澄み切った青空が、地上をじっと見つめている。 橙色の太陽が、ヒューディスの地に体を横たえ眠っているアノンを心配そうに見下ろしている。 彼の周りにはやはり心配そうな顔をした精霊たちが彼を見つめていた。そのおかげか、魔物がアノンを喰らいにやってくることはない。 そして、バサリと大きな羽音が響いたかと思うと、横たわったアノンの上に影がさす。 「アノン! アノン!!」 その影はアノンの隣にフワリと下り立ち、顔色を変えてアノンの名を呼ぶ。それはとても優しい少女の声。けれど今は緊張に硬くなってしまっていた。 不意に現れた少女に、精霊たちがその姿を空気の中に溶け込ませるかのようにして消えていった。もう、アノンを守らなくても大丈夫だと察したのだろう。 消えゆく精霊を見送った後、少女は再度彼の名を口にした。 「アノン!」 すると、 「ん・・・」 僅かにアノンが身じろぐ。閉ざされていた瞼が、一瞬震えた。 「アノン! しっかりしてください!!」 ぼんやりとしかアノンの意識の中に入ってきていなかった誰かの声。けれど、柔らかな手が自分の肩を揺らすその感触でようやくアノンは自らの意識にまとわりつく微睡みを追い払う。 (誰が呼んでるの?) 微睡みが去って行くに連れ、自分の名を呼ぶ声が近づいていく。 ( ティスティー? ルウ?) 思わず呼んでしまっていたのは、彼女らの名前。 期待はしていなかった。 彼女らの体はもう、土の中にある。自らの手で土の中に返したのだから。 自らの胸にふっと沸いた期待が去るのを待ってから、アノンはそっと瞼を上げた。まず飛び込んできたのは白い色彩。そして、それが何かを悟るのと同時に、アノンはそこで自分を心配そうに覗き込んでいるのが誰なのかを悟った。そして、体をゆっくりと起こし、その名を呼ぶ。 「 タタラ。どうして、ここに?」 美しく白い翼を背に携えた有翼人少女に徐に問いかける。声は掠れてしまっていたが、その問いはタタラに届いたようだった。 「アノンこそ、どうしてこんな所で眠って居るんですか!」 タタラはアノンの問いに答える前に、逆にそう詰問してきた。その声には責めるような響きがある。アノンがこの魔物の巣窟と言っても過言ではないだろうヒューディスの地でごろりんと眠っていたのだから、驚き思わず彼を責めてしまったのも頷けるだろう。 タタラの問いに、アノンはしばしの沈黙の後、答えた。 「・・・・眠くて」 「・・・・」 ふいっと視線をタタラから外し、アノンはそう答えた。 外された視線の先を追うと、 「これ 」 空中からは気付かなかったが、そこには一つには墓標代わりに剣を突き立て、もう一つにはアノンが作ったのだろう、木の棒を組み合わせて作られた少しいびつな十字架がたてられた墓があったのだ。 それを見て、タタラは瞠目する。 (まさか ・・) そんな言葉が胸に去来した。 そして、アノンの答えが、「やっぱり」という言葉を彼女に呟かせることになるのだった。 「 ティスティーと、オレが捜してた人―ルウのお墓」 アノンを窺えば、青い瞳を墓に向けている。その瞳はチラとも揺れず、墓を真っ直ぐに見つめ続けていた。涙を零すことも、ましてや滲ませることもせず、見つめ続けている。 そんなアノンの横顔に、タタラは唇を噛む。 彼のその瞳は、悲しんで悲しんで悲しんで、そして悲しむことをやめた人の目だ。 乗り越えたのか、それとも諦めたのか、それはタタラには分からなかったが、とにかくその瞳が、寂しかった。 「 アノン」 タタラは震える声で彼の名を呼び、徐にアノンの体を抱き締めていた。 アノンの肩に、冷たいものが零れ落ちてくる。抱え込まれた頭をぎこちなく動かしタタラを窺うと、彼女は泣いていた。はらはらと、優しいブラウンの色をしたその瞳から涙を零していた。 泣いている。タタラが。 (でも、オレは ) アノンは、泣かない。もう泣かない。 何故なら、アノンは決めたのだ。 「さよなら」 「・・・え?」 「言ったんだ。ちゃんと。ルウとティスティーに、さよならって」 そして、もう泣かないと決めたのだ。 地面へと零した涙はすぐさま凍り付いて、アノンの足と大地とを繋いでしまう。一歩も歩けなくなってしまう。そして悲しみは、アノンの細い肩にズンと重くのしかかり、歩き出そうとする気力すらもなくしてしまう。 だから、さよならを言った。 ここから歩き出すために、さよならを。 ティスティーに、ルヴィウスに、さよならを。 そして、己を捕らえて放してくれない悲しみに、さよならを 。 「そして、オレは行くんだ」 「何処に?」 アノンが言っていることの意味は分からない。けれど、タタラは優しくその先を促す。 その問いに、アノンはしばし沈黙した後、口を開いた。 「・・・とにかく、行くんだ」 目的地は、未だ見つからない。