閉ざされたカーテンが、窓から流れ込んでくる風にヒラヒラと舞っている。
 昨夜の湿気は一体何処に行ったのだろうか。蒸し暑さしか入ってこなかった窓から、今朝は涼しい風ばかりが部屋に舞い込んでくる。否、涼やかな風と共に、澄んだ鳥の声も部屋の中に広がっている。
 そんな部屋の中では、すやすやと穏やかな寝息を立てている少女がいた。
 名を、火陵かりょうという。年の頃は16ほどだろうか。 枕に、シーツに流れる長い髪は黒。寝乱れ広がる髪は、 少しの絡まりも見せず、まるで絹糸のように艶やか。肉のない、けれど滑らかな頬には、長い睫毛の影が落ちている。 健やかな寝息を洩らす唇は桃色。タオルケットにくるまるようにして眠っている所為で窺うことはできないが、 伸ばした手足はスラリと長い。それに加え、細いおとがいの所為だろうか、 どこか中性的で涼やかな美貌。だが、そんな少女も、今は眠っているからだろう――おそらく、その美貌に似合わず、口をぽかーんと開けて眠っている所為で――、 年相応、もしくは少々幼い印象を抱く。
 そんな火陵を、鳥の鳴き声が包み、風に揺らされた髪は頬をくすぐる。けれど火陵が起き出す気配はない。
 カチ、カチ、カチ、カチ・・・
 枕元にあるニワトリ型の目覚まし時計が時を刻む。
 ひときわカーテンが大きく揺れたその刹那――
 カチッ!
 ガチャ!!
 忙しい音の応酬。
 コケ――コッコッコ・コケ――コッコッコ・・コ―ケコッコ――――・・・ぽこっ。
 と、大きな声で鳴くはずだった目覚まし時計だったが、「よし、鳴くぞ。カチッ!」と準備をしたその瞬間に、火陵の手によって黙らされてしまっていた。
 それは朝の日課。火陵はいつも、目覚まし時計が鳴る直前にそれを止め、目を覚ますのだった。
「ん――・・」
 ニワトリの赤いとさかに置いた手をゆっくりと引き戻す。寝転がったまま何度か瞬きを繰り返し、
「眠い」
 洩らす。
 口を開けて寝ていた所為で掠れてはいるが、その声は涼やか。彼女のまとう印象と同じ。少女にしては少し低い、けれど耳に心地の良い声。
 一つ欠伸を洩らした後、火陵は首をねじった。時刻を確かめようと開ききらない切れ長の瞳で時計を見た火陵の眠気は、一気に冷めることになる。
「―――・・八時・・・」
 時計の針は、八時を過ぎていた。と、そこで火陵は目を見開いた。
「――――――――・・・・・・・・は、八時ィ!? 学校――」
 ガバァ!! と体を起こしベッドをおりかけた火陵だったが、
「学校・・・・休みじゃん」
 気付き、再びベッドにパタンと倒れる。冷めた眠気も、すぐさま火陵に戻ってきた。二度寝は火陵の大好物。躊躇うことなく火陵は再び瞳を閉ざした。
 常ならば、慌てて準備を済ませ、マッハの勢いでもって学校に向けダッシュを始めなければならない時間なのだが、今は夏休み。二度寝、三度寝、し放題。
 火陵はベッドに移った己の温もりと、タオルケットのふわふわとした心地良い感触に、口許をほころばせる。だが、それもすぐに消えた。眠りは、すぐさま火陵を夢の中へと誘っていく。
 再び、闇の中に落ちていく――。
 そして聞こえてくる、歌。
 歌が聞こえる。不思議な歌。波のようにゆるやかな旋律。それを歌うのは、高く細い声。
 ―――何の歌だろう?
 その歌に耳をすませる。
 ―――誰だろう?
