青く澄んだ空に、真っ白な雲が一つ、二つ。 空と同じく青く美しい海を囲んだ大 陸。 明青海に浮かんだ小さな島―黄金郷を世界の中心に、北東に位置しているリダーゼ王国。優秀な戦士を多く排出している武力国家であると同時に、お祭り好きという陽気な気性をもった民たちから作られた王国。 春―卯花月を迎え、リダーゼ王国の王都─ギルダでは英雄祭が開かれていた。四年前、リダーゼ国王から、北の地で暴れている魔物─魔王の討伐を命じられた一人の戦士が、見事魔王を討ったことを称えて開かれる祭り。 いや、それは先年までのこと。 今年からこの英雄祭は、魔王を討つために命を賭け、そして散って逝った若き戦士を讃え、その冥福を祈るための祭りへと変わった。 魔王を討ったと言われていたが、しかし一向に帰郷しなかった戦士の死を、一人の少年戦士が国王に報告した。国王は涙し、国民も天を仰いだ。 しかし、英雄祭は昨年と変わらず、華やかに、盛大に催されていた。王都ギルダは当然のこと、多くの街が華やかに飾られ、あちらこちらで楽しそうな人々の笑声が響いている。しっとりと英雄の死と栄誉を祝うことなどしない、祝いの場は華やかに。それがリダーゼ王国の特質だった。 英雄の後を追ってヒューディスの地まで行き、彼の死を国王に報告した少年戦士―アノンは今、リダーゼに居た。 ヒューディスから半年の時間をかけて、アノンは故郷チェスタの村まで戻ってきた。 あの日、イレースを発つその時、 「本当に行ってしまうのですね」 「うん。ごめんね、オル・オーネさん」 リダーゼに帰っても家族もいないアノンに、オル・オーネはこの家に留まらないかと、そう言ってくれた。それに、ここならば、いつでもルヴィウスとティスティーに会いにいけるではないかと、クートも同様にイレースに残るべきだととう言ってくれた。 「オレ、オル・オーネさんと暮らすの、嫌じゃないよ。ジストルもいるし、クートさんもいるし、ここはとても楽しいよ」 「だったら、ね。ここにいて下さい。私もジストルも、アノンがいてくれたら頼もしいですもの」 「セリルの街に住む所を紹介してやってもいい。仕事は俺の孤児院を手伝えばやっていけるし」 「ありがとう。オル・オーネさん、クートさん。でも、行くよ」 しかし、アノンはそれに頷くことはなかった。 「オレ、帰らなくちゃいけないんだ。ここは、確かに楽しいし、オレは幸せだよ。ルウもティスティーも側にいてくれるような気がするし」 「だったらどうして 」 「だから、駄目なんだ」 クートの言葉を遮り、アノンはきっぱりと言いはなった。 「甘えちゃ駄目なんだ。ルウとティスティーときっぱり別れて、オレだけで、オレが幸せになれる場所を探さないと駄目なんだと、思うんだ、オレ」 ここにいれば、優しいオル・オーネとクートが面倒を見てくれる。ここにいれば、必ず幸せな生活を送ることが出来るだろう。 しかし、その生活は自らの手で勝ち得たものではない。そう、アノンは思うのだ。自らの歩みを止めるという消極的な行為によってもたらされたその生活も、確かに幸せであり、自らが選び得たものといえるかもしれない。けれど、アノンは納得することができない。 このまま、ここイレースの地で、自らの歩みを止めてしまうことが。 せっかく、大嫌いなさよなら≠言ったのだ。さよなら≠フ次に訪れる出逢いを得るために、さよなら≠。 ここで止まってしまったら、誰にも出逢うことはないだろう。否、セリルの街で、友人は出来るだろう。それもまた一つの出逢い。けれど受け身的で、消極的な出逢いのようで、アノンは納得することができない。 あの、母との別離の後、ルヴィウスと会ったような ルヴィウスがいなくなってから、出逢ったティスティーのような、そんな出逢いを、アノンは求めていた。 イレースでその出逢いを捜すのもいいかとも、一度は思った。 けれど、何故か帰りたいと思った。この旅が始まった地―リダーゼに。全てが始まったリダーゼの地、故郷チェスタから、もう一度旅を始めたかったのかもしれない。悲しい別離がエンディングになってしまった、チェスタからのこの旅。次の旅は、ハッピーエンドが待つチェスタからの旅を始めたい。 (別に、忘れたいわけじゃないけど) 心の中で言い訳じみた台詞を呟く。 そう。悲しい旅の思い出を消してしまいたいというわけではない。このティスティーとの旅を、アノンが忘れることはないだろう。