♪」
「あの水日さんの強烈で野蛮な(←水日には聞こえないボリュームで)攻撃、どうでした?」
「ああ、あの野蛮な攻撃ねー。あれは美しくないね。あたしみたいに、かわいげのある、ユーモアのある勝ち方じゃなくちゃ、ねー。水日も、まだまだあたしには敵わないようね。オーッホッホッホッホ」 「さすが、最強の美少女風樹ちゃん!! さあ、地面で醜くはいずり回る 水日ちゃんに、最後のヒトコトを!!」
「悔しかったら、いつでもかかって来いやー。はっはっは」
「死ね――――――――――!!!」
「ホントに来た―――――――――――――――!!!」
 そして、鬼ごっこが始まる。それを見た火陵はその清楚な顔を醜く歪ませてほくそ笑み、 まんまとソファとクッションをgetするのだった。
「けっ。バカめ」
 と、今日はそんな血みどろの戦いが繰り広げられる事もなく、 火陵は難なくそのソファをゲット。ふかふかなソファの感触を楽しみつつ、パウダービーズクッションを抱え込み頬を寄せる。が、そのクッションも、すぐさま放り投げるのだった。
「・・・暑いなー」
 まだ昼にもなっていないのに、早くも家の中は蒸し暑さを感じさせる。 ソファから勢いよく立ち上がった火陵は、再びキッチンへと戻る。 冷蔵庫を開けお茶を取り出す。 「あ」
 そして、お茶が残り少ない事に気付いた火陵はお茶を冷蔵庫の中に戻すと、
「作っとこうっと」
 誰にともなく宣言し、やかんを手に取った。
 火を付け、湯を沸かす。その間、火陵はじっとコンロの前に佇み、やかんを見つめていた。
「火を使うときは、絶対に火の側から離れちゃダメだからね
 時折、火を使っている事を忘れ、「あ―――――――――」という経験をしたり、させたりする火陵に、水日が拳をちらつかせ半ば脅迫まがいに約束させたことを、火陵は忠実に守っていた。
 だが、やかんばかり見ていても飽きてくるのは当然だ。火陵は腰を屈め、やかんから炎へと視線を移した。そこでは、青白い炎が揺れていた。時折現れる、橙の炎。絶えず揺らめく炎を、火陵は瞬きも忘れたように凝視する。
 ふと思い出すのは、最近よく見る夢の事だった。
 眠りに落ち、気付くと闇の中にいた。何の光もない。自分がいったいどこにいるのか、足下に何があるのか、伸ばした手の先に触れるものはあるのか、何も分からない闇に包まれた空間。歩き出す事すら出来ない。そこに、ふと灯るのは、炎。煌々と輝く炎に誘われるようにして歩を進めると、いつも辿り着くのは大きな扉の前だった。幾重にも鎖が巻かれ、鍵がかけられた扉。いつもはどうあっても開かないその扉が、昨夜の夢では、
「―――開いた・・」
 唐突に襲いかかってきたのは、言葉の洪水。体中にぶつかり感じる言葉、感情は、激しいものであったり、穏やかなものであったり。そして、肌に感じたのは、炎の熱。飛び交う炎の熱と、その驚くほどに赤い炎の美しさ。
「私は、知ってる・・」
 あの赤い炎を、知っている。そして、言葉の洪水から自分を引き上げたあの手を、
「知ってる」
 よく、知っている。思い出せないけれど、きっと知っている。
 あれは――