 その声の主を、探ってみる。
 答えは分からない。その内、強い眠気はそんな疑問さえも飲み込んでいく。
 歌に、闇に飲まれていきながら、火陵は再び眠りについた。



 火陵が眠りに落ちたのとほぼ同時に、家の中に大きな声が響いた。
火陵かりょうさ――――ん。風樹ふうきさ――――ん! 私はもう行きますからね――――――!」
 その声の出所は、家の玄関。そこには、スーツに身を包み、階段の上に向かって声をかけている青年が居た。
 名を、螺照らしょうという。 サラリと鳴る髪は艶やかな黒。穏やかな瞳の色は、少し色素が薄いのか、茶。 長身ではあるが、細身である所為か威圧感はない。 それは、彼のまとう穏やかな雰囲気の所為でもあったのかもしれない。整った彼の容姿も、それを手伝っている。
 螺照が声をかけるとすぐさま、二階から返事が返ってきた。
「「は――――――い」」
 応える声は、呼んだとおり、二つの声。けれど、返事の通り起き出してやって来るのはその内の一人だけであろうこと を、螺照は知っていた。返事を確認したあと、鞄を手に持ち、螺照が靴をはき始めた頃だった。
 バタバタバタバタ・・
 廊下を駆ける音、階段を下りる音の後に現れたのはやはり螺照の想像通り、一人だけだった。
 ボサボサの髪もそのまま、玄関まで駆け降りて来たのは、 風樹ふうきという名の少女だった。
 年の頃は、火陵と同じくらいだろう。 寝癖もそのままになっている柔らかな茶色の髪。長さはと言うと、 女の子にしては短く切ってある。寝癖も手伝い、短い髪の毛は好き 勝手な方向を向いてしまっていた。健康的に焼けた肌と、ふっくらとし た頬は活発そうな印象を与え、彼女をボーイッシュに見せている。 いつもは好奇心の旺盛さを良く表し、キラキラと輝いている瞳も、眠気が覚めきっていないのだろう、今はトロンと、いつも以上に垂れている印象を与えていた。どこか愛嬌のある少女だ。
「行ってらっしゃい、螺照!」
 元気よく螺照を送り出す声は明るい。ついでに大きい。
「はい。行って来ます」
 それに応える螺照の声は、やはり穏やか。笑みも同様だ。
「じゃあ、風樹さん。後はよろしくお願いしますね」
 後というのが、二階でまだ寝ている、返事を寄越しただけの少女―火陵と、返事を寄越しもしない――それ以前に螺照が呼びもしなかった――もう一人の少女のことだということは訊かなくても分かる。
「お任せあれ♪」
 頼もしい返事に、螺照は笑った後、再度「行って来ます」と言って家を出て行った。
 ヒラヒラと手を振って螺照を見送った風樹は、ドアが閉まったことを確認したあと、大きな欠伸を一つ零した。ついでに「う――ん」とのびをする。
「よし」
 眠気も完全にではないが覚めた。玄関から踵を返した風樹は、リビングへと向かう。いつも食卓を囲むテーブルには、やはり朝食が用意されていた。まめな螺照は、毎日こうして三人分の朝食を用意してから家を出て行くのだった。
 スクランブルエッグにレタス、トマト。色鮮やか。もし欲しければ、ということだろうか 。テーブルには他にも、リンゴや梨が置いてあった。だが、食パンが置かれる筈のお皿は、空。その代わり、 テーブルの中央には袋に入ったままの食パンが置かれてある。そこから二枚だけパンを取り出した風樹は、トースターにセットした。
 それは、自分と火陵の分。もう一人の分は、まだ焼かない。トースターに二枚しか入らないこともその理由なのだが、最たる理由は、もう一人はなかなか起きてこないから、である。
 トースターにパンをセットした風樹はリビングを出た 。階段を上り向かった先は、火陵の部屋。風樹は迷うことなく火陵の部屋 のドアを開け放った。彼女にプライバシーを侵害しているという概念はない。 その部屋の主もそれを気にするほど、繊細な神経は持ち合わせていなかった。
