いつの間にか、橙だった空はその姿を夜の衣へと変えている。それにも関わらず、辺りに明るさが溢れているのは、満月の所為。雲一つ無い空に、大きな丸い月が堂々と坐している。そして、アノンとティスティーとをその清らかな光で包み込んでいた。 「 ・・・ティスティー?」 いつの間にか自分たちを見つめていた満月に視線を動かしていた、その間の出来事だった。ティスティーが、いつの間にかその瞳を閉ざしていることにアノンは気付き目を瞠る。 まさかと思い声をかけてみるが、答えはない。 「・・・ねえ、ティスティー?」 その瞬間、アノンは自分の血の気が引いていく音を聞いたような気がした。それが耳から消える前に、アノンはティスティーの腕を掴み、無我夢中で彼女の名前を呼び始めていた。 「ティスティー! ティスティー!! ねえ、ティスティーってば!!」 アノンの必死な呼びかけに、ティスティーの唇が微かに動いた。 「ティスティー!」 再度名を呼ぶと、ティスティーの唇が、再び言葉を紡いだ。瞳は閉ざされたままだったけれど。 「いい匂いね。オーリデル、だったっけ?」 微かな声でそう問うたティスティーに、アノンはほっとするのと同時に、首を傾げる。一体何のことだろうと瞳を瞬かせたが、すぐに彼女が言っているのが、以前イレースの街、セリルで自分がティスティーへお土産にと買って贈った耳飾りのことだということを察する。そして、今はティスティーの耳朶を飾っているそのイヤリングから、オーリデル特有の仄かな甘い香りがティスティーの鼻腔をついたのだろう。 「うん。そう。オーリデルの香り玉だよ」 アノンの答えを聞いたティスティーは再び口を閉ざした。そして、しばしの沈黙の後、ティスティーはアノンの名を呼んで言った。 「・・・アノン。このイヤリングのお礼に、ネックレス、あげるわ」 それは、ティスティーの胸元に常に下げられてあった、あの青い石のネックレス。そのネックレスは、ティスティーが兄から貰った御守りであり、兄の形見でもあることを知っているアノンは驚きに目を瞠る。 「え!? でも 」 貰えないというアノンの言葉を、ティスティーは遮って言った。 「ディオ」 「・・・え?」 「私の兄の名前よ。もし何処かで会ったら、伝えて欲しいことがあるの」 「 うん。いいよ。何?」 遺言。そんな言葉が頭をよぎる。しかしアノンは、「嫌だ」と駄々をこねたりはしなかった。ティスティーが望んだことは、何が何でも叶えてあげようと思う。彼女は二百年ほど前に生き別れた兄がまだ生きていると、そう信じている。ならば、アノンも信じようと、そう思った。そして、ティスティーの言葉を伝えよう、と。 少し考えた後、ティスティーは言った。 「私は、とても幸せだった、って」 それは、おそらく自分を心配してくれているだろう兄への言葉であったと同時に、幸せだと言うことが出来るようにしてくれたルヴィウスやアノンへも向けられた言葉。 「 うん。伝えるよ、必ず!」 ツンと、再び鼻の奥が熱くなる。 (まだまだ楽しいことはこれからなのに・・ッ!) そんな悲しみと、 ( 良かった・・) 安堵感とが複雑に入り混じる。しかし、それをティスティーには悟らせまいとアノンは努める。そのおかげか、ティスティーの表情は始終穏やかなままだった。 そして、一つ息を吐き出したティスティーは口許を僅かに緩めて言った。 「何だか、疲れたわ。よく眠れそう」 それは、そろそろ終わりが近いのだと、自ら告げる言葉。 アノンは一瞬唇をきつく噛みしめたが、すぐにそれを解放し、穏やかな声で問う。 「 ・・いい夢、見れそう?」 その問いにティスティーが返したのは、 「アンタのうるさい泣き声さえ聞こえなければね」 という、「泣かないでよね」とアノンを諭す言葉だった。 「分かった? アノン」 「うん。分かったよ」 「よし」 大人しく頷いたらしいアノンに、ティスティーは今度は確かに微笑む。瞳は、もう開かない。