KINGDOM →→ イレース

 PLACE →→ セリル


 しばらく林の奥へと進んだところに、オル・オーネの住まいはあった。
 少し薄暗い林の中、天井の高い、教会を彷彿とさせる白い建物は、清らかに周囲を照らしているように見えた。 屋根のてっぺんには、十字架が立てられている。
 彼女が育てているのだろう。色とりどりの愛らしい花が、建物の周りを囲むようにして咲き乱れていた。 ここが、いよいよあの、魔物の巣窟とも言われているヒューディスに近い場所だなどとは、微塵も感じさせない 穏やかさがそこにはあった。
 二人を中に招き入れ、イスを勧めたオル・オーネは、「手当てをしますね」と言うなりアノンの前に立った。
「?」
 てっきり、包帯やら薬草やらを持ってくるだろうと思っていたティスティーは首を傾げた後、 アノンに向けて手を翳した彼女の行動に気付く。彼女が魔法を使うのであろう事を。
 一瞬、空気が揺れた。この、風もないはずの建物の中の空気が・・・。
 魔力の発動。
 傷の回復を助けてくれる、水の精霊の力だ。フワリとアノンの体を包んだ光は、 優しく彼の肌を撫でると、すぐに姿を消した。
「どうですか?」
 傷は治りましたか? とオル・オーネに問われ、そう言えばと体中を見回したアノンは、つ い先程まで頬や腕にくっきりと付いていた傷が、全くなくなっていることに気付いた。勿論、痛みもない。
「わァ、ありがとう、オル・オーネさん。治ってるよッ」
「それは良かったですわ」
 嬉々とした声を上げるアノンに、オル・オーネも嬉しそうに微笑んだ。
「・・・貴女、魔法が使えるのね」
 オル・オーネがアノンを治療しているのを黙って見守っていたティスティーが、そう彼女に話しかける。
「ええ。回復魔法だけですけど」
 と、オル・オーネは殊勝なことを言ったが、彼女の魔力はなかなかのものだった。 回復魔法の際に呼び出した精霊が、上級位の精霊だったにもかかわらず、彼女は別段疲れた様子もなく、 依然ニコニコと笑顔のままだ。
 やはり彼女は人間だ。
 精霊は魔物には使役されないと聞く。今目の前で彼女が精霊を召喚し、使役したことが、彼女が人間である最たる証拠。
 では何故─確かに強い魔力を持ってはいるようだが─女性が、こんな林の中に住んでいるのだろうか? ヒューディスまで、もう一つ森を挟んではいるが、夜になると、おそらく魔物はここまでやって来るに違いない。 そんな危険な場所に、何故?
 そんな疑問をティスティーが口に出す前に、オル・オーネの方が先に口を開いた。
「お二人は何故こんな所にいらしたのですか? ここはヒューディスに近い林。安全な場所ではありませんのに・・・」
 言葉自体は、こんな場所に来た二人を責めているようだったが、その口調は、何だか嬉しそうだった。
 彼女が自分で言ったように、ここは安全な場所ではない。故に、ここに人が来ることはとても稀なのだ。 この家に来るのは、林の近くにあるソトスの街から食料などを届けてくれる、修道士だけだった。 二人のように若い人が来るのは本当に久し振りで、少し嬉しかったのだ。
「オレたち、ちょっとヒューディスに用があって、旅してるんです」
「では今夜は、ここに泊まられては?」
 話の流れからして、そう言う台詞に辿り着いてもおかしくはなかったのだが、その提 案はそこに辿り着くまでの「何故旅をしているんですか?」や、「今夜の宿はおきまり ですか?」などという会話を全部省略して出てきたかのように、唐突なものだった。
 突然の提案に、アノンとティスティーは思わず顔を見合わせてしまった。
 そんな雰囲気を感じ取ったのか、オル・オーネは自分の申し出があまりにも唐突であったことに気付 き、少し頬を赤らめる。
「私ったら・・。すみません。勝手なことを言ってしまって・・・」
「ううん。泊めてもらえるなら、助かります」
 謝るオル・オーネに、アノンはそう答える。
