まだ微かに残っている冬の気配を運び去ろうと、幼い春風が吹いている。 完全に春になったとは言い難いが、確実に春の息吹をその身に感じ始める季節。 まだ閉ざされたままの蕾が、その花弁を広げるのを今か今かと、誰もが待ちわびる季節。 だが、何処にもそうした人々の期待に満ちた穏やかな顔はない。姿すら見えない。 誰もがまるで冬眠をしているかのように、家の中に閉じこもったままだ。 それもこれも北の地―ヒューディスに棲む、翼を持つ魔物の所為だった。 突如姿を現した有翼の魔物−その魔物は人々から魔王と呼ばれた−は、今まで平穏への道を順調に辿っていた人間 たちの目の前に立ちはだかり、その道を塞いでしまったのだ。 魔王が背にある一対の翼を使い、ヒューディスの地から自在に飛び立ち、 各国の上空を不気味に舞うようになってからだ。彼の後を追ってきたかのように北の地から出てきた魔物たちが、 人々に襲いかかるようになったのは・・・。その様子は、さながら有翼の魔物―魔王が他の魔物を従えているようかのに 見えたのだ。故に魔王は他の魔物を操る能力を持つだとか、様々な憶測が飛び交った。 その魔王を倒さんと、これまで何人もの戦士や魔法使いのパーティーが北の地に向かったが、一組として帰ってはこなかった。魔王にやられたのか、それとも魔王が棲んでいるというヒューディスの奥地に辿り着く前に、魔物たちにやられてしまったのか・・・。 次第に増えていく、北の地からやってきた魔物たちによる被害。そしてついに、国が動いた。 リダーゼの国王が、ある一人の戦士に魔王の討伐を命じたのだ。いくつものパーティーが生きて帰っ てこなかったという事実があるにもかかわらず、リダーゼ国王が魔王の討伐を命じたのは、たった一人の戦士だった。 魔王の討伐を命じらた戦士というのは、世界でも有名な戦士の一人だった。なぜなら彼は、戦士認定制度を導入して以来一五〇年間、初めて受けた試験でいきなり第一級と認定された者だったからだ。しかもその時、彼はまだ二十歳にも達していなかったのだ。彼が、このリダーゼ王国・・・、いや、この世界一の戦士であることは周知の事実だ。だが、それでも魔王と一人で戦うには荷が重すぎるように思えてならない。誰もがそんな不安と、そして、もしかしたらという期待を一人の青年に託していた。 今彼は、この世界の希望の光だった。 一人の少女が、樹海を歩いている。 魔王が現れてからというもの、昼も夜も関係なく樹海では魔物たちがうろついているというのにだ。 クルクルとはねた黒髪。理知的な輝きを放つ瞳は、髪と同じ、静かな夜色だ。年は一四か一五くらいだろうか。 それにしてはいやに落ち着いた彼女の仕草や雰囲気は、何だか彼女の容姿にそぐわなくもあった。 小柄で細いその少女は、屈強な戦士を共につけているわけでも、魔物に対処できる何か心強い武器を持っているわけでもない。持っているのは、いくらかの衣服が入った小さな鞄。それだけだ。彼女を見かけた者は皆、彼女が命を捨てているのか、もしくは正気を失っているようにしか見えなかっただろう。 だが、彼女は命が惜しくないわけでも、正気を失っているわけでもなかった。今世界中では魔物たちが横行し、人々を脅かしていること。樹海はその魔物たちの住処であること。そして、リーゼから一人の青年がヒューディスに向けて旅立っていったこと。 だが、彼女は臆した様子もなく、悠々と樹海を歩いていく。 彼女には必要がないのだ。自分を守ってくれる供も、魔物を倒すための大層な武器も、何も。 彼女は自負しているのだ。自分一人で大丈夫だと。 魔物がいようがいまいが関係ない。襲ってくるようなら、倒してしまえばいい。それだけのことなのだから。それだけのことと言い切ってしまえる実力が、自分には十分あることを知っている。だから自分には関係がないのだ。世界が魔物によって脅かされていることなど・・・。まあ確かに、適わないことを悟れず、無意味に自分に向かってくる愚かな魔物たちがいなくなればいいにこしたことはないけれど・・・。 「・・・」 不意に、少女は何かの気配を感じて顔を上げた。次第に近づいてくるその気配が何であるかは、すぐに分かった。樹海に人はいない。いるのは・・・。 彼女の周りに一瞬風が舞い、彼女の掌に集う。