降り注ぐ月光を、その閉ざした瞼の裏で感じることくらいは未だ出来ているのだろうか。 「ねえ、ティスティー。月。満月だよ。不思議だよね。力が溢れてくるみたい・・」 美しく、そして強い力を秘めた月を、アノンは惚けたように見上げる。 「綺麗・・・・あ!」 不意にアノンは声を上げていた。真上にいる月から視線を落としたその瞬間、アノンは思わぬものを目にしたのだ。 いつの間にか、目の前に精霊が立っていたのだ。しかも一人ではない。二人、三人、いや、六人もの精霊がそこにいる。月の光に照らされているからだろうか、それとも精霊自身が発しているのだろうか、穏やかな銀色の光を纏った美しい人たちは、その花の顔を悲しみに染めていた。 しかし、アノンはその事に気付かない。 「精霊だ! オレにも精霊が見えるよ!!」 そのことがただ嬉しくてはしゃぐアノンだったが、すぐに気付く。 満月の光には魔力が宿っていると言われている。先程、体中に力が溢れてくるとアノンが感じたのも、気の所為ではなかったらしい。 「そっか。満月の夜には魔力が増すって言うもんね」 そこまで言ってアノンは、思いつく。それは、 「あ! だったら、ティスティーにも力が戻るんじゃないのかな!? それに、オレの魔力もあげるよ。ね?」 そして、アノンはまるで温もりを分け与えるかのようにティスティーを抱き締める。魔力を彼女に与える方法など知らない。必死に考えた末、こうすれば魔力が彼女に移るのではとアノンなりの結論だった。 「ねえ、どう? ティスティー」 少しでも彼女に力が戻ったのではないかとアノンが体を離す。しかし、 「 ・・・・ティスティー?」 ティスティーは、答えない。瞳を開けることもせず、口許を優しく緩めたままでいる。とても穏やかな表情だった。 「 ティスティー? 寝ちゃったの? ティスティー??」 アノンは、きょとんと首を傾げ、再びティスティーを横たえる。固い地面ではティスティーが可哀想だと、膝枕をする。 アノンは、いくつもの事実を無視した。 ティスティーが何も答えてくれないこと。優しく穏やかなその表情が、先程から全く変化していないこと。抱き締めたティスティーの体が、ダラリと力無くしなだれかかってきたこと。 そして、ティスティーは眠っているわけではないのだということ 。 「ティスティー、こんな所で寝たら風邪ひくよ。そうだ。オル・オーネさんの所に行こう」 アノンは、無視し続ける。知ってしまった事実を、ひたすら無視し続ける。 そして、ティスティーの体を運ぶため、彼女の体を抱えあげようと試みる。しかし、それは叶わない。片腕の自由を失ったアノンには、なかなかティスティーの体を抱えることが出来ない。右腕をティスティーの背に通し、膝で彼女の体を自分の胸へと押しつける。そうして抱き締めるような形で立ち上がったアノンだったが、 「 ッ!」 痛みは突然アノンに牙を剥いた。 どうやら腕の傷に負担がかかっていたらしい。いつの間にかじわりと血が滲んできていた腕の傷から、ポタポタと血が滴り落ちていることにアノンは気付いた。感覚がない所為で傷が開き始めたことなど全く気付かなかったのだ。そして、完全に傷が開ききったその瞬間になってようやく痛みがそのことをアノンに知らせる。その痛みは一瞬アノンの動きを止めたけれど、それでもアノンはティスティーの体を抱え続け、立ち上がろうと試みる。 それを止めたのは、悲しい面差しでアノンとティスティーとを見つめていた精霊たちだった。 <だめよ> <やめて、傷が開くわ> 精霊が必死でアノンを制しようとする。満月の光に満ちた魔力をその体に受けている今のアノンにならば、彼ら彼女らの声は聞こえているはずだった。しかしアノンはその声に耳を傾けることはない。ティスティーの体を胸に抱き、一歩歩を進める。だが、 「 痛・・」 片腕ではティスティーの体を抱えてそれ以上歩けるはずもなく、アノンは固い地面に膝をつく。そんなアノンの側へと寄ってきた精霊が、血が流れ出している腕に手を翳す。 