忘れられない楽しい思い出がある。悲しい結末がある。やり残したこともある。 次の旅で、そのやり残したことをやってしまいたい。 そして、新たに託された約束も果たしたい。 『また会おう』と約束したタタラ。 『私は、とても幸せだった、って』というその言葉を、ティスティーの兄―ディオにも伝えるという約束。 オル・オーネとの約束もある。彼女の目を治す方法を求めて旅に出たオル・オーネの恋人―リーファを見つけて、早くオル・オーネの所に帰ってくださいと、そう言わなくてはならない。 親切だった宿屋のおばちゃんや、船長。そして彼ら夫婦に引き取られていった孤児の姉弟―レラとラドの顔も見たい。 森の中で迷子になって泣いていたカーノも、少しは大きくなっているだろう。 宿を提供してくれた一人暮らしのおばあさんにもお礼を言いたい。 やりたいことはたくさんある。果たしたい約束も。 旅を終わらせることは、まだできない。 そして、その旅路の出発点は、イレースではなく、リダーゼのチェスタ。アノンはそこに決めたのだ。 そしてもう一つの理由を、アノンは決して口に出すことはなかった。 ルヴィウスとティスティーを身近に感じるこの家は、決別したはずの悲しみを感じてしまう場所でもあった。 もしかすると、これがこの家に留まることを拒む、一番の理由でもあったのかもしれない。 「オレ、リダーゼに戻ります。戻って、もう一度旅を始めようと思うんです。一人は寂しいから、またティスティーみたいに、一緒に旅をしてくれる仲間を捜して、そして、またここに来るよ!」 「アノン」 「悲しい気持ちにならないくらい、オレが強くなったら、ルウとティスティーのお墓参りにも来るよ」 もう、アノンはどうしたって行ってしまうだろう。 そのことを悟ったオル・オーネは、少し悲しそうに瞳を細めた。だが、その唇から「やはりここにいてください」そんな未練がましい台詞を洩らすことは、もうなかった。 彼がこの家にいてくれればいいと、強く願っていた。それは、リダーゼに帰っても家族のいないアノンにとって、ここで多少なりとも見知った自分と暮らす方が、一人きりで暮らすよりも救われるのではないかと思ったのだ。それより何よりも、いつ帰って来るともしれない恋人を待ち続けなくてはならない彼女にとっても、とても明るく素直で優しい子の少年の存在は大きな救いになると、そう思っていたから。 しかし、それは我が儘でしかなかったようだ。 彼は一人でも生きていくことが出来る。彼は自分のように弱くはなかった。 それを知ったオル・オーネは、アノンを送り出す。 「分かりました、アノン。気を付けて、帰って下さいね」 「うん!」 アノンも、笑顔で頷いてみせる。 そんなアノンを最後まで引き止めようとしたのはクートだった。 「おい、本当に行くのか? アノン」 最初は、オル・オーネにつく悪い虫かとアノンに睨みをきかせていたクートだったが、長い旅路を一人で行くアノンのことが心配で仕方がないらしい。彼は孤児院で働く修道士とは彼にピッタリな職業にも思える。世話好き、かつ心配性な面をもっているようだったから。 しかし、アノンはやはり自らの意志を覆すことはなかった。 「うん。オレ行くよ、クートさん」 クートを真っ直ぐに見つめ返すアノンの青い瞳の中には、強い光がある。 「もう止めないで」という拒絶の光かと思ったが、それは間違いだった。明青海の色をしたその瞳で光っていたのは、新たな旅への期待。 それを見たクートは、とうとう口を閉ざした。 彼をここに止めておく術はなくなった。アノンの瞳にある光を消してしまっては、自分が後悔することになる。彼のためにも、そして自分のためにも、彼を送り出すべきだと、そう悟ったのだ。 「そっか。分かった。気を付けて行くんだぞ!」 「何かあったらすぐに連絡をくださいね」 「うん。ありがとう。本当にありがとう、クートさん、オル・オーネさん! オレ、絶対にまた会いに来るからね!!」 そして、アノンはイレース王国から旅立った。 イレースから南へと徒歩で向かう。イレースから船に乗れば明青海の潮の流れが、イレースからリダーゼへと流れているのも手伝って、リダーゼ王国の港町―ガレッシオには一瞬で着くことが出来るだろう。しかし、その途中に、ヒューディス沖を通らなくてはならない。その所為で、イレースから船は一つも出ていないことをアノンは知っていた。 いや、この旅で知った。 