そして風が去る。その手の中に、木でできた杖を残して。 彼女がその杖を握り直した、その時だった。 派手に揺れた茂みの中から、黒い影が躍り出る。魔物だ。彼女を喰らおうというのだ。 「炎」 彼女の唇がそう言葉を紡いだ次の瞬間、魔物は炎に包まれていた。 ほんの一瞬の出来事。彼女はあまりにも簡単に、魔物を屠ってしまっていた。魔法を使って。そう、彼女は魔法使いだった。しかも精霊を召喚せずに法力を使うことのできる、強い魔力を持った魔法使いだ。自分に牙をむいてくる者は、魔物であろうと人間であろうと、容赦なく薙ぎ払ってきた。こんな風に。 彼女は断末魔の悲鳴を残して炎の中で死に絶えていく魔物を冷ややかな目で見遣り、そして。 「ソード」 そう唱えた。 魔物の断末魔の悲鳴が消えた。代わりに、あたりに肉を切り裂く音が響き、生温かい血が草を赤く染める。辺りに漂う死臭を消そうとするかのように、風が吹き抜けていった。 焼けこげ、そして真っ二つになってしまった魔物の亡骸を見ても、彼女はただ立っていた。それが当然の報いだ、とでも言いたげに・・。確かに、彼女を喰らおうとしてきた魔物が悪いのだ。だけど、魔物だって命ある生き物だ。その命を繋げるために、彼女に襲いかかってきた。その懸命に生きようとする命を奪ったのだ。たとえそれが己の身を守るための防衛だとしても、一つの命を消し去ってしまったことに何らかわりはないというのに、少女は眉ひとつ動かさない。それどころか冷たい瞳をしていた。 「いい気味だわ」 そう言い捨て、彼女はまだわずかに煙を上げている魔物に踵を返し、歩き始めた。そんな彼女の記憶の中からは、先程自分の手で殺した魔物のことなど、もう既に消え始めているのだろう。 不意に彼女は歩みを止めた。膝にまとわりつくスカートの裾を気にしてのことだった。 「・・・・?」 一体なんだろうと視線を落としてみると、先程殺した魔物の返り血だろう。ドロリとした液体が、彼女のスカートの裾を濡らしていた。それはまるで、自分を殺した人間の記憶の中から消えてしまうことを嫌がっているかのように。もしくは、彼女を責めているのかもしれない。 だが、それでも彼女の表情は変わらない。罪の意識に苛まれることは決してない。いや、むしろ不機嫌そうに眉を寄せる。 「うっとうしいわね」 吐き捨てるように言った少女は、魔物の血のついたスカートの裾をつまみ、再び歩き出す。だが、彼女が向かったのは今まさに向かっていた方向とは全く逆だった。つい先程、小さな湖の横を通り過ぎてきたことを思い出したのだ。そこで魔物の血を洗い流そうということらしい。 生き物の焼き焦げた匂いと、青葉を濡らす血のいやに鼻を突く匂いが完全に途切れた頃、彼女は小さな湖の畔に立っていた。水辺にいた小さな鳥たちが、驚いた様に飛び立ち、少し離れたところに再び降り立つ。彼らの羽根から投げ出された雫が、静かな湖面に波紋を投げかける。それが消えるのを、なんとなく見守った後、少女は徐に湖の中へと歩を進める。 水は清らかに澄み、そして肌に刺さる様に冷たい。だが、次第にその痛みにも慣れて、何も感じなくなる。そう、最初に他人の命を奪った時、執拗に胸を突き刺していた痛みも、今ではもう感じない。何も、感じない。この水の冷たさのように、慣れてしまったのかもしれない。 「・・・」 こんな樹海の奥深くに人がいるとは思えなかったけれど、一応周囲に人の姿がないことを確かめた少女は、魔物の血が付いて汚れてしまった黒いワンピースを脱いだ。そして、そのまま湖面に落とす。一瞬湖面を濁らせた魔物の血は、やがて水の清らかさに吸い込まれる様にして消えていった。 完全に水が澄むのを待たず、少女は一度湖を出て、慣れた手つきで髪を結い上げると、もう一度周囲に視線を走らせてから、肩からおろした鞄のそばに、着ていたものを丁寧にたたんで置いた。まっすぐな太陽の光に照らされた体は、先程魔物をいとも簡単に殺してしまった少女のものとは思えないほどに細く、頼りない。彼女をやさしく包んでいるはずの太陽の光・・・そして、その光を受け、キラキラと輝いている湖面にさえも、彼女の存在は溶けて消えてしまいそうで・・・・。それは、日に焼けていない、少し不健康な肌の所為。