けれど、 「ここに居ちゃ駄目だから。ここにいたら、さよならしたことにはならないから」 さよならしたはずの悲しみが巣くうこの場所にいては、駄目だ。行かなくてはならないという気持ちはある。けれど、目的地が見つからない。いったい何処を目指して歩き出せばいいのか。何処で、当てのない旅に終わりを告げればいいのか。 分からない。 その様はまるで、 「 迷子」 迷子になったあの日のように、不安がつきまとう。 けれど、アノンは知っていた。 「迷子になった時は 迷子になった時は、戻ってみる」 『迷子になったときにはね、むやみにウロウロせずに、じっとしてた方がいいんだよ。もし自分がどっちから来たのかが分かるなら、慌てずに戻ってみればいいんだ』 旅の最初に出会ったカーノという迷子の少年に、アノンは言った。 母親に森で置き去りにされたその時、待ちきれず歩き出し、けれど迷子になってしまった。その時に得たことを。 そして今は、自分が迷子。 だから、 「オレ、戻るよ。一番最初の場所、リダーゼに!」 何処に行けばいいのか分からないなら、戻ればいい。一度戻ってから、また新たな目的地を決めればいい。 アノンのその決意に満ちた言葉を、タタラは黙って受け止めた。そして、短い返事を返す。 「そうですか」 別れは寂しいけれど、タタラはアノンを止めることはしない。今彼を止めては駄目だ。ここに止めさせておいては、彼は駄目になってしまう。タタラはそのことを知っていたのだろう。 「気を付けて帰ってくださいね」 精一杯の笑顔の中に、悲しみが交じっていることに、アノンは気付いていたのか否か。 「・・うん!」 しばしの沈黙の後、笑みを返し頷く。その笑みの中にはやはり悲しみの色があった。 それを振り切るようにアノンは笑みを消し、もう一度墓を見遣る。 そして、告げる。 「 帰るよ、オレ」 今は何をして良いのか分からないけれど、原点に戻ってそこからやりたいことを見つけよう。行きたい場所を考えよう。 まずは、この旅に終わりを告げなくてはならない。 この、たくさんの人と出会い、いっぱいの冒険をしたこの楽しかった旅。けれど、最愛の人たちとの別れという悲しい結末を迎えてしまったこの旅に、さよならを 「 オレ、言える」 アノンは、気付いた。 自分は、分かっているではないか、と。 この旅に終わりを告げなくては、さよなら≠告げなくては次の旅はやってこないのだということを。 だから、言おう。 大嫌いなあの言葉を。 「さよなら。ルウ。ティスティー!」 旅立つために、アノンは別れを告げる。 その真っ直ぐな瞳は、晴れ渡った空と同じ。その空の色を映したように美しい、明青海の青と同じ。別れを告げるその声は、柔らかでけれど芯のあるその声がはっきりと別れを告げる。 その様を、タタラは見つめていた。その瞳に、もう悲しみの色はない。あるのは送り出す者の優しい眼差し。 「アノン、また、来ますよね?」 「うん。来るよ!」 はっきりと迷いなくアノンは答えた。 その答えに、タタラは安堵する。二人の墓があるこの大地、それば同時に、アノンが二人を亡くした悲しい場所。そんなヒューディスに、アノンが再び戻ってきてくれるかどうか不安だったのだろう。元気欲送り出したい。けれど、これで今生の別れとしてしまうのは悲しすぎる。 けれどアノンは、ここに帰ってくると、そう言ってくれた。 ならば、その日まで待とう。 「それまで、私がお二人のお墓を守りしますわ。だから、ゆっくりして来て下さいね」 「ありがとう、タタラ」 アノンは、墓からタタラへと視線を遣る。ゆっくり、悲しみが完全に癒えてからでいいと、暗にそうアノンに言ってくれているタタラの優しさに心の底から感謝をしながら、微笑みを向ける。今度は、悲しみの色など交ぜることなく。 笑みをたたえたまま、天を仰ぐ。 先程まで晴れ渡っていた空に、いつの間にか雲の姿がある。風に流され運ばれてくる白い雲が、次第に青い空を覆っていく。 それを見て、アノンは立ち上がっていた。 「じゃあ、オレ、行くよ!」 空と同様に、この決意まで曇ってしまわない内に。 「ええ。気を付けて」 優しいタタラの声に見送られ、 「うん。じゃあ、またね、タタラ !!」 「はい!」 アノンは走り出す。振り返ることもせず、真っ直ぐに走る。 このまま立ち止まることなく、すぐにオル・オーネの家も発とう 。 (帰ろう。リダーゼに) ルヴィウスと一緒に過ごしたその国へ。あの村へ。そして、ティスティーとの旅が始まったあの原っぱへ。 そうして辿り着いて、本当に終わるのだ。 楽しくて嬉しくて悲しかったこの旅と、完全にさよならするために。 そして、また新たな旅路につくために。 「オレは、言うよ」 大嫌いな、さよならを言おう。 大嫌いな悲しみに、さよならするために 。 |