大地の乾いた砂を攫いながら、風が吹きぬけていく。 アノンの金茶の髪を、ティスティーの黒髪を、そして、人形のように立ち尽くしているルヴィウスの金色の髪を激しく揺らし、風はその姿を現してはすぐに消していく。 「ルウ・・・?」 風がやむその時を待っていたかのように、アノンが徐に唇を開き、自分を育ててくれた戦士の名前を呼ぶ。微かに震えを帯びてはいたが、真っ直ぐルヴィウスに向けられたその声が彼に届いていないはずはない。しかし、ルヴィウスは動かない。瞼を閉ざし、地面に縫いつけられたかのように微動だにせず、立ち尽くしたままでいた。 「ルウ! ルウ!!」 自分の呼びかけに反応しないルヴィウスに焦れて、アノンが彼の元へと駆け寄る。それでも何の反応も示さないルヴィウスに、アノンは顔色をなくす。しかし、絶望を抱くことはまだしない。 「ねえ! ルウ!!」 たまらず腕を伸ばし、ルヴィウスの肩を揺らすため触れたその時、 「 ッ!」 少し離れた場所からその光景を見ていたティスティーが、口許を手で覆っていた。そこから、声にならない悲鳴が溢れる。 アノンの腕が触れた瞬間、ぐらりと大きく傾いだルヴィウスの体が、慌てて受け止めようと手を伸ばしたアノンの体をも巻き込むようにして地面に倒れ伏したのだ。 「ルウ! ルウ!!?」 ルヴィウスの体を地面に横たえ、必死で彼の名前を叫ぶアノンの背中を見つめながら、ティスティーは目の前が真っ暗になるのを感じていた。 「 ・・ルヴィー?」 彼の体に憑依している魔物を取り除けば彼が戻ってくると信じていた。だから、戦ったのだというのに、 ( 無理だったの?) 絶望が、ちらりとティスティーの脳裏をかすめていく。ちょうどその時だった。 「ルウ!!」 アノンの声がティスティーの鼓膜を震わせた。 今までの悲痛な叫びとは明らかに違うアノンの声にティスティーは弾かれたように顔を上げ、駆けだしていた。次に脳裏をよぎったのは、期待。そして、それは確信へと姿を変える。アノンの背中の向こうで、ルヴィウスの腕が微かに動いたように見えたのだ。 「ルヴィー!」 「ティスティー! ルウが・・・!!」 2対の瞳が見守る前で、ゆっくりゆっくりと、 「ルウ!」 「ルヴィー!」 開かれていくルヴィウスの瞳。明青海と同じ色をした、けれど明青海よりも澄んだ青い瞳が露わになる。光を取り戻す。そして、数回瞬かれた瞳が、代わる代わるアノンとティスティーを映し、その後優しく細められる。同時に、僅かに青ざめたままではあったが、彼の唇が緩く吊り上げらる。 ルヴィウスが、微笑んでいた。 「 ルウ・・・」 そして、徐に開かれた唇から零れ落ちたのは、ひどく掠れてはいたけれど優しい声で紡がれた言葉。 「 長く待たせて・・・ごめんな」 そんな謝罪の言葉だった。 ルヴィウスが、戻ってきた ! 弱々しいけれど、かつて彼が浮かべていた穏やかで優しい笑みと謝罪の言葉。何より、自分を見つめるその青い瞳の目映さが、優しさが、彼が魔王から解放され自分たちの元に戻ってきてくれたことを何よりも明確に知らせてくれる。 「 ルウ」 アノンは、ただ笑い返すことしかできなかった。彼がまず自分たちに微笑みを見せてくれたように、自分もまず彼に笑みを返すことしかできなかった。言葉は、次から次へと溢れてくるけれど、どれを一番初めに唇に乗せて良いのかが分からなかったから、ただ微笑みを返す。口許が少し歪んでしまうのは、鼻の奥がツンとしている所為だった。それは、止めようがなかった。 ティスティーはというと、 「 ったく、待たせすぎよ。バカ!」 そんな言葉をルヴィウスにぶつけ、黒い瞳からポロリと涙を零していた。 今までに自分には見せたことのないティスティーの泣き顔を、アノンは自分も泣き出しそうな顔をして見つめていた。 (良かった・・・!) 心の底から、そう思った。そして、今確かに自分たちは 幸せだった。 きっと戻ってくると言ったのに、死んでしまった母親の代わりとなり自分を育ててくれたかけがえのない人。けれど、彼もまた行ってきますと微笑み、帰ってきてくれなかった。しかし、幼かったあの日と同じように、ルヴィウスを捜して歩き出した。