『ヒューディス沖は波が荒くて所々渦を巻いてたりするの。その上、ヒューディスの沿岸には海賊がうじゃうじゃいるしね』 そう言って、ティスティーが教えてくれたのだ。 だから、アノンはひたすら歩いてリダーゼを目指していた。 イレース王国を過ぎ、行きは船で通り越し、ほとんど滞在しなかったデリソン王国をゆっくりと歩き、ティスティーの故郷―フェレスタ王国を行く。 そして、半年もの月日をかけ、アノンはリダーゼ王国に帰ってきた。 すぐに王都―ギルダに向かい、リダーゼ国王に謁見し、英雄ルヴィウスがヒューディスの地で魔王を討ち取ったものの、その時の傷がもとで果ててしまったと伝えた。魔王を討ったのは、本当はアノンだったのだが、彼はその事については触れなかった。ルヴィウスへと与えられた英雄という名、魔王を討ったのだという栄誉を奪うことがアノンには耐えられなかったのだ。詳細を説明するのが面倒臭かったのも事実だが。 そして、ただ報告をしただけなのだが、国王から何故か報酬を与えられた。 『貰えるものは貰っておくのよ。これ、常識ね』 ティスティーとの旅で彼女に教わった―彼女流の―常識に習い、昔のアノンであれば断ったであろう報酬だったが、ありがたく頂戴した。処世術の身に付き始めたアノンに、ティスティーは大喜びしていることだろう。 アノンは、金貨の所為で一気に重くなった荷物を背負って故郷―チェスタの地を踏んだのだった。 そうしてアノンが故郷の村に辿り着いてから、三ヶ月近くが経とうとしていた。 アノンは未だ、リダーゼ王国にいた。 英雄祭で賑わっている街から少し離れた村―チェスタ。その外れにある原っぱに、アノンはごろりと寝転がっていた。 そこは、一年前、人間嫌い魔物嫌いの偏屈魔法使い―ティスティーと出逢ったあの草原。 リダーゼ国王に謁見し、このチェスタに戻ってきてから、アノンは毎日ここにいた。ここで寝ころんで、空を見上げていた。 そして、待っていた。 あの日、突然旅立つことになったあの出逢いのように、再び出逢うため。そして、ここをスタート地点に、再び旅を始めるために、今この自分をここから連れ出してくれる出逢いを、アノンは待っていた。ひたすらに、待っていた。 その為に、ルヴィウスとティスティーに、大嫌いなさよなら≠言ったのだ。 (だけど・・・) さよなら≠言ったのに、出逢いは、まだ来ない。 出発の地に戻れば、再び旅をすることができると、単純にそう思っていた自分の呑気さをアノンは少し怨む。 原っぱに寝ころび、空を見つめている。その瞳も空と同じ色をしている。しかし、その瞳に、イレースを旅立つその日にあった強い輝きはなくなってしまっていた。 一年前、こうして草原で寝ころんでいたあの日から、何も変わらない。 ルヴィウスが帰って来ず、捜しに行こうかと何度も思いながら、旅に出る決意がなかなか決まらず、この草原に寝ころんでいたあの日から、自分は何も変わっていない。そう思うと、アノンは情けなくなってしまう。 変わったことと言えば、伸ばしっぱなしだった髪が肩をすぎてしまったことくらいだろうか。 「あ、コレもだ。あと、コレも」 もう、二つ。 首に下がっている青い石のネックレスと、両の耳朶を飾るピアスがあの旅で加わった。髪が伸びたこともあり、ますます女の子に間違われる確立が高くなった。 ティスティーの魔力によって鞘となったラピス・ラズリのピアスは、彼女が果てても尚その役割を果たしてくれていた。その理由を、道すがら出会った魔法使いに聞いてみてのだが、その理由が難しすぎてアノンには何を言っているのかよく分からなかった。 それでも、何だかティスティーが自分のことをまだ守ってくれているようで、嬉しくなる。 と同時に、そう感じてしまう自分が情けなくもなる。 まだ彼女に頼ってしまっているのかと。 その時だった。 「アノン! まーたアンタこんな所で寝てるのかい」 驚いたような呆れたような大きな声に体を起こすと、同じチェスタの住人がアノンの方へと近付いてきていた。 「クローナおばさん」 「こんな所で寝てたら、人買いに攫われちまうよ」 冗談なのか本気なのか、アノンを脅すようにおどろおどろしい声で告げるクローナに、アノンは笑った。 「あはは。大丈夫だよ、クローナおばさん。オレ、第一級の戦士だよ」 「でもまだまだ子供さ。子供は元気に駆け回るもんだよ。ホラ、王都にでも行っておいで。アンタのルウの祭りじゃないか!」 