 暗に「泊めてください」と言ってしまったアノンは、ティスティーに意見を聞いていなかったことに気付 く。しまったと顔をしかめつつ、ティスティーに視線を遣る。
 そんなアノンの視線に気付いたティスティーは、「仕方ないわねー」とでも言いたげに、肩を竦めて見せた。
 ティスティーからOKが出たのを見てホッとしたアノンは、再びオル・オーネの方に向き直る。
「オル・オーネさん。もし迷惑じゃなかったら、泊めてもらってもいいですか?」
 アノンの改めてのお願いに、オル・オーネはパッと表情を輝かせる。
「ええ。勿論です」
「わぁ―――い。ありがとう」
 最初、オル・オーネが、泊まっていきませんか? と唐突に申し出たとき、 アノンは感じ取っていた。何の根拠もないけれど、彼女は自分たちに、泊まっていって欲しいのではないか、 ここにいて欲しいのではないか? と。
 泊めてもらえると助かることは本当だった。さすがにこのヒューディスに近い林の中で、 夜を明かしたいとは思わない。おそらく、一睡も出来ないだろうから。
 けれど、彼女が謝ったとき、アノンが泊めて欲しいと頼んだのは、 彼女がそれを望んでいる。と、そう思ったからだった。
「・・・実は私、手当てをしますから家へ、って言ったときから、お二人にはここに泊まっていただこうと思っていたんです」
 このオル・オーネの言葉は、アノンが彼女から感じ取った物が、間違いでなかったことを示していた。
「ここに人が来ることは、本当に稀ですから。それに・・・」
 そこで言葉を濁したオル・オーネは、少しはにかむような笑みを見せ、言葉を繋いだ。
「それに明日は、特別な日なんです。だから、一人では迎えたくなくて・・・」
「明日? 何かあるの?」
 特別な日、と言うからには何かあるのだろう。
 不思議そうに首を傾げるアノンの声に、オル・オーネはそちらへ顔を向けて答える。
「・・・私の、愛する人の誕生日なのです」
 微かに頬を赤らめ、オル・オーネはそう言った。
 その彼女の言葉に、ティスティーは家の中を見回す。この家の中に入ったときから思っていた。 ここに、オル・オーネ以外の人が住んでいる様子が、全く窺えなかったからだ。 愛する人、と言うからには、おそらく恋人だろう。別々に住んでいるのだろうか ? だが、こんな危険な場所に恋人を住まわせておく男がいるだろうか。
「オル・オーネさんの好きな人? 会ってみたいな」
 会ってみたいとそう言ったアノンに、オル・オーネは少し困ったような表情をし、薄 い微笑を浮かべてみせる。その笑みは、照れではなく、本当に困ったようなもので・・。
「あ、オレ・・・」
 何か、彼女の気に触るようなことでも言ったのだろうか、と口を開いたアノンに、オル・オーネは慌てて言う。
「ああ、ごめんさい。アノンくんが気にすることはないですよ」
 目が見えず、相手の表情を窺うことは出来なくても、オル・オーネは相手の声、 喋り方、雰囲気で相手の感情を敏感に感じ取るようだった。
「ごめんなさいね。彼に会わせてあげたいのだけれど、彼は今、旅に出ていますの」
 自分の恋人に会ってみたいと言ったアノンに、申し訳なさそうに謝り、彼女はそう言った。
「旅に?」
「ええ」
 訊ね返してしまったアノンに、オル・オーネは頷いて見せた後、徐に自分の瞳に手を触れさせる。
「私のこの目・・・。今では全く見えませんが、昔はちゃんと見えていたんです。空の青も、木々の緑も 、ジストルの姿も、・・・あの人の笑顔も・・・・」
 愛おしげに自分の瞳に触れる彼女の顔には、薄い微笑が浮かんでいた。その瞳 が光を失った悲しみからではなく、昔その瞳に映っていた風景、側に寄り添う獣の姿、そし て、自分に微笑みかける愛しい人の姿を思い、ただただ懐かしさでいっぱいで・・・。だから微笑んでいた。
 その彼女の微笑みに、アノンは聞けなかった。もしかしたら、彼女のこの穏やかな笑みを壊し てしまうかもしれない。そう思うと・・・。絶対に聞けなかった。
「どうして視力を?」
 なんて・・・。
「・・・・・・・・・」