 そもそも、10年近くを共に過ごしてきたのだ。 寝顔の一つや二つ、かまいはしない。
「火陵ー! 朝!!」
 言葉少なに、言い放つ。
「んぁ〜?」
 返ってきたのはやる気のない声。
「ご飯ご飯!」
「もう少しー。あと2時間だけー」
「全然、少しじゃないじゃん!!」
 と、朝っぱらから大声でツッコミをかました後、風樹は火陵の部屋のカーテンを開けた。
 容赦なく差し込んでくる光に、火陵もついに起きる決心をしたらしい。
「ん――」
 体を起こした火陵は、のびをしてベッドをおりた。
 それを確認した風樹は、自分が役目を終えたことを悟る。火陵は、立ち上がってしまえばもう大丈夫だ。
 と、
 チーン。
 階下から僅かに聞こえてきた音に、風樹は「あ」と踵を返す。パンが焼けたらしい。
「火陵、水日すいひ頼むね」
「え゛!!?」
「任せた!!」
「ちょ、おい! 風樹!!」
 火陵が反論してくる前に、風樹は脱兎の如く火陵の部屋から消え失せてしまっていた。
「うそ
 風樹を引き止めようと火陵が伸ばした手は虚空を掴んだだけに終わり、 今は虚しく風樹の消えたドアに向かって伸ばされたままになっていた。
「・・・・はぁ」
 溜息を洩らした後、腕を下ろす。
「仕方ない。行くかー」
 再度溜息を洩らしつつ、火陵は風樹から半ば強引に与えられた――押しつけられたという表現の方が相応しいかもしれない――任務を遂行するべく、部屋を出た。その際、火陵は本棚に置いてあった小さなゴムのボールをしっかりと手に握っていた。その使用意図は後ほど。
 火陵が向かった先は、隣の部屋。そのドアは、固く閉ざされている。おそらく中では、この家の最後の住人―水日がまだ眠っているのだろう。
 そろ――――っとドアを押し開けた火陵は、中の様子を窺う。ベッドでは小柄な少女が俯せになって眠っていた。
 少しくせのある髪は、漆黒。月も星もない、夜の闇に似たその髪は、思い思いの方向に散らばっている。 閉ざされた瞼の奥には、大きく、クルンとした瞳が眠っているのだが、今はそれを窺うことはできない。 ふっくらとした頬に、赤く小さな唇。日に焼けない よう気を付けているおかげか、肌は白い。暑いからと、 短パンとタンクトップ姿で眠っているせいで露わになっているその体の線は、 年頃の女の子らしい丸みを帯びていた。歳はと言うと、火陵と同じ。 だが、小柄で丸みを帯びた体格と、大きな瞳の所為か、 こうして眠っている水日は、実際の年齢より幼く見えるけれど、 起きていればその落ち着いた雰囲気から、その幼さの印象も消えるのだが。
 ドアを開けたものの、火陵は部屋の中に足を踏み入れることはしなかった。だが、水日を起こさなくてはならない。水日の側により、ポンポンと肩を叩けば済む話ではある。しかし、火陵はそれをしない。そんな初歩的なミスは犯さない。
 そう、寝ている水日に触れることは、ミスだ。重大なミスなのだ。
 水日は、“超”がつくほど低血圧。寝起きは思わず“激”をつけてみたくなるほど最悪。 不用意に触れようものなら、ブンッ! と、空を切って襲ってくる彼女の拳にノックアウトされる。 かといって起こさなければ起こさないで、あとから文句を言われるのだ。
 故に、水日を起こすということは、大仕事であり、いつも風樹と火陵はこの任務を押しつけあっているのだった。
 だが、火陵は、痛い目を見ている風樹の姿から、学んだ。
 水日に近づかなければいいだけの話なのだ。
 では、どうやって火陵は水日を起こすのかというと、火陵は徐に自室から持ってきたボールを握り締めた。そう、
「・・・とぅッ!」
 ――ブンッ!
