アノンの体から自由を奪ったティスティーは、その視線を魔王へと向けた。 彼は頬や腕から血を流し、険しい表情でじっとティスティーを見つめていた。そんな魔王へと、ティスティーは歩み始める。 「ティスティー!?」 何ら魔法を使うわけでもなく、ただ歩みを進め始めたティスティーに、アノンが驚きに目を瞠る。何をするつもりかと彼女の名を呼んでみたが、ティスティーは立ち止まることも、ましてや振り返ることすらしなかった。ただ、魔王へと向かっていく。 魔王の方も、この魔法使いが一体何をするつもりか掴めないらしく、姿勢を低く構えティスティーを凝視している。 そして、ティスティーは無防備なまま魔王から数メートルの距離までやってくると、ようやく歩みを止めた。 「ティスティー!」 自分を心配するアノンの声が、遠くに聞こえる。その声に、 (大丈夫よ、アノン) 心の中でだけ、そう答えてやる。しかし、視線を遣ることはできない。じっと魔王が見つめている。彼から目を離せば、一瞬にして襲いかかってくるのだろう。 ティスティーは、臆すことなく魔王と対峙し、そして口を開いた。 「ルヴィーを解放して」 その言葉に、魔王も、そしてアノンも目を瞠る。続いてティスティーが口にした言葉に、アノンは更に驚愕することになる。 「私の体をあげるわ。だから、ルヴィーを返して」 「ティスティー!!?」 遠く背後で、アノンが悲鳴のように自分の名を呼んだのがはっきりと聞こえた。しかし、ティスティーは振り返らない。 「駄目だよ、ティスティー!!」 決して、アノンの言葉に応じることはないと、自分で知っていた。己の中で、もう既に覚悟を決めていることだったから。この戦いを終わらせるためのプランは、既に彼女の中で決められていた。 「お願い。ルヴィーを返して」 再度ティスティーは魔王にその言葉を向けた。 沈黙は、長かった。おそらくティスティーが何か自分を陥れるための算段を練っているのではないかと探っていたのだろう。魔王は険しい瞳でティスティーの瞳を見据えている。 「 」 肌をちりちりと焦がすような緊張感の中、ティスティーは両の足を踏ん張り、そこに立ち続けていた。ここで逃げ出してはいけない。自分の手でこの戦いを終わらせるのだと、そう己に言い聞かせる。 そしてその沈黙は、魔王の言葉によって破られた。 「・・・良いだろう」 その言葉は、幾分迷いを残してはいたが、了承の返事にティスティーはほっと安堵の息を吐く。そして、己の方に一歩一歩近づいてくる魔王を待つ。 「ティスティー! ティスティー!!」 アノンの声が、背中を叩く。その懇願するような声が、ティスティーの胸を痛めるが、彼のためにも今は答えるわけにはいかなかった。 愛しいアノンのため。 愛するルヴィウスのため。 そして何よりも、自分自身のために 「 ・・・」 魔王が、ティスティーの目前に来て歩みを止めた。 更なる緊張感が一瞬にしてティスティーを包み込み、鼓動が驚くほどに高まる。他の全ての音を掻き消すほどの鼓動に、ティスティーは軽く深呼吸を繰り返す。 ( 落ち着くのよ、ティスティー) 鼓動は静まるが、やむことはない。未だ煩い鼓動を抱えながらも、ティスティーは真っ直ぐにルヴィウスを見つめる。 青い瞳が、自分を見つめ返していた。それが、ルヴィウスの瞳であり、けれどルヴィウスの瞳ではないことを知りながら、ティスティーは懐かしさを覚えずにはいられなかった。かつてそうであったように、手を伸ばせばすぐに触れられるその距離に、胸は違う鼓動を打つ。 かつて愛した人 否、今でも愛しているその人は、変わらぬ姿で目の前にいた。 (あとは、中身だけ・・) ルヴィウスの中から魔王を追い出せば、彼が戻ってくる。 己が三百年もの人生の中で唯一家族以外に愛することが出来た人間が。二度目に愛しいと思えたアノンが兄のように慕っているかけがえのない人が 。 「ティスティー!!」 魔王の両腕が、徐にティスティーへと伸ばされる。そして、彼女の細い腕をしっかと掴む。一瞬その腕を振り払いそうになったが、 (もう少し・・もう少し) 自らに言い聞かせ、その衝動を抑える。 そして、ルヴィウスの体に、まず異変が訪れた。 (始まった !) ティスティーは再び鼓動が高鳴るのを感じていた。 ルヴィウスの胸元が、ボコボコと異様に動き始めたのだ。 (あそこに魔王がいる !) ルヴィウスの服の下で、何かが蠢いている。その異様な光景を間近に見ているティスティーは吐き気を覚えるが、彼女は逃げ出すことなくそこに立ち続けていた。 ルヴィウスの中にいた魔王が、出てきているのだ。 以前タタラが、魔王はアメーバのような形をしていると言っていた通り、おそらく魔王は霊体や精霊のように実態のない存在ではなく、人間や魔物、聖獣と同様に実態を持つ生き物なのだということを知る。そして、その事実にティスティーは安堵する。 (・・・いけるかもしれない) そして、ティスティーが見つめる前で、 「! 」 ついに、魔王と呼ばれるモノがその姿をルヴィウスの中から表した ! その瞬間、ティスティーは自分の両腕を掴んでいるルヴィウスの腕をたたき落とし、魔王の攻撃圏内からジャンプして脱出しながら、短い呪文を発していた。その瞬間だった。 「あっ!」 今までティスティーの魔法によって自由を奪われていたアノンの体が、自由を取り戻す。体を動かそうと力んでいたアノンは、突然戻ってきた体の自由の所為で、前のめりになり膝を突いたが、すぐに視線を上げ、ティスティーと魔王の姿を探し出す。 杖を構えたティスティーと、その前方に何故か立ち尽くしている魔王の姿があった。 「 あれは・・?」 魔王の姿を確認したアノンは、その姿に目を瞠っていた。 先程までのルヴィウスの姿とは明らかに違っていたのだ。ルヴィウスの胸元から、何かが伸びている。黒い塊がルヴィウスの体から飛び出していた。一瞬、ルヴィウスの胸元にティスティーが何かを突き立てたのかとぞっとしたが、そうではないらしい。ルヴィウスの胸元から伸びた黒いモノは、もぞもぞと動き暴れている。見れば、ルヴィウスの体に戻ろうとしているかのように何度も突進してははじき返されていた。 「アノン!」 茫然とその光景を見つめているアノンを叱咤するような声が飛ぶ。はっと我に返り声の主に視線を戻すと、ティスティーが炎を杖に宿しながら自分を呼んでいた。 「アノン! あれが魔王よ!!」 その台詞でアノンは全てを悟っていた。 ティスティーはその体を明け渡すために自らの体を差し出したわけではなく、魔王をルヴィウスの中からおびき出すために差し出すふりをしていたのだ。 しかしそれは、魔王に実態がない場合や、たとえ実態を持っていたとしても、ティスティーが呪文を唱える暇もないほど一瞬にして相手の体に寄生することができるモノであった場合には通用しなかっただろう。 ティスティーの命懸けの賭けにアノンは一瞬ぞっとしたが、彼女の強さに、 (ティスティーらしいや) と嬉しくもなる。 そして、アノンは駆けだしていた。魔王に深く切り裂かれた腕は、未だ動かない。ぶらりと垂れ下がったその腕がアノンのスピードを殺し、時折訪れる痛みがアノンの思考を奪う。それでも、アノンは剣を片手に構え、駆けていた。 「炎 ッ!!」 アノンが到着するのを待つこともなくティスティーがルヴィウスの中に戻ろうともがいている魔王めがけて炎を放つ。 しかし、魔王はそれを避けた。 「まだ動かせるの!?」 思わずティスティーは舌打ちする。 ルヴィウスの体から体が出た状態でも、僅かな繋がりさえあれば魔王はルヴィウスの体を動かせるようだった。もしかしたらまだ魔王の体の大部分がルヴィウスの中に残っているのかもしれない。 ティスティーは思考の波に囚われる前に、再度炎を繰り出していた。今は考えている暇はない。可能性が生まれたのだ。そこに賭けてみる以外に、今できることはない。 「炎!!」 そして、ティスティーの杖から繰り出された竜のように尾を引く炎と共に、魔王に向かっていく者があった。 「アノン!」 剣を握ったアノンが、ティスティーの隣を通り過ぎ、魔王へと向かっていく。そのスピードは、ティスティーが放った炎すらも追い越すほど、早い。 その足に、その瞳に、その剣に、もう迷いはない。 (ルウを助けられる!) この剣があの魔王を裂けば、悲しみを生むことはないのだと、アノンは知っていた。この剣はルヴィウスを魔王から解放するためにあり、この剣がルヴィウスを傷付けることはもうない。