KINGDOM →→ イレース

 PLACE →→ セリル


 船を下りたその時には既に日も暮れていたこともあり、二人は北へ進むことはしなかった。 その夜は修道院に泊めてもらい、翌朝、北へと出発した。
 イレースの街を二、三通り過ぎ、時計が昼過ぎをさした頃、今朝修道士の教わったとおり、 二人の目の前にうっすらと木が生い茂る林が現れた。この林を抜け、もう一つ森を抜けると 、そこはもうヒューディスなのだという。もう少しで、二人の目指す地、ヒューディスに辿り着くの だ。そんな実感を、一歩一歩確実に感じながら、二人は林の奥へと足を踏み入れていく。
 と、その途中。
「・・・あれ?」
 突然立ち止まったアノンに、ティスティーは小さな溜息を零し、同じように歩みを止め、アノンを振り返る。
「どうしたの、アノン」
 いつもいつもくだらないことで足を止め、ワーワー騒ぐアノンが、また何か面白い物でも見つけたのだろうか。
「・・・あそこ、何かいる」
 そう言ってアノンが指差したのは、二人の横にある、木の頂上付近だった。そこに、何かがいるようだが・・・。
 木の上に何があるのよ。と、文句をたれつつ視線を上げたティスティーの目にも、はっきりとそれは映った。
 鳥か何かの巣だ。ここからでも十分視認できると言うことは、かなり大きな物のようだが。そし て、その巣の隣の木には、首をもたげ、じっと巣を、いや。おそらく巣の中にいる雛か、 卵を狙っているのだろう、大きな蛇がいた。やはり巣と同様、視認できるということは、蛇の大きさ もかなりのものだろう。もしかしたら、魔物の類に入るのかもしれない。
 ティスティーは溜息をつく。
 これからアノンが言いそうなことは、もう十分に察しがついていたからだ。
「・・・アノン。まさかアンタ、蛇を追い払わなくちゃ、なんてバカなこと言うんじゃないでしょうねぇ?」
 彼の今までの行動からして、その推測は正しかった。そしておそらく、アノンが「うん!」と期待通りの答えを 返してくれるであろうことも、ティスティーは予想していた。だが、
「言わないよ」
 と、まるで見当違いの答えに、ティスティーはおや? と首を傾げる。
 絶対、「助ける」と言うと思っていたのに・・・。どういう心境の変化だろうか?「バカ なこと言うんじゃないでしょうねぇ?」と、暗に釘を差しはしたのだが、本気で止める気は、 ティスティーにはなかった。止めても無駄だと言うことはよく分かっていたし、何より、そ れがアノンではないか。困っているものがいたら、どうあってでも助けたい。そう 思い、行動するのがアノンではないか。だから、ティスティーは「あの巣の中の子を助けようなん て言わない」と言ったアノンに、かなり驚いていた。止めておいて今更だが、「うん!」と答えて 欲しかった。そんな優しいアノンが、ティスティーは好きだったのだから。
 どうしたのだろうかと、アノンの方を振り返ったティスティーは、予想外の展開に目を丸くする。
「・・・アノン?」
 今の今まで自分の隣にいたアノンの姿が、忽然と消えていたのだから。
 慌てて周囲を見回してみても、アノンは何処にもいない。
(まさか、あのバカ・・・)
 ピンときて、再び木を仰ぎ見たティスティーは、がっくりと肩を落とした。 案の定、そこには巣を目指し木を登っていく、アノンの姿があった。
「はぁ・・・・」
 確かに、言っちゃいないが・・・。
バカなこと言うんじゃないでしょうねぇ?=∞バカなこと言わないでよ=∞ バカなことやるんじゃないわよ≠ニいう、ティスティーの制止は、どうやら伝わらなかったらしい。なん て、柔軟な考え方の出来る少年なのだろうか。普通、バカなこと言うんじゃない でしょうねぇ?≠ニ窘められて、じゃあ、言わなければしてもいいのか。なんて思う人がいるだろうか? そう そういないし、いて欲しくもない。
 が、今更どうこういっても仕方がない。
「落ちてくるんじゃないわよ――」
「は――――い」
 ずんずん登っていくアノンに、ティスティーはそう釘を差した。意地っ張り な彼女なりの、「気を付けるのよ」という言葉に、アノンは良い子の返事をし、あっ という間に巣のあるところまで登ってしまった。
 突然の闖入者に、蛇も、蛇の接近にやかましく鳴いていた雛たちも、驚いたよ うに動きを止める。けれど、人間を見ても巣から離れようとしない蛇に、アノンは 仕方なく耳にある瑠璃のピアスを外す。
 にわかにアノンの掌中に風が舞い起こり、ピアスを取り巻いたかと思うと次の瞬間、彼の 手にあったのは小さなピアスではなく、鞘に入ったままの剣だった。
「しっしっ」
 牙を剥いて威嚇してくる蛇に向けて剣をのばしたアノンは、蛇をちょんちょんとつつく 。すると、蛇は驚いて、一目散に逃げていった。
「ごめんな。でも、お家に帰ったときに子供がいなくなってたら、お母さんが悲しむだろ?」
