雨が大地を濡らしていく中、アノンは歩いていた。重い足取りで、それでも一歩一歩彼はイレース王国へと戻る道を行く。その背には、ティスティーが背負われていた。 「 大丈夫。大丈夫だよ、ティスティー」 無情に体を打つ雨粒から背のティスティーを守るために 、彼女の体にはアノンの上着がかけられてある。 そんな彼らの周囲に立つのは数人の精霊。彼ら彼女らは何かをアノンに話しかけているようだったが、アノンは答えない。精霊の声が聞こえていないのか、答える余裕がないのか、アノンはただただ前だけを見て歩いていく。 魔王によって神経までも切断されてしまっていた左腕の傷は、いつの間にか完全に癒されていた。残るのは、一筋の皮膚の引きつった傷痕のみ。それだけではない、頬に足に肩に刻まれていた傷までもが彼の体から消え失せてしまっていた。 雨が降り始めるその直前、唐突に光り輝いた青い石。ティスティーが兄から貰ったものだと肌身離さず身につけていた青い石から放たれた光は全てを包み込み、アノンの傷を攫っていったのだ。 しかし、ティスティーの瞳は開かなかった。 「もうすぐでオル・オーネさんの家に着くよ、ティスティー!」 雨で次第に奪われていく体温を感じながら、アノンは希望だけはその灯火を絶やすことのないよう、ずっと背で瞳をとじているティスティーに語りかけていた。ティスティーからの答えはないけれど、その背に感じる温もりがアノンを勇気づける。 「大丈夫。大丈夫だよ」 傷は癒えたが、激しい雨の中、ティスティーを背負い夜が来ようとも歩みを止めることなく歩き続けているアノンに、疲労は容赦なく訪れ、彼の足を止めようとする。 しかし、アノンは歩き続けていた。精霊たちの心配する聲に耳を傾けることなく、 「大丈夫だからね」 ひたすら言い聞かせ、歩いていく。 その言葉は、ティスティーに向けられたものだったのか、それともアノンが自身に向けたものだったのか、それは誰にも分からなかった。 昨日、夕方から降り始めた雨は、日付が変わりいつもなら ば太陽が人々のちょうど真上に君臨する時間になっても降り続いじけていた。大地を叩き付けていたその勢いは弱まったけれど、止む気配は全く見えない。 雨に加え、いつの間にか風も吹き始めている。ガタガタと鳴る窓の音に、 表情を曇らせながら外を見ている盲目の修道女がいた。 「 ・・・」 ヒューディスの樹海に程近いイレースの森に住む盲目の修道女オル・オーネだ。 彼女は震えている窓に手を当て、長い時間立ち尽くしていた。 「・・・何か、起こりそうですわね」 胸騒ぎが彼女にそんな台詞を口にさせる。そして、 その言葉はすぐに現実のものとなった。 オル・オーネの傍らに寄り添っていた狼に似た魔物ジストルが突然鼻を鳴らしたかと思うと、 その大きな体を起こし、窓の外を見遣ったのだ。 そして、しきりにオル・オーネの腕を鼻でつつき始める。 「どうしたの? ジストル」 主人が自分のサインに気付いたことを察した聡いジストルは、オル・オーネの側を離れると、家の扉を器用に押し開けた。 扉が押し開かれたその音で、すぐにオル・オーネもジストルが家の外に出たかっていることを悟る。見えない目で、けれど危なげない足取りで玄関まで歩み寄ったオル・オーネは、森に向かって吠えているジストルの頭に手を置き、耳を澄ませる。 (魔物かしら?) しかし、その問いをオル・オーネは自ら否定する。 もし魔物が近づいてきているのであれば、ジストルが自分を危険な外へと導くような真似はしない。そうした場合には、結界の張ってある家の中で、ジストルも魔物が去っていくのを待っているのが常だったのだから。 (では、一体・・・?) 雨音と風が木々を揺らす音だけが耳を支配している。おそらく、その音の中に、そして風に乗って流れてくる匂いの中に、ジストルは何かを感じ取っているようだった。しばしの沈黙の後、ジストルが感じ取っていたものを、オル・オーネもようやく確認することができた。 