そして何よりも、何も見つめていない様な彼女の瞳、何の感情も持ち合わせてはいないかのように冷たい表情の所為・・・。 今にも消えてしまいそうな、そんな彼女を救っているのは彼女の首からぶら下がっている青い石。今にも切れてしまいそうに古い、けれど衰えることのない輝きを称えている銀の鎖のその先。青い美しい石が、彼女の胸元を飾っていた。そしてもう一つ、彼女の左手首に刻まれた模様。手首をぐるりと一周する様にして這う黒い茨の様な文様は、まるで彼女を縛る茨の鎖の様に細い手首に巻き付いている。 その湖よりも澄んだ石の輝きと、彼女をこの世にとどめているかの様な茨の文様のみが、少女の存在を彼女自身よりも強く、際だたせている様だった。 湖に体を沈めようとしたその刹那、少女は不意に動きを止めた。静かな動きで首に手をやると、青い石のネックレスをそっと外した。そうしてそれを掌に収める彼女の仕草は、とても優しい。その石に注ぐ視線も、またしかり。愛しいものを見つめる様に優しく・・・そして切ない。 彼女が首からネックレスを外した理由も、水につけることで、鎖の傷みを進行させたくなかったからだろう。 外したネックレスを彼女は鞄のそばにおろすと、今度こそ湖に入っていく。腰のあたりまで水に浸かったところで、彼女は後ろを振り返った。すっかり魔物の血が洗い流されたスカートが、空しく湖面に浮いているのを見つけ、無造作に手を振る。すると彼女の指先から躍り出た小さな風は、まるで意志を持っているかの様にスカートまで辿り着くと、湖面から掬い上げた。そのまま近くの木の枝にスカートを引っかけると、何処かへと消えてしまった。 再度彼女は指を振った。次に生まれた風は、そよ風の様な優しさで鞄のそばに置かれたネックレスを掬い上げ、先程の風がそうしたよう、木の枝まで辿り着くとスカートの上にネックレスを引っかけ、消えた。地面に置いておくよりも、木の枝に引っかけておく方が安心だ。これで水浴びに専念できる、と彼女は一気に身を沈めた。 「冷た・・ッ」 飛び上がりそうになった心臓を何とかなだめすかし、そのまま湖にとどまる。しばらくすると、身を裂くかのように肌を突き刺してくる水の冷たさにも、何とか慣れてきた。 遠くで、何かの鳴き声が聞こえる。鳥だろうか? それとも魔物だろうか? 魔物・・・。 「・・・・」 一瞬彼女の黒い瞳に殺意の炎がともる。胸の奥で再び燃え上がろうとする殺伐とした感情を振り切ろうとするかのように、彼女は両手に掬った水に顔を沈めた。次に開いた夜色の瞳。その中には、炎の姿はない。なくなっている。一体どこへ消えてしまったのだろうか? もしかしたら湖の中に吸い込まれてしまったのかもしれない。 「ふぅ」 もう一度掬った水で顔を洗った少女は、岸へと向けて歩き始めた。水の冷たさには慣れたものの、やはり冷たいことには何ら変わりない。あまりつかりすぎていては、風邪をひいてしまいかねない。 体を拭くため、鞄の中に入っているタオルに手を伸ばした、その時だった。 「誰!?」 小さく揺れた茂みに鋭く問いかけたのと、茂みから何か黒いものが飛び出してきたのとはほぼ同時だった。 少女がその黒いものの正体を確認するよりも早く、その黒いものは何を思ったか、近くの枝に干してある少女のスカートを掴み、再び茂みの中へと消えていった。 「魔物!?」 あれはおそらく小型の魔物。 少女はろくに体を拭くこともせずに服を着ると、鞄を肩にかけた。先程までスカートを干していた枝の所まで駆けてくると、辺りを見回す。何かを探していた夜色の瞳が不意に見開かれた。 「・・・ない!」 すぐさま彼女は駆けだしていた。勿論、先程の魔物を追って、だ。ほんの一瞬その瞳におさめただけの魔物の姿を思い浮かべ、そして探る。とても微弱ながらも、その魔物の持っている魔力の気配を。 服なんてどうでもいいのだ。くれてやってもいい。服など金を出せばいつでも手に入れることができる。そう、金を出せば何でも手に入るのならばいい。けれど、あの青い石はどこをどう探しても・・・どんなに金をつぎ込もうとも、決して再び手に入れることはできないものなのだ。だから、あれはだけどうしても手放せない。どんなことがあっても、決して手放してはいけないものなのだ。 ・・・あれだけが唯一、自分を支えてくれるものなのだから。 |