 器用に枝に絡みつきながら逃げていく蛇を見送りつつ、アノンは聞いてなどいないだろうが、 その後ろ姿に言い聞かせる。
 あの蛇にしても、腹を空かせていたのかもしれないし、もしかしたら子供にご飯を持って返ってやらなくて はならないお母さんだったのかもしれない。自然の掟と言い切ってしまえばそれまでかもしれない 。そしてそれならば、アノンはその掟を破ったことになるのだろう。けれど、目の前で雛が 襲われ、喰われていくのをただ見ているだけなんて嫌に決まっている。
「大丈夫?」
 完全に蛇の姿が見えなくなってから、アノンはもう一度ごめんなさいを言うと、巣の中にいる雛を覗き込む。
「・・・あれ? 君は――」
 アノンがあることに気付いたのと、下から彼を見守っていたティスティーがあるものを見つけ たのとは、ほぼ同時だった。
「アノン! 親が戻ってきたわよ! ・・・って、飛行系の魔物じゃないッ」
 そう。アノンが巣の中で見たのも、コウモリのような翼を持ち、その翼の先に鋭いかぎ爪を持っ た、飛行系の魔物の子供だったのだ。
「わっ、ヤバッ」
 ティスティーの声に急いで顔を上げたアノンの目に映ったのは、恐ろしいほどのスピードで自分 に向かってくる、魔物の姿だった。翼を広げたその姿は、アノンより少し小さいか同じくらいだ。 翼の先で光る爪は、アノンを切り刻まんと向かってきている。一部始終を見ていない魔物にとって─ 見ていても何ら変わりはなかったかもしれないが─アノンは、子供の生命を脅かす敵以外の何者でもないのだ。
「――――いッ、ツゥ」
 思わず両腕を上げて顔を庇ったアノンの腕を、魔物の爪が容赦なく切り裂いていく。 魔物も、子供を守ろうと、必死なのだ。それが分かっているから、アノンは攻撃しない。 できないのだ。取り落とした剣が、すぐ耳朶におさまり、瑠璃に変わる。
 アノンの腕を傷付けた魔物は、一度アノンの側から離れたものの、再び翼を広げ、アノンに向かってくる。
「――――ッ。ちょ、ちょっと待ってよ! 痛ッ」
 次第に増えていく切り傷に、アノンは顔をしかめる。
「アノン!」
 下から聞こえてくるティスティーの声に、返事を返す余裕などない。
「待ってってば、すぐ降りるから」
 肩の辺りを切り裂き、ひとまず魔物が通り過ぎたのを見計らっ て、アノンは巣から離れるべく足を、下の枝にかける。
「・・・!」
 一瞬、心臓が止まったかと思った。
 足下でバキッと言う小気味の良い音がしたのだ。そして次の瞬間、誰の期待も裏切ることなくア ノンの体は急降下を始めたのだった。
「わぁ――――――――――――――っっ」
「アノン!!」
同じく心臓が止まりそうなほど驚いたのは、下にいたティスティーだった。
「風!」
 魔法使いの声に命じられた風が、アノンの周りに集い、彼の落下を止める。
「フゥ・・・」
 二人の口から、同時に溜息が零れる。
 ゆっくりとアノンを包んだ風は地上へと彼を運び、アノンの足が地に着いたのを確かめると、 空気の中に溶け込むようにして消えていった。
「あ――、焦ったァ」
 未だにバクバク言っている心臓を押さえて、アノンは呟いた。
「ありがとう、ティスティー。・・・」
 いつもなら「まったく、アンタは!」と言って、自分を叱るティスティーが、今日 に限っては何も言ってこないことに気付き、アノンは口を閉ざす。もしかしたら、声も出ないくらいに呆れ 、怒っているのかもしれない。そんな一つの仮説に辿り着いたアノンは、恐る恐る彼女の方に 視線を遣り、次の瞬間ギョッとする。
「どうしたの、ティスティー!?」
 ティスティーは呆れているわけでも、怒っているわけでもなかった。ただ俯いて、苦しそう に肩で息をしていたのだ。ティスティーのこんな姿を、今までに一度だって見たことはなかった。
 だからだろうか。急に怖くなった。もしもティスティーが、自分の前からいなくなったら・・。 と。何故そんなことを思ったのか、よく分からない。
 ただ、すごく不安だった。
「ティスティー、どうしたの!? どっか具合でも悪いの!?」
 慌てて自分の方に駆け寄って来たアノンに顔を覗き込まれたティスティーは、その 瞳から逃げるようにして顔を上げる。
「・・な、何でもないわよ」
 ティスティーはそう言ったけれど、彼女の顔色は良くない。
「でも・・。何でもなくないよ。ごめん、オレが急に魔法を使わせたからなの?」
「違う、わよ」
 心配そうにその澄んだ瞳を曇らせるアノンを見て、ティスティーは荒い呼吸を整えようと大きく息を吸い込み、 吐き出す。これ以上アノンに、こんな不安そうな顔をさせるわけにはいかない。見ている 方が辛いのだ、彼のこんな表情は。
「ねぇ、ティスティー。大丈夫? ねぇッ」
 まるで何かをに脅えているかのようなアノンの表情は消えない。だからなおさらティスティー は自分に襲いかかