先程まで吹き荒れていた風が、忽然とその姿を消す。それは、ティスティーが結界を張り巡らせた所為だった。その中に、アノンとティスティー、そして、ルヴィウスの姿をした魔物―魔王がいた。 魔王は突如張り巡らされた結界に驚き、その動きを止める。徐に結界を眺め、それがかつて自分を征伐しにやって来た戦士の張ったもの違う種類の結界であることを見て取る。戦士ルヴィウスの張った結界は、彼自身にさえ解けない最上級の結界だったが、ティスティーが張ったこの結界は、それよりも下位の結界。彼女の魔力で持ってすれば解くことの出来る結界。 そう分析した魔王は、ゆっくりと視線をティスティーへと移した。 「ならばお前の体を貰えばいいということだな」 次の瞬間、魔王の姿はそこから消えていた。次にティスティーが魔王の姿を視認できたのは、自分の視線の先、数メートルの場所だった。 「!」 慌てて杖を構える。 しかし、その杖が火を噴く前にアノンがティスティーの前に躍り出ていた。 「アノン!」 アノンの背で視線を遮られたティスティーの鼓膜を激しく震わせたのは、剣と剣とが激突する音だった。魔王の剣を、アノンが受け止めたらしい。 「くっ・・!」 魔王の剣を即座にはじき返し、攻撃に打って出ようとアノンが一歩足を踏み込んだところで、魔王が再び姿を消した。 その姿を見つけたのは、やはりティスティーだった。彼女にだけ、殺気が向けられていたからかも知れない。 「シールド!!」 ティスティーは両手を掲げ、自分たちの頭上に小さな盾のように結界を張り巡らせた。 怖ろしいほどに頑強な結界の盾はいとも簡単に魔王の剣を拒み、魔王の体を跳ね返す。 そして再び魔王は消えた。 魔法でその姿を消しているのか、それとも彼の動きが速すぎて視認できないのか、どちらの答えが正しいのかアノンには判別がつかない。だから、考えることはやめる。神経を研ぎ澄ませるだけ。そして、その神経が魔王を捉える。 それは、ティスティーがシールドを解除したその瞬間だった。 ザッ・・ガガガガガガガ・・! 地面を削りながら、空気の刃がティスティーめがけて迫ってきていた。 「ティスティー! 下がって!!」 向かってくる攻撃を正面から構え、アノンはそれを受け止める。魔法で作り出されたその刃は、あっけなく消え去ってしまった。その手ぬるい攻撃に、アノンは一瞬拍子抜けする。 しかし、ティスティーが気を緩めることはなかった。そしてそれが、二人を救っていた。 「! 風!!」 背後で響いたティスティーの声に、アノンは慌てて振り返る。自分たちの背後から迫ってきている魔王の姿がそこにはあった。やはり風の刃はただの囮だったにすぎなかったのだ。一時の油断が命取りになることを、その時改めてアノンは胸に刻み込む。 ティスティーの放った風は、魔王の腕一本でその姿を消されてしまった。その代わりとでも言うように、魔王の腕に竜巻が現れる。 (来る!) アノンはティスティーの前に立つ。魔王はティスティーばかりを狙っていることに、アノンも気付いていた。ティスティーを守ろうと、彼は必死だった。ルヴィウスをひどく傷付けることなく、けれども全力でもってティスティーを守らなければすぐに魔王に殺されてしまうだろう。 (相手がルヴィウスでなければ全力で戦えるのに) そんな思いに歯噛みしているところへ、魔王の腕から解き放たれた小さな竜巻が襲いかかってきた。それをアノンは先程と同じように正面から剣で受け止める。しかし、竜巻が消えることはなかった。しまったと思った瞬間には、もう遅かった。足が地面から浮き、気付けば遠く離れた地面へと叩き付けられていた。 「アノン!」 一瞬にして自分の目の前から姿を消したアノンを見て、ティスティーは必死でその姿を捜す。しかし、彼の元へ駆けつけることはおろか、彼がどこに飛ばされてしまったのかさえ確認する余裕は与えられなかった。 目前に、魔王の腕が迫っていたのだ。 「!」 すぐさまティスティーは地面を蹴り、靴に羽を召還し宙高く舞い上がる。その後を追って、魔王も地面を蹴った。その脚力は凄まじく、地面が耐えきれずビシビシとヒビを刻んでいた。 