 そう。この言葉だ。自分が訊ねたくても訊ねられなかった言葉は・ ・・。普通、人は聞きにくいことなのだ、これは・・・! なのにティスティーは何の躊躇いもな く、それはもうあっさりと。
「いや、もうティスティーってばすごいよ・・・。ホントに・・」的な目で見つめられたティスティーはというと、 訝しげに眉をひそめてアノンを見返してくる。分からない? 分からない? そうか。そう言えば 、ティスティーはそう言うヤツだった。
「病です」
 不躾な問いだとも取れるティスティーの言葉だったが、オル・オーネはそんなことを気にもとめず、その問いに答える。
「九年ほど前、高熱を出してしまったことがあったんです。ようやく熱も下がったときにはもう、私の両目は、光を失っていたんです。はっきりとして原因は分からないんですけど」
 ある日突然、光を奪われてしまった。そう、本当に突然。それはかなりのショックであったろうことは、 アノンにも容易に想像することが出来た。
 けれどオル・オーネは、辛い表情など、一切見せなかった。それどころか、むしろ彼女の 表情からよみとれるのは、溢れんばかりの希望。
 その理由は・・・。
「私は、待っているんです」
「・・・何を?」
「私の瞳に、再び光が戻ってくる日を」
 信じているのだ。いつの日か再び自分の瞳に光が戻ってくることを。失 明して、既に九年の月日が流れた今でも、希望の光だけは見失うことなく・・・。
「私が失明して一年後、彼は旅立っていきました」
 オル・オーネの言った彼と言うのが、彼女の恋人であることはすぐに察せられた。 と、同時に、二人は思わず「え?」と、を上げてしまっていた。目の見えない恋人をこんな所に置 いて、旅に出ていったその男の目的が、何なのか、分からなかったからだ。まさ か、彼女を見限ったわけではないだろう。
「彼は言いました」
 あくまで穏やかな調子で、オル・オーネは続ける。
「彼の誕生日を、翌日に控えていた日でした。彼は言ったんです。 光≠連れて、必ず帰ってくる。次に自分の誕生日が来る日に、必ず。と・・・」
 彼は言ったのだ。次に自分の誕生日が来る日・・。つまり、一年後の自分の誕生日に、 必ず戻ってくると、約束してくれたのだ。そう。光≠・・・、オル・オーネの目を 治すための方法を持って、帰ってくると・・・。
「・・・・お分かりの通り、彼が帰ってくると言った約束の日から、明日でちょうど七年が経つんです」
 そう言って、オル・オーネは初めて表情を曇らせた。
 この林の中、ジストルと二人懸命に暮らしてきた。一年後、 再び彼が自分の光≠・・、そして彼の笑顔を連れて帰ってきてくれる日のこ とを、今か今かと心待ちにしながら・・・。
 ケーキを焼いて、彼の大好きな料理を作り、 プレゼントも用意した。彼の誕生日を祝う準備を全てすませ、彼の帰り を待っていた。ずっとずっと待っていたのに、彼は帰ってこなかった。もしかしたら、少し遅 れるのかもしれない。そう思って待っていた。けれど、そうして待っている内に、再 び一年が経ち、二年が経ち・・・。何度も一人で彼の誕生日を祝ってきたのだ。今年こそは・・・、 今年こそは・・・! と。
 辛そうな表情のオル・オーネを労るように、ジストルが彼女の手に鼻を擦りつける。ジストル も、彼女と同じ思いなのだ。いつかもう一人のご主人が帰ってくるのだと、信じているのだ。 それまで、彼女を守るのは自分の使命なのだと、そう思っているのだろう。
 オル・オーネは自分を気遣ってくれるジストルの頭を優しく撫でると、口を開いた。
「私は、彼のことを信じています」
 彼は帰ってくると言った。その言葉を、今でもずっと信じています。と、そう言って胸の 前で両手を組んだオル・オーネは、黒くシンプルな修道服と、彼女の穏やかな表情とが手伝 っているのだろう、清らかな聖女を思わせる。
 聖女。たとえそうだとしても、それでも彼女は人間だ。信じてばかりいられるわけがない 。不安になることだってある。疑ってしまうことだってある。
「信じているんです・・。でも、恐いんです。もしかしたら彼が、今年も帰ってこないんじゃないかって・・・・」
 毎年、彼の誕生日が近付いてくるたびに、そんな不安が彼女の中に顔を見せる。し かもその不安は、年を重ねる毎に大きくなっていくのだ。
 しかしたら彼に、何かあったのかもしれない。怪我だろうか? 病気だろうか? まさか、死んでしまったなんてことは・・・。それとも、もう彼は自分のことなど忘れてしまった のだろうか? 思い浮かぶどの可能性も否定しきれなくて・・。そうして疑ってしまう自分 自身に絶望したくなるときもある。街の修道院の仲間たちも、こっちに来ないかと誘ってくれる。 その誘いに、逃げてしまいたくなるときだってある。それでも、それでも何とか今までここで待ってきたのだ 。きっと、これからもずっとこうして彼を待ち続けていく。待ち続けていきたい・・・! 彼が帰って 来る事を信じていたい。
「・・・」
「えっと・・・、あの・・」
 俯いてしまった彼女の瞳から、涙が零れ落ちてもおかしくはない。そんな 雰囲気の中で、アノンはどうしていいのか分からずに、オロオロと落ちつきなく視線を泳がせている。
「ティスティー・・」
 どうしよう? と、ティスティーに救いを求めてみるけれど、彼女は何も言ってくれな かった。無表情・・・、いや、むしろ怒っているような表情で、オル・オーネを見つめていた。ど うしてティスティーがそんな顔をしているのかが分からなくて、アノンはますます困惑した様子で、視線を漂わせる。
 そんなアノンの様子に気付いてか気付かずか、オル・オーネは俯けていた顔を上げ、明るい調子 で言った。それは明らかに作り物の笑顔だったけれど・・。
「だから、誰かに側にいて欲しくて、お二人を連れてきてしまったんです。 ごめんなさい。迷惑だったんじゃないですか?」
 彼女の言葉に、「そんなことないですッ」と、アノンは勢いよく首を振ってみせる。 その様子は、目の見えないオル・オーネにも、ブンブンという音で、アノンが懸命に首を振っている のが手に取るように分かったのだろう。オル・オーネは楽しそうに笑った。
 その表情にもう翳りはなくて、アノンは安堵する。やはり、誰だって皆、悲しい顔をしているより、 楽しそうに笑っているときの顔の方が好きだ。目の前にいる誰かが笑ってくれると、自分も嬉しくなるから。
 だから、いつでも笑っていてほしい。
そう願うアノンの目に止まるのは、つっ立ったままでいるティスティーだった。
 先程から一向に口を開こうともせず、あまつさえ自分の感情を表そうともしないのだ。その表情は冷たくて、 アノンは不安になる。何故彼女がそんな怒ったような顔をしているのか、全く見当がつかない。 自分が無茶をして怪我をしたことを怒っているのだろうか? ここに泊まることが不満なのだろうか? それともやはり、どこか具合でも悪いのだろうか? 先程、魔法を使ったときもどこか様子がおかしかったし 。旅の疲れが出始めているのかもしれない。なら尚のこと、ここで休ませてもらった方が良い。
「・・・・どうしたの、ティスティー?」
 自分であれこれ考えても仕方ない。
 思い切って本人に問うたアノンに、ティスティーは何か別のことでも考えていたのだろうか、ハッと 我に返ると、急いでアノンに視線を向ける。自分をじっと見つめているのは、とても真剣で 、とても不安そうな瞳。そう、自分のことを心配している青い瞳。不安そうに揺れる青に、「駄目だ 」と自分の中で何かが囁く。この子に、こんな瞳をさせては駄目だ、と。
「・・・少し、疲れただけよ」
 何でもないわよ。と、いつもの調子で言っても良かったのかもしれない。けれど アノンにそんな嘘は通用しないであろうことは、よく分かった。何でもない、と答 えても明らかにどこかおかしい自分の様子に、アノンは更に心配するのだろう 。だから、そう答えたのだ。この答えも実は、真実ではなかったのだけれども・・・。
「そっか。じゃあ、しっかり休ませてもらってね」
