アノンは荒涼とした大地を必死で駆けていた。自分の後を追って走っていたティスティーの姿が消えたことにも気付かずに。 固い地面を駆け、立ちふさがる巨大な岩盤を飛び越えたところで、アノンは剣を抜いた。先程悲鳴を上げた女だろう。 姿から魔法使いと分かる若い女が、巨大な魔物に襲われていた。魔物はアノンの2倍ほど高さがあり、折り曲がった腰を伸ばせば更に大きさを増しそうだ。背丈はあるけれど、ただただ縦に細長いだけで体格はそれほど良くない。そんな細い肩の上に乗っている小さな丸い頭のほとんどの部分を口が占めており、牙を剥き醜く涎を垂らしている。 「やめろ!!」 大きく開かれた口が女を飲み込もうとしているのを見て、アノンが声を上げる。すると魔物は驚いたようにアノンを小さな瞳で見遣った。 魔物が女に食らいつく間も、アノンに飛びかかる間も与えることなく、あっというまに魔物の背後まで迫ったアノンは、剣を横に薙ぐ。しかし、魔物は機敏な動きでその剣をよけた。ぴょーんと軽々と数メートルの距離を飛び上がり、魔物はアノンから離れた。魔物との距離が十分に開いたことを確認してから、アノンは怪我をしているだろう、地面に倒れたままでいる女魔法使いの前に立つ。そして、魔物が襲いかかってくるかと剣を構えるが、 「・・・あれ?」 魔物はアノンに敵わないと感じたのだろうか、くるりと身を翻し 、駆けて行ってしまった。 拍子抜けしたものの、戦いを回避できたアノンは、 ほっと安堵の溜息をつき、剣をおさめる。剣がピアスに代わり、耳朶におさまっ たことを確認した後、すぐさま振り返ったアノンは、女魔法使いに声をかけた。 「大丈夫ですか?」 問うと、女は伏せていた顔を上げた。顔は痛みのためか恐怖の所為かわずかに引きつってはいたけれど、それでも十分に美しい女だった。透き通るように白い肌と、瞳はアノンと同じ明青海の色。背中まで流れるストレートの髪は見事なブロンド。魔法使いの象徴である黒いマントの首元には銀のバッジが光っていた。どうやら第2級の魔法使いらしい。 「大丈夫ですか?」 再度問うと、女は深く溜息をついた。自分を落ち着かせようとしているようだった。 「・・あ、ありがとうございました」 何度か息を吐いた後、女魔法使いは震える声で礼を言い体を起こした。だが、ふらりとその身を傾ける。 「大丈夫ですか!?」 女魔法使いが地面に伏す前に、アノンがあわててその体を受け止める。驚くほどに軽いその体は、アノンの細い腕でも十分に支えることが出来た。そのまま彼女の背中に回した手に、突如ぬるりとした感触がまとわりつく。どうやら背中に怪我をおっているようだ。出血はもう止まっているようだが、傷はひどく痛むようらしい。女魔法使いは、微かに呻き声を上げた。 早く手当てをした方が良さそうだ。けれど、アノンは薬草と言った治療の道具は持っていなかったし、勿論魔力を扱えない彼に治癒魔法を使うことも出来ない。ティスティーに頼もうにも、彼女は未だ追い付いてきていない。 (迷ったのかな・・?) 一瞬不安に感じたが、それよりも目の前の女魔法使いを助けなくてはならない。 「パーティーの人は?」 こんな女性が一人でヒューディスまでやってくるわけがない。おそらく仲間と共にわけあってヒューディスの地を横断中なのだろう。そう見当をつけアノンが訊ねると、やはり女魔法使いは頷き、徐に上げた腕で少し離れた所を指し示した。 「向こうに、私たちがはっていたテントがあります」 「分かりました」 アノンは女の腕を肩に回し女魔法使いを立ち上がらせると、彼女の指し示した方に足を向けた。 薄茶けた大地と、岩しか見えないこの土地のどこにテントをはっているのだろうか。アノンはきょろきょろと視線を巡らせるのだが、一向に女魔法使いの言うテントは見えてこない。 「風が・・」 風が強くなってきた。唸るような風に巻き上げられた細かい砂が、アノンに容赦なく吹き付けてくる。 「ごめんなさい。迷惑をかけてしまって」 「いいんですよ!」 申し訳なさそうに謝る女魔法使いに、アノンは気にしないでくださいと笑って見せる。すると女も安心したように口元を緩めた。 「・・・こっちですか?」 歩いても歩いても一向にそのテントは見えてこない。いい加減不安になってきたアノンは歩みを止め、女魔法使いに訊ねる。 「もう少しです。もう少し・・」 女はしっかりとした声でそう返してきた。彼女が痛みの所為で朦朧としているのではないかと疑っていたアノンは、その返事に安堵する。