傷付くルヴィウスを見てティスティーが、そして己が心を痛めることはない。 それでも、魔王の命を奪うことは避けることができないが、それでも (それでも、オレはルウに会いたい !!) その思いだけで、アノンはルヴィウスの胸元から伸びている黒い物体に向けて剣を振り下ろす。 「 くっ!」 しかし、魔王はそれを紙一重でかわす。アノンは追撃することなく、唐突に地面を蹴り、高く跳躍した。 「 !」 アノンが消えたその瞬間現れた炎に、黒いモノは驚きに声を上げていた。それは、すでに人間の言葉などではなく、魔物の咆哮だった。アノンの後を追うようにして魔王に向かってきた炎は、黒いモノを焼く。 「―・―・―・・―・――ッッッッ!!!」 魔物の咆哮が空気を震わせる。しかし、それは断末魔の声に終わった。 魔物の咆哮が震わせる空気を切り裂くようにしてルヴィウスの胸元に駆け込んできたアノンの剣が、 「・――・・―!!」 ルヴィウスの体から、黒いモノを切り落としていた。 ドサッと音をさせてルヴィウスの体から切り落とされた体を追うように、ルヴィウスの体から 更に黒いモノがズルリと抜け落ちた。そして地面へと落ちた黒いドロドロとしたモノは、その姿をグニャグニャと蠢かせ、 トカゲのようなものへと姿を変えた。逃げ出すためだったらしい。 だが、その魔王という名のトカゲの逃亡をアノンは許さなかった。 「・―・・!!」 短い悲鳴を上げ、魔王の尾がアノンの剣によって地面に縫いつけられる。それでも魔王は逃亡を諦めなかった。 「 ・・」 再びグニャグニャと体を変形させ始めた魔王を、アノンはじっと見つめていた。そしてその瞳はすぐに魔王から、いつの間にか自分の隣に並んでいたティスティーへと向けられる。 その瞳を受け止めたティスティーは、彼の言いたいことを悟り、目を瞠る。そして、信じられないと首を左右に振った後、大きく溜息をついた。それは、本当に大きな溜息だった。重さに換算できるとしたら、アノンの体をぷちっと潰せてしまうくらいに重いものだった。そして、そんな溜息の後、 「 まったく。アンタって子は・・・」 ティスティーは肩を竦めた。 アノンの瞳が訴えかけてきていたのは、 殺さなくちゃ駄目かな? という言葉だった。 それは、今まで魔物と対峙するたびに彼が口癖のように言っていた台詞だったが、まさが大切な人を乗っ取っていた魔王に向けてまで出てくるものだとは思っても見なかったのだ。 「バカね。ホンットーに、バカね。アンタみたいなバカ見たことないわよ。このバカ!」 心底呆れたように、後半からは怒りすら滲ませてバカバカと繰り返すティスティーに、アノンは項垂れる。そうしてアノンが視線を落としたその時だった、 「炎!」 「・―・―ッ!」 ティスティーの掌から踊り出した炎が、一瞬にして魔王を炭へと変えていた。その炭も、すぐさま風に攫われ、姿を消していったが。 「 美味しいトコ貰っちゃって、悪いわね」 横顔にアノンの視線を感じ、ティスティーはそう詫びた。注がれる視線に己を責める鋭いものを感じなかったから。 きっと、アノンも心の何処かでは分かっていたのだろう。ティスティーと同様に、この魔物だけは見逃せないということに。それでも痛むアノンの心のために、ティスティーが自ら手を下した。 ティスティーの精一杯の優しさだった。 「ううん。ありがとう、ティスティー」 アノンの顔に、笑みが戻る。同時に、ティスティーも口許を緩めた。それと同時に、ティスティーが張り巡らせていた結界が消える。 そして、ティスティーは一つ溜息をついた後、笑みと共に零したその言葉は、安堵感を滲ませたものだった。 「 終わったわね」 「うん。終わったね」 風が勝利を手にした戦士と魔法使いを讃えるかのように、二人の周りを舞っていく。舞い上がった風は天まで突き昇っていったのか、空は、二人の気付かぬ間に青色へとその姿を変えていた。 明青海と同じ色へ。 戦いが、終わった。 残ったのは切り裂かれ、魔法によってその形をでこぼこなものに変えられた大地と、アノンの動かなくなった腕、ティスティーの安堵。 そして、二人が待ちに待った再会の時だけだった 。 |