その言葉に、アノンは彼女がただ通りかかっただけでなく、ずっと毎日こうして原っぱで物思いに耽っている自分を元気づけるためにやって来てくれたのだと知る。 「 ・・うん」 アノンは、いつも通りを演じることが出来なかった。 しばしの沈黙の後、ぎこちなく頷いたアノンを見て、クローナは小さく溜息をつき、心配そうに目を細めた。伸ばした腕で、アノンの頭を優しく撫でる。 「早く元気におなりよ、アノン」 そして、クローナはアノンの頭を再度撫でた後、「またうちにご飯でも食べにおいでよ」といつもの大声で告げると、家の方へと去っていった。アノンの膝の上に、一つクッキーがつまった袋を置き土産に。 アノンはクローナの背中を黙って見送る。また後で、お礼を言いに行こう。 今は、彼女を追いかけていく元気がなかった。 「やっぱり、分かるんだなぁ」 呟きながら、再び体を横たえる。 視界一杯に空が広がっている。その風景はアノンの中にある重い気持ちを軽くしてくれるが、吹き飛ばしてはくれない。 早く元気になりなさいと、クローナは言った。 彼女は、いや、彼女だけではなく村の人たちは知っているのだろう。未だアノンの胸の中に悲しみが巣くっていることに。 イレース王国を出るその時には、たしかに悲しみと決別することが出来ると思ったのだ。英雄祭だって、笑顔で参加出来るとも思った。今年は国王からルヴィウスの代理として英雄祭に参列するようにと仰せがあったのだが、断った。懐の広い国王がそれを咎めることはなかった。 悲しみは、一層深まった。 リダーゼに戻り、新たな旅の訪れを待っているその内に、次第に深く重くなっていった。 もう、出逢いが訪れることはないのかもしれないという絶望が訪れ、胸の奥でおとなしくしていた悲しみを起こしてしまった。 このままではいけないと、一時は一人で旅立つことも考えたのだ。けれど、実行には移さなかった。 もう、歩き出す気力を沸き立たせることさえ、アノンには出来そうになかった。 だから、 「・・・・いっそ、攫ってくれたらな」 そんなことを思ってしまう。 そうすれば目的が出来る。少なくとも、売られるわけにはいかない。その危機を脱しなくてはならないという目的が生まれるだろう。 今は何もないから。 アノンが切なげに細めた瞳を、ゆっくりと閉ざした。その時だった。 [キューイ] 突然、耳元で甲高い鳴き声が響いた。続いて、 ぽふっ。 「ぶっ」 重量感はなかったが、顔の上に何かモサモサしたものが飛び乗って来たことが分かった。 考え事をしていた所為で接近に気付かなかった。 アノンは顔の上にダイビングしたそれを両手で捕らえると、体を起こした。 ぱたぱたきゅーきゅーと、まるで「離して離して〜」と言でも言っているのだろうか、アノンの掌の中に収められ暴れていたのは、小型の魔物だった。 掌にちょうど乗るくらい小さな丸い体躯。白いフワフワとした毛に覆われた体には、四本の足がある。ぱっと見るとリスのような姿をしているが、魔物に属している。その白い体に反して赤い瞳。その点ではウサギのようだった。 「遊びにきてくれたの?」 顔にダイビングをかまされてはしまったものの、その魔物は、アノンが草原にいることを知るといつもこしてやって来た。そして、「構って構って」とフワフワと触り心地の良い体をすり寄せてくるのだ。 その愛らしい姿に、魔物ではあるが、アノンもそして村の人々もこの生き物を駆除することはしなかった。しかし、他の村や町からやって来た人間は大抵その魔物を受け入れているアノンとチェスタの村に驚くのだ。 そして、決まって言う。 「いくら小さくても魔物は魔物だ」 と。 その台詞を、アノンはいつも悲しい思いで聞いていた。 魔物だって、みんながみんな人間を襲うわけじゃない。そのことをアノンはルヴィウスから教わり、 知っていたから。 まあ、この田舎の村に、そうそう旅人は訪れないので、アノンはいつもこうして周りの目を気にすることなく魔物と遊んでいるのだが。 [キュキュキュ ウ] 光り物が好きなこの魔物―アノンはその体が雪のように白いことから、スノウと勝手に名付けている―の為に常備しているビー玉をポケットから出し、魔物へと与える。 そうすると魔物―スノウは、目を輝かせビー玉を眺め、そしてコロコロと頃がしては追いかけ、と遊び始める。一人大人しく、かつアクティブに遊んでいるスノウを微笑ましげに見つめつつ、時折ビー玉を奪って遠くに投げたりしてアノンは草原での時間を過ごす。 