隣には、その時にはまだ知らなかったが、同様にルヴィウスをかけがえのない人と慕い、捜していたティスティーがいた。二人で、ひたすら北を目指して旅をしてきた。そして、この北の地でようやく再会を果たせた。ティスティーと二人同時に喜びを勝ち得たのだ。 (こんな幸せなこと、ないよ・・) アノンは、ゆっくりと体を起こし泣きじゃくるティスティーを優しく抱き締めているルヴィウスの姿を、そして愛しい人の胸で泣いているティスティーの姿を微笑みと共に見つめていた。 「アノン」 自分の名を呼んだのがルヴィウスであることに気付いたと同時に、アノンもルヴィウスの腕の中にいた。 「大きくなった。強くなったね」 そう言って背中を撫でてくれるルヴィウスの腕は、昔とちっとも変わっていない。大好きだった腕だ。いつかこんな風に人を抱き締め、安心を与えることができるようになりたいと憧れていた腕だ。その腕の中に、今、包まれている。 「えへへ」 アノンは、照れたように笑う。その目尻から、小さな涙の粒が転がり落ちていった。 それを見つけたルヴィウスが、アノンとティスティーの体をゆっくりと離し、アノンの頬をゴシゴシと拭って笑った。 「心配をかけたね、二人とも。本当にごめん」 再度謝ったルヴィウスに、「いいんだよ」と首を振って見せたアノンとは対照的に、ティスティーは乱暴に頬を濡らしていた涙を拭うと、泣いてしまった自分を恥じているのか頬を染め、それを誤魔化すように声を荒げてルヴィウスをどついた。 「ホントにもう、待ち合わせ場所くらい決めておいてよね!」 必ず、また逢おう 何処でともいつとも記さず、その一言しか残さなかったルヴィウスへのティスティーの言い分は尤もなものだった。 ルヴィウスもそれは自覚していたのだろう。容赦なくぶたれた腕をさすりつつ、反論することはなかった。ただ、苦笑とともに再度「ごめん」と詫びた。そして、一瞬視線を地面へと落とす。そこに暗い影が落ちたことに気付いたのは、ティスティーだけだった。しかし、それをティスティーが追求する前に、ルヴィウスはパッと表情を明るくし、ティスティーに向けて言った。 「じゃあ、これからの待ち合わせ場所を決めておこうか」 「 え?」 これからの待ち合わせ場所。 それが一体何を意味するのか、ティスティーには分からない。勿論、二人の会話を聞いていたアノンにも分からない。 二人揃ってきょとんとしている様に小さく笑いを洩らした後、ルヴィウスはティスティーの耳元に口を寄せて告げた。 「待ち合わせ場所は でいいかな」 アノンには、彼らの待ち合わせ場所が何処になったのかは聞こえなかった。 しかしティスティーの耳にはしっかりと届いていた。 けれど、 「 ・・え?」 ティスティーは訊ね返してしまっていた。聞こえなかったわけではない。その場所を知らなかったわけでもない。ただ、彼が何故そこを待ち合わせ場所にしたのか、その真意が全く分からなかったのだ。 否、全く、とは言えない。 ( まさか、ルヴィー・・・) 一つ脳裏をよぎった可能性は、あまりにも恐ろしいもので、ティスティーは目を瞠り口を閉ざす。それ以上訊ね返して真実を知ることが恐い。 それ以上ティスティーが口を開くことは出来なかった。 そしてルヴィウスも、そんなティスティーに真実を告げることはしなかった。 「アノン。ここまでよく来ることができたね」 ルヴィウスは不思議そうに瞳を瞬き自分たちを交互に見つめているアノンに視線を移すと、彼の頭を撫でながら言った。 こうしてアノンの頭を撫でるのは何年ぶりだろうか。リダーゼ国王から下された魔王討伐の命を果たすため、ヒューディスへ旅立ったあの日、別れを告げたアノンはまだまだ幼くて、背丈も自分の半分くらいではなかっただろうか。それが、こんなにも成長し、しかも戦士となって自分を迎えに来てくれたのだ。 ルヴィウスの細められた瞳からは、そんなアノンへの愛情が溢れている。 そして、それを受け止めるアノンの顔からも、幸せそうな笑みが洩れる。自分がルヴィウスと暮らしていた幼少期にまで時間が遡ってしまったのではないかと錯覚してしまいそうだった。 