強い風が吹いている。砂を巻き上げ叩き付けてくるその風の中、アノンとティスティーは結界を目の前にして立っていた。そして、その結界の中から二人を凝視しているのは、彼らがずっと探し求めていた人―ルヴィウス。否、魔王だった。 先程まで結界を破らんと攻撃を続けていた魔王だったが、二人が現れたのを見て取ると、その攻撃の手を下ろし二人に向き直る。 「また、来たのか?」 性懲りもなく。そんな台詞を暗に含めた口調だった。 それに怒ることなく、アノンは素直に頷いてみせる。 「来たよ」 臆すことなく、明青海の瞳で魔王を見つめる。その鋭い瞳はもうルウを見る幼い瞳ではない。敵を見る戦士の瞳に変わっている。同様に、彼の隣に佇むティスティーの瞳も鋭く魔王を射ている。彼が何をしても対処できるよう、視線は魔王に向けたまま、ティスティーは小さな声で言った。 「アノン。私はまずこの結界を完全なものにするわ。それまで、アイツをくいとめられる?」 そのティスティーの言葉に、アノンは迷うことなく首を縦に振って見せた。 「うん。やるよ」 そしてアノンは己の耳朶に手を遣り、ピアスを取った。瞬時に巻き起こった小さな風はアノンの手中に剣を授け消えていった。アノンの手中に残されたのは、彼の身長の半分以上もある、細く長い剣だった。白く塗られた鞘と、そこに収まる剣の柄には、やはり鞘と同じ白い紐が巻かれてある。鞘を覆うその白色の中で一つ目を引く色彩。それは、青。雲間に覗く、澄み切った空に似た青。鞘の根元に収まっている菱形の石は、アノンと同じ瞳の色をしている。そしてそれは同時に、この剣を授けてくれた青年―ルヴィウスの瞳とも同じ色をしていた。 今、ルヴィウスに貰ったこの剣で魔王に挑むのだ。ルヴィウスを助けるために。 「アノン、死ぬんじゃないわよ」 アノンに習い、杖を召還したティスティーは、横目でチラリとアノンを見遣る。 「モチロンだよ!」 するとアノンはティスティーの方に顔を向け、いつもの明るい笑顔で笑いながら言った。その笑みは、戦いを目の前にした今この瞬間でさえ、心を安らがせる。 ティスティーはその笑みに、自分も笑みを返すと視線を魔王へと戻し、言った。 「さあ、行くわよ!」 ティスティーが短い呪文を唱え、結界の中に入る。それに続いてアノンも結界の中に入る。魔王を必死で拒んでいた結界も、ティスティーとアノンはすんなりとその中に迎え入れてくれた。 そこは、ルヴィウス≠フ体から溢れ出る魔力が充満していた。 「」 魔力を消耗しているティスティーは、その魔力の大きさに戦慄する。しかし、そんな暇などない。早急に結界を強固なものにしなくてはならなかった。ルヴィウスがそうしたように、自分たちが魔王に敵わなかった時のために。 結界に両手を触れさせ、呪文を唱え始めたティスティーを確認し、アノンは彼女を守るようにその正面に立ち、魔王と対峙する。そしてアノンは、口を開いた。 「ルウを返してもらうよ」 剣を構えたアノンを、魔王はしばし見つめていた。攻撃してくる気配もない。そうしてしばしの後、彼は口を開いた。 「そうか。お前がアノンか」 「?」 魔王の言葉にアノンは眉を寄せる。一体何を言っているのかが分からない。 アノンの疑問をその表情から見て取ったのだろう、魔王は口許を笑みの形に歪めながら言った。 「此奴がそう言っていた」 「ルウ!?」 魔王が指を指したのは、自分の体、ルヴィウスの体だった。それを見てアノンは思わず構えを解き訊ね返す。 (やっぱりルウは魔王の中で生きてるんだ!) そんな期待がアノン中を駆け巡る。希望と共にアノンを支配し始めるのは、緊張感。それを堪えるために、アノンはぎゅっときつく剣を握り締める。 アノンの闘気を感じないわけではないだろう。けれど魔王は先程アノンに襲いかかった時とはうってかわって、一向に剣を抜く様子は見せない。ゆっくりと瞬きをしながら、アノンを見つめている。 一体何をしているのだろうかとアノンが警戒していると、魔王は口を開いた。 「お前は、死にに来たのか? 愛する者の手で死ぬことが出来れば本望だと、そう申すか」 そう問う魔王の顔は、本当に何故アノンがここにやって来たのかが分からないようだった。 魔王が本気で自分に問うてきていることに気付いたアノンは、そのことに不思議そうに目を瞬いた後、大きな声で答えた。 