瞳を開けると、ボンヤリと燻る闇が飛び込んできた。何度か瞬いた後、そこがヒューディスにほど近い森の中であった事を思い出す。 ・・・あれは、この森ではない。あの『青』と出逢ったのはこの森ではない。 思わずそう呟いている自分に、ティスティーは気付いた。 この森に彼は居ない。ずっと探しているあの『青』はこの森の何処にもない。だから歩いていくのだ。夜が明け、太陽が暗い道を照らし始めるころ、また歩き始める、走りはじめる。追っているのはいつも、あの『青』。 『青』。それはよく言われる。自由の象徴だ、と。 ・・・・・そうかもしれない。自分はその自由を求めているのかもしれない。あの『青』と出逢ってから自分の中には彼しか居ない。彼しか知らない。ただただあの『青』を求める事しかしれない。追って、追って、見つけて・・・そして、それから自分の本当に自由な人生が始まるのではないのだろうか。きっと今は縛られている。あの『青』が忘れられない。忘れたくない。忘れてはいけない。 そう。きつくきつく縛られていたはずだった。それがいつのころからか少し、自分を縛っていた『青』の存在を辛いと思わないようになった。それは、自分の目の前に現れたあの青い瞳。静かで、それでいてとても強い光を放つあの青い色の中に、かつて自分が愛した『青』を見つける事が出来た。自分がいないと何も出来ない、あの幼い瞳。きっと失う事はない。失ったりなどしない。あの『青』のように、この手からすり抜けていってしまわないように、決して、目を離してはいけない。自分から離れる事になる日まで、せめてその時までは・・・。それが、ただ自分の我が儘だと言う事も分かっている。その我が儘の所為であの青い瞳を曇らせてしまう事も。それが分かっていても、駄目なのだ。 離れられない、離れたくない、離さない。 強くそう望んでいる自分がいる。そして過去にも、いた。離さないと、そう強く望んでいたのは、『青』。突然、何処かへ行ってしまった、あの『青』。 そう。それは本当に突然だった。 「・・・・・」 不意に、胸がざわつくのを感じた。 耐えきれず、ティスティーはベッドの上に体を起こした。胸が、少しドキドキ言っている。 それは不安の所為。 あの青い瞳は・・・、彼はちゃんといるのだろうか。あの『青』のように消えていたりはしないだろうか? もしかしたら今、彼は自分のもとを去ろうとしているかもしれない。急かしてくる感情のままにベッドをおりようとする。だが、ガタガタと風に鳴った窓ガラスが、急速にその焦りを萎えさせていった。 小さく息を吐き出すと、再び体を横にする。眠ってしまおう。そうすれば何も考えなくていいのだ。いても立ってもいられなくなるような、あんな不安にかられる事もない。眠ってしまえばいい。 瞳を閉ざしたティスティーを待っていたのは、静寂だった。 宵闇に包まれて、まるで樹海と化してしまったかのような林の中には、ただただ静寂があった。時折、風の音とも魔物の咆哮ともつかぬ不気味な音が、静寂を払う。それ以外に音はない。全くの静寂は、ただでさえ眠りにつけないティスティーの意識を眠りに沈めることを嫌うかのように、次第に意識を冴えさせていくようだった。 昼間に吸い込んだのだろう。体を包んでいる毛布からは、爽やかな緑の香りが微かに漂ってくる。瞳を閉ざし、その香りを胸一杯に吸い込んでみる。そうすることでこの焦った気持ちも少しは落ち着くだろうと思っていた。 ・・・やはり何も変わらない。 「・・・・ああ、もう」 誰に対してでもなくそう毒づくと、ティスティーは体を起こし、今度は本当にベッドをおりた。 静かにドアを押し開け、外へと向かう。その途中アノンが眠っている部屋の前で不意に歩みをゆるめたが、 止まろうとはしなかった。心配しなくても彼はそこにいるだろう。 そう。あの人のように突然消えてしまうような事はない。大丈夫だ。そう自分に言い聞かせ、やはり静かに外へと通ずる重い扉を押し開けた。 一気に流れ込んできた風の冷たさに身を竦める。オル・オーネやアノンを起こしてはいけない。ティスティーは慌てて外に出ると、後ろ手で扉を閉めた。 静かな静かな闇。半分に欠けた月の光だけが、僅かながら森が完全な闇に包まれるのを拒んでいるようだった。 木々の隙間から顔を覗かせる半月。