「・・・」 ばたんと閉まったドアを心配そうに見つめていたアノンは、オル・オーネが神妙な表情でジストルの 頭を撫でているのを見て、慌ててティスティーの代わりに謝罪する。 オル・オーネがティスティーの行動を、快く思わなかったのではないかと、心配してのことだった。 「・・あッ、あの、ごめんなさい。ティスティー、ホントに体調が悪いみたいで・・・」 「ああ、いえ。気にしないで下さい」 自分がティスティーのことを怒っているのだと勘違いしたらしいアノンに、違うのだと柔らかく微笑んで見せる 。イスに座った彼女は、まだ心配そうに窓からティスティーの消えていった方を見つめているアノン に「冷めますよ」と、声をかけた。 アノンが彼女を心配する気持ちも分かるが、きっと呼び戻しても、あの魔法使いの少女は食事を口にしない。・ ・いや、出来ないであろうことが、オル・オーネには分かっていた。 けれどそのことを知らないこの少年は、食べた方が良いと勧めるのだろう。 純粋に彼女のことを心配して、だ・・。その純粋な気持ちは、きっと今は彼女を困らせるだけだ。 「さ、どうぞ召し上がってください」 「・・・いただきます」 再度オル・オーネに促されて、アノンはおとなしく席についた。 彼が食事を始めたのを音で確認してから、オル・オーネもスプーンを手に取り、 スープを掬った。が、それを口に運ぶ前に手を止める。アノンの食が、進んでいないことに気付いたのだ。 意味もなく、スープをかき混ぜているのだろうか。カチャカチャとスプーンが皿に触れる音が聞こえ てくる。外に出ていってしまったティスティーのことが心配で仕方がないのだろう。 確かに、彼女の様子はどこか少しおかしかった。彼女は少し疲れているだけだと言ったが 、果たして本当にそうだろうか? 確かに、疲れているということもあるだろう。だが 、もっと他に、何かがあるのではないだろうか? ・・病気か何かだろうか? 彼女がひどく弱っているのではないかと、オル・オーネは最初彼女に出会ったときに思ったのだ。つ い先程までは、彼女が言っていたように、本当にただ疲れているだけなのだろう、と思って いたが、アノンの口から彼女が魔法使いであることを聞いたときに、それだけではないの だということを察した。何故なら、彼女から魔力の存在をほとんど微弱にしか感じなかったのだから 。自分も彼女と同じ、魔力を持ち魔法を使う身。更に、目が見えなくなってからと言うもの、魔力の気 配に敏感に反応するようになった。視覚が閉ざされて、第六感というものが磨かれたのかもしれない。そ れなのに、彼女からは魔力の気配を、ほとんど察することが出来なかったのだ。魔力をひどく消耗し てしまっているのかもしれない。 それとも、意識的に魔力を内に隠していたのだろうか? 例えそうだとしても、オル・オーネが感じ取ることが出来なかったのは、魔力だけではない。 本来ならば人を包んでいるはずの気=E・オーラとでも言うのだろうか? それを彼女からは 僅かにしか感じ取ることが出来なかったのだ。 最初、彼女らにあったとき、アノンを包む温かくて強い気≠ノ、驚いた。彼の気≠フ強さで、彼女の 気≠ェ霞んで見えているだけだと思っていたのに・・・。 本当に治療が必要だったのはアノンではなく、ティスティーの方だったのかもしれない。 「・・・」 アノンに聞いてみたほうがいいのだろうか。 ティスティーと旅をしている彼のことだ。彼女のことを自分よりは知っているはずだ。本当に治 療が必要なら、早い方がいいに決まっているし。 そうしてオル・オーネがアノンに声をかけようと口を開いたとき、彼女は自分の耳に常に届いていた音の存 在に改めて気づく。その音というのは、料理を口に運びながらも、きっとティスティーのことを考えている のだろう。始終心配そうな表情で、しきりに窓の外を窺っているアノンが、意味もなくスプーンで皿をつつく音。 その音に、アノンがどんなにティスティーのことを心配しているのかを考えて、オル・オーネは 彼にティスティーの体調のことを聞くのはやめた。 「・・・後でティスティーさんには、消化に良いものを作って差し上げましょうね」 お粥がいいでしょうか? と優しく微笑んで言ったオル・オーネに、お粥ならティスティーも食べてくれる かもしれないと思ったのだろう、アノンは安心したように微笑む。 「ありがとう! オル・オーネさんッ」 これでティスティーの方は大丈夫。と、アノンはようやく食事の方に意識を向けることが出来たようだ 。いつもと同様、ニコニコしながら、料理を頬張る彼の姿は微笑ましいものがある。本当に 幸せそうに食べてくれるものだから、料理を作った者としては嬉しい限りだ。だが、オル・オーネに はそんなアノンの幸せそうな表情など見えない。それでも、十分すぎるほど彼が自分の作った料理 を美味しそうに食べてくれていることは、手に取るように分かった。 自分の足下で、ご飯を食べているジストルの機嫌も良いようだ。あまり他人に対していい顔をしない ジストルも、この少年は気に入ったのだろうか。 ・・それとも、彼も思い出しているのだろうか? もう一人のご主人と三人で、食事をしていた頃の、あの優しい時間のことを・・・。 