「足音・・・」 雨風が支配する耳の中、交じってきたそれは、 確かに人間の足音だったのだ。ヒューディスの方から 人がくることは稀だ。否、皆無だと言ってもいい。けれど、オル・オーネには思い当たる人物があった。 「! アノン! ティスティーさん!?」 先日、人を捜しに行くのだと言ってこの家を旅立っていった少年戦士と女魔法使いがいた。彼ら以外にオル・オーネに思い当たる人物はいない。 「アノンですか!?」 声を大にして呼びかける。足音は既に森を抜け、家の前にまで迫っていた。それでもジストルが唸ることをしない。それは、そこに居るのが危険をもたらす者ではないという何よりもの証拠。 オル・オーネは再度足音に向かって呼びかける。確信を持ちながらも。 「アノンですね。お帰りなさい!」 魔物の巣窟と化しているヒューディスから無事戻ってきたアノンとティスティーを喜々として迎え入れようとしたオル・オーネに返ってきたのは、 「オル・オーネさん・・」 アノンの、嫌に掠れた弱々しい声だった。 「アノン!? どうかしたのですか!? 怪我を!?」 常ならば血の匂いによって怪我の有無を判断するオル・オーネだったが、今その鼻腔に届くのは濡れた土の匂いばかり。判断しかねたオル・オーネは、すぐさま玄関から体をどかし、アノンとティスティーとを家へと迎え入れた。 アノンの靴がカツンと床を鳴らし、それに次いで ティスティーのブーツが軽やかな音を立てるものとば かり思っていたオル・オーネだったが、その耳に届い たのはドサっという、何か重いものを床に下ろす音だった。それに続いて、扉が閉まる音がする。カチャカチャと嫌にドアノブを触る音がしたことから、ジストルが口でノブをくわえて閉めたようだった。そして、ジストルの足音が近づいてくると、すぐに腕を加え引かれた。 「ジストル?」 ジストルの行動の意味を察する前に、ガクンと床に膝を着いたアノンが泣きそうな声で訴えてきた。 「お願い、オル・オーネさん! ティスティーを助けて!!」 「ティスティーさんを!?」 アノンの声とその体から発されている悲愴な雰囲気を察したオル・オーネがようやく事態をのみこむ。先程床に下ろされたのがおそらくティスティーだったのだ。彼女は自ら歩くこともできない状態に置かれているらしい。 すぐさま自らも地面に膝をついたオル・オーネは手探りで、床に寝かされているティスティーの体を探し当てる。 その体は雨に濡れている所為か、驚くほどに冷たくなってしまっていた。ティスティーの体に腕を這わせ、傷はないことを把握したオル・オーネは、すぐさま両の掌を彼女に向けて翳した。 それを見て、アノンが表情を緩める。 「良かった。もう大丈夫だね」 そうして完全に床に座り込んだアノンにジストルが歩み寄り、温かな体で寄り添う。フサフサとした尾が、アノンの体を優しく撫でていた。 しばしオル・オーネは仰向けに寝かされたティスティーに向けて手を翳していた。それは治癒魔法を会得しているオル・オーネが、彼女を癒すための仕種だった。 じっとオル・オーネとティスティーの様子を見守っていたアノンだったが、数分の後、オル・オーネがティスティーに向けてかざしていた手を下ろしたことに気付き、安堵の溜息を洩らす。そして、ティスティーへと視線を遣ったアノンは、 「 アレ?」 安堵の表情が、凍り付く。 「ねえ、オル・オーネさん。未だだよ?」 ティスティーは未だ、きつく瞳を閉ざしたまま、 青白い顔で横たわっていたのだ。まだ癒し切れていないのだと訴えるアノンに、オル・オーネは目を細める。そして、告げた。 「 アノン。もう、終わりました」 「どうして? まだティスティー起きないよ。顔色も戻ってないし。あ、あんまり魔法使うと疲れちゃうの? でも、オレ、今すぐ起きて欲しいんだ。だから、もう少しだけお願いします、オル・オーネさん」 冷静に紡がれる言葉とは対照的に、オル・オーネの腕を掴むアノンの手は、激しく震えていた。