こうしてスノウと遊んでいると、鬱気分は途端に和らぐ。 アノンの顔に笑顔が戻る瞬間だった。 そうして笑みを浮かべ、スノウがビー玉の上に乗って遊んでいるのを眺める。 「スノウ。そんな事してたら 」 こけてしまうよと忠告しようとしたのだがすでに遅し。 [キュウ〜] つるりと滑ったビー玉と、ドベっと腹を仰向けにして地面に転がったスノウ。それを見たアノンは 「大丈夫?」 と問いつつも、洩れてくる笑いを止められない。 「あははははははははははははは!」 [キュ、キュウ!] 大笑いするアノンと、「笑うな〜!」と言っているのだろうスノウが鳴いている。 草原にスノウの鳴き声と、アノンの笑い声とが響く。 突如、そこに介入してきたのは、 [キュ ッ!!!] と、何処か遠くから聞こえてくる、スノウと同種の魔物の鳴き声だった。嫌に騒がしく甲高い鳴き声に、いったい何があったのだろうと、アノンとスノウはそれぞれ口を閉ざし、鳴き声が聞こえてくる方向へと視線を向ける。 すぐにその声の正体は分かった。やはりスノウと同種の魔物―アノンはその魔物をマユと呼んでいた。目の上の毛が僅かに茶色をしており、眉毛があるように見えるからだった―が必死で駆けてくるのが見えた。 何かに追われているのかも知れない。 そう思ったアノンは膝の上に乗っていたスノウを胸ポケットの中に入れると立ち上がった。そして、耳にくっついていたピアスを外す。僅かに閃光を放ったピアスはたちまちアノンの掌中に集い、剣へと姿を変えた。美しく青い石を埋め込んだ銀の刃が太陽の光を受けて輝く。 「おいで! マユ!」 アノンが、駆け寄って来たマユをスノウと同様に胸ポケットに収めた、その時だった。 ゴオオォォ ッッ!! 森の中から、突如煌々と燃える炎の渦が襲いかかってきた。 バチバチと背丈の低い草を焦がし、地面を抉りながら、炎の渦は真っ直ぐアノンに向かってきた。いや、おそらく彼の胸ポケットの中にいるマユを追っているのだろう。それは追撃魔法。森の奥に、魔法使いがいるのだろう。 しかし、その姿を視認するよりも前に、アノンにはすることがある。 炎の渦を退けねばならない。 [キュ !!] [キュキュ ウ!] 悲鳴を上げるマユとスノウを安心させるように、 「大丈夫だよ」 と、小さな声で囁きながら、アノンは携えていた剣を構え、そして、 ヒュッ ・・! 迫ってきた炎の渦めがけて、剣を振り下ろす。 炎は、あとかたもなく消滅していた。 すぐさま視線を炎がやって来た森の方へと向けると、そこには一人の男が立っていた。 アノンよりも幾分年上だろうスラリと背の高いその男は、全身を黒い服で覆っている。その髪も黒。唯一黒以外の色彩を持っているのは、彼の瞳。その瞳は、先程放たれた炎と同じ、紅をしていた。 今、その紅の瞳は驚きに見開かれていた。己が放った炎を、剣の一振りでいとも容易く消し去ったアノンを見て驚いているようだった。が、すぐにその瞳は真っ直ぐにアノンへと向けられる。剣呑な光はない。ただ、こんな村に戦士がいることを珍しがり、面白がるような光があった。そして、その口許がニィ、と吊り上げられる。 それと同時に、アノンは彼が次なる魔法を繰り出してくる事を感じ、剣を構え直していた。 「行くぜ!!」 男は丁寧にもアノンにそう告げたあと、 「おりゃ!!」 再び、炎の弾を放った。その数、五つ。 今度はマユではなく、真っ直ぐアノンへと向けられていた。 けれど、アノンは動じない。真っ直ぐに飛んで来た炎の弾を、アノンは高く跳躍することで簡単に避けた。 その軽い身のこなしに、男が「ヒュー」と口笛を吹いた。彼には、アノンとの戦いを楽しんでいる様子が窺える。 アノンは真っ直ぐに男を見据え、そのことを察する。トン、と軽やかに地面に下り立ったアノンだったが、 「 !」 突然背後に感じた炎の暑さに、すぐさまアノンは体を捻るようにして、振り向きざまに剣を降る。 通り過ぎていったと思っていた炎の弾は、しかしアノンの元へと戻ってきていたのだ。そして、あえなくアノンの剣によって消滅の道を辿っていった。 炎が五つともその姿を消したことを瞬時に確認したアノンは、すぐに男へと視線を遣った。しかし、 「 いない?」 先程までいたはずの男の姿が、忽然と消えていたのだ。 驚きに目を瞠るアノンに、 「へぇ。