「うん! ティスティーが一緒だったから。それに、色んな人に助けてもらったんだ」 そう言って満面の笑みを浮かべたアノンの頭を、再度ルヴィウスは撫でる。 「そっか。本当に大きくなったな」 その瞳は、まるで父親のように愛おしげで誇らしげだった。 しかし、その瞳が一瞬にして曇る。そのあからさまなルヴィウスの変化は、当然アノンにも伝わってしまっていた。 「・・・ルウ?」 突然表情を曇らせ自分を見つめるルヴィウスにアノンは目を瞬かせる。 しかしルヴィウスは、その表情のわけを、まだ話そうとはしなかった。ただ、アノンの頭を優しく撫でつけ、繰り返す。 その様子を、ティスティーが大きく見開いた瞳で見つめていた。 「 ・・」 ティスティーは気付いてしまった。ルヴィウスが、先程からずっと己の胸を片手で押さえていることと、その理由。そして、彼が何故あんな場所を待ち合わせ場所として告げたのかと言うことも、全て悟ってしまっていた。 その真実はあまりにも残酷で、ティスティーは涙を堪えるため、ぎゅっと瞳を閉ざすしかなかった。 そんなティスティーの様子をチラリと横目で見遣った後、ルヴィウスは自分も一度瞳を閉ざし、軽く息を吐き出してからアノンに向き直った。 「本当に、大きくなった」 「・・・・うん」 ルヴィウスが繰り返すその言葉に、アノンは頷き返す。それは、先程から何度も聞いている台詞。しかし、次にアノンに向けられた言葉は、 「もう、大丈夫だね」 という、とても唐突なものだった。 「ルウ?」 アノンは眉をひそめる。彼が一体何を言っているのか、これから更に何を言おうとしているのかが分からない。彼が何故悲しそうに瞳を細めているのかも分からない。 「ねえ、ルウ。どうしたの?」 その問いに、またも答えが返されることはなかった。 「 君は、一人じゃない」 それはアノンにうつった、ルヴィウスの口癖。アノンを励ます時、いつだって口にした台詞。 母親を捜し求めていた森で、 俺も一緒にお母さんを捜してあげるよ。一人じゃないから、大丈夫だよ そう言ってアノンに初めてその魔法の言葉を教えてくれた。あの日から、この言葉はアノンを勇気付けてくれる言葉となった。 「 ルウ?」 しかし、その言葉を何故彼が今、自分に言い聞かせたのだろうか。 「どんなに辛いことがあっても、立っていられるね? 歩いていけるね?」 何故、こんな台詞を口にするのか。 「 ・・うん。それがどうしたの? ルウ」 「本当に大きくなったね」 何故、そんなにも悲しそうな顔をして見つめてくるのか。 そして、抱き寄せるその腕がそんなにも強いのは、何故 ? 「ルウ? どうしたの??」 懐かしい腕の中。昔と何ら変わらない、温かくて大きな腕の中。それなのに、不安になってしまうのは何故だろう。 分からないことが多すぎる。 助けを求めるように視線をティスティーに向けると、 「 」 彼女もまた、ルヴィウスと同じように瞳を細めて自分たちを見つめていた。何も言わずに、ただただ自分たちを見つめている。その瞳が、痛ましげに細められていることにアノンがますます眉を寄せると、ティスティーはすぐさま視線を伏せた。その拍子に彼女の瞳に溜まっていた涙が、ポロポロとこぼれ落ちていった。 その涙の意味も分からない。 ( どうして、泣くの?) 不安ばかりが胸を支配する。 そんなアノンの体を、ルヴィウスがそっと離した。 「 ・・ルウ?」 ルヴィウスの瞳を真っ直ぐに見つめたアノンは、目を瞠っていた。 何故なら、 「どうしたの?」 彼も、泣いていたから。 そして、ルヴィウスが次に口にした言葉は、アノンの一番嫌いな言葉だった。何故ならそれは、母親が自分を置いて逝くその時に告げた言葉だったから。ルヴィウスが予想以上に長い旅に出て行ってしまうその時にも言った言葉だったから。悲しい出来事が必ず待っているその時に唇から零される言葉だったから。 ルヴィウスは言った。 「 アノン。ここでさよなら≠セ」 風が、三人の髪を揺らす。大地の砂を攫っていく。 「 ・・え?」 ルヴィウスが零したその言葉も、一緒に攫っていってくれれば良かったのに。 詫びるように、再び風が吹いた 。 |