「どうかなさいましたか?」 唐突に、穏やかな声が二人に向かってかけられる。 その声に魔物の巣から視線を転じたアノンは、少し離れたところに、 一人の女性が立っているのを見つけた。 修道女だ。 黒を基調とした修道服に身を包んでいるその女性は、二 十代後半くらいだろうか。穏やかな表情とは裏腹に、頬の上にはまった灰色の瞳は金属の持つ輝 きにも似た冷たい光を放ち、ただただ前を見つめている。 そして、何よりも目を引いたのは、彼女の側にぴったりと寄り添っている 、大きな四つ足の獣。灰色の毛に、金の瞳。狼かとも思 われるが、立ち上がればアノンよりも大きいであろう事から、その獣が 魔物であることを示していた。じっと女性と自分とを見つめている見知 らぬ少年少女に、明らかにその魔物は警戒の色を浮かべている。 そんな魔物の様子に気付いたのか、その修道 女は優しく魔物の頭を撫でると、「行きましょう」と魔物を促 し、アノンとティスティーの方に寄って来る。 「・・・」 ティスティーは密かに杖を手に持つ。不 自然に思ったのだ。ヒューディスに近い林の中に、何故修道女が いるのだろうか。もしかしたら人間の姿を真似ている魔物かもしれない。 側に寄り添う四つ足の魔物の存在も手伝って、ティスティーはそ う警戒したのだ。 だが、彼女の様子に変化は見られない。依然、穏やかな表情のまま、再び口を開いた。 「血の匂いがします」 突然、修道女はそう言った。 「どなたか、お怪我をされているのではありませんか?」 「?」 思わず、アノンとティスティーは顔を見合わせてしまった。 怪我をしている人はいないかと彼女は問うたが、間違いなくダラダラと血を流している怪我人は、 彼女の目の前にいる。問うまでもないことだ。見れば分かるのだから。 「・・・オレ、怪我してるけど、こんなのかすり傷だから・・・」 魔物の背に手を乗せ、ゆっくりと近付いてくる修道女に、アノンはそう答える。 「でも、出血が多いのでは? ひどく血の匂いがいたしますもの」 血の匂い? 彼女に言われて鼻を動かしてみたものの、よく分からない。もし、血の匂いがしたとしても、それ でどうして出血の多い少ないが分かるのだろうか。それよりも何故 、彼女は匂い≠フ事ばかり言うのだろうか? しきりに首を捻っているアノンの隣で、じっと修道女を見つめていたティスティーは 、何か思い当たったことがあるらしく、ハッと息を呑んだ。 「貴女、もしかして目が・・・」 ティスティーの言葉に、アノンは驚いて修道女を見たが、彼女の方は別段驚いた素振りも見せなかった。穏 やかな表情のまま頷いて見せた。 「はい。私は目が見えないんです」 そう言った彼女の冷たい灰色の瞳は、一点を見つめたまま、少しも動かない。おそらく、両目とも見えないのだろう。 だからこそ、彼女は微量ながらも血の匂いを嗅ぎ取ることが出来たのだ。 「目は見えませんが、手当てをして差し上げることは出来ます。もしお急ぎでないのでしたら、私の家によってください」 「えっと・・・」 どうしよう・・・。と、視線で訊ねてきたアノンに、ティスティーも少し考え込むように口を噤む。 もしかしたら、彼女は魔物かもしれない。そんな考えが完全に消えたわけではない。だが、 魔物であれば、自分の家に誘い込んでから襲う、というまどろっこしい方法を使うだろうか? 確かにヒュ ーディスには、知能の高い魔物が多いと聞くが・・・。 彼女から、そんな感じはしなかった。それに、アノンに危険が迫っていると 、何故か世話を焼いてくれる精霊たちが何も報せをよこさないし、やはり自分の考え過ぎだったのだろう。 アノンに気付かれない内に、ティスティーは杖を消した。 そしてチラリと見たアノンの怪我は、実際の所、かなり深そうだ。 彼女の言ったように出血も多い。本人はけろりとしているが、このまま放っておくのは勿論良くない 。自分が魔法で治してあげても良いのだが、彼女が手当てをしてくれるというのなら、 それに甘えてしまっても良いだろう。 何よりも、今は魔法を使いたくなかった。きっとまた、アノンに心配をかけてしまうだろうから・・・・。 「・・お急ぎですか?」 「・・・・いえ。そうね、じゃあこの子の手当て、お願いしても良いかしら?」 「はい。勿論です」 ティスティーの言葉に、修道女は穏やかに頷いて見せ、「こちらです」と、二人の前に立って林の奥へと歩き始めた。 