「・・ええ」
 自分の言った言葉を素直に信じているアノンに、ティスティーは少しぎこちなく頷き返した。
 いつの頃からだろう? アノンの存在が、自分の中でこんなに大きくなっていたのは。
 いや。
 もしかしたら、最初から彼の存在は大きかったのかもしれない。 あのリダーゼ王国の野原で出会ったときから、彼が自分にとってかけがえのない人になるのだと、 予感していたのだろうか。だから、彼とパーティーを組み、彼と共に旅をしているのかもしれない。 おそらくは報われないであろう、旅の目的なんて忘れて彼とずっと、いろんな所を旅して回っていられたら、と願 ってしまうくらいに、自分はアノンのことを・・・。
 そう。ティスティーはアノンのことを愛していた。
 それは決して、異性への愛情ではなく・・・、彼女らに出会った人たちが時折口にした、子 供を想う親の愛情。それに似ていた。彼の純粋さ。その純粋さ故の危うさに・・、眩しい 笑顔の合間に見える、切ない表情に、彼は自分が守ってやらなくてはという想いを持たずにはいられなく なる。その気持ちを認め、 行動に示してやることは照れくさくて、とてもではないが出来ない。だ けど、大きくなりすぎたこの愛おしさは、もう間違いようのないものだった。
 彼を傷付けられるのは耐えられない。傷付けたくない。その為なら、自分は命を削っても構わない。 命を捧げよう。だけど、決して彼を守り続け、守り抜く事は出来ない。いや。む しろ、傷付けてしまうかもしれない。このまま一緒にいれば、遅かれ早か れ、彼は傷付く。彼を守ってやりたいと真に願っている、自分の所為で。それが分かっているのに さよなら≠ェ言えないのは、きっと自分の・・・、最期の我が儘。
「・・・・・」
 黙っているご主人に、ジストルが小さく鳴いて鼻をすり寄せる。
 何でもないのだという風に、オル・オーネは彼の頭を優しく撫でた。そんな彼女の灰色の瞳は ティスティーに向けられていた。その眼差しが、ティスティーの嘘を見抜いて非難しているのか、そ れとも、ティスティーの胸の内を察し、心配しているのか。感情を表さないその瞳からはどちらとも区別が付かなかった。
 不意に、カチッという音がしたかと思うと、壁に掛かっていた時計の針が、午後五時を示し小さな鐘を鳴らし始める。
 もうこんな時間ですか。と、見えはしないのだが、時計を仰ぎ見てオル・オーネは立ち上がった。
「お腹もすいてきましたし、夕飯の準備をしてきます。お二人はどうぞ、くつろいでいてください」
 何もないところですけどね。と、そう付け加えると、オル・オーネはジストルはゆっくりとイスから腰を上げた。
「あ、オレも手伝います」
 泊めてもらう、せめてものお礼にお手伝いをと思ったらしく、アノンもイスを立つ。
 ありがとうございます。と柔らかく微笑んでから、オル・オーネはジストルを連れて、奥の部屋の方へと向かう。
 おそらくキッチンの方に向かっているのだろうオル・オーネの後を追って、小走りに駆けていくアノンを、 見送っていたティスティーは不意に振り返った彼が、わざわざ自分の方まで戻って来たのを見て、 どうかしたのかと、首を傾げる。
「ティスティーは休んでてね」
 何を言うのかと思いきや・・・。たった一言のためにわざわざ戻ってこなくてもいいだろうに。
「・・・ありがとう」
 零れそうになった微笑みが照れくさくて、内心とは裏腹に口調が冷たくなってしまった。 それでもアノンは気にした風でもなく、むしろ満足したようにいつもの笑顔を見せ 、今度こそ本当にオル・オーネの後を追って行った。
 眩しい笑顔が、瞳の奥に焼きついて離れない。自分には眩しすぎるのかもしれない。彼の笑顔、彼の存在。
 それでも、側にいたいと願う。ずっと、ずっと・・・。
 いつか、彼を傷付けてしまう日が必ず訪れると、分かっていても・・・・。
 ・・そう。分かっているのに・・。
「急がなくちゃ・・・」
 ティスティーの苦しげな溜息が、床の上に零れていった。