 勢いよく、水日に投げつけた。
 今日も、火陵のコントロールは冴えている。 水日に命中したボールは、コロコロと部屋の入り口まで戻ってきた。それを素早く拾い上げ、後ろ手に隠す。
「水日――、ご飯だよ――」
 だが、水日はまだ起きない。ので、
「とりゃ」
 ためらうことなく、もう一発。そして、上手く返ってきたボールを拾い上げ、さらに投球。ストライク!
 こんな方法で起こされているのだと水日が知れば、火陵もタダでは済まないだろう。
 水日は幼い頃から空手を習っており、その小さな体のいったい何処に隠しているのだろう、怪力を技に乗せて発揮する。果敢にも水日を普通に起こしに行った風樹の顔には、必ず痣があった。夢現の状態で、手加減なしの水日のパンチが風樹に炸裂した証拠だった。
「ん゛――――」
 ようやく水日がみじろぎする。慌てて火陵はボールを拾い上げ、隠した。そして、何喰わぬ顔で再度水日を起こす。
「水日。ご飯だよ――」
「分かった――」
 自分がボールを三発もぶつけられたことなど露知らず、水日が答える。そして、ゆっくりと体を起こし始めた所で、火陵は水日の部屋から逃げ出した。すぐさま自室に向かい、ボールを元あった場所に戻す。これで、火陵の任務は完了。以前は部屋にあった棒きれで遠くから水日をつついて起こしていたのだが、それはやめた。水日が起きたとき、その長い棒を隠しきれなかったのだ。幸いにも、寝起きでぼ―――っとしている水日に、
「ん? コレ? 如意棒だよ
 と、堂々と答えてみたらば、
「そっか」
 と納得してくれた。命拾いした瞬間だった。
 それ以来、棒はやめた。すぐさま隠せる小振りなモノをお供にすることを火陵は心に決め、今に至るのだった。
 ボールを部屋に戻しリビングに向かうと、
「水日、起きた?」
 自分の分だけでなく、火陵の分にまでバターを塗ってくれている風樹に迎えられた。
「うん。降りてくると思う」
 すぐに、とは言わなかった。風樹も風樹でそれは分かっている。 まだしばらく水日が降りてくるまでには時間がかかることを見越し、 パンをトースターにセットするのはもう少し後にしておく。
 水日は、起きるのも一苦労だが、そこからもまた意識が完全に覚醒するまでに時間がかかることを、二人は嫌と言うほど知っていた。
「いただきまーす」
 水日が来るのを待っているとせっかく焼いたパンが冷めてしまうので、二人は先に朝食を始めることにした。
「誰もとらないよ?」
 と、優しく声をかけてあげたくなる程、風樹はバクバクともの凄い勢いで朝食を頬張り、逆に火陵は、
「スロー再生ですか?」
 と、訊ねてみたくなるほど、ゆっくりゆっくりと朝食を進めている。
 活発、お転婆な風樹と、のんびり、マイペースな火陵の違いが良く現れている光景だった。
「ねえ、火陵」
「んー。なにー?」
 徐に声をかけてきた風樹に、火陵は食事の手を止め首を傾げる。すると風樹は、心なしか声を潜めて訊ねてきた。
「・・今日は、何コース?」
 唐突な質問ではあったが、火陵はそれが、「どうやって水日を起こしたの?」という質問であることを知っていた。こちらも声を潜め、火陵は答えた。
「・・ストライク3コース
 悪戯っ子の笑みを浮かべながら答えた火陵に、風樹は苦い顔をする。
「・・・・知られたときの方が怖いよ、あたしは」
 寝惚けて殴られるより、その事実を知られて殴られたときの方が、ヒドイことになるだろう。その時のことを想像したのか、風樹は僅かに身震いした後、食事を再開した。
「あ」
 と声を上げたのは火陵だった。風樹が「どうしたの?」と問う前に、彼女も気付いた。
 階段を下りてくる足音。どうやら水日が起き出してきたようだ。
「パンパン」
 イスから立ち上がり、風樹はパンをトースターにセットするために台所へと消える。
 程なくして、やはり水日がリビングにやってきた。
「おはよう、水日」
「おはよ――――」
 火陵がにこやかに挨拶を向けると、水日はどよーんとした挨拶を返し、朝食の用意されたテーブルについた。その様子は、不機嫌そうでもある。
「・・眠そうだね」
 不機嫌そうな水日の様子に、よもや自分の行為がばれているのではとドキドキしつつ、火陵は水日に話しかける。
「うん。眠いよ――」
 だが、返ってきたのはそれだけ。どうやら、ただ単に眠いだけらしい。火陵はホッと胸を撫で下ろす。
「良かった」
「は?」
「ううん。何でもない
 思わず口に出していた火陵に、水日が訝しげに眉を寄せる。それを極上の笑みでサラリとかわし、火陵はトマトを口の中に放り込んだ。
「はい。水日」
「さんきゅー」
 台所から戻ってきた風樹がパンを水日の前の皿にのせると、眠気を引きずったままではあったが、水日も朝食を食べ始めたのだった。風樹はと言うと、まだ席には着かず、再び台所に戻り、今度はコーヒーをついだカップを持ち帰ってきた。水日の為に、である。
 まるで母親のような風樹。だが、勿論、二人と同じ歳の彼女が母親であるはずはない。では、姉妹かと言えば、それも答えはノー。更に、先程家を出て行った螺照が父親であるかと言えば、それも違う。そして、少女達と兄妹であるかと言えば、それすらイエスではない。
 この家に住む四人に、血の繋がりは全くない。
 赤の他人ではあるが、四人は十年近くもこの家で共に暮らしていた。
 その理由を知るのは、螺照。 しかし、三人の少女が何度訊ねても、その理由を教えてはもらえなかった。自らでその理由を思い出そうと、幼い頃の記憶を蘇らせようとしたけれど、それも無理だった。
 彼女ら三人の共通点、それは、この家に来るまでの記憶が、全くないこと。

 もしかしたら、物心が付かない内にここへやって来たのかもしれない。それにしても、思い出せないのだ。自分がどんな子供であったか。どんな場所で暮らしていたのか。どんな両親を持っていたのか。まったく、思い出せなかった。
 だから、諦めた。
 今のこの生活に、不満はない。親が居なくても、淋しいと感じたことはない。この家には、自分と同じ、幼い頃を思い出せない姉妹のような存在が居たから。優しく自分たちを見守ってくれる父親のような存在があったから。
 三人が過去について訊ねることは、今はもうなかった。
「水日ー、牛乳、入れようか?」
 訊ねたのは、早くも朝食を終えた風樹だった。その問いに、水日は少し迷ったあと、首を横に振って答えた。
「・・・いらなーい」
「飲みなよー。大きくなりたいんじゃなかったっけ?」
 背が伸びないことを気にしている水日は、風樹のその言葉に言葉を詰まらせる。そして、火陵のグラスに注がれている牛乳に視線を遣り、迷い始める。どうにも牛乳は苦手なのだ。
 迷いに迷っている水日に、風樹が溜息交じりに問う。
「何で嫌かなー。美味しいよ?」
 すると水日は、すかさず答えた。
「だって牛の乳よ!?」
 更にその台詞にすかさず答えたのは火陵だった。
「いいじゃん。ほら、人間のじゃないんだし」
「・・・・・・・・・どういう説得の仕方よ
 一瞬、「だよね」と頷いてしまいそうになったのだが、水日はすんでのところでそれを堪えた。火陵の唐突で強力なボケ――本人にそのつもりはないが――に、水日はようやく覚醒した。
「火陵もそう言ってることだし、飲みなよ。ね?」
 まったくもって説得力のない火陵の台詞に便乗してもらっても困る。
「いらないってば!」
「大きくなりたいんでしょ、女子高生
「う゛ッ」
 水日が言葉に詰まる。風樹の攻撃はなかなか素晴らしいモノだった。