この方向で間違いはないらしい。 「よし」 気合を入れ、アノンが再び歩き始めた。その時だった、 <アブナイヨ> 唸る風の中に、そんな声が聞こえた。 「・・え?」 アノンが辺りを見回したその時、一際強く風が吹く。強い魔力を持つ者ならば、その風がただの風ではないことに気付けたかもしれない。だが、あいにくとアノンには精霊を見る力はなかった。強い風に、ただ瞳を閉ざす。 <止マッテ> 巻き上がる砂を避けるために目を閉ざしたアノンの耳に、再び囁きが聞こえてきた。その声がいったい何なのかは分からなかったけれど、アノンは立ち止まっていた。そして、瞳を開けたアノンは、その囁きの意味を知った。 「えッ!?」 視線を己の足下に這わせたアノンは驚きの声を上げた。つい先程までただの大地だった自分の足元が、そそり立つ崖に変わっていたのだ。一歩先に、地面はない。あの声はそれを教えてくれていたのだ。 「危なかったー」 なぜ今の今まで自分がこの崖の存在に気付かなかったのか首を捻りつつも、アノンはそれよりも先にほっと安堵の溜息をついた。 「危なかったですね」 言って女魔法使いに笑いかけたその瞬間、アノンは安堵の溜息をつくには早すぎたのだということを悟るのだった。 「えっ!? うそ!!?」 突然、女の姿が消えたかと思うと、次の瞬間アノンは背中に強い衝撃を感じ体を大きく傾けていた。恐ろしい力でドン!! と押されたのだ。 「わ、わわわわわわわわッ!!!」 何とか傾いた体を立て直そうとしていたアノンだったが、 ドン! 再び訪れた衝撃に、アノンはついにその体を崖の下へと投じていた。突然の無重力状態に絶句しながらも急いで首を上に向けると、女魔法使いが落下していく自分を、笑いながら見ていた。「はいー?」と目を瞠ったアノンの目の前で、女魔法使いは一瞬にしてその姿を魔物に変えた。否、魔物に戻ったと言うのが正しかったのだろう。 小さな丸い顔いっぱいに広がった口をにたりと歪ませ自分を見ているその魔法使いだった魔物は、先程女魔法使いを襲っていた魔物と同種の魔物だった。どうやら姿形を自由に変える能力を持った魔物だったらしい。そんな魔物など今まで見たことも聞いたこともない。どうやら騙されたらしい。が、それを悟ったときには既に遅し。 「うわ――――――――――ッッ!!」 アノンはまっさかさまに崖を落下して行く。恐る恐る崖下に視線をやると、そこには口を大きく開け、自分を待っている数匹の魔物がいた。そのどれもが、崖の上にいる魔物と同種。どうやら、女魔法使いに化けていた魔物は、餌をこの崖まで誘う役だったらしい。 全て合点がいったが、もうどうしようもない。徐々に落下していく体。次第に意識が遠のいていくのを感じた、その時だった。 「アノン!!」 自分の名を呼ぶ声が、鼓膜を揺らす。そのことによって、アノンは遠のいていく意識を己の元に引き止める。 (誰・・・?) それが誰の声なのか、アノンはすぐには理解できなかった。ただ、それが聞いたことがある声だということは、すぐさま気付いた。その声の主を見つけようと、アノンは視線を巡らせる。その視線の先に飛び込んできたのは、白。 「!?」 視界一杯に白い色が広がったその瞬間、アノンは突然の衝撃に襲われていた。何かが、アノンの体を落下から攫ったのだ。下へ下へと落ちて行っていた体の突然の上昇に、アノンはただただ驚き目を瞠る。下の方から獲物を逃し、残念そうに鳴く魔物の声が聞こえてきた。だが、それもすぐに遠ざかってった。 「大丈夫?」 アノンの驚きをさましたのは、耳元で聞こえたその声だった。その時になってようやくアノンは自分が空中に浮いていることに気づく。そして、背中に翼の生えた青年が、自分を抱えていることにも。 男は、栗色のうねった髪、栗色の瞳、そして美しく大きな白い翼を背に羽ばたかせていた。ヒューディスの地に棲む有翼人だった。だが、その初めて会ったはずの彼の面差しに、アノンは懐かしさを覚えていた。彼は、ある人を思い起こさせる。 「アノン!」 そして振り返った先には、彼が思い起こしたその人がいた。それは、 「タタラ!?」 そう。旅の途中、フェレスタ海沖で共に海賊に攫われ、売り飛ばされそうになったあの有翼人の少女、タタラがそこにはいた。ということは、自分を抱えて飛んでくれているこの青年は、タタラが以前言っていた、兄だろう。 