 ピンポ―――ン。


 火陵の思考の波を途絶えさせたのは、玄関のチャイムの音だった。突然、現実に引き戻された意識は一瞬混乱を起こしたものの、火陵はすぐさま玄関の方に視線を遣り、誰かが訪ねてきた事を知る。すぐさま玄関に足を向けた火陵だったが、
「あ・・」
 お湯を沸かしている事を思い出す。同時に、火の側から離れてはいけないという水日との言葉も思い出し、一瞬躊躇する。
「あ、消せばいいのか」
 と、当然の事ながら思い当たり、火を消すとすぐさま玄関に向かった。
「は――い」
 ドアを押し開けると、そこにいたのは見知らぬ少年だった。
 背は火陵より頭半分ほど高い。だが、歳は火陵と同じくらいだろう。それにしては細い肢体。日に焼けていない白い肌と、サラリと揺れる艶やかな黒髪とのコントラストに目を奪われる。すっと通った鼻梁びりょうと、細いおとがい。黒い瞳は、驚いたように見開かれていた。
 陳腐な表現だが、美少年と呼ぶに相応しい少年だった。それも、今までに見た事がないほどに。
(・・ジャニーズ系)
 と思わず心の中で洩らす。
 だが、火陵はそこいらの夢見る少女とは違った。はっきり言って、すでに目が肥えていた。共に暮らしている螺照も綺麗な顔立ちをしているし、姉妹のように過ごしてきた水日と風樹も、そんじょそこらにはいない美少女と言って良い容姿をしている。それも手伝って、火陵はさほど感動もしなかった。
 逆に、
「あ、あの・・」
 と、火陵が戸惑ってしまうくらい、少年の方が火陵を凝視していた。
「あ、申し訳ありません!」
 居心地悪げに火陵が身じろぎすると、少年は我に返ったらしく、 慌てて頭をさげた。その丁寧な仕種には、どこか上品さが伴っている。 そして、その声は耳に心地の良いもの。色に例えるならば、爽やかでけれどどこか心 あたたまる若草色。
「何かご用でしょうか?」
 丁寧な少年の態度につられ、火陵も慎重にそう訊ねる。すると少年は恐縮したように形の良い眉をさげて言った。
「螺照様はいらっしゃいますか?」
「今出かけてるんです。夕方になれば帰ると思いますけど・・」
「・・そうですか」
 そう答えた少年が目を伏せる。そこに漂う焦りの空気に、火陵は眉を寄せる。早急に螺照に会いたかったのだろう。
「あの、待ちます? 家で」
 あまりにも少年が思い詰めた表情をしていたからだろうか、気付けばそんな言葉をかけていた。
「え? よろしいんですか?」
 パッと視線を上げ、訪ねてきた少年に、火陵は笑みと共に頷いてみせる。
「はい。どうぞどうぞ」
 一瞬、火陵の笑みを驚いたように見つめた後、少年は「申し訳ありません」と軽く頭を下げ口を開いた。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
 少年を家に招き入れた火陵は、そのまま彼を居間に通し、ソファへと促す。
「お茶でも淹れますね」
「ありがとうございます」
 少年を残しキッチンへと向かった火陵は、紅茶のパックを取り出しつつ、
「あ」
 と声を上げた。
「知らない人を家にあげないようにね
 と、いつだったか、やはり拳をちらつかせながら言われた記憶がある。かといって、今更、
「帰ってください」
 とは言えない。仕方ない仕方ない、と自分に言い聞かせ、火陵は紅茶を淹れたカップを手に持ち、居間へと戻った。ソファに座っている少年は、落ち着かない様子で家の中を見回していた。
「どうぞ。紅茶ですけどいいですか?」
「はい。ありがとうございます」
 少年の前のテーブルにカップを置くと、少年は穏やかな笑みを見せた。その微笑みは、どこか螺照が浮かべるものに似ていた。
「あ、あの・・・
 少年がまた自分の事をじーっと見つめている事に気付いた火陵が、たまらず口を開く。すると少年はその時になってようやく自分が火陵を見つめすぎていた事に気付いたらしく、顔を赤くして謝った。
「あ、申し訳ありません
 そんな少年に「いいですよ」と言う代わりに微笑みを返す。そして、僅かの逡巡の後、火陵は先程から訊きたかった事を口にした。
「もしかして、螺照にどういう用件で来たのか訊いても、答えられない方ですか?」
「・・え?」
 意味を計りかねたのだろう、少年はきょとんとした顔で訊ね返してきた。この質問では、その反応も仕方ないだろうと反省しつつ、火陵は言葉を足した。
「昔から、螺照を訪ねてくる人たちに、どこか似てるから。みんな、綺麗な人だったし」
 時折、螺照を訪ねてくる人が居た。二度、三度とやってきた人もいれば、一度きりでもうこの家には来なかった人もいる。そしてその人たちの誰もが、綺麗な顔立ちをしていた。そして、必ず自分の顔を見て、目を瞠るのだ。時には、涙を浮かべる人もいる。言ってもいないのに、名前を知っている。そして、螺照に何の用事があって来たのかと訊いても答えてくれないのだ。ただ、困ったように視線を泳がせるだけだった。
「どうして来たのか理由を追及すると、答えてくれなくて・・。すごく困った顔をして・・だから、私も訊かないようになった」
 訊けば、困った顔をして、答えられない事が罪であるかのように「申し訳ありません」と繰り返すのだ。それが逆に申し訳なくて、火陵も水日と風樹も、螺照への客へは何も訊かないようになっていった。
「・・変な事言ってごめんなさい」
 黙って自分の言葉を訊いている少年に、火陵は謝る。
「いえ。お気になさらないで下さい」
 少年は、穏やかな笑みで言った。心の底からそう思っている、優しい労るような笑顔だった。その笑みに、火陵は確信した。この少年も、昔からこの家を訪ねてきていた人と同じ目的を持っているのだという事に。何故なら、自分に向けられるその笑顔が、とても優しかったから。螺照の客人は、誰もが皆優しかった。慈愛に満ちた瞳で、自分たちを見ていたから。
 そして、きっと彼らは、知っている人だ。
「――あなたも、私が忘れている、昔の私を知っている人?」
 その問いに、少年は一瞬目を瞠った。そして、
「・・・・はい」
 静かに、頷いて見せた。
 その答えに、一瞬火陵の中で欲望が生まれる。
 ―――知りたい・・!
 失ってしまった過去を知りたい。けれど、それを拒む自分も、心の中にいた。
「あ、お砂糖!」
 何気なく動かした視線の先に、まったく口をつけられていない紅茶のカップがあった。そう言えば砂糖もミルクも持ってきていなかった事を思い出す。
「すぐ取って来ますね」
「あ、いえ・・」
 いいですという言葉を聞く前に、火陵はキッチンへと姿を消していた。今は早く少年の前から去りたかったのだ。去ってしまわないと、訊いてしまいそうだったから。
 知りたい。問いつめてしまいたい。
 けれど、その欲望を止めるのは、


『今は未だ、駄目だ。今は未だ―――・・』


 あの、夢の中の声だった。










** back ** top ** next **