KINGDOM →→ ヒューディス

 PLACE →→ ―――


  さよなら≠ヘ、大嫌い。


 大嫌いな言葉。
 だって、母さんはこの言葉を残していなくなってしまったから。それから、独りぼっちになってしまったから。
 だから大嫌い。
 恐い。


「恐くなんてないよ」


 頭を撫でてくれる手は、大きくて、温かい。
 囁く声は、優しくて耳に心地良い。
 母さんがいなくなってしまったその時に、慰めてくれた優しい人。


「さよなら≠ナ全てが終わってしまうわけじゃないよ。さよなら≠フ後には、必ず出会いが待ってるんだからね」


 頭を撫で続ける手。
 声は更に優しさを増して降り注ぐ。


「ほら、お母さんとさよなら≠オたあと、俺と出会えただろう?」


 眩しい笑顔。
 眩しすぎて目を細めてしまう。


「うん。そうだね」


 そしていつの間にか、一緒になって笑っていた。
 ルウの笑顔は伝染する。とても明るくて、眩しくて、目を細めていると、いつの間にか口許が吊り上がる。そして、笑ってしまっている。
 そうして悲しい顔が笑顔に変わったのを見ると、ルウはますます笑う。
 優しく細められた瞳は、澄んだ青。一緒の色。明青海コバルトブルーの青。
 たったそれだけのことだけど、嬉しい。ルウと同じ部分があることが、とても嬉しい。
 いつかルウみたいな戦士になりたい。強くて優しい戦士になりたい。
 そして、ルウと旅に出よう。
 ルウと同じくらい強くなれたら、一緒に旅にも連れて行ってくれるでしょう?
 だから、強くなりたかった。
 そうすれば、


「行ってくるよ」


さよなら≠キることなんて、なかったんだ。
 やっぱりルウも、母さんと同じように行ってしまうの?
 頭を撫でる手は、いつものように温かいけど 寂しくて。


「・・・さよなら≠ネの?」
「ほんの少しだけだよ。必ず帰ってくるから」
「ホントだね?」
「これをあげよう」
 頷く代わりに、ルウが手渡してくれたのは、一本の剣だった。幼い腕には、ずっしりと重い剣。片手で携えることも、抜き放つこともできない。
 それは初めて持つ真剣だった。いつも真剣は持たせてもらえなかったのに。
「まだアノンには大きいかもしれないけど、すぐ上手に振れるようになるよ」
「うん! 頑張るよ」
「いい? 忘れちゃ駄目だよ? 剣を振るう時は


  何のために剣を振るっているのか考えてみる。


「そう。よく覚えていたね」
 頭を撫でる手はオレの小さな手とは違って、とても大きい。

 こんな手になりたい。
 ううん。なろう。ルウに貰ったこの剣を、大切な人のために振るえるよう、大きな手になろう。


「じゃあ、行ってくるよ。ちょっとだけだよ、さよなら≠ヘ」
「・・・うん」
「さあ、笑って。笑顔で送り出してくれ」
「うん。行ってらっしゃい! ルウ!!」


 ルウの大きな手が遠ざかっていく。


 ルウが残したさよなら≠ヘ、もう終わったと思ったんだ。
 待ちきれずに北へと旅立って、ルウを見つけて、魔王からルウを奪い返したから、もう終わったと思ったのに。
 また、一緒にいることができると思ったのに