それをティスティーは、扉に寄りかかったまま見上げる。 「・・・・そう言えば」 ティスティーは呟いた。そう言えば、あの『青』が・・・、彼が去っていったのもこんな半月の夜だった、と。 少し頼りない月明かりのもと、薪を囲って眠っていたあの日。突然彼は姿を消した。彼が目指していたヒューディスの地まで、あと一歩といったところで彼は姿を消したのだ。朝の光に目を開けた彼女の側から、彼の姿はなくなっていた。何一つない。昨晩まで一緒にいた彼の存在を、思わず幻か何かだったのだろうか? と疑ってしまいたくなるほどに、彼は何も残さずに行った。ただ一つ彼が残していったのは、手紙。 必ず、また逢おう ただそれだけを記した手紙。 共にヒューディスまで行くのだと、連れて行ってくれるのだと、ティスティーは信じていた。彼女自身特に何か、北の地に用事があるわけでもない。ただ、彼と一緒にいたかったのだ。彼と一緒にいられるのなら、何処に行ってもいい。何処にいてもいい。それこそ、魔物の巣窟だと言われるあの北の地に行くことすら厭わない。彼といられればそれで良かった。彼も、それを分かってくれていると、そう思っていたのに・・・。 彼は消えた。自分をおいて行ってしまったのだ。 そんな彼の行動の意味を、一体どう捉えればいいのか、ティスティーには分からなかった。いまでも分からない。彼は自分の存在がうっとうしくなってしまったのだろうか。魔物のたくさんいる北の地へ連れて行くには、足手まといになると思ったのだろうか? それとも、危険な北の地へ、自分を連れて行く事は出来ないと・・、自分を危険な目に遭わせないようにと、そう考えてくれたのだろうか・・? 分からない。何も分からなかった。あの手紙の言葉を信じていいのかすら分からなかった。 「・・・」 重い溜息も、ティスティーの肌を撫でるようにして駆け抜けていった風が、全て連れ去ってくれた。それでもまた零れる。 ティスティーは扉に寄りかかっていた体を起こすと、何となく歩き始めた。建物の側を離れるとそこには、月の光も木々に遮られて届かない、本当の闇があった。まるでティスティーを待っているかのように、ぽっかりと口を開けている。 いっそ飲み込まれてみようか? そうすれば、何もかも楽になるのだろうか? そんな事を考え、軽く首を振る。馬鹿な事を考えるんじゃない、と己を叱咤しそれでも歩みは止めない。小さな建物の周りを、ゆっくりと歩いていく。 白い建物を囲うようにして植わっている花たちがティスティーを慰めようとしているかのように、その儚い月光のもとでも健気に花弁を開いていた。 その花たちを植えたのは、あの盲目の修道女だろう。灰色の獣に助けられながら、愛しい人の帰りを花たちと祝おうと花の種を植え、そして毎日のように水をやっているオル・オーネの姿が、目に浮かぶようだった。そうして咲いた花の姿を、自分は決してみる事は出来ないと言うのに。いや、彼女は信じているのだ。愛しい人が帰ってきたその時、彼は彼女に光を与えてくれるのだということを。光を取り戻した瞳はまず、その愛しい彼の姿を映すだろう。次に自分を常に助けてくれた灰色の獣の姿を。そして彼らと見るのだ。この美しく可憐な花たちの姿を。 彼女は信じている。信じて待ち続けているのだ。 自分はどうだ? 必ず、また逢おう 彼が残していったその言葉を、信じている? 「私は・・・・」 言葉を唇に乗せかけ、やめる。一度閉ざした唇からはもう、その言葉の続きは出てこないようだった。 ティスティーを攫ってしまいそうなほどの風が吹く。木々がざわめく。 背後に人の気配を感じたのは、そんなときだった。振り返ったティスティーの目に映ったのは、灰色の獣を従えて佇んでいるオル・オーネの姿だった。 「・・・・何か用?」 自分の言い方が、少し刺々しくなっている事に、気付いた。それでも、別に弁解などしない。 オル・オーネは、いつもの穏やかな笑みを浮かべ、ティスティーの方に寄ってきた。 「いいえ。少し、風に当たりたくなったので・・」 ――嘘つき。 ティスティーは心の中で呟いた。きっと彼女は気付いたのだろう。自分がこっそりと外に出ていくのを。だから心配になって追ってきたのだ。彼女は、そんな人だと言う事が、今日一日でよく分かった。優しいのだ、と。けれど、その優しさに感謝などしない。