地面に無事降り立ったアノンは、そこにあの魔物が倒れ、絶命していることに気づくこともなく、すぐさまタタラの元に駆け寄る。 「タタラ!!」 「また会えましたね、アノン!」 そう言って抱きついてくるタタラを、アノンはよろけながらも抱きとめる。船上での別れ際、 『また会えるよ、ね? 絶対』 『はい! また、会いましょうね』 と約束を交わしはしたが、まさかこんなにも早く再会を果たすことが出来るとは思っていなかった。だが、考えてみれば有翼人が生息しているのはこのヒューディスの地。この再会もそこまで不思議なことでもないのかもしれない。だが、こんなかたちで助けられての再会になるとは思っても見なかったけれど。 「大丈夫かい?」 ひとしきり再会の抱擁を済ませたアノンに、二人から少し離れた所でそれを見つめていた青年がアノンに声をかけた。 「はい。ありがとうございました!」 礼儀正しく頭を下げた後、アノンはタタラにこっそりと耳打ちする。 「お兄さん?」 「そうです」 答えて、タタラは兄の隣に並んだ。確かに、よく似ている兄妹だった。栗色の髪と瞳は全く同じ色をしていたし、纏っているその穏やかな雰囲気も二人同じだ。 「僕はタタラの兄、ジェーイ。妹が世話になったらしいね。本当にありがとう」 そう言って笑みを浮かべると、その笑顔もやはりタタラが浮かべるものとよく似ていた。 「いえ! こちらこそ、助けてもらってどうも――」 と、再度アノンが頭を下げたその時だった。アノンの言葉に介入してきたのは、 「アノ―――――――――ン!!」 声を枯れんばかりに張り上げ、三人の方に走ってきているティスティーだった。 「ティスティー!!」 迷ってしまったのかと心配していたティスティーだったが、やはり心配は無用だったようだ。良かったと表情を明るくするアノンに、ティスティーは安堵する。どうやらどこも囓られたりなどはしていないらしい。 アノンの姿が視界から忽然と消えてから、ティスティーはあの叫び声が魔物のものだということを悟った。そして、アノンが魔物の魔力によって連れ去られてしまったことにも。その後は、全神経を費やしての大捜索劇だ。あちらこちらから感じる魔物の魔力の中でも、今目の前に微かに残っている魔力を捜しあてようやくアノン発見に至ったのだった。要した魔力は大したこと無いが、アノンが半分囓られていたらどうしようかと、気が気ではなかった。 「まったくアンタは――・・」 ぺたぺたとアノンの体を触り、どこも欠けていないことを確かめたティスティーは、大きく溜息をつき項垂れた。その後、顔を上げたティスティーは、懐かしい有翼人と、どうやらその兄らしい有翼人に視線をやった。遠目でもその美しく白い翼は視認でき、おそらくそれがあのタタラという少女だということは雰囲気で感じていた。彼女との再会に勤しむ前に、アノンの無事を確かめたかった。結果として置き去りにしていた二人に軽く詫びてから、ティスティーは礼を言った。 「助かったわ。ありがとう、タタラと・・・」 「タタラの兄のジェーイです。妹がお世話になりました」 「いえいえ。こっちもこの子が世話をかけたし、おあいこよ」 「お久し振りです! ティスティーさん!」 「まあまあ久し振りね」 アノンと比べ淡泊ではあるが、それでもティスティーとタタラは再会を済ませる。それを待ってから、アノンがタタラに訊ねた。 「タタラがどうしてここに?」 有翼人がヒューディスに棲んでいることは知っている。けれど、ヒューディスの地は広い。どうして、こんなナイスタイミングで登場してくれたのだろうか。アノンが首を傾げると、タタラがその問いに答えた。 「仲間達が人間が来てるって言うものだから、もしかしてと思って来てみたら、ね」 そう言って笑った妹の言葉を、ジェーイが継ぐ。 「そう。崖を落下中だったんだ」 (なんて運がいいのよ、この子は・・・) 関心を通り越して、呆れてしまっているティスティーを余所に、 「ホントにありがとう」 「いいえ」 「・・ねえねえ。また会えたらお願いしようと思ってたんだけど」 「何です?」 「羽触ってもいい!?」 「やーん。恥ずかしいですわ〜」 アノンとタタラはきゃぴきゃぴと「お前らは年若い娘っこか!?」とツッコミたくなる 元気さで騒ぎ始めたのだった。 その光景を微笑ましげに見つめるジェーイ。 彼とは対照的に、ここまでの精神的疲労と、二人のテンションの高さと全くもってついていけないティスティーは、がっくりと項垂れたのだった。 |