オル・オーネは、隣に立つアノンに気付かれぬよう、小さな笑いを零す。 鼻歌交じりに包丁を動かしているアノンの、何とも楽しそうな様子に、陽気な気分になったのだ。 楽しそうなアノンの持つ包丁が、軽快にリズムを刻んでいる事に気付き、オル・オーネはアノンに声をかけた。 「手際がよろしいですわね。お料理は得意なんですか?」 「うん。昔からやってたから」 そうですか、とだけオル・オーネは相槌を打った。 「・・・」 彼女は、家族のことを聞いてこなかった。 もしかしたら、自分に両親がいないことを、雰囲気で悟ったのかもしれない。 と言うことに、アノンは気付いた。そして、何も問うてこないオル・オーネに、思わずホッとしている自分がいることにも・・・。 ご両親は? そう聞かれたとしても、どうってことはない。真実を答えるだけだ。でも、そうする と大抵の人は申し訳なさそうな顔をするのだ。アノンはその表情が、あまり好きではなかったから。 「そう言えばアノンくんとティスティーさんは、古くからのお知り合いですか?」 突然途切れた会話の所為でその場に落ちかけた沈黙を嫌ってか、オル・オーネはそう話しかけてきた。 「ううん。ちょっと前に知り合ったばっかり」 アノンの方もその意図に気付いてか─おそらくは、ただオル・オーネと楽しく話がしたかっただけなのだろう─ 彼女の質問に対して短く答えて終わりにすることはなかった。彼女に自分の旅の目的、テ ィスティーと旅をすることになった経緯を、かいつまんでではあったが、楽しそうに話し始めた。 それでも、野菜を切っている手は止めなかったけれど。 「あのね、オレ、ルウって人を捜しにヒューディスに行きたくてさ。あ、ルウってオレの父さん・・・・ って言うか、兄さんみたいな人。でね、旅に出たいなって思ってた所に、ちょうど同じようにヒューディスに 行くティスティーに会ったから、パーティーを組もうってなって・・。やっぱ魔法使いがいてくれたら心強いなって 思ってサ。あ、オレ、戦士なんだ」 そう言えば言ってなかったよね。と、付け加えていったアノンに返ってきたオル・オーネからの反応は、 彼の予期していなかったものだった。 「魔法使い? ティスティーさんが?」 アノンは包丁を動かしていた手を、思わず止めてしまった。 これまで、自分が戦士だと名乗って「え?」と驚かれたことなら何度もある。そ う、本当に何度も・・。だが、ティスティーが魔法使いだと言えば、誰もがその妙に落ち着ききった雰囲気に「なるほ ど」と納得したのだ。それなのにオル・オーネは、ティスティーが魔法使いだとは思わなかった。 と、暗にそう言ったのだ。 今までと全く逆の反応をされて、アノンは少し驚いたように訊ね返してしまう。 「え? うん。そうだけど?」 「・・・・いえ。何でもありません」 ニッコリと微笑んで、オル・オーネはそう答えた。 彼女が答えるまでに開いた間が、少し気になったけれど、彼女が何でもないと言った のだ。ならば本当に何でもないことだったのだろう、と納得したらしいアノンは、再び包丁を動かし始めたのだった。 やがて、すっかり日が暮れたころ、オル・オーネが作っていたスープから良い香りが溢れ始めていた。 「あ、コレ、持っていくね」 「はい。お願いします」 オル・オーネが皿についだスープを両手に持ち、アノンはティスティーの待つ部屋へと足を向ける。 「あちちち・・」 スープを零さないように気を付けながら行かなくてはいけないのだが、あまりゆっくりだ と熱さに耐えられなくて落としてしまう。足早に部屋の中に入ってきたアノンを、「ちょっと 、大丈夫?」と、ティスティーが思わず駆け寄って片方の皿を受け取ろうとする。だが、ア ノンはそれを拒むように首を振った。 「大丈夫♪ ティスティーは休んでてってば」 「休んでてって言われてもねー・・」 確かに疲れているから、と言ったのは自分だが、目の前でこう危ないことをされて平然と休んで いられるほど自分はのんびりやではない。 料理を運ぶくらいどうってことはない。