風が緩やかに地面を撫でていく。 そして、緩やかに過ぎゆく時間は、刻々とティスティーに残された時間を奪っていく。それは目に見えないものであるが故に、ティスティー自身を、そしてアノンを怯えさせる。 話したいことはたくさんある。しかし、どの言葉をまず口にすればいいのか決めることが出来ない。そして、時間は沈黙を伴い過ぎていく。沈黙を破らぬようにか、風すらもその姿を消す。静寂の中に身を置いた二人は、時間が止まってしまったのではという感覚に襲われる。そして、出来ることならばそうであって欲しいと祈る。 このまま、時間が止まってしまえばいい。ティスティーの終わりが訪れなければいい、と。 そして、徐に静寂を破ったのは、ティスティーの穏やかな声だった。 「ねえ、アノン。私の我が儘、きいてくれない?」 その言葉に、アノンは勿論と大きく頷く。 「聞く! 聞くよ!!」 そうして待っていると、ティスティーはしばしの間を置いたあと、照れくさそうに言った。 「・・・あのね、私の目が見えなくなるまででいいの。いつもの笑顔でいてくれないかしら。アンタの笑ってる顔、和むのよ」 思えば、こうしてティスティーに何かをせがまれたことがあっただろうか。 ( 初めてだ・・) そう、初めて。そしてきっと、最後。 そう思うとティスティーに望まれたものと対極に位置している涙という冷たい雫が瞳に滲みそうになったけれど、アノンはそれを必死で堪え、 「分かったよ」 ティスティーが望んだ通り、笑って見せた。 その笑顔を見て、ティスティーも同様に笑みを零す。 「そう。その顔よ」 ティスティーはアノンの笑顔を見つめ続けていた。一瞬たりとて視線を外すことなく、アノンの明青海と同じ色をした瞳を見つめ続ける。そして、幼い子供に言い聞かせるように、一言一言ゆっくりと丁寧に言葉を紡ぎ始めた。 「ねえ、アノン。アンタには、いつもその顔で居て欲しいの。その笑顔はね、アノン、アンタの一番の武器よ。アンタにそんな風にふにゃ〜って笑われたら、どんな悪党だって和んじゃうわよ」 「うん」 「これからアンタは一人で立って歩いて行かなきゃいけないんだから、覚えておきなさいよね」 その瞬間、アノンの笑みが強張る。 ティスティーが口にした、一人で≠ニいう言葉が、アノンの胸を突いた。やはり時間は止まることなく刻々と過ぎて行っており、ティスティーの機嫌も、確実に迫っているのだと思い知らされる。 「 うん」 一瞬の沈黙の後、アノンは頷いて見せたが、その沈黙をティスティーは放っておかなかった。 「・・・間違えた。一人じゃないわよ、アンタは」 アノンが傷付いたことを察したのだろう。ティスティーはそう言って、いつも通りの笑みを見せて言った。それは彼女をアノンの母親のように見せる、優しくて力強い笑みだった。 「この旅でたくさん友達ができたものね。だから、私もルヴィーも安心して逝ける」 そこまで言ってティスティーは「いいえ」と緩く首を左右に振った。 「私はルヴィーをもっともっと待たせてやるんだったわね。だから、もうちょっとアンタの側にいることにするわ。姿は、なくなってしまうけど」 「うん。・・うん!」 ティスティーの、自分を慰めようとするその言葉に、アノンはただ頷くことしかできなかった。終わりを目前にしても尚、自分を気遣ってくれる彼女の優しさが胸にしみる。「ありがとう」という言葉を言いたい。いや、それ以上に「やっぱり逝かないで」、そんな言葉が口をついて出てきそうだった。 この彼女の優しさを、未だ失いたくない。 しかしアノンがその言葉を口にすることはなかった。口にすれば、優しいティスティーを困らせてしまうことは分かっていたから。だから、一言だけ、 「うん。側にいて・・・」 「いるわ」 「うん! だったら心強いや」 明るい言葉とは裏腹に、つい、笑顔が歪む。そのまま崩れて泣き顔に変わってしまう前に、アノンはもう一度笑い直す。 ティスティーも、アノンの笑みが僅かに歪んでしまったことに気付いてはいたのだろうが、 何も言わなかった。優しい面差しのまま、ゆっくりと瞳を閉ざした。 それをみてアノンの顔から笑みが消える。 もう開かないのではないかと思ったのだ。このまま彼女が逝ってしまうのではないかと。しかし、それは杞憂に終わった。 再び開かれた瞳は、アノンに向けられる。そして再び開かれた唇からは、アノンを諭すようにゆっくりとして言葉が零れる。いや、もしかしたらもうゆっくりと言葉を紡ぐことしか出来ないほど、終わりの時は迫っていたのかもしれない。 「ねえ、アノン。さよなら≠ヘさみしいけど・・・必要なの」 そこで一呼吸置き、大きく息を吸い、吐き出してからティスティーは言葉を紡ぐ。 「私は、アンタのことが好き。