時刻はとうに0時を過ぎた。0時を2時間ほど過ぎた頃だろうか。 オル・オーネの部屋の明かりを最後に、家は完全に闇の中に包まれていった。 一寸先も見えないほどの闇。 風に擦れる枝葉の音と、時折響く魔物の哭き声。そんな樹海の中に、ティスティーが一人で佇んでいた。魔物の襲撃に備えて、彼女の手には杖が握られている。 ティスティーは、何をするでもなく、ただ立ち尽くしていた。 思いを馳せるのは、オル・オーネのこと。オル・オーネの、今年も守られなかった約束のことだ。 待ち続けて待ち続けて、その度に期待は打ち砕かれ、それでも彼女は待ち続けるのだろう。また来年も、 料理を作り、ケーキを作り、プレゼントを用意して恋人の帰りを待ち続けるのだ。諦めることを知らないかのように、裏切りという言葉を知らないかのように、彼女はただ信じ、待ち続ける。 (―――何故? 何故? 何故なの?) その問いかけは、オル・オーネに向けられていた。最初は。最初だけは。 最後には、 (―――私は何故、信じられないでいる!? 彼女のように何故信じられない!?) そんな問いに、いつの間にか変わってしまっていた。 本当は、そう。本当は、羨ましかっただけなのだ。疑うことなく、迷うことなく愛する人の帰りを信じていられる、彼女のその強さが。 同時に腹立たしかった。 自分にはない、その強さが。だから、当たってしまった。自分の弱さを認めたくなくて、彼女にぶつけてしまった。 「・・バカね・・私・・」 その呟きを風が攫っていったその時だった。 「――誰?」 背後に、人の気配を感じ、ティスティーは振り返る。そこには、ジストルを引き連れたオル・オーネがいた。 いつだったかもそうだ。一人で森に佇んでいると、彼女がやって来た。 あの日と同じ、穏やかな笑みを浮かべ、オル・オーネはティスティーの前までやって来ると口を開いた。 「今日は遅くまで付き合わせてしまって申し訳ありませんでした」 その言葉に「いいのよ」とぶっきらぼうではあったが、気にするなと返したあと、ティスティーは言った。 「・・・・帰ってこなかったわね」 「ええ」 少しの間を置くこともなく、オル・オーネは頷いた。その表情には、悲しみも落胆の色もない。もしかしたら、少し遅れて、明日帰ってくるのかもしれない。そうでなければ、次の誕生日こそは帰ってきてくれるに違いない。そう、信じているようだった。 それを察したティスティーは、視線を彼女から外した。 「――それでも、貴方はまだ信じるのね」 「はい」 静かな声音で告げられたティスティーのその台詞に、オル・オーネは迷うことなく頷いてみせた。 「――・・強いのね、貴方は」 彼女の答え。そしてその迷いのなさを、ティスティーは今度こそ素直に、羨ましいと感じた。だから、少し話す気になったのかもしれない。ティスティーは口を開いた。 「私は・・・信じられなかった」 「ティスティーさんにも、忘れられない約束があるんですか?」 唐突に自分のことを話し始めたティスティーに、オル・オーネは少し驚いたようだったが、すぐにその先を促す。 ティスティーは彼女の問いに素直に応じた。 「そうよ。でも、叶うことはないわ。もう守られない約束よ。だから、私は信じない」 決めつけるように、言う。そして唇を噛んだティスティーのその様子に、オル・オーネは迷った末、問うた。 「――・・信じるのが、怖いのですか?」 答えは、すぐには返されなかった。けれど、否定もされない。おそらく、返される答えはイエスだった。 明確な答えを返す代わりに、ティスティーは噛みしめていた唇を解放した。 「――信じたい。私も、貴方やアノンみたいに迷うことなく信じていたい。でも、私には無理。だって、イヤじゃない。信じて・・・でも裏切られたら――」 信じることが、できなくなった。 遠い昔、 “迎えに行ってあげるから” そう言って、けれど迎えに来てはくれなかった兄。あの日から、信じることができなくなった。約束が裏切られたときのその痛みが、信じることを許さなくなった。 「私には耐えられない。だから、最初から信じない。期待しないのよ。だって待つ場所も私にはないし、いつ何処で会えるかも分からないから・・。そうよ、怖いの。私は裏切られるのが怖いのよ」 あんな痛い思いをするのは、もう嫌だった。それならば最初から信じなければいい。約束なんて必ず裏切られるものだと決めつけて、裏切られたときに、「ほら」と鼻で笑い飛ばせるよう、傷つかないように。 「でも――」 でも、本当は、信じたい。 “迎えに行ってあげるから” この約束は守られなかったけれど、 “必ず、また逢おう” 青い瞳を持った青年との約束は、きっと守られるのだと信じたい。 ―――また、会いたい。 ティスティーの言葉を黙って聞いていたオル・オーネは、しばしの逡巡の後、口を開いた。そしてティスティーに向けられたその言葉は、ティスティーが予想しない台詞だった。 「―――私も、怖いのは同じです」 あんなに迷いなく、リーファとの約束を信じていたオル・オーネの意外な告白に、ティスティーは伏せていた視線を上げ、彼女を見る。 「私も、裏切られては生きていけません。だから私は信じ続けるんです。一生、彼が帰ってこなくても信じ続けるんです。 そうすれば、裏切りなんてないでしょう? 私さえ信じていれば、裏切りなんてないんです。 だから、私は彼の言ったことを信じます。彼が裏切ったなんて思いません。そんなこと、信じたくない。 許せない。だから、信じるしかないんです。私にできることは、信じて待つことだけなんです。 こんな目では、彼を探しに行くこともままなりません。だから、ここで待つんです。信じて。馬鹿みたいに信じ続けて――」 「―――」 オル・オーネは、秘めていた心の内を全て吐き出す。そして口を閉ざした彼女の顔は、どこか清々しい。 それを、ティスティーは見つめる。 オル・オーネは、強いと思っていた。約束を疑うこともせず、ひたすら信じているのだとそう思っていた。けれど、違ったのだ。彼女も裏切られることが怖くて、だから、信じ続けていたのだ。自分とは正反対だけれど、同じ恐怖を、彼女も抱いていたのだという事実は、ティスティーの中にあった劣等感を消し去っていた。 表情は分からない。けれど、雰囲気でティスティーが穏やかな表情をしているでことを察したオル・オーネは微笑む。 「貴方は、探しに行くんですね。約束を守るために、歩いていくんですね」 「貴方は待つのね。約束を守るために」 「はい」 オル・オーネは大きく頷いて見せた。そんな彼女に、ティスティーは穏やかな表情のまま、訊ねる。オル・オーネの強さに嫉妬する弱い彼女は、もういない。 「彼が帰ってきたら、どうするの?」 その問いに、オル・オーネは「そうですねー」としばし考えた後、小さく笑いながら言った。 「プレゼントをあげますわ。何年も待って・・・何年分もたまったプレゼントを渡します。愚痴付きの」 「それはいいわね」 その言葉にティスティーも笑う。 「ティスティーさんは?」 「どうしようかしらね。そうね、まずは殴ってやるわ。待ち合わせの場所くらい決めとけってね」 ティスティーの過激な台詞に、オル・オーネは「あらあら」と頬に手を当てる。ぶんっと空を切る音が聞こえた。おそらく「練習!」とばかりに、虚空を殴ったのだろう。二人は顔を見合わせて笑う。ひとしきり笑った後、ティスティーは再び問う。 「彼に渡すプレゼントは、いったいいくつになるのかしらね?」 「分かりません」 「それでもあなたは、一人で待ち続けるの?」 その言葉に、もう棘はない。答えは知っている。けれど、もう一度彼女の口から、彼女なりの強さを聞かせて欲しいと思った。 オル・オーネは、しばしの沈黙の後、それに応えた。 「・・・一人で待ち続けるのは辛いことです。でも、私にはこの子がいます。側に居てくれる人が居ます。だから、信じ続けられます」 「そう」 「貴方も、一人じゃありませんよ」 「・・さあ、どうかしらね」 それは謙遜でも何でもなく、本当に分からないから、ティスティーはそう答える。 今は、確かにアノンが居る。けれど、アノンがルウという人を見つけた後は、分からない。また、一人に戻るかもしれない。 けれど、今はそんな不安を洩らしたくはないと思った。だから、ティスティーは「そろそろ帰らない?」とオル・オーネを促し、家に向かって歩き始めた。 と、歩き始めたその直後だった。突然、ジストルが吠えたのは。 「誰!?」 咄嗟に杖を構えたティスティーだったが、それは杞憂に終わった。 「ぼ、僕です!」 「あら? クートさん?」 木陰から飛び出してきたのはクートだった。「何故ここに?」と目を丸くするオル・オーネと、「何でこんなトコに居るのよ」と睨んでくるティスティーに、クートは慌てて口を開いた。 「あ、あの! 別に盗み聞きとかそんなんじゃなくて・・! 危ないかな、って」 両手をバタバタと振りながらのその弁解に、ティスティーは「どうだか」と肩を竦めたが、オル・オーネはその言葉を素直に喜んだ。 「ありがとうございます」 「い、いえいえ!」 頬を僅かに染めてとんでもないと首を振るクートに、「やっぱ惚れてるのね」とクートが報われない可能性大の恋をしていることを再確認しつつ、ティスティーは彼に声をかけた。 「で、何で気付いたの? 私たちが外に出たって」 彼はずいぶん前にアノンと共に眠りについたはずだったが。 「いや、アノンが気付いて。それで、危ないからって、一緒に」 「アノン??」 だが、その姿は見えない。いったい何処にいるのかとティスティーが視線を巡らせていると、クートが「こっちです」と言って木陰を指して言った。 「待つって言ってきかないし、それなのに寝ちゃうし・・放っておけないから、僕も待ってたんです」 「・・・・・よく眠れるわね」 木の裏を覗き込んだティスティーは、木の幹に背中を預け眠りこけているアノンに、呆れて溜息を洩らす。そんなティスティーの背中に、オル・オーネが声をかけた。 「・・・ほら、待ってくれてる人がいるじゃないですか」 それは、「貴方も、一人じゃありませんよ」という台詞に、首を傾げて見せたティスティーへの言葉。アノンが教えてくれた魔法のような言葉。 “一人じゃないよ” その言葉が、事実がどんなにか自分を救ってくれているか。そして、彼女を救ってくれる言葉。 ティスティーは、呑気に寝息を零しているアノンを見つめつつ、オル・オーネの言葉を反芻する。ゆっくり、何度も。そして、いつかアノンとの別れが来るのだとしても、今は、彼が居る。その事実が、未来への不安よりも勝る。 ティスティーは、口許に笑みを浮かべた。 「――そうね。私もまた、信じてみようかしら」 そしてオル・オーネを振り返ったティスティーは、互いの顔を見合わせて、笑った。オル・オーネにはティスティーの姿を見ることはできないが、穏やかな雰囲気を享有することはできる。 「??」 唐突に笑い出した二人に、クートは目を丸くして首を傾げる。 「ZZZZ」 木陰では、相変わらずアノンが気持ちよさそうに眠っていた。 |