自分を追ってきた魔王めがけて、ティスティーは両手を掲げ、 「炎!!」 思い切り炎の渦を魔王へとぶつける。ルヴィウスを気遣う余裕など、ティスティーにはなかった。それほど魔王は強く、本気で闘わなければ一瞬でやられてしまいかねなかったのだ。 魔王は炎の渦をまともに受け、どうと音を立てて地面へと叩き付けられていた。 その様子に、ティスティーが心の中でルヴィウスに詫びながら、魔王から十メートルほど距離を取り、地面に足をつけた。同時に靴にくっついていた小さな羽は消えていた。 土埃を上げながら立ち上がった魔王の瞳は、すぐさまティスティーに向けられる。何があっても、ティスティーから目を離さない。そして、その目が細められた。 (来る・・!) 魔王がティスティーに体を向けたその時、不意に魔王は弾かれたように振り返り剣を振った。 ガキ・・ィン! 剣と剣とがぶつかり合う音。見れば、いつの間に魔王に近づいていたのか、アノンが魔王に向けて剣を振っていた。胴を薙ぐように振ったものの受け止められた一発目をすぐさま引き戻し、アノンは目にもとまらぬ早さで今度は下から上へと剣を振り上げていた。それを魔王は後ろに飛ぶことで避ける。 しかし、アノンの攻撃はまだ止まらなかった。 魔王が剣を構える隙を与えることなく、三手目に打ってでる。アノンはひたすら剣を振っていた。魔王を逃がさぬよう、魔王に攻撃をさせぬよう、次から次へと剣を繰り出す。そんな彼の視線は、魔王の背後に注がれていた。 そこには、気配を消し、魔王に近づいてきているティスティーの姿があった。 ティスティーが何かをするつもりらしい。そう感じたアノンは、ティスティーの存在に魔王が気付かないよう、剣を振り攻撃をし続けていた。 そして、 「!?」 ティスティーが、魔王の背に両手を触れさせた。その時になって初めて魔王は背後に迫ってきていたティスティーの存在に気付いたようだった。だが、時既に遅し。 「! これは・・・!?」 魔王はティスティーの魔法によって動きを封じられていた。しかし、完全にとはいかない。じりじりと体の先から動きを取り戻し始めている魔王の尽きぬ魔力に戦慄しながらも、ティスティーはアノンに向けて叫んでいた。 「アノン、今よ!」 その言葉に返事を返す間すら惜しんだのだろうか。頷くことすらせず、アノンはルヴィウスの額を薙ぐように、剣を水平に振っていた。その剣先はルヴィウスの金色の髪を切りさき、そして、 「やった!!」 魔王の本体である額にくっついていた石を粉々に砕いていた。 パラパラと石のかけらが地面へと落ちていく。そうして落ちきった所で、ルヴィウスがその場に力無く膝をつく。 その様子を、アノンは目の前で見つめていた。ティスティーも同様に、ルヴィウスの背後からその様子を固唾を呑んで見守っていた。 そして、完全にルヴィウスが地面に座り込んだところで、ようやくアノンは口を開いた。その名を、そっと呼んでみる。 「・・・ルウ?」 しかし、応える声はない。しかし、諦めることなく再度彼の名を呼ぶ。 「ねえ、ルウ。ルウ!」 ゆっくりとルヴィウスの側により、腰を屈めその名を呼ぶ。 そして、徐に開かれたルヴィウスの口から零れたのは、 「アノン・・?」 小さいけれど、確かにアノンの名を呼ぶ声だった。 「ルウ!!」 アノンは一気に顔を綻ばせる。 「ルヴィー・・良かった」 同様にティスティーも顔を綻ばせる。しかし、魔力を消耗してしまった所為だろうか、それともルヴィウスを取り戻し安堵した所為だろうか、その場から一歩も動けなかった。 「ルウ! 良かった。解放されたんだね!!」 そう言ってアノンは両手を広げた。その腕の中に、ルヴィウスの温かな体を抱き込むために。 しかし、ルヴィウスへと伸ばした左腕に腕に感じたのは、彼の体温などではなく、 「!」 冷たい金属の感触と、その冷たさから一変して全身へと広がる痛みだった。 「アノン!!」 ティスティーの口から悲鳴が迸るのと、茫然と立ち尽くすアノンの左腕が、だらりと垂れ下がったのとは、ほぼ同時だった。幸いにも断ち切られることはなかったが、アノンの左腕は深く切られていた。おそらく神経は断ち切られ、骨にまで傷が達しているのだろう。最早痛みなど感じなかった。鮮やかな鮮血だけが溢れ出す。 そして、アノンを絶望の淵へと追いやったのは、あの声だった。 「残念だったな」 ルヴィウスのものだが、ルヴィウスではない者の声。 自分の意に反して垂れ下がってしまった腕から視線を上げたアノンの目の前には、頬に、肩に、唇に、髪に、至る所に返り血を浴びている魔王の姿が映った。しかし、その血が誰のものなのか、一瞬考えてしまう。 あまりにも大きな衝撃に、アノンの思考は停止しかけていた。 それを見て取ったのだろう。魔王は唇の端を不気味に吊り上げて笑った。そして、アノンの血に濡れた剣を振り上げる。 勿論、アノンを殺すために。 それを拒んだのは、 「風!!」 ティスティーだった。 アノンを風で包み、自分の後ろへと瞬時に移動させる。 (あんな目立つ所に本体があるわけないじゃない!) 何て自分はバカだったんだろうと、ティスティーは己を叱咤する。背後ではアノンが痛みを堪えるように時折呻き声を洩らしている。それを耳にし、ティスティーはますます己を叱咤する。 しかし、ティスティーへ懺悔の時間も、ましてや次に魔王の何処を攻撃するばいいのか、予想させる時間を与えることなく、魔王は地を蹴り、ティスティーへと向かってきた。 「炎!!」 自分に向かってくる数十もの炎の球を、魔王は難なく避け、ティスティーにせまっていく。魔王が最後の炎を左へと避けたその瞬間、 「風!!」 ティスティーの風邪は魔王を捉え、凄まじい力でもって彼の体を彼方へと吹き飛ばしていた。魔王の姿が完全に見えなくなる。残っているのは土埃だけだ。 そのことを確認したあと、ティスティーはすぐさま後ろにいるアノンへと向き直った。 「アノン!!」 アノンは肘の辺りから深く切られた左腕を押さえ、肩で息をしていた。眉間に寄せられた皺が、彼がひどい痛みと闘っていることを物語っている。 「ひどい・・」 傷を庇うアノンの腕をそっとどかし傷を一瞥すると、ティスティーは眉を寄せた。やはり神経まで切られている。赤い肉の向こうに見える白いものは、間違いなく骨のようだった。 「今、治すわ」 このままでは失血死してしまう、ティスティーはアノンの傷に手を翳す。フワリと傷を包んだ光がアノンの中に溶け込み、まず出血を止めた。自然治癒力が魔法によって凄まじく高められていく。すぐに痛みも遠のいていく。しかし、切り離された皮膚と皮膚とがくっつくまでには時間がかかる。 魔王が生きている今は、治癒に専念することはできない。アノンの左腕を完全に回復することはできないだろう。 その予想通り、痛みが完全に消えたその時だった。 「! ティスティー!!」 アノンがハッと目を瞠り、ティスティーを片腕でどかした。その腕ですぐさま剣を握り、横に凪いだ。そこには、音もなく、まるで宙を駆けているのかと思うほどの早さで迫ってきている魔王がいた。 傷を負ったアノンが攻撃をしてくるとは思っていなかったのだろう、魔王は一瞬驚いたように目を瞠ったが、それでもふわりと優雅にアノンの振った剣をかわしていた。 「退け」 冷たい声に命じられるがまま、ティスティーを庇うように立ちはだかっていたアノンの体は、一瞬にして吹き飛ばされていた。 「風!!」 アノンの行方を視線で追う間もなく、魔王が迫ってくる。 ティスティーは両手を掲げ、渾身の力で風を巻き起こしていた。大きな風は、魔王を完全に飲み込んでいた。しかし、魔王はその風の中をティスティーへと迫ってきていた。 (足りない・・ッ!) 魔力の消耗が激しすぎる上、オル・オーネが授けてくれたハーブから魔力を補給する間も与えられない。ティスティーには魔王を押し返すほどの魔力は残っていなかったのだ。 そのことを知っているのだろう。魔王はそんなティスティーを見て笑い、そしてティスティーの首を捉えていた。 「うっ」 ティスティーの首を掴むそのルヴィウスの細い腕からは想像も出来ない凄まじい力で締め上げられ、ティスティーは一瞬で意識を失いそうになる。しかし、唇を噛むことでティスティーはそれを堪えていた。 「! ティスティー!!」 魔王によって吹き飛ばされたアノンが起きあがった時には、ティスティーは魔王に囚われた後だった。 「ティスティー!!」 すぐさま剣を抜く。しかし、駆け出すことは出来なかった。 ティスティーを助けなくてはいけないことは重々承知だった。それでも動けなかったのは、 (ティスティーを守るためには、オレは) ここまで魔王と闘ってきて、彼の尋常でない強さは分かった。それに加えて頭も良い。 魔王をルヴィウスから追い出す方法が分からなくなってしまった今の状態では、もうどうしようもないのだ。ルヴィウスを助けるためには、彼を殺してはいけない。しかし、そうして手加減して闘っていては、こちらが殺されてしまう。そして、今度はティスティーの体が魔王に乗っ取られてしまうかも知れない。 (オレは、本気でルウに剣を向けなくちゃならない・・) ティスティーを助けるためには、ルヴィウスを傷付けないように配慮している余裕などない。本気で、ルヴィウスを殺すつもりで闘わなくてはならないのだ。 そのことに、アノンは気付き始めていた。 否、最初から気付いてはいたのだ。魔王の凄まじい魔力を目にした瞬間から、自分たちに遠慮をしている余裕などないことは。 それでも、ルヴィウスを失いたくなかった。 「ティスティー!」 しかし、考える間はない。 結論が出る前に、アノンは駆けだしていた。 地面を蹴り、数秒の後には魔王とティスティーの背後へとアノンは迫っていた。そして、 「!」 思い切り上から振り下ろされたアノンの剣を、魔王は避けた。突然の攻撃に、避けることしか出来なかった魔王は、ティスティーの首を解放する。そうしなければ、頭部は免れても、腕を切り離されていただろう。 大きく背後に飛び、アノンから距離を取った魔王は、青い瞳でアノンを睨んだ。 「・・・小僧」 アノンが本気で剣を向けたこと、ルヴィウスの体もろとも、切り裂く覚悟を決めたことに気付いたのだろう。 自分を睨め付けてくる魔王を、アノンは怯むことなく見つめ返す。その瞳に、迷いはない。 魔王へと剣を振り下ろすまでの数秒間の間に、アノンは決めていた。 「ア、アノン・・?」 魔王から解放され、激しく咳き込みながらティスティーがアノンの腕を掴む。朦朧とした意識の中にあっても、アノンの剣にこもった真剣さに気付いたようだった。 まさか本気で殺すつもりかと、責めるように強く腕を引くことで問うてくるティスティーに、アノンは答えた。彼女の瞳に、視線を合わせることは出来なかった。 「オレ・・・オレ、ルウを助けてあげられない」 ルヴィウスの体に致命傷を与えないように、どうすればルヴィウスの中から魔王を追い出せるのか判明するまで攻撃をかわし続けることはできない。 「オレにルウを助ける力はなかったよ、ティスティー」 そう言って、アノンはきつく剣を握った。 魔王を倒すためには、ルヴィウスの体ごと切り裂くしかない。アノンはそう覚悟を決めたのだ。 (オレにもっと力があれば、ルヴィウスを助けることが出来たのに・・・!) もしも魔王をも凌ぐ力さえあれば、待つことが出来たのだ。魔王をルヴィウスから追い出す方法が見つかるまで。それが出来なかったのは、自分が弱かったからだと、アノンは唇を噛む。 もう、ルヴィウスを殺すことしか、アノンには出来なかった。 一度瞳を閉ざし、呼吸を落ち着ける。 そんなアノンに、ティスティーは慌てる。彼女はまだルヴィウスを失う覚悟が出来ていなかった。 「アノン、ちょっと待ちなさい! 本体を見つければ ・・」 その言葉を遮ったのは、 「アノン・・」 アノンの頬を伝う、涙だった。 アノンは泣いていた。ルヴィウスを助けることが出来ない、弱い自分に怒り、絶望し、彼は泣いていた。 そして、 「アノン!」 ティスティーが止める間もなく、アノンは駆け出していた。 ぶらんと垂れ下がった彼の腕から血が滴り、ティスティーの頬を濡らす。その冷たさにティスティーはハッとする。 止めなくてはならない。彼は本気でルヴィウスと戦うつもりなのだ。 すぐさまティスティーも駆けだしていた。己の中の葛藤に、必死で答えを出そうとしながら。 そんなティスティーの瞳には、悲しい瞳で、それでも迷いのない剣を振るうアノンの痛ましい姿が 映っていた。 |