アノン、ここでさよなら≠セ」


 ほら。


・・え?」


 やっぱり、さよならは嫌いだ。
  恐い。


「・・・・何言ってるの? ルウ」
 突然別れの言葉を告げたルヴィウスに、アノンはただ茫然と訊ね返すことしかできない。
訊ね返すことしかできないのに、ルヴィウスは何も教えてくれなかった。
「さあ、行くんだ」
 更に、無情にも背を押される。
「嫌だよ、ルウ!」
 その手を拒み押し返した、その時だった。
ルウ!!?」
「ルヴィー!!」
 それまで黙っていたティスティーの甲高い悲鳴が辺りに響き渡る。その悲鳴が自分の鼓膜を震わせるのを感じながら、アノンは咄嗟に手を伸ばしていた。唐突に大きく傾いたルヴィウスの体を止めるために。
「ルウ!」
 何とかルヴィウスの腕を捕らえたものの、彼の体が仰向けに地に伏すのをアノンは止めることができなかった。しかし、ルヴィウスの体が、固い地面に叩き付けられることだけは免れる。
 ルヴィウスの体はアノンと連れて、仰向けに倒れ込んでいた。
「ルウ!! どうしたの!? ルウ!!?」
ルヴィー」
 ルヴィウスの体を下敷きにせぬよう、体を捻って地面に倒れたアノンの腕に幾つか擦り傷が生まれたが、彼がそれを気にすることはなかった。すぐさま体を起こしルヴィウスに縋り付いたアノンの隣で、ティスティーが青ざめた顔を両手で覆う。
 地面に倒れ伏し目を閉ざしていたルヴィウスだったが、しばしの後、うっすらと瞼を上げる。そして、代わる代わる二人を見つめる。青い瞳が僅かに震えている。そして、彼がずっと胸を抑え続けていた腕が、力無く地面に落ちていった。
 その手を目で追ったアノンは、気付く。彼が先程まで必死で抑えていた場所から、大量の血が溢れ出していることに。
「ルウ! これ・・!」
 自分が彼に付けてしまった傷だろうかとアノンは顔色をなくすが、これ程までに出血を伴う傷は負わせていないことに気付く。しかし、それに気付いたところで、何も分からない。
 慌てふためくアノンの隣で、ティスティーが目を瞠りその傷を見つめていた。
やっぱり、ルヴィー・・)
 絶望がティスティーの胸を埋め尽くしていく中で、アノンの必死な声がヒューディスの枯れた大地を震わせている。
「ルウ! ルウ!!」
 聞こえないはずがない。しかし、ルヴィウスは答えない。痛みが激しいのか、きつく目を閉ざし、眉根には皺が刻まれている。
「・・・ルウ」
 どんなにその名を呼んでもルヴィウスが今答えられる状態ではないことを察したアノンは、隣で茫然としているティスティーの腕を取った。
「ねえ、ティスティー! ルウどうしたの!? この傷は!!?」
 泣きそうな顔で縋り付いてくるアノンの肩をティスティーは撫でつつ口を開いた。
・・アノン、落ち着いて聞いて」
 彼女の声は、驚くほどに震えている。その言葉は、ティスティーが自らを落ち着かせるためのものだったのかもしれない。しかし、アノンもその前置きに息を呑み、ティスティーの次なる言葉を待つ。そして告げられた真実に、すぐさまアノンは再び取り乱すことになるのだった。
「ルヴィーはもう、致命傷を負っていたのよ。魔王と戦ったその時に」
で、でも、歩いてた! オレたちと戦ってたよ!!」
 声を荒げたアノンを制するように、ティスティーは整然と言った。
「おそらく、魔王の力だったの。ルヴィーの体を新鮮なまま生かしておくために魔王は魔力によってルウの傷を塞いでいた。でも
 そこあで口にして、ティスティーは唐突に口を閉ざした。アノンに視線を遣ると、時既に遅し、彼は目を見開きティスティーを見つめ返していた。その瞳は、深く傷付いているようだった。
 何故なら、当然彼は気付いてしまっていたから。
オレが・・・魔王を追い出したから?」