「そんなワケないじゃん! オレはルウに殺されたりしない。ルウの手で死んだりなんかしたら、ルウが悲しむ。オレはルウを悲しませるために来たんじゃない」 すると、魔王は唐突に笑った。声を上げることなく、口角を不気味に吊り上げて笑っている。その笑みはルヴィウスの顔には不釣り合いで、アノンは眉を寄せる。そうして彼の言葉を待っていると、魔王はゆっくりと口を開いて言った。 「いいや、悲しむことになるだろうな」 次の瞬間だった。 魔王の言葉が途切れたのが先か、彼が地面を蹴ったのが先か。判明できぬまま、アノンの視界から一瞬魔王が消え、次に現れた時には剣を振りかざしたルヴィウス≠ェ、アノンの目の前に迫っていた。 「くっ」 魔王が地を蹴った瞬間を視認することは出来なかったけれど、己に向かって振り下ろされるルヴィウス≠フ剣先を捉えることは出来た。そして、耳をつんざく金属音と共に、両手で支えた剣に思い衝撃か襲いかかってきた。 背丈はアノンよりもルヴィウスの方が高い。魔王の剣を受け止めたものの、上から押さえつけられる形のアノンはその剣が己に落ちてこないように押し返すだけで精一杯だった。 魔王はと言うと、すぐに次の攻撃に移ることもなく、視線をアノンの胸元にある戦士証に移して口を開く。 「お前も第一級の戦士か」 魔王の、余裕を知らしめるようなその台詞に、アノンは唇を噛む。そして、渾身の力でもって魔王の剣を押し返し、次の瞬間魔王に向け上から勢いよく振り下ろす。その剣に、僅かな感触が伝わった。剣が魔王を捉えたのだろうか、それを確認する前にアノンは魔王の側から飛び退く。 「あ!」 そして、視線を魔王に戻したアノンは思わず声を上げていた。ルヴィウスの金色の髪が切れ、パラパラと頬に、そして肩に落ちている。その後に伝うのは赤い血の筋。目元から頬へと縦に走る傷は、誰でもなく己の剣が付けた傷。ルヴィウスを助けるためとはいえ、彼を傷付けたのだという事実に、アノンの胸が痛む。 そうして立ち尽くすアノンを見て、頬の血をぞんざいに拭いながら、魔王が笑った。それはあの、不気味な笑みだった。 「そう。痛いのは私ではない。お前のルウだ」 「」 「アノン! そいつの言うことなんて聞いちゃダメよ!」 ティスティーの声にアノンは胸の痛みを捨て去る。けれど、 「アノン」 唐突にアノンを呼んだのは、ルヴィウスの声だった。 「ルウ?」 思わず剣を下ろしてしまったのは、その声があまりにも優しかったから。かつて、アノンを育ててくれていたルヴィウスの声そのものだったから。 「アノン」 やはり、それはルヴィウスの声。アノンは一歩、ルヴィウスへと歩み寄る。 「ルウなの?」 問うと、ルヴィウスは徐に両腕を上げた。アノンを迎え入れるために。 「おいで、アノン」 いつもアノンを抱き締めて守ってくれていた腕がそこには広がっている。けれど、アノンは歩みをピタリと止めた。そして、はっきりと言った。 「ルウじゃない」 自分を呼ぶ声も、その声の優しさも、腕の大きさも何もかもそこにいるのはルヴィウスだった、だが、ルヴィウスの手には剣が握られたまま。 「ルウじゃない。ルウは剣を持ったまま、人を抱き締めたりなんてしない」 ルヴィウスは常に剣を持ってはいたが、抜き身の剣を手に持ったまま、人を抱き締めるようなことはしなかった。決して。剣は人を守るためのものでもあるが、それは同時に必ず誰かを傷付けるということ。彼はそれを知っていた。だから、人を愛するときには、人を傷付ける剣を握ることはしなかった。 (どんなにルウを装ったって、アイツはルウじゃない!) アノンは己に強く言い聞かせる。そして、再び剣を構えた。騙されてはならない。アノンは気を引き締めて剣を握る。 それを見て、ルヴィウス≠ヘ口許を歪めた。そこにはやはり魔王がいた。なおも腕を広げ、アノンを誘う。 「・・・おいで。おいで!!」 その声に呼応するかのように、唐突にアノンの足下の地面が陥没する。魔王の魔法によるものだった。 「わっ!」 咄嗟の魔法に、避けることすら出来ず、アノンの左足部分が大きく陥没し、バランスを失ったアノンは地面に体を叩き付けられる。 「アノン!!」 痛みと共に、ティスティーの悲鳴が耳に届いた。そして迫り来る殺気を感じたアノンはすぐさま体を仰向ける。 「!」 ぐるりと瞬時に視線を巡らせたアノンは、背後で光る剣の刃に気付き、すぐさま前転し振り下ろされた剣刃を避ける。背後で剣が地面を刺す音が響く。すぐに次の攻撃が来ることを警戒し、体を起こしたアノンに襲いかかってきたのは、再び魔法だった。 何の前触れもなく、今度は地面が大きく隆起したのだ。何が起こったのか理解する間もなく、アノンは一瞬にして体を空中へと持ち上げられ、次の瞬間、大体が元に戻ったことによって体を宙に投げ出され、逆らう術もなく落下していった。 「アノン!」 ティスティーがアノンの名を呼ぶ。しかし、彼女がアノンを助けることはできなかった。未だ、結界が完成しない。 (魔力が足りない!) 早く結界を張らなければと心は急かすが、結界の完成は遠い。なかなか近づいてこない。ティスティーはすぐさま袋の中からオル・オーネに貰ったハーブを取り出すと口に含んだ。途端に、微弱なものしか出てこなかった掌から、力強い魔力が溢れる。結界の完成が見えてきた。 (アノン、もう少し頑張りなさいよ) 心の中で彼を叱咤し、ティスティーは結界に集中するために瞳を閉ざした。 「ッ!・・・・はぁ」 空中で投げ出され、地面に背中から叩き付けられたアノンは一瞬動くことができないでいた。痛みが引き、何とか息を吐き出したアノンが上半身を起こすと、 「!?」 目の前に、明青海の色をした瞳があった。ルヴィウス≠フ瞳。音もなく魔王が迫っていた。 (殺される!) そう思った瞬間、アノンは瞳を閉ざしていた。心臓が凍るほどの恐怖も一瞬でやむものと思っていたが、体に痛みが走ることはなかった。 「」 ゆっくり瞼を上げると、やはり目の前には先程と変わらず青い瞳があった。しかし、その瞳は細められている。殺されると瞳を閉ざしたアノンを見て、面白がっているようだった。そして、魔王は徐に口を開いた。 「どうした? 殺らんのか?」 そう言って彼は、手にしていた剣を放り出した。ガランガランと、剣が地面を転がる音がする。一体何がしたいのかとアノンが眉を寄せていると、更に魔王が口を開いて言った。 「今なら殺れるだろう? しかし、この距離では頭ごと貫くしかないようだがな」 「・・」 彼には分かっているのだ。アノンが自分の額にある石を狙っていること。 そして、アノンにはどうしてもルヴィウスの体に致命傷をつけることができないのだということに。 魔王が口許を歪め、笑ったのを感じる。 アノンはきつく唇を噛みしめ、目の前にある青い瞳を睨む。 魔王の言う通り、今ならばその額の石を壊すことは出来る。 簡単に。けれど、アノンにはそれができない。ルヴィウスの体を 剣でもって貫くことは出来ない。出来るはずがないのだ。 悔しそうに唇をかむアノンを見て、魔王は笑う。 それを遮ったのは、 「アノンから離れなさい!!」 ティスティーの鋭い声。そして、 「!」 襲いかかってきた炎。 魔王は自らが放りだした剣を手に取ると、すぐさま飛び退いてそれを避けていた。 魔王がそれまでいた場所をゴウゴウと音を立て、炎の塊が通り過ぎていく。その炎が消えるのを待つことなく、ティスティーは地面に手を当てた。すると、魔王が降り立った地面が隆起する。それは串のように細く鋭く尖っており、魔王を串刺しにせんと襲いかかる。 しかし魔王は軽々とそれを避けた。まるで体に羽が生えているかのように隆起する大地を避け、あっという間にアノンから遠く離れてしまっていた。 そのことを確認してからティスティーはアノンの元へと駆け寄る。アノンも魔王が離れた直後に立ち上がり、剣を構えていた。 「ティスティー、結界は?」 魔王から視線を離すことなく問う。同様にティスティーも魔王から視線を外すことなく答えた。 「完了よ。これで私以外の人間には解けない」 「そっか。じゃあ、次はルウだね」 アノンは剣をきつく握り直す。 「二人でルウを助けようね、ティスティー」 「・・ええ!」 そう言って、アノンはティスティーに笑みを向けた。その笑みをうけ、ティスティーも笑みを浮かべる。魔王の体から迸る強大な魔力に臆する気持ちはまだある。杖を握り締める腕が微かに震えている。その事実を、ティスティーは無視した。今はただアノンと共に戦うしかない。 ルヴィウスを取り戻すために。 |