その白くたおやかな腕が、自分の傷を癒そうとしていることに気付いたアノンは即座に首を振って叫んでいた。 「オレはいいよ! オレはいいから、ティスティーを助けて!!」 ティスティーの体を抱き締め、悲痛な声で叫ぶアノンの姿に、精霊たちは困ったように表情を曇らせる。それでもアノンは叫び続けていた。 「お願いだからティスティーを助けてあげてよ!! 死なせないで!!!」 < > 「お願いだよ、ティスティーを助けて!」 精霊たちは悲しそうな顔をするばかりで、答えはない。それでも、アノンの叫びは涙を伴い続いている。そして、そんなアノンの痛ましい姿から目を逸らすように、月が雲を呼び、その後ろへと姿を隠してしまっていた。 いつの間にか空は厚い雲に覆われていた。 「助けてよ! 一人は嫌だよ。お願いだから・・・ッ!!」 その懇願は精霊へと向けられたものから、ティスティーへのものへと変わっていく。溢れ出した涙はアノンの頬を濡らす。そして、ティスティーの頬をも濡らしていく。 「ねえ、ティスティー! お願いだから一人にしないで ッ!」 ティスティーの瞳は、しかし閉ざされたまま。応える声は、 <泣かないで> <泣かないで> 精霊たちの言葉に、アノンは顔を上げる。その頬を風が撫で、冷たい涙の存在をアノンに知らせている。 「 オレが泣いたら、駄目なんだったね」 アノンは、ティスティーを抱えたまま、肩口で涙を拭う。 アンタのうるさい泣き声さえ聞こえなければね。 泣くなと、そうティスティーに言われていた。よく眠れそうだから、起こさないようにと。それでも瞳から涙が溢れ出す。 本当は、起きて欲しい。 それでも、アノンは唇を越えそうになる嗚咽を堪える。そして、その嗚咽が消えてから、ゆっくりと口を開く。そこから懇願が洩れないことを確認してから、アノンはついにその言葉を口にした。 「 ・・・さよなら、ティスティー」 アンタを送り出すために、さよならを言うわ。 じゃあオレは、ここから出発するために、さよなら≠言うんだね。 そう言ったティスティー。 そう答えたアノン。 けれど、 嫌だ。 それでも、言うしかない。 「・・さよなら」 嫌だよ。 旅立つ為に、 「・・・さよなら、ティスティー」 けれど、残酷なその言葉に、アノンはついに首を振ってしまっていた。 (嫌だ !) 一度雲間に隠れた月が、再びその姿を表す。そして、 (嫌だ ・・・!!) 涙を流しティスティーの体を掻き抱くアノンの姿を見遣る。 そして、 「 !?」 その瞬間だった。ティスティーの胸元を飾っていたネックレスが、突如光を発したのだ。 「これは・・!?」 青い石から溢れ出したその光は、月の光に似た淡い輝き。そして、光が強まる中、茫然としているアノンの周囲を風が包み込む。光と同様にやはり青い石から溢れ出した風の中に、アノンはティスティーの声を聞いたようなきだした。それは、 まったくアンタは・・・うるさくて眠れないじゃない。 「ティスティー!!」 白い光がアノンを包み込み、そして、何も見えなくなる。何も聞こえなくなる。そんな中でアノンは、腕の痛みが消えていくのを感じていた。 視界を奪い、聴覚をも奪う、そんな全てを奪い去る光だが、その光はとても優しくアノンを包み込んでいる。まるで母のように 母のように側に居てくれた、ティスティーの優しさのように。 「 ティスティー・・」 そう。その光の中に、アノンはティスティーの力を感じていた。 アノンは気付かなかったが、それは、肌身離さず彼女が身につけていた青い石に帯びた、ティスティーの魔力。 ポツリ・・ 不意に、厚い雲から零れ落ち始めた冷たい雫から、アノンを守るように光はアノンを包み込む。 そして、全てを癒していく。アノンの体中の傷を、裂かれそうになっているアノンの心を。 雨が降る。次第に激しさを増す雨は、大地を叩く。 荒れた大地を濡らす雨。 それは恵みの雨か、それとも生き物の体温を奪う無情な雨か。 雨が、降り続けていた。 |