樹海に程近く、朝は未だ薄暗かった林も、昼過ぎの強い光が差し込む時間になり、 ようやく魔物が近寄れない明るい空間に変わった。そんな頃、アノンとティスティーは荷物をまとめ、小さな教会の前に立っていた。そんな二人の前には、ジストルを従えたオル・オーネと、若い修道士・クートの姿がある。 「・・・アノン」 隣に立つアノンに、ティスティーはそう声をかける。促すその声がどこか遠慮気味だったのは、アノンがあからさまに淋しそうな顔をしているのを見たからだろう。 旅の終わりはここではない。 アノンには、北の地にいるかもしれないルウを捜すという目的が、そしてティスティーにも、北の地に向かっていた愛しい人を捜すという目的がある。北の地を目の前に、とどまっている理由はない。 「そろそろ、行きましょうか」 「・・・うん」 返されたアノンの返事は、表情そのもの、淋しそうな声。 「じゃあ――」 別れを告げようと口を開いたティスティーを制したのはオル・オーネだった。 「ちょっと待ってください」 何か思い出したのだろう。唐突にオル・オーネは家の中に入っていったかと思うと、その手に一つの袋を持って帰ってきた。そして、その袋をアノンに渡す。 何だろう? と、アノンは縛ってある袋の口を少し開ける。 「これ・・・」 その中には、干し肉やパンなど、保存のきく食料が詰め込まれていた。驚いて顔を上げたアノンに、オル・オーネは微笑んで言った。 「どうぞ、持って行ってください」 「ありがとう!!」 食料の入った袋を大事そうに一度胸に抱き締めた後、アノンはその袋を肩にかけてあった袋の中にしまう。 その間に、とでも言うように、オル・オーネはすっとティスティーの側に寄り、アノンには見えないよう、もう一つ、小さな袋を渡して言った。 「ティスティーさんには、これを」 その袋を受け取ったティスティーは、訊くまでもなく中身が何であるかを察していた。触っただけで、フワリと暖かなものが体の中に流れ込む。それは、自分の身から枯渇し始めている魔力。その袋の中には、オル・オーネの魔力が込められたハーブが詰め込まれてあった。 「―――ありがとう」 小さな声で例を述べたティスティーは、やはりアノンの目に付く前に鞄の中にそれをしまった。チラリと視線をアノンに向けたが、幸いにも彼は自分とオル・オーネとのやりとりを見てはいなかった。それを確認し、ティスティーはほっと安堵する。 アノンはクートと話している最中だった。 「もう行くのか?」 「うん」 その会話に加わるように、アノンに懐きはじめていたジストルが悲しい泣き声をあげる。そんなジストルを宥めるようにその背を撫でたのはオル・オーネだった。そして、ジストルの背を撫でながら、光を受け取ることの出来ない瞳で、それでもアノンとティスティーに視線を向けながら言った。 「アノン、ティスティーさん。約束してください」 「え?」 何だろうと問い返したアノンに、オル・オーネは優しい笑みを浮かべ口を開く。 「また、ここに遊びに来てくださいね」 その言葉に、アノンはすぐさま首を縦に振った。 「うん! 約束するよ! 二人で絶対に戻ってくる」 元気の良いアノンの返事に、オル・オーネは小さく笑い、隣に立つクートも同様に笑いながら言った。 「その時はお前の気が済むまで買い物に付き合ってやるよ」 「うん。三人でまた・・ううん、今度はティスティーも一緒に、四人で買い物しようね♪」 言って視線を四人の巡らせたアノンに、オル・オーネを始め、クート、そしてジストルも 「仲間に入れてくれ」とでも言ったのだろうか、鳴き声を上げて答える。だが、 「・・・・」 ティスティーだけは、じっとアノンを見つめたまま、返事を返さなかった。 ティスティーの胸に去来するのは、不安。漠然とした、それでいて輪郭が形をなし始めている不安。 ―――この旅を終えたとき、私はこの子の側に居ることができるんだろうか・・・? 決して口に出来ないその言葉を、ティスティーは胸の奥で問う。応える声はない。 答えの代わりに、ティスティーに降りかかってきたのは、 「ね! ティスティー」 強引に答えを促すアノンの声だった。 己の思考の波にたゆたっていたティスティーはハッと我に返り、慌てて口許に笑みを浮かべる。 作った笑顔はぎこちないものになってしまったが、それを正す余裕はなかった。 「私は、アンタの子守りはイヤよ」 それはいつも通りのティスティーの言葉。 笑みはぎこちないものだったけれど、アノンはそのいつもと変わらない口調だけで安心したらしい。 こちらもいつも通り頬を膨らませて返す。 「子守りって、オレそんな歳じゃないよ〜!」 「あら、そーう。私に比べればまだまだ赤ちゃんよ、アンタは」 その言葉に、クートが盛大に首を傾げる。どう贔屓目に見ても、二人は同い年くらいにしか見えない。大人びた雰囲気を除き、容姿だけで言えば、ティスティーの方が年下に見えなくもない。だが、今では知る人も少なくなったが、ティスティーはかつて最強の魔導師一族と謳われたカナンテスタ一族の生き残りだ。カナンテスタ一族は、精霊を使役せず己の生命力を糧に魔法を使う代わりに、長い寿命を授かった一族だった。容姿は二十歳にも達していない姿だが、彼女は三百年近い時間を生きてきたのだった。そんなティスティーからすれば、今生きている人間達など皆赤子に等しいのだろう。 「じゃ、行きましょうか」 ティスティーの促す言葉に、アノンは一瞬名残惜しそうに瞳を揺らしたが、すぐに首を縦に振った。 「・・うん。じゃ、行きます。今までお世話になりました。オル・オーネさん。クートさん」 アノンの別れの言葉に、オル・オーネが徐に両手をアノンに向ける。 その腕は、きっと自分を抱き締めようとしているのだと理解したアノンは、オル・オーネを驚かせないようにそっと彼女の手に触れ抱き締める。 「行ってらっしゃい、アノン」 優しく背を撫でられながら耳元に届いたその言葉は、とても優しい響き。それはすぐさまアノンに母親を思い出させる。また帰っておいでと、そんな言葉を乗せたオル・オーネの言葉に、アノンはぎゅっと彼女を抱き締める。 「はい! 行って来ます!!」 元気の良いその返事に満足したのか、オル・オーネはそっとアノンから身を離すとひらひらと手を振った。 「元気でな」 オル・オーネに合わせて、クートも手を振る。 それに答えるようにしてアノンは再度元気な声で言った。 「行って来ます! 行って来ます!!」 足音が、次第に遠ざかる。それを聞きながら、オル・オーネはずっと手を振っていた。時折、アノンが立ち止まり振り返っているのだろう。止まった足音の後に、「またねー!」と声が聞こえる。それに微笑みを返しながら、オル・オーネとクートは、二人の姿が見えなくなるまで、二人の足音が聞こえなくなるまで手を振り続けていた。 やがて、二人の足音が聞こえなくなり、オル・オーネが振っていた手を下ろしたのを見て、クートがポツリと呟いた。 「行っちゃいましたね」 「そうですね」 「・・信じたい約束が、一つ増えちゃいましたね」 遠慮がちに述べられたその台詞に、オル・オーネは一つ頷いた後、その面に笑みを浮かべて言った。 「そうですね。信じてます。信じます――」 アノンとティスティーと交わした約束も。そして、遠い昔、愛しい彼と交わした約束も、信じます。 その先に続くのは、 ―――私は一人じゃないから。 アノンが教えてくれた呪文。それを唱えることを許しているのは、傍らにいつも寄り添ってくれているジストルと、時折訊ねてきては世話を焼いてくれるクートの存在。 だから、 「信じます」 オル・オーネの囁きを、涼やかな風が攫っていく。この世界の何処かにいる、オル・オーネの愛しい彼の元へと届けるかのように―― |