「ごちそうさまでしたッ」 両手を合わせて、お行儀良くごちそうさまを言ったアノンに、オル・オーネは「はい」と返事を返す。 そしてすぐに、カシャンと食器を持ち上げる音が耳に届いた。どうやら彼が食器をキッチンまで運ぼうとして いるらしいことに気付いたオル・オーネは、「私がやりますから」と、アノンに声をかけたが。 「これくらいはしなくちゃ」 そう言って、アノンは足取りも軽くキッチンの方へと消えていった。 「あら・・」 続いて聞こえてきた水音に、オル・オーネはおっとりと声を上げた。 どうやら彼は、持っていったついでだ、と自分の食器を洗っているらしい。カチ ャカチャと食器同士が触れ合う音と、楽しそうな鼻歌が聞こえてくる。自分の他に誰かがい る、その空間が、何だか懐かしくて、心地良い。思わず瞳を閉じる 。変わらず闇は続いているが、その闇の中に浮かんでくるのは、優しいあの人の笑顔だった。必ず帰 ってくると言って、旅立って行った人。 そう、必ず帰ってくると言って。 あの日から、もう七年。七年の月日が過ぎ去ってしまった。 いったい、あとどれだけ待てば、彼は帰ってくるのだろうか? いったい、後どれだけ・・・? 「オル・オーネさん」 いつの間にか食器を洗い終えたらしいアノンの声で、オル・オーネは閉ざしていた瞼をあげる 。 「食器、洗っておいてくれたんですね。ありがとうございます」 「・・・」 「アノンくん?」 礼を述べた自分に、何も返ってこない。首を傾げたオル・オーネに返ってきたのは、アノンの労るような言葉だった。 「どうかしたんですか? ご飯、進んでないですね」 彼に言われて初めて、オル・オーネは自分の前に並んだ料理に全く手をつけていないことに気付く。 少々感傷に浸りすぎていたらしい。スープはだいぶ冷めてしまったようだ。 「何でもありません。少し考え事をしていただけです」 心配そうな口調のアノンに、彼女はそう答え、それを証明するように、にこやかに微笑んで見せた。 その笑みに安心したのか、アノンは良かった、と自分も彼女に負けないくらいの微笑みを浮かべる。 その心底安心したようなアノンの口調に、オル・オーネは自分が温かな気持ちに包まれていくのを感じていた。 つい先程まで、自分は何を考えていた? 自分は彼の帰りをあとどれくらい待てば良いのだろうか? それは暗に、 もしかしたら、もう彼は帰ってこないのかもしれないという不安を表していた。人のぬくもりに触れ、旅 立っていった彼のぬくもりを鮮明に思い出してしまった。それは懐かしむべきものであるのと同時に、 離れていってしまったぬくもりの大きさ、温かさを思い、胸の隅に巣くう絶望という名の闇を浮上させるものでもあった。 そう。今まさにその闇に囚われかけていた心を、彼は救ってくれている。 特に何をしたわけでもない。けれど、救われたような気がするのは、いったい何なのだろうか? まるで魔法。彼だけが持つ、魔法。 「ティスティー、まだかなァ?」 キィ、っと窓が押し開かれる音がして、風に乗ってアノンの心配そうな声が、オル・オーネに届く。外 に出ていったティスティーのことを気にしているらしい。 「・・・オレ、ちょっとそこらへん見てきます」 「待ってください」 そう言って、小走りに駆け出して行こうとしたアノンを呼び止めたのは、オル・オーネの声だった。 何だろう? と立ち止まったアノンに、オル・オーネは言った。 「外は危ないですわ。ジストルを連れて行ってください。この子は夜目が利きますから・・」 夜目が利く、というのは彼女が灰色の魔獣を連れて行くと良いと言った、いくつかの理由のうちの一つだろう。 きっと彼女がこの魔物の多く出る森で暮らしてこれたのは、ジストルが戦闘能力に優れている魔物だったということがあ るのではないだろうか? 「大丈夫」 主人に促されて自分の方へ寄ってきた灰色の魔物に、アノンはそう言って微笑んで見せる。 ジストルは彼の言葉を解したのだろう、どうすればいいのかご主人様に意見を仰ぐよう、オル ・オーネの方を振り返って小さく鳴いた。 自分の側まで戻ってきたジストルの、困ったような鳴き声に、オル・オー ネがジストルの頭を撫でながら、もう一度アノンにジストルを連れて行くよう勧める。 「でも、やはり・・」 「大丈夫だよ」 もう一度、今度はオル・オーネに向かって、アノンははっきりとそう言った 。そして、次の彼女の言葉を待つことなく、ご主人様の側で所在なさげに佇んでいるジストルの前にかがみ込む。じ っとその獣の一見冷たくはあるが、奥の方では温かな輝きを称えている金色の瞳を覗き込んで言った。 「オレは大丈夫だから、オル・オーネさんを頼むね」 そのアノンの言葉に、ジストルは言われるまでもないと言うように鳴いて、オル・オーネの側に戻り、座り直した。 それでも、少し心配そうな瞳をして自分を見ていたような気がしたのだが、それは自惚れだったのだろうか? もしも自惚れなどではないのなら、ジストルとも仲良くなれるかもしれない。ティスティーをつれて帰ってきたら、 ジストルと遊んでみよう。 そんな、他愛のないことを考え、「よしッ」とおかしな覚悟を決めたアノンは、 まだ心配しているのだろう、ドアに手をかける自分の方を見つめているオル・オーネにもう一度「 大丈夫だから」と言って、軋む扉を押し開け、外に出て行った。 |