「だからルウ死んじゃうの!? オレが・・・オレが、ルウを殺したの!!?」
 アノンの悲痛な叫びに答えたのは、
「違うよ、アノン」
 弱々しい声でルヴィウスが口を開いた。
「ルウ!」
「ルヴィー」
 ルヴィウスに視線を戻すと、いつの間にか地面に落ちた腕は血が溢れ出している傷に戻っていた。よく見れば、その掌から仄かな光が放たれていることにアノンは気付く。同時に、彼がずっと胸を押さえ、傷を癒そうとしていたことにも気付いていた。
 しかし、魔王との戦闘で消耗しきった彼の魔力では、深い傷を癒すことなど出来なかった。ただ、出血を抑えることしか出来ない。
 己の傷を懸命に癒そうとしてるルヴィウスをアノンが茫然と見つめていると、
「違うよ」
 ルヴィウスは絞り出すような声で、再度そう口にした。そして、閉ざしかけていた瞳を持ち上げ、視線をアノンに向けた。
「アノンは俺を助けてくれたんだよ」
「でも、でもルウが・・・!!」
「考えてご覧、アノン。アノンは、俺が魔王に体を捕られたままの方が良かったって、そう思うのかい?」
 弱々しい声で、それでもしっかりと言葉を紡ぐルヴィウスに、アノンも次第に落ち着きを取り戻す。
「それは・・・いやだよ」
「そうだろう? 俺だって嫌だよ。だから、アノンとティスティーに魔王を追い出してもらって、凄く嬉しいんだよ。だから、アノンの剣は、何一つ間違ってなんかいなかったんだ」
 そう言って、ルヴィウスは笑って見せた。その笑みはいつもアノンに向けられていたものと全く同じものだった。その胸に、彼の命を奪っていく程の深い傷があることなど忘れてしまいそうなほど、いつも通りの笑み。しかし、忘れることなど出来ない。
(本当に、間違ってなかったの ?)
 ルヴィウスは死んで逝く。
 魔王を追い出すことが彼のためだと思って剣を振るっていた。しかし、魔王から解放された所為でルヴィウスは死んで逝くのだ。