お前、ゴールドクラスの戦士か」 という感嘆の言葉が、頭上から降ってきた。 弾かれたように視線を真上へと持ち上げると、そこに男がいた。そこにも地面が有るかのように、男が宙に仁王立ちしていたのだ。 その様を見て、アノンは思わず声を上げてしまっていた。 「スゴイ!! 飛べるんだ!!?」 「は?」 先程までの剣を構え真剣な光を宿した瞳はどこにいってしまったのだろう。子供のように瞳を輝かせ、純粋な賛辞を口にするアノンを真下に見下ろし、男は思いっきり首を捻った。 だが、アノンはそんなことなどお構いなしにはしゃぐ。ついには興奮のあまり剣を手放してしまい、ティスティーの魔法に従ってその耳朶のピアスへと戻っていった。だが、アノンはそのことにさえ気付いていないのだろう。 「それも魔法!? 翼とか召還せずに浮かんでるッ! 風の魔法使ってるの? いいなァ。オレも飛びたい!!」 アノンのその言葉に、ついに男は吹き出してしまっていた。 「あっはははは。何だ、お前。変なヤツだな」 「え?」 首を傾げるアノンを余所に、男は笑いながらストンとアノンの前へと下り立った。頭上へと飛び、この戦士に脅威を感じさせてやろうと思っていたのだが、彼は驚き焦るどころか、「スゴイ!」と目を輝かせたのだ。これは計算外。 「俺の負け。降参」 笑いながら、男は両手を上げて見せた。 「? そ、そっか。ありがとう。え? ありがとうでいいの?」 何だかよく分からないが、これでもう戦わなくてもいいらしい。アノンは何となく礼を言う。言ってから、ありがとうと言った自分の反応が何だかおかしいのではと気付いたらしいアノンは再度首を傾げる。 そんなアノンを見て、魔法使いの男は笑いを洩らしたあと、そっとアノンに向けて手を伸ばした。 その手が胸ポケットを目指していることに気付いたアノンは、慌ててその手を掴んで制する。 「マユに、何か用?」 「マユってゆーのか? この魔物」 「オレがつけた名前」 「ふーん。変わったヤツ」 男はまた笑う。それからアノンに掴まれた腕を取り返した。 「もう襲わねーよ。ただ、そいつ・・マユにバッジ捕られちまったから返して欲しいだけ」 その言葉に、アノンは胸ポケットのマユをジロリと見遣る。するとマユは[キュッ]と鳴き声を上げ、ギクリとその小さな体を強張らせた。 このマユは、気に入った光り物をこっそり拝借してきてしまう悪い癖があった。そして、こうして追いかけられるのだ。 (・・・あれ? これ ) アノンはデジャ・ヴを感じる。 それもそのはず、そう、一年前のあの時も、このマユが [キュキュキュ〜ウ!] スノウの鳴き声に、アノンは現実に引き戻される。見れば、アノンが考え事をしていたその隙に逃げようとしていたらしいマユを、スノウが捕まえているところだった。 「ありがとう。スノウ」 スノウのお手柄を頭を撫でて褒め、アノンはマユを掌にのせた。そんなマユの両手には、大事そうに金色のバッジが抱えられていた。 「そう。それそれ。俺の摩導師証!」 「マユ、返そうね?」 [・・・・・キュウ] 消え入りそうに小さかったが、素直に応じたマユの頭を撫でてから、アノンは男のものだという摩導師証をそっとマユの手から取った。 「はい」 「おう。サンキュ」 無事に帰ってきた摩導師証を胸元につけている男を、アノンはぼんやりと見つめていた。 一年前、このマユはティスティーの胸元に光るネックレスが欲しくて彼女に飛びつき、結果、追われてこの原っぱへとやって来た。あの日と同じように、またマユはこの原っぱへと魔法使いを連れてきたのだ。しかも、ティスティーと同じ、第一級の摩導師証を持つ魔法使いを。 込み上げてくる懐かしさ。 その所為か、先程まで戦っていた男に親しさを覚える。 「ゴールドクラスなんだ。スゴイね」 そんな風に親しく話しかけてしまっていた。 しかし、男の方もその言葉に気安く返してきた。 「お前もゴールドクラスだろ。ってか、ゴールドクラスの戦士が何だってこんな田舎にいるんだよ。見たところ旅の途中ってわけでもなさそうだし。戦士証がもったいねーぞ。旅しろ、旅」 無遠慮にズケズケと言ってくる男に、けれどアノンは不快感を感じることはなかった。その物言いは、どこかティスティーに似ているように思ったから。先程感じた懐かしさが、そう思わせて いるだけのかもしれないけれど。 そして、アノンは短く答えを返した。 「オレ、待ってるから」 「何を」 「・・・何かを」 「何かをって、何だよ」 「ん ・・・、人攫い?」 