できることなら、アンタをずっとここに縛っていたいけど・・・でも、そんなこと許されないのよ」 アノンと一緒にいたい。 その思いは変わらない。一人で旅に出すことにも躊躇いがある。地図もまともに見ることができない彼なのだ。無事、リダーゼの家まで帰ることができるのだろうか。お人好しの彼が、何かいざこざに巻き込まれてしまわないだろうか。そもそもまず、ヒューディスの樹海を魔物を避け、あるいは倒し、無事イレース王国に戻れるのだろうか。心配は尽きない。 彼と共に行きたいけれど、この体はもう動かない。 アノンを一人で行かせたくないけれど、つれて逝くわけにはいかない。 だから、 「だから、私は言うわ。アンタを送り出すために さよならを言うわ」 しかし、 「 ティスティー・・」 真っ直ぐにアノンを見つめるその瞳から、涙が零れ落ちていった。 本当は嫌なのだ。アノンと別れることが、どうしても嫌なのだ。それでも、ティスティーはアノンを送り出すしかない。 ティスティーの葛藤を察したアノンは、彼女の頬を静かに濡らした涙を見つめながら、徐に口を開いた。瞳の奥でジンと熱いものが込み上げてくるのが分かった。それはもう、止めることはできそうにない。 「 じゃあオレは、ここから出発するために、さよなら≠言うんだね」 言葉とは裏腹に、涙が今にも零れ落ちそうで、アノンは唇を噛みしめる。未だティスティーは目を開いているのに、もう、笑顔を見せることはできそうになかった。 それでもティスティーがそれを責めることはなかった。 「ええ、そうよ。分かってるじゃない」 彼女自身ももう一粒涙を零し、そして笑った。 「ティスティー・・」 もう、堪えきれなかった。 アノンはティスティーの肩口に顔を伏せていた。彼女の目が見える内は笑顔でいると約束したのだ。せめて、彼女に涙は見られないようにと。しかし、小さく震える体は、アノンの涙をティスティーに知らせてしまう。 「アノン・・・」 ティスティーも、泣いていた。やはり震える体が、アノンにそれを伝えている。 二人は泣いていた。 声を上げることもなく、唇を噛みしめ、ただただ静かに頬を濡らす。 そして、悲しい沈黙を破ったのは、やはりティスティーだった。 「 アノン、愛してるわ」 その言葉は真っ直ぐにアノンの胸に届いていた。とても優しい声音だったけれど、真の通ったその言葉は、アノンの涙を止める。そして、アノンは涙を拭き、顔を上げていた。その顔に、もう涙はない。あるのはティスティーが望んでいた笑顔。 「オレも! オレも、ティスティーのこと大好き!!」 ティスティーも、微笑む。 涙は頬に残ったままだったけれど、その笑みをアノンはじっと見つめる。忘れないように。焼き付けるように見つめ続ける。 その視線を、いつもならば「何じろじろ見てるのよ!」と言って鬱陶しがっただろうが、今ばかりはティスティーも何も言わなかった。優しい瞳でアノンを見つめ返したまま、言葉を紡ぐ。 「アノン、これから何処に行くつもりなの?」 「どこに行こうかな 。とりあえず、オル・オーネさんの所でこの腕治してもらおっかな」 不便で仕方ないやと笑ったアノンに、ティスティーも「そうね」と頷いてみせる。 「そのあとは・・・・どうしよっかな」 不意に、もう止まったと思っていた涙が零れ落ちて行った。アノン自身、そのことに一瞬驚いたが、すぐにそれを拭う。 何処に行くのか考えても、その旅にティスティーはもういないのだ。一人きりの旅。 その事実が、知らずアノンに涙を零させていた。 しかし、ティスティーがそれを咎めることはない。緩慢な仕種で瞬き、口を開いた。もしかしたらこの時にはもう既に、ティスティーの視界は奪われ始めていたのかも知れない。 「この世界にはもっともっと街がある。たくさんの人がいるわ。色々旅してみるのもいいかもしれないわよ」 「・・うん」 「いーい? お小遣いあげるからついておいで 、なんて人にはついて行っちゃ駄目だからね」 「じゃあ、アメをくれる人は良い?」 「バーカ」 アノンの明るい言葉に、ティスティーも笑う。 しかし、その笑みは一瞬で消えた。 「アノン」 「なに?」 突然、真剣な声音で名前を呼ばれたアノンは、きょとんと目を瞠る。 そんなアノンに、ティスティーは言った。 「 一緒に、連れていきたいわ」 「ティスティー・・」 その言葉に、アノンは目を瞠る。 しかし、 「なんていう、バカな女にもついて行っちゃだめだからね」 そう言って、ティスティーは苦笑した。 「 ・・うん。分かった」 あの言葉はきっとティスティーの本心だったのだろうと、アノンは察したが、触れることはしなかった。彼女の悲しい笑みがそうすることを望んでいたから。 そして、ティスティーは、ゆっくりと瞳を閉ざした。 |