 きつく唇を噛んで俯くアノンを見て、ルヴィウスは表情を緩める。そして、そんな元気などもうないだろうに、それでも陽気に笑って見せた。
「あれ? アノン。俺の言うことが信じられないのか?」
ルウが、ウソを言ったことなんてなかったよ」
「じゃあ、信じてくれるね?」
「・・・・」
 なかなか頷くことをしないアノンを見て、ルヴィウスは困ったような表情をしたが、笑顔を消してしまうことなく口を開く。
「アノンは俺の自慢の弟なんだよ。だから、アノンの振るう剣に間違いなんて無い。俺はアノンを信じてる。だから、アノンも俺を信じてくれ」
 その言葉に、アノンはしばしの沈黙の後、
「・・・うん。信じるよ。オレ、間違ってないんだね」
 頷いて見せる。しかし、その拍子にアノンの青い瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
「アノン。泣くんじゃない」
 ゆっくりゆっくりと伸ばされたルヴィウスの手が、アノンの頭を撫でる。
 ルヴィウスが己に残された僅かな力を振り絞って伸ばされた手が僅かに震えているのを、ティスティーは何も言わずに見つめていた。唇を真一文字に引き結び、驚くほど真剣な瞳は何かを思案しているのか、次第に伏せられていった。
「オレ、ルウを信じるよ。でも ルウのさよなら≠セけは、信じたくないよ!!」
「アノン・・」
「さよなら≠ネんていやだよ!! また一緒にいられると思ったんだ。凄く嬉しかったんだ! それなのにさよなら≠ネんて・・・嫌だよ! 嫌だよ!! ルウ!!」
 子供のように泣きじゃくるアノンを、ルヴィウスとティスティーが目を細めて見つめていた。
冷たい・・)
 頬に落ちてくるアノンの涙が、ひどく冷たく感じる。ルヴィウスは、頭を撫でていた手をアノンの頬へと移し震える腕で、それでも優しく優しく撫でる。冷たい涙を懸命に拭うけれど、それは次から次へと溢れ出し頬を濡らす。その涙の冷たさを感じながら、ルヴィウスはアノンの名を呼んだ。
「アノン。いいかい? さよなら≠言わなきゃ始まらないこともあるんだ」
「・・・・」
 それは、幼い頃、彼がよく言って聞かせてくれた言葉だった。
「言っただろう? さよなら≠ナ全てが終わってしまうわけじゃない」
「・・・さよなら≠フ後には、必ず出会いが待ってる」
「そうだよ。覚えてるじゃないか」
 再度頭を撫でた手は、すぐにパタリと地面に落ちた。操り人形の糸が切れたような動きだった。
「ルウ! ルウ!!」
 突然腕の力を失ったルヴィウスに、アノンは顔色をなくす。そして、彼の血に染まった胸に顔を伏せ、必死で彼の名前を呼ぶ。
「ねえ、ルウ! ルウ!!」
 瞳を閉ざしたルヴィウスと、彼に縋り付いて叫ぶアノンの様子をしばし黙って見つめていたティスティーだったが、突然彼女は動いた。何を思ったか、ルヴィウスに覆い被さるようにして縋り付いているアノンの体を有無を言わせず退かせたのだ。
 その強引な仕種にアノンは驚いてティスティーに視線をやる。
「ティスティー?」
 しかし、ティスティーはアノンを見ようとはしない。ティスティーが声をかけたのは、瞳を閉ざしているルヴィウスだった。
「・・・ルヴィー。アノンにはまだアンタが必要なのよ」
 そう言って、ティスティーは笑った。その笑みは薄いものだったが、とても優しい笑みだった。しかしそれもすぐに消え、唐突に表情を引き締めたティスティーは、一体何をするのだろうと不安げな表情を浮かべているアノンの見守る前で、ルヴィウスの胸の傷に己の手を翳した。
「ティスティー」
 それはアノンもよく知る仕種だった。魔法でルヴィウスの傷を癒そうとしているのだということを悟る。
 しかし、それを拒んだ者がいた。
「駄目だ、ティスティー」
 ティスティーの魔法を拒んだのは、治癒を施されようとしていたルヴィウス自身だった。
「どうして!? ティスティーなら治してくれるよ!」
 何故治癒を拒むのかが分からないアノンは目を瞠る。しかし、ルヴィウスがその言葉に頷くことはなかった。
「ティスティー。いいんだ。君は少しでも いや、これからもずっとアノンの側にいてやってくれ」
「ルヴィー」
 ルヴィウスの言葉に、ティスティーは目を瞠る。次に彼女はきつく瞳を閉ざし、翳していた手をルヴィウスの胸の上に落とす。ついでに、その瞳から大粒の涙を落とした。
 静寂が一瞬その場を覆い尽くす。静寂と同時にその色を濃くした絶望を嫌ってか、ルヴィウスが殊更明るい口調で言った。
「もう、言い残すことはないかな」
 ルヴィウスは微かに笑っていたが、その言葉にはアノンもティスティーも笑顔を返すことは出来なかった。アノンは茫然と首を左右に振り、ティスティーはただ泣き続ける。
 そんな二人の様子に、ルヴィウスは気付いていたのかいないのか。
「そろそろ疲れたよ」
 そう言って瞳を閉ざす。
 パタリと、胸の傷を癒していた手が落ちた。今度こそ、彼のその腕はピクリとも動かないようだった。
「ルウ!!」
「ルヴィー」
 もう開かれることはないのではないかと思われていた瞳が、二人の呼びかけに応えて開かれる。
 ゆっくりと持ち上げられた瞼の下から、青い瞳覗く。死を目前にしても尚美しく澄んだ明青海コバルトブルーの瞳が、代わる代わるアノンとティスティーを見つめる。
 そして、徐に開かれた唇が、
愛してるよ」
 優しい声で紡ぐ愛の言葉を、二人は唇を噛みしめて受け止める。そして、囁き返す。
「ルヴィー。私もよ」
「オレもだよ、ルウ」
 ティスティーはルヴィウスの胸に顔を伏せ、アノンはルヴィウスの手をしっかりと握りしめる。その手が冷たくなり始めていることにアノンは気付いた。けれど、もう涙を流すことはしない。必死で堪える。
 それを見て、ルヴィウスは満足そうに笑った。そして、徐に開かれた唇が、

 言葉を紡ぐ力は、もうなかった。


  さよなら。


 ティスティーが、声を上げて泣いている。あんなにも気丈だった彼女が、人目も憚らずルヴィウスの胸に縋り付いて泣いている。
 その泣き声が、アノンの鼓膜を激しく揺らしている。
ルウ・・・」
 風も啼いている。
 青い空も滲んでいく。


  さよなら≠ヘ、大嫌い。


 アノンの瞳からも、冷たい涙が零れた。 






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私もさよならは嫌いです。
寂しいもんね、やっぱり。