アノンのその言葉に、男は盛大に眉を寄せたあと、 「はぁ? 何だお前は、囚われの身か」 そう言って笑った。 アノンも、その言葉に笑みを返す。しかし、その笑みに曇りを見つけた男は、笑っていた口を閉ざし、静かに問うた。 「・・・何? お前、ここが嫌なわけ?」 アノンの寂しげな笑みから、彼がこの村から出たがっているのではと思ったのだろう。 「嫌なわけじゃ、ないんだけど。・・・ここには、何もないから」 「は?」 「楽しいことも、ドキドキすることも、ワクワクすることも、家族も、大切な人も、何もないんだ。一人のままなんだ、戻ってきたのに ずっと」 アノンが何を言っているのか、男には全く分からない。だから、正直に返す。 「・・・・よく分かんねーけど」 「ごめん」 詫びてから、アノンは、再び笑みを浮かべて見せた。その笑みが作り物だということに、アノン自身も当然気付いている。けれど、どうにもならない。だから、アノンはそのままの笑みを浮かべたままでいた。 「ま、いいや。じゃーな」 納得のいかない顔をして、けれど男は別れを切り出す。旅の途中で、先を急いでいるのかも知れない。 今知り合ったばかり いや、まだ知り合ってもいないのかもしれない。それでも出会った彼とこんなにも一瞬で別れなくてはならないことに、アノンは胸に痛みを覚える。 そしてまた、大嫌いなあの言葉を言わなくてはならないのだ。まだ、ティスティーとルヴィウスとの別れの後、訪れるはずの出逢いが訪れていないというのに、また言わなくてはならない。 アノンは、口を開いた。 「 うん。さよなら=v 大嫌いな言葉で、アノンはその男を見送る。 「おう」 最後まで解せない表情をしていた男だったが、踵を返し去っていく。次第に小さくなっていく背中を最後まで見送ることなく、アノンは再び草原にその体を横たえた。サワサワと風に揺れて鳴る草の音の奥に、男の足音が響いている。 「またさよなら≠ゥ。さよなら≠ホっかだよ」 [キュ?] [キュ?] 切ないアノンの呟きを聞くのは、スノウとマユだけだった。 アノンは、静かに瞳を閉ざす。 『さよなら≠ナ全てが終わってしまうわけじゃないよ。さよなら≠フ後には、必ず出会いが待ってるんだからね』 蘇るのは、初めてルヴィウスと出会ったあの時、彼が言ってくれた言葉。そして、頭を撫でてくれた優しい手の感触を覚えている。 『ほら、お母さんとさよなら≠オたあと、俺と出会えただろう?』 そして、眩しい笑顔で、ルヴィウスはそう言った。 (でもね、ルウ・・・) そっとアノンは彼の名を呼んだ。これから口にする言葉が、とても情けないものになってしまうだろうと分かってはいたのだが、それでも彼の名を呼んでしまっていた。 (ルウとティスティーとさよなら≠オてから、会えないんだ) 新たな出逢いが来ない。ルヴィウスの言葉を疑っているわけではない。 けれど、誰にも会うことが出来ないでいるのもまた事実。 アノンは、きつく唇を噛んだ。 その時だった。 目を開けてごらん。 そんな声が聞こえたような気がした。いや、確かに聞こえたのだ。 それは、優しい掌で頭を撫でてくれたあの人の声? そして、アノンはゆっくりゆっくりと瞼を上げる。その瞳が、青い空を映すその前に、 「 !」 目の前、驚くほど近くに、先程去っていってしまったと思っていた、あの男の顔があったのだ。アノンは驚いて目を瞠る。 そんなアノンを呆れたような瞳で見下ろしていた男が、一つ大きな溜息の後に口を開いた。 「仕方ねーなァ」 「え?」 男の言葉に、アノンは目を瞬かせる。いったい何のことを言っているのかが分からなかったのだ。 きょとんとしているアノンに、再度男は溜息を洩らす。今度の溜息は、先程のものより小さくなっていた。 溜息が完全に消えてから男はアノンの腕を取り、彼の体を起こさせる。そして、彼は言った。 「連れてってやるよ」 その言葉に、アノンはまたきょとんとする。一体どういう意味だと視線で問うと、男はアノンを見下ろし、仁王立ちになって言った。その姿その台詞は、やはりアノンの中にティスティーの面影を浮き立たせる。 「待ってたってこんなトコ、誰も来るわけねーだろーが。俺が拾ってやんなきゃお前ずっと辛気くさい顔してここにい続けるつもりなんだろ。仕方ねーから、俺が連れてってやるよ」 一度はアノンに別れを告げた彼だったが、ふと振り返ってみると、アノンは草原に体を横たえていた。