 ポイントは、“女子高生”。先日、街中で中学生に間違われてしまい、かなりのショックを水日は受けたばかりだった。それを知っている風樹は、わざと“女子高生”を強調したのだ。
 してやったりとほくそ笑む風樹に、負けてたまるかと水日は断固拒否に出た。
「牛乳飲むくらいならこのままでいい! 若く見られる方が得だし〜」
 大人になってから若く見られるのは確かに嬉しいかもしれないが、高校生が中学生と間違われることに何の得があるのかと言えば、何もない気がする。だが、それにツッコミを入ることはなく、次に口を開いた火陵は、まあまあと、水日を宥めた。
「大丈夫だよ、水日。大人に見えるよ。胸は
 最後の三言は、隣に座っている風樹にだけ聞こえる程度の大きさであったおかげで、水日に気付かれることはなかった。代わりに風樹が爆笑する。そして、調子に乗り始めた風樹は、いずれ水日の逆鱗に触れてしまうことを知らなかった。
「あはははははははは! そうそう! ホント、胸だけはスクスク育ったよねー」
「何よ
 そう。水日は、三人の中では最も背が低いのだが、胸だけは誰よりも順調に育ったのだ。顔が幼いのに、胸は大人並み。その所為で、胸のことをからかわれたりと、嫌な思いをしてきた水日に、胸の話は禁止となっていた。だが、学習能力がないのか、それともわざとなのか、風樹はいつもこの禁忌に踏み込んでしまうのだった。火陵はというと、そんな愚かなミスはしない。もしも胸の話をしてしまっても、うまくフォローする術を彼女は心得ていた。すぐさま、フォローとも茶々とも言える台詞を火陵は口にした。
「いいなァ。胸おっきくて。胸さえあれば、ねェ」
 と、その先を風樹に譲る。すると風樹は笑いながら言った。言ってしまったのだった。
「うんうん。水日みたいな凶暴女でも胸さえあれば辛うじて女に見えるもんねー」
 ぶちっ。
 何とか袋の緒が切れる音を、火陵と風樹は聞いたような気がした。
「このォ!!」
 と、怒号と共に、水日は何を思ったか、テーブルの上に置いてあったリンゴをぐわし! と掴んだ。ぐしゃ!! と見事にリンゴが潰されるかと思ったその瞬間、
「はい!」
 こちらも何を思ったか、すかさず火陵が空いていたお皿を水日の手の下に滑り込ませた。
「・・は?」
 怒りをそがれた水日が、リンゴを握り締めたままポカンとする。「殴られる!」と勘違いし頭を両手で庇っていた風樹も、目をみはる。すると火陵は何の臆面もなく言った。
「ジュース・・果汁100%♪」
「あはははははは! 人間ジューサ――――――――――――ッ!!」
「風樹いいいいぃいいいいい!!!」
「え!!? 今のあたしか――ッ!!?」
「あ。今日、牛乳届いてる日だー」
 追いかけっこが始まったその瞬間、火陵はそそくさとリビングから姿を消していた。見事に逃げおおせていた。命懸けの追いかけっこの真っ最中の風樹はおろか、水日ですらそのことには気付いていない。
「うわー。二人とも元気だなー」
 ドタドタと騒がしい足音と共に、怒号と悲鳴のこだまするリビングを見遣り、 牛乳瓶二本を腕に抱えた火陵は呑気に呟く。よくよく考えてみれば、風樹が追われる原因になったのではないかと思われる台詞を吐いていた彼女だったが、誰も――本人ですら――そのことには気付いていないので、火陵が責められることは滅多になかった。そして、ほとぼりが冷めた頃に戻ってくる。リビングに入ると、そこには、
「ご、ご、ごめんなさい!! 許して!! 水日様――――!!」
「仕方ないわね。今日はここら辺で許してあ・げ・る
 土下座をしまくる風樹と、そんな風樹を足蹴にし、ふんぞり返っている水日の姿があった。








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