昨日まで地面を叩き付けるように降り注いでいた雨も、日付が変わった頃から次第に終息へと向かい、太陽が宵闇の中からその姿を露わにする頃には完全にやんでいた。雨雲の姿も窺えない。 空は、真っ青に澄み渡っていた。 先日、兄と慕い愛していた青年が大地に返ったその日と同様に、姉と母と慕っていた魔法使いを青年の隣へと寝かせた今日も、空は晴れている。 イレース王国とヒューディスとの境、薄茶けた大地をまとった荒野と、森の木々との境目にアノンは立っていた。そうして立ち尽くしてもうどれくらい時間が経ったのだろうか。アノンには分からなかった。とても短いようで、けれどきっと驚くほどに長い時間、彼はそこに立っていた。 朝、日が昇ると同時にティスティーを背負い、アノンはここまで戻ってきた。その道中、アノンは何度も立ち止まった。背中に乗せたティスティーの体に温もりが戻ってきたのではないかと彼女を地面におろし呼吸を確かめてみた。しかし、彼女は驚くほどに白い顔をして瞼を閉ざしていた。吐息はついぞ確認できなかった。 やはり、アノンが感じた温もりは、彼自身のものでしかなかった。決して彼女に移り宿ることのない温もり。 雨の中、ティスティーを背負いイレースのオル・オーネの元まで歩いた道のりを、アノンは一人で歩いた。その背に乗る躯に、既にティスティーはいない。アノンは、一人きりで歩いていた。その事実が悲しくて、鼻歌なんて歌ってみたりもしたけれど、何の慰めにもならなかった。 そしてティスティーが愛していた人、ルヴィウスの隣に彼女を葬り、アノンは今立ち尽くしていた。何をすることもなく、ただ二人の墓を見つめ、立ち尽くす。 「 」 だが、不意にアノンはティスティーの墓の前に膝をつき、手を伸ばす。 掘り返してみようか。 そんな思いが時折アノンを突き動かす。 もしかしたら、ティスティーが生き返っているかもしれない。不意に湧き上がってくるあり得ない期待。 「私はゾンビじゃないわよッ!」 もし隣に彼女がいたら、そう言って頭を一発はたかれていただろう。その感覚が、懐かしくて仕方がないのだ。だから、 「 会いたいんだ・・」 切ない囁きが零れ落ちる。けれど、それはティスティーの眠っているその場所に落ちる前に風が攫っていってしまった。 聞きたくない、とでもいうかのように、アノンの囁きを掻き消した風に、アノンは今度は溜息を乗せる。 「・・・起こしちゃ、ダメなんだね」 もう、ルヴィウスにもティスティーにも会うことは出来ない。 分かり切っていることだが、何度も言い聞かせなければ納得できない。どうしても、諦めきれない。 けれど、諦めなくてはならないのだ。 だから、アノンは言う。 「ルウ、ティスティー」 愛しげに名前を呼び、告げる言葉は、 「さよなら=v アノンが大嫌いな言葉。 「また、来るから。その時には、ちゃんと笑うから 少しだけ・・・」 途切れた言葉の後に続くのは、涙。 その涙を攫うように、風がアノンの頬を撫でていく。 <泣かないで> その風の中に、優しい聲が聞こえている。 「・・・・ありがとう」 心優しい精霊の慰めにアノンは答える。 ティスティーが死んだあの満月の夜から、アノンにも精霊の姿を視認することが出来るようになっていた。その理由は分からない。もしかしたら、ティスティーからのプレゼントだったのかもしれない。 (そんなのいらないから 戻ってきてよ) 側にいてくれる精霊の姿が見えるのは嬉しい。けれど、ティスティーが居れば良かったのだ。精霊が見えなくても、ティスティーさえ居てくれたら 。 「 」 アノンは力無く地面に座り込んでしまっていた。体中から力が抜けていく、代わりに体を覆っていくのは眠気。昨夜、全く眠っていなかった所為かもしれない。泣いていたわけではない。ただ、何故か眠れなかったのだ。 <駄目だよ> <こんな所で寝たら危ないよ> 「・・・そうなんだけど・・・」 精霊たちの聲ははっきりと聞こえている。しかし、アノンの瞼はそんな精霊たちの制止に反してゆっくりと閉ざされていく。 こんな場所で眠ってしまったら、魔物に襲われてしまうかもしれない。 それは分かっている。けれど、抗うことが出来ない。アノンに抗うための気力が生まれてこないせいか、それほどまでに眠りがアノンを誘っていたのか。 アノンは、ルヴィウスとティスティーの墓に寄り添うようにして、その体を大地へと横たえていった。 その体を包み込むのは優しい風と、夢。 あれ? 眠りについたはずなのに、とアノンは首を傾げていた。何故なら、彼は歩いていたから。何処だか分からない場所ではあったが、今自分が夢を見ていると思うにはあまりにもリアルな感覚。 アノンは歩いていた。 その姿が、まだ十にも満たなかった頃にまで遡っていることに、彼は気付いていなかった。 その視線の先に、一人の女が立っている。 ・・・母さん? ゆっくりと振り返ったその女の姿に、アノンは目を瞠る。そして、察した。 これは、夢。 母さん! 両手を広げた母の腕の中に、アノンは飛び込む。そうされた初めてアノンは己の体が時を遡っていることに気付いた。 それが何故かと考えるまでもない。 これは夢なのだ。だから、気にするだけ無駄だ。 アノン。 優しい声は、懐かしいあの日のままの響き。 温かな腕も、懐かしいあの日のままの温度。 けれど、 アノン、さよなら。 大嫌いな言葉の、その残酷さもあの日のまま。 母さん! 行かないで!! 置いていかないで!! あの日言えなかった言葉が、今はすんなりと口をついて出る。 だって、知ってるんだ。 知っている。 このまま行ってしまったら、もう二度と彼女に会うことができなくなるのだと。 知っているのに、止められない。 母さん!! 次第に遠のいていく母の後ろ姿を懸命に追う。けれど、追い付かない。 そして、消える。 母さん! 母さん!! 涙が零れ落ちそうになったその瞬間、 アノン。 掌に、温かな感触。 ルウ。 そこに、ルヴィウスが居た。 こんにちは。 ルウ、母さんが・・・っ!! 大丈夫。俺がいるよ。一人じゃないよ。 抱き締めてくれる腕の強さと温もりが、アノンの涙を止める。 けれど、 じゃあ、行ってくるよ。いい子で待ってるんだよ。 駄目だよ、ルウ! 行っちゃ駄目だ!! その結末を、今はもう知っているから。 止めようとしているのに、声を枯らして叫んでいるのに、ルヴィウスの姿は次第に遠ざかっていく。消えていく。 ルウ!! ホラ、行くわよ、アノン! ルヴィウスを失ったアノンの手を取ったのは、 ・・ティスティー。 今度こそは失うこともないと思っていたのに、彼女もまた サヨナラよ、アノン。 ティスティー!!! 消えていく。 必死で彼女を引き止めようとした手は、虚空を掴む。 母を捕まえることの出来なかった小さかったあの日の手ではない。剣を覚え、大抵のものは掴むことのできるようになったこの手でも、やはり掴めないものがあったのだ。 否、たくさん、ありすぎる程にこの掌から滑り落ち、消えていく。 ・・・・ そして、立ち尽くす。 母を失ったその手を取ってくれたルヴィウス。 ルヴィウスを失ったその手を取ってくれたティスティー。 ティスティーを失ったこの手を取ってくれるのは ・・・ ・・・・ 誰も、取ってくれない。 嫌に冷えた手を、自らの胸で温める。けれど、なかなか温まらない。 寒くて、寒くて、寂しくて、座り込む。 『さよなら≠ナ全てが終わってしまうわけじゃないよ。さよなら≠フ後には、必ず出会いが待ってるんだからね』 ルウ・・・ 『だから、私は言うわ。アンタを送り出すために さよなら≠言うわ』 ティスティー・・・ 蘇る言葉が、アノンを包み込む。 じゃあオレは、ここから出発するために、さよなら≠言うんだね。 ここから いったい何処なのかも分からない真っ白な世界。母さんも居ない。ルヴィウスも居ない。ティスティーも居ない。 この場所から出発するために。 踏み出した一歩は、重い。悲しみが、重く重くのしかかる。すぐに、歩けなくなる。 オレ、ここにいたいの・・・? こんな寂しい独りぼっちの場所に、いたいはずがない。 だったら、歩き出せばいい。誰か人の居る場所まで行けばいい。 一人は嫌だよ。 だったら、行くんだ。 背中を押すのは、誰だろう。 さよなら。さよなら!! 大声で別れを告げる。 誰に? オレを捕らえて放さない悲しみに。 何のために? 再び、真っ直ぐ歩き出すために・・・! 歩きだそう。 背を優しく押す手を感じながら。 また、出逢うために 。 |