それだけならば、そのまま足を止めることはなかっただろう。しかし、彼は気付いてしまった。空を見つめるその瞳に宿る、悲しい光に。 先程、宙に体を浮かべた自分を見て、幼い少年のように輝かせた瞳が、今は切なげに細められているその様に、男は足を止めた。このまま置いていくことに、何故か罪悪感を抱いたのだ。その必要がないことは分かっている。けれど、男はアノンの元へと引き返してしまっていたのだ。 突然、拾ってやると、捨て猫や捨て犬のように言い放たれたアノンは瞳を瞬かせる。そして、しばし考えた後、男に問うた。 「・・・・人攫い?」 その問いに、今度は男が目を瞠った。が、すぐに口をひん曲げてアノンにズズイっと迫る。 「テメェ、人が優しくしてやってんのに」 「ごめんごめん! 冗談だよ」 「まったく」 「ごめんって」 笑いながら謝ったアノンに、男は「まあいいけど」と相槌を打つ。そして、有無を言わせぬ口調で、アノンに問うた。それは問いというよりも、命令と行ってしまった方が正しかったかもでれない。 「で、行くのか? 行くんだろ?」 男は、座ったまま自分を見上げているアノンに向かって、手を差し伸べた。 目の前に差し出された、自分のものよりも大きなその手を、アノンはしばし見つめていた。 この手を、取るべきなのだろうか。 答えは、すぐに導き出された。 行きなさい、アノン。 その答えがどこからもたらされたものかは分からなかったけれど、アノンはその声に従っていた。 彼自身、差し伸べられたこの手を、ただ、取りたいと思った。 「 ・・」 こうすることは、もしかしたら逃げてしまうことかもしれない。 ふと、そんな思いがアノンの伸ばしかけた腕を止めさせた。 一人でいることが嫌だから、それから逃げたいが為の行為なのだろうか、これは。この手が彼のものでもなくても、自分は取ってしまっていただろうか。それとも彼だから、この手を取りたいと思ったのだろうか。 これは、悲しみから逃げたくて、彼に縋り付いてしまうことになるのだろうか。 それでも、おそるおそるアノンは手を伸ばす。 その手が男の手を取ろうとしたその瞬間、 行ってらっしゃい。 背中を、押されたような気がした。 迷うことはない。その手を取れ、と。 その声が一体誰のものだったのか、アノンは思い出すことが出来なかった。その答えを見つけるよりも先に、男の手にぐいっと引っ張られ、立ち上がらされていたから。 そして、男はひとしきりアノンと握手を交わした後、元気の良い声で言った。 「よし、行くか!」 そうして早速歩き始めた男の後を、アノンが慌てて追う。 「何処に行くの?」 「何処か、だ」 「・・・うん!」 当てのない旅。しかし、不安は生まれない。 きっと、楽しい旅になるだろう。 そんな気がした。根拠はないけれど、アノンの瞳に、イレース王国を出たその日にあった輝きが戻ってきていた。 旅が始まる。 今度は目指す所もない旅。 相棒はまた第一級の魔法使い。ティスティーと同じ黒髪に、けれど瞳は黒ではなく、紅。性格はティスティーに似ていて、きっと根は優しくて、でも強引。名前は 「ねぇ、名前は?」 問いかけると、男は肩越しに振り返った。 「俺の名前はラキア。ってか、お前、人の名前聞く前に自分が名乗れよな」 責める言葉、けれどその声に厳しさはない。 (コレ、前にも ) ティスティーに出会ったその時も、彼―ラキアと同じ事を、彼女に言われたことを思い出す。 『・・・アンタねー、人にものを訊ねる前に、自分のことをまず言いなさいよ』 そう言って、ティスティーにも怒られた。 そしてあの時、アノンは言った。確かにその通りだと頷いた後、にっこりと極上の笑みを浮かべて言ったのだ。 あの時と同じ台詞を言おう。 二度目の旅を始めよう。 今度はラキアと、目的のない旅に 。 「オレ、アノン、十七歳。職業、戦士。よろしく、ラキア!!」 今度は目指す場所のない、アノンとラキアの、旅の始まりだった 。 さよなら≠ナ全てが終わってしまうわけじゃないよ。さよなら≠フ後には、必ず出会いが待ってるんだからね。 だから、私は言うわ。アンタを送り出すために さよなら≠言うわ。 愛してるわ。愛してる。
行ってらっしゃい、アノン。
fin
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