一通り買い物を済ませた三人は、街の広場にいた。四つの道が交わったその広場の中央には、飛沫を散らし輝く噴水があった。その噴水の周りに置かれてあるベンチに腰を下ろし、三人は休憩中だ。特にクートは誰よりも疲れていた。目の見えないオル・オーネを気遣って歩いていた所為でもあるが、何よりも手を焼いたのはアノンという少年の存在だった。 この少年は不意に何処かに消えているのだ。つい先程まで自分たちの後ろを歩いていたはずなのに、だ。「アノンはいますか?」と、彼の足音が消えたことに気付いたオル・オーネのそんな問いかけがなければ、きっとクートはアノンがいないことなど気付きはしなかっただろう。そしてきっと、このリーテルの街を、アノンの姿を探して駆け回るハメになっていただろう。 「だって、おもしろそうなものがたくさんあるんだもん」 これがアノンの言い分だった。「何歳のガキだ、お前はっ!?」というツッコミは、憧れのオル・オーネの前なのでひかえておいた。小さな子供でもないのだから、手をつないで歩くわけにも、ましてや犬のように首に紐をつけ、連れ歩くわけにもいかない。「頼むからおとなしくついてきてくれッ!」そんなクートの言葉にようやくアノンはおとなしく彼らの後に付いていくことにした。 「久々に、とても楽しい買い物でした。クートさん、アノン。どうもありがとう」 「どうしたしまして♪」 「それは、良かった。ははは。・・・」 優しい笑顔を浮かべて礼を言ってきたオル・オーネにアノンは陽気に笑って答える。その隣でクートが虚ろに笑った。 「クートさん、お疲れですか?」 そりゃもうお疲れだ。だが、労るようにかけられたオル・オーネの問いに、「はい、とてつもなく疲れてます。疲れ果てました」と正直に答えるのも憚られ、クートはいいえと答えた。 だがオル・オーネの方はそんな彼の答えが、楽しかったと言った自分に憚っての言葉だということに気付いていた。だが、同じ質問は繰り返さない。代わりに、立ち上がって言った。 「のどが渇きませんか? 私、何か飲み物を買って――」 無論それは、クートの為だった。だが、その言葉はクート本人によって遮られていた。 「あっ、なら僕がいきますよ」 「大丈夫です。私が行って来ます」 疲れているクートの為に飲み物を買ってこようというのに、その 疲れている本人を使ったのでは全く意味がない。自分が行きますと言ったオル・オーネにクート は自分が行くと言い張る。そこへ乱入してきたのはアノンだった。 「オレが行くよ!」 そう言って早々にベンチから立ち上がったアノンに対するクートの反応は驚くほど早かった。 「待て! 頼むから待ってくれ!!!」 早くも遠ざかろうとするアノンの腕を何とか捕まえ、両肩を押さえ込む。 そうしてじっとアノンの目を見つめたクートの瞳は、かなり真剣だった。 「頼む。アノンはここにいてくれ。いいか? 一歩も動いてくれるなよ。いいか? いいな!?」 飲み物を買いに行ったまま、何時間経っても戻ってこないアノンを探しに行き、そしてヘトヘトになるくらいなら、100メートルを全速力で駆け、飲み物をゲットし、再び100メートルを全速力で駆けて戻って来たっていい。きっとその方がはるかに楽だ。 「・・・・う、うん」 あまりにも真剣なクートにおされて、アノンはおとなしく頷いていた。 「じゃ、オル・オーネさん、ちょっと行って来ます」 オル・オーネにそう告げたクートは、もう一度アノンを見つめて、 「ちゃんと待ってろ。ここで、待ってるんだぞ? いいか、ここだぞ!?」 しぶとく念を押し、ダッシュで姿を消してしまった。 彼の去っていった方を見つめながら、アノンは首を傾げる。 (・・・・・そんなにのどが渇いてたのかな?) それをクートに聞かれていれば、オル・オーネの目の届かないところでげんこつの一つでもくらっていたかもしれない。 クートの熱意が伝わったのか、アノンには、クートの言いつけを破る気はないらしく、彼に 言われたとおり、オル・オーネの隣に座り直し、彼の帰りを待つことにする。 「おもしろい人だね、クートさんって」 誰がおもしろくしてるんだ!? そうツッコんでくれる人が、今ここにはいなかった。だからオル・オーネはいつもの微笑みで、そうですねと答える。 「ちょっと飲み物買ってくるだけなのに、ちゃんとここで待ってろ。だってさ。おもしろい人ー」 そう言って可笑しそうにアノンは笑った。 クスクス笑っていたアノンが、突然笑うのをやめたことにオル・オーネは気付く。どうかしたのだろうかと、彼の方に体を向けた時、アノンが先に口を開いた。 「オレね、待つの、苦手なんだ」 「アノン?」 いつもとは明らかに調子の違う静かな声に、オル・オーネは僅かに首を傾げる。 俯けた目で組んだ指を見つめていたアノンは、そのことに気付かなかった。 「オレが小さい頃、森の中で母さんに置いて行かれたことがあったんだ。待ってて、って言われて・・・」 遠い昔を思い出す少し切なげな瞳が、オル・オーネには見えない。けれど、耳に届く彼の声はとても静かで、淋しそうで・・・。 「オレを育ててくれたルウって人も、行って来ますって言って、行っちゃった・・・」 「・・・」 それで、お母様は? 貴方を育ててくださった方は? とは聞けなかった。分かっている。きっとどちらも、彼のもとへ帰ってきてはいないのだろう。だから今、彼がここにいるのだ。 「待つのは・・・すごく怖いよ」 「・・・・ええ」 アノンの静かな声に、オル・オーネも同様に答えた。彼女も愛する人の帰りを待つ身。彼の言う恐怖は、よく知ったものだ。 「でもオレは母さんに会えるのを信じてた。ルウに会えるのを信じて旅をしてるんだ。だってオレは、一人じゃないから」 「え?」 アノンは言った。その声はとても明るい。とても強い。先程の、彼のあの静かな調子は、一体何処に行ってしまったのだろうか? 一人じゃない 彼の口にしたその言葉が、オル・オーネの中で大きく大きくこだましている。何度も繰り返す。離れない。 「オレはいつだって一人じゃなかったんだ。母さんを捜していた時にはルウがいてくれた。 ルウがいなくなってからは村の人たちがいてくれた。ルウを探しに旅立ってからは、ティスティーがいてくれた。一人じゃなかった。だから信じていられた。また会えるって信じて待っていられた。探しに行けたんだ」 「一人じゃ、ない・・・」 小さな声で、繰り返してみる。 すると、彼が口にしたのと同じように、その言葉が不思議な力を持ったようだった。そう。まるで呪文のようだった。 「オレね、不安になった時は周りを見渡してみるんだ」 言ったとおり、アノンは伏せていた視線を上げ、ゆっくりと巡らせてみる。知らない街並み。行き交う人々の姿。空を泳ぐ鳥たちの白。ゆっくりゆっくり巡らせる。 「でね、確認するんだ。オレは一人じゃない。大丈夫、頑張れるって。オレにとって一人じゃないってことは、それだけで勇気が出るんだ。魔法みたいなんだ!」 巡らせていた視線を、アノンは止めた。その青い瞳に映っているのは、自分を見つめているオル・オーネの姿。彼女にはそれが分からない。だから、驚かせないように、そっと彼女の手を握った。今オレの瞳は、オル・オーネさんを映しているんだよ。そう、伝える為に。 「ホラ、今はオル・オーネさんがいてくれる。オレは一人じゃない。怖くないよ。だから、待っていられるんだ」 「・・・・私も、怖くありません。アノンの手、とても温かいですから」 一人じゃない℃ゥ分には己の瞳でそれを確かめてみることは出来ないけれど・・・、でも、差し伸べた手には、いつだって温もりを感じることが出来た。 「オル・オーネさん! アノン!」 遠くから、クートの上げた声が聞こえた。走って戻ってきているのか、声のした方へ体を向けると、すぐ側で彼の足音が聞こえた。 「クートさんッ!」 お帰りなさい、といって彼を迎えるアノンの陽気な声。そのすぐ後に、予想もしなかった言葉がかけられた。 「オル・オーネさんも、一人じゃないんだね」 「え?」 ボンヤリと訊ね返した自分の言葉に、すぐに答えが返ってくる。彼の姿を見ることは自分には叶わないけれど、容易に想像できる。その言葉を自分に向ける彼の顔には、春の木漏れ日にも似た、優しい優しい笑顔が、浮かんでいるのだろう。 「オル・オーネさんには、クートさんも、ジストルもいるんだね」 そう。手を差し出せばいつも触れてきたぬくもり。そう、いつでも温もりが帰ってきたのだ。自分の側にはいつも誰かがいてくれたのだ。アノンの言うとおりだ。いつも誰かが側にいてくれる。自分は一人じゃない。差し出した手に触れてくるぬくもりが、どんなに温かかったことか。そのぬくもりが・・・、一人じゃないのだと知らせてくれるその温もりが、今まで自分をどんなにか勇気付けてきてくれたか。そしてこれからも、どんなに自分を勇気付けてくれることだろうか。 「オル・オーネさんも、一人じゃないんだね」 もう一度繰り返されたアノンの言葉に、オル・オーネは微笑んだ。 「―――・・はい!」 オル・オーネの冷たく光る灰色の瞳に、暖かな涙の雫が浮かんでいた。 |