彼女と、彼女の側によりそう魔獣とに従って歩き始めたティスティーは、手当てをして もらう当の本人が、ぼーっと突っ立ったままでいることに気付く。 「ちょっと、アノン。早く来なさい」 「え? あ、うん・・・!」 ハッと我に返ったアノンは、慌てて修道女とティスティーの後を追う。 (・・ティスティーが、ちゃんと喋った) 別に、いつもはティスティーがちゃんと喋っていないわけではない。人嫌 いなティスティーは、必要最低限のことしか喋らない。アノン以外の人間とは、 だ。だけど、近頃そんな様子に、変化が見られてきたように、アノンは思うのだ。そう 。船に乗せてもらった頃からだろうか。一応魔物とされてはいるが、有翼人のタタ ラとも何か話していたようだし、船長さんとも喋っているところを見た。今だって 、ちょっと前までのティスティーなら、「行きましょう」と頷いて、修道女への返事は、自分に任せただろうに。 「・・・・」 何だか、嬉しかった。 ティスティーが少しずつでも、人間に心を開き始めていることが。 「エヘヘヘ」 「・・・何よ。気持ち悪いわねー」 タカタカと自分の隣までやって来て笑みを浮かべたアノンに、ティスティーが「何笑 ってるのよ」と、訝って眉を寄せる。 「何でもないよー」 ニコニコと上機嫌のまま、アノンはティスティーを追い抜いて、前を歩いている修道女の隣に並んだ。 修道女の隣にやってきたアノンを警戒するように、灰色の獣が低く唸り声をあげる。 そのことに気付いた修道女が、そんな魔物を宥めるように、獣の背を撫で、優しく叱る。 「こら。駄目よ、ジストル」 「この子、ジストルって言うの?」 今度は灰色の獣の隣に並んだアノンが、修道女に問う。 「はい」 にこやかに頷いた修道女は、何か思いだしたらしく、はたと立ち止まる。 そんな彼女に合わせて、灰色の獣─ジストルもピタリと歩みを止めた。 突然歩みを止めた修道女に、ティスティーはハッとする。後ろ姿からでも、彼女 の表情から穏やかさが消えた事に気付いたのだ。咄嗟に杖を手に握ったティスティ ーに、修道女はゆっくりと振り返った。そして、再び穏やかさを取り戻した顔で 、口を開く。そしてその唇から零れた言葉に、ティスティーは茫然とすることになる。 「あら、そう言えば、自己紹介がまだでしたね」 「・・・・」 何ら危険はない。和やかーな会話の始まりだった。 おそらく彼女が表情を険しくしたその間、「あら? 何か忘れているような気がするわ 。何かしら? うーん・・・・・。そうだわ、自己紹介がまだじゃない。もう私ったら」 なんていう事を考えていただけだったのだ。 ようやく本性を見せた魔物が牙をむいてくるのではと本気で心配したティスティーは、がっくりと肩を落とした。 魔物の巣窟とも呼ばれる北の地、ヒューディスに近づいているので、少々に過敏になってしまっていたのだろう。 「あ。ホントだ。忘れてた」 「では、少し遅くなってしまいましたが自己紹介を致しましょうか」 「そうだね」 「アノンの怪我を手当てするのが先なんじゃないの? アノンも、自己紹介よりも先に怪我の手 当てをしてもらいなさいよ」という言葉を、何とか飲み込んで、ティスティーはもう少し彼らのやりとり を見守ることにしたようだ。いや、もう放っておくことにした、と言う方が正しいのかもしれない。 「私はオル・オーネと申します」 「オレはアノン。・・・・・」 つい先程、だんだん自分以外の人とも喋るようになってきた、と喜んだというのに、 どうやら名乗る気はないらしいティスティーに、アノンは慌ててティスティーのことも紹介する。 「えっとー・・、さっき喋ってた人がティスティー」 目の見えない彼女─オル・オーネに、「こっちの人はティスティー」と言っても、分からないだろうし・・。 迷った末に、アノンはそうティスティーを紹介した。 「アノンくんに、ティスティーさんですね」 そんなアノンの心遣いに気付いたのだろう。まずい言い方をしてしまったかもしれない 、とオロオロしているアノンに、オル・オーネはそう言って、優しく微笑んでみせる。目が見えな い所為か、それとも彼女の性分なのか、周りの雰囲気には敏感なのかもしれない。 彼女の浮かべる微笑はどれも優しくて・・・。 若い彼女には失礼かもしれないが、ま るでお母さんが子供に見せるような・・。そんな微笑みに、アノンは少し照れくさそうに笑みを返した。 |