それが雨に打たれ体が冷えてしまっただけではないのだということを、オル・オーネは察していた。それでも、彼女は首を振り告げるしかなかった。 「・・ごめんなさい、アノン。私に ・・・私に、死者を蘇らせる力はないんです」 その言葉に、アノンの手の震えが一瞬止まったのをオル・オーネは感じる。そして、彼の唇から茫然と零れ落ちた言葉に、止まったはずの震えが宿っていた。 「 死者、って?」 アノンの見開かれた青い瞳が、徐にティスティーへと移される。 (死者って、何?) 自分がここまで背負ってきたのは、ティスティーだ。決して、彼女の遺体ではなかった。 けれど、嫌に重かったその体 雨に濡れていただけ。 けれど、嫌に青白い顔 疲れてしまっているだけ。 (だって、温かかったんだ) そう。確かにティスティーの体はずっとずっと温かかったのだ。確かに触れた部分からは温もりが伝わってきていた。雨に濡れ、次第に体温を奪われていくアノンの背に、ティスティーの温もりがあったからここまで来ることができたのだから。 そして、アノンは徐に手を伸ばしていた。 ティスティーの温もりを、その手で確かめるために。 「 ッ!」 ティスティーの頬に触れさせた手は、アノンの意志に反して弾かれたように離れてしまっていた。唇から、悲鳴が零れそうになり、アノンは咄嗟に唇を噛む。 冷たい。 ティスティーの体は、驚くほどに冷たく、そして硬かった。 「・・・そっか」 「・・アノン?」 「 」 オル・オーネの心配そうな呼びかけにアノンは応えなかった。今のアノンにはそれに応える余裕など何処にもなかったのだから。それを知っているのだろう、オル・オーネも彼を責めることはせず、口を閉ざした。 「あれは、オレ自身の温もりだったんだ 」 残酷な真実を、自らの口で告げる。 自分の体温が、ティスティーに温もりを移していただけ 。 (同じように・・) ティスティーに温もりを移していたように、 「 触れたところから、オレの命も移してあげられたら良かったのに」 それは、とても静かな言葉だった。先程までの震えは微塵も窺うことができない、しっかりとした言葉。静かすぎて、逆にオル・オーネは驚く。 「ね、ティスティー」 そう問いかけ、アノンは大きく息を吸い込み、そして吐き出した。最後の最後まで肺の奥から絞り出された吐息は、最後には震えてしまっていた。 その震えが泣き声に変わってしまうのではと、オル・オーネは悲しげに瞳を細める。アノンの隣で彼の腕をさすり続けていたジストルが、小さな声で鳴いた。 「ティスティー。ティスティー。ティスティー。ティスティー。ティスティー」 アノンの唇から零れ始めたのは、嗚咽ではなかった。 「ねえ、ティスティー。ティスティーってば。ティスティー。ティスティー、ティスティー」 唇から零れるのは、愛しい人の名前。そして、瞳から零れたのは、冷たい涙の雫。声を荒げることなく、嗚咽を零すことなく、静かにアノンは泣いていた。ティスティーの名前をひたすら呼びつつ、彼自身涙を流していることなど気付いていないかのように、静かに静かに泣き続ける。 その様子を、瞳で見ることは叶わないけれど、悲愴な雰囲気から察したオル・オーネは彼女自身その瞳に涙を浮かべる。それをとどめておくことは僅かにもできなかった。すぐに頬を伝い床へと落ちてしまった。 「ねえ、ティスティー。ティスティー。ティスティー」 何度も何度もティスティーの名を、アノンは呼ぶ。 「ティスティー、ティスティー。ねえ、ティスティー。ティスティー。ティスティー」 「ホントにうるさいわね、アンタは!!」 そう言ってティスティーが起き上がるのを期待して、呼び続ける。 「ティスティー」 大好き。 「ティスティー」 もっと一緒にいたかったんだ。 「ティスティー」 大好き。 「ティスティー」 ありがとう。 「ティスティー」 ・・さようなら。 いつの間にか、雨が、より一層地面を強く叩き始めていた。 |