と、手伝うことを申し出たティスティーに 、「大丈夫だから」と繰り返し、何とかスープを零すことなくテーブルの上に置く。 続いて他の料理を取りに行ったアノンの後ろ姿を見送って、ティスティーは小さく溜息をついた。 休んでいてと彼に言われたとおり、再びイスに腰を下ろす。 テーブルの上に並べられたスープは、温かな湯気を上げていた。食欲をそそる、いい香りだ。 だが、ティスティーはその香りから顔を背けるようにして立ち上がる。 気持ちが悪くなったからだ。 やはり体調がおかしい。近頃、食べ物を拒むようになってきたのだ。 拒食症だとか、そんな大層なものではないが、食べたくない。今は、食べることが出来ないように思われた。 料理をこしらえてくれたオル・オーネと、それを手伝ったアノンには悪いが、どうやら、夕食は遠慮させて もらうことになるだろう。 席を離れたティスティーは、出窓の方に寄る。 窓の外は、部屋の中が明るいのも手伝ってか、随分と暗くなっている。見える のは、闇を纏った木々ばかり、聞こえてくるのは鳥の鳴き声だけ・・。いや、もしかしたら魔物の鳴き声かもしれない 。実際、この明かりにつられて寄ってくる魔物もいるだろう。はっきり言って、こんな危険な所に一人で住み 、ただただ恋人の帰りを待ち続けているオル・オーネの気が知れない。 暗い外の景色から視線をおとすと、窓辺に置かれている写真立てが目に入った。 手に取ってみるとそこには、今とは違う綺麗な紫色の瞳をしたオル・オーネと、ジストル。 そして、一人の青年の姿があった。 少し赤の入った茶色の髪と、優しい夜色の瞳。オル・オーネの肩を優しく抱いて微笑んでいるその青年が、 彼女の言っていた愛しい人なのだと言うことは、一目瞭然だった。 オル・オーネが、ずっとずっと待っている人。もう、帰って来ないかもしれないというのに、 彼女はひたすら信じて彼の帰りを待っているのだ。七年間も・・・。 「・・・・」 不意にティスティーはあることに気付く。 七年もの月日が経ったというのに、その写真立てが、全く埃をかぶっていないことに、だ。 おそらく、彼女が毎日綺麗にしているのだろう。 きっと彼女は、この思い出の写真が埃をかぶってしまうことが嫌だったのだ。 例え埃をかぶっていようがいまいが、自分にはそれが見えないとしても、それでも・・。 おそらく彼女の中にぼんやりと残っているこの写真の彼の笑顔を、埃で曇らせないよう・・・・。 そうして、熱心にこの写真立てを拭いている彼女の姿が、容易に想像できる。 その姿が、あまりにも滑稽だと、ティスティーは感じた。 だって、そうではないか? 何故、七年間も自分を一人にした彼を信じていられる? もう忘れられたのだ、と。裏切られたのだ、と、諦めてしまえばいいのに・・・・。 「ティスティー、ご飯だよ♪」 明るいアノンの声に振り向いたティスティーは、また両手に一つずつ料理を持つアノンと、 大きなトレイの上に料理を乗せて運んでくる、オル・オーネの姿だった。 やはり彼女の隣には、灰色の獣の姿もある。 「お待たせしました」 「・・・」 どうぞ。と、料理を勧めるオル・オーネに、何故かティスティーは何も答えようとしない。 どうしたのだろう? と首を傾げたアノンだったが、すぐあることに思い当たった 。昨日泊めてもらった修道院でもそうだった。ティスティーが食事をあまり口にしていなかったのだ。 「どうしたの? ティスティー」 ご馳走になろうよ。と促したアノンに返ってきたのは、昨日同じようにティスティーに食事を促した ときに帰ってきた台詞と、全く同じ。 「食欲がないのよ」 という台詞だった。 昨日もそう言って、本当に少ししか食べなかったのだ。 これでは体がもたない。 「でも、食べなきゃ―――」 「私は遠慮させてもらうわ。せっかく作ってもらったのに、ごめんなさいね」 アノンの言葉を遮るようにして、ティスティーはそうオル・オーネに謝ると、 危ないからとアノンが止めるのも聞かず、扉を押し開き、外に出て行ってしまった。 |