自分に優しくする必要などないのだ。 彼女に、優しくして欲しくなどない。 何故だろう? 彼女の事が、快く思えない。 「・・・今日は、風が強いですね」 ティスティーの隣まで来ると、オル・オーネはそう言った。 「最初、彼がこの家からいなくなった時は、この風の音がとても恐ろしかったのを覚えています。時折聞こえる魔物の声も、あの頃の私には、とても恐ろしかった。・・・もう、慣れてしまいましたけれど」 そう言って彼女は、微笑んで見せた。 その微笑みが、何だか健気だった。だから、腹が立つ。 「・・・貴女はどうして待っているの?」 「え?」 「どうして待ち続けているの? もう何年も前に自分の前から姿を消してそれっきりの人の言葉を、どうして信じているの?」 静かに、けれど強い口調でそう訊ねてきたティスティーに、オル・オーネは少し困ったような顔をした。 「彼が、待っていてくれと言ったから・・・。必ず帰ってくると、言ったから・・」 たから、信じているのです。そう言って瞳を静かに伏せた彼女に、ティスティーはこみ上げてくる苛立ちの言葉を押さえる事が出来なかった。ただただ彼の言葉を信じ、待ち続けるオル・オーネ。そのひたむきさに、ひどく苛立っている自分がいた。 「ただ待てと言われたから? 帰ってくると言ったから? そんな口先だけの約束をどうして信じていられるのよ? ・・・約束なんていつかは破られるのよ。どんなに信じてたって、いつかは裏切られるのよ」 「ティスティーさん・・・」 困惑した表情を浮かべるオル・オーネの事なんて、もう気にしてなどいられなかった。だから、彼女の側からジストルが離れていった事にも、全く気づけなかった。 「現に一年経ったら戻ってくるっていう約束は破られたじゃない。それなのに何故まだ信じてるのよ。貴女は裏切られたのよ? 健気にも信じ続けて・・・、損じゃない。バカみたいよ。忘れてしまえばいいじゃない。いつ帰ってくるともしれない男の事なんて忘れて、新しい恋でも何でもすればいいじゃない!」 ティスティーには分かっていた。この台詞を、本当は誰に向けて吐き出したいのかが。それは、今目の前にいる修道女に向けてではない。今、彼女に向けてこの台詞を吐き出している、自分自身に向けてだった。 彼女のひたむきな恋人への愛。信じ続けるのだと、迷わず言い切れる強さ。それが、苛立たしかった。 ・・・羨ましかった。 どうしてそんなに強くいられるのか、分からなかった。自分にはない強さだ。だって自分は、信じる事が出来ないでいるのだから。必ずまた逢おう≠ニ言って姿を消した、愛する人の言葉を。 「信じます。・・・・私は、信じます!」 「・・・・」 ティスティーの言葉に返ってきたのは、彼女の穏やかな返事ではなかった。ティスティーの言葉に流されまいとするかのように、少し戸惑った、けれど強い言葉。 「・・信じて何になるって言うのよ! 何にもならないじゃない!!」 「そんなことないよ」 背後から届いたその答えに、ティスティーは驚いて振り返る。そこには、ジストルと一緒にいる、アノンの姿があった。ジストルに起こされてきたのだろうか。少し絡まった茶金の髪もそのまま風に揺らしているアノンの瞳は、何だか少し淋しそうだった。 その切ない眼差しが、まるで自分を責めているかのように、ティスティーには映った。 一体何処から聞かれていたのだろうか? 自分がオル・オーネに向けて醜く怒鳴っている姿を、一体何処から見られていたのだろうか・・? 思わず瞳を伏せたティスティーの方に、アノンは寄る。 「オレは信じてたよ?」 何を? とティスティーが問う前に、アノンは言った。 「ティスティーはオレを探し出してくれるって、信じてたよ?」 迷子になんてなったりしたら、私が見つけだしてぶん殴ってやるわよ リダーゼの端の森で、ティスティーはアノンにそう言った。 海賊に攫われたアノンは、自分をティスティーが必ず見つけだしてくれる。迎えに来てくれると信じていた。そして約束どおり来てくれたじゃないか。信じていても何もならないとティスティーは言ったけど、信じていたら来てくれたじゃないか。と、彼がそう言っているのだという事に、ティスティーは気付いた。 「―――――」 ひときわ強く吹いた風が、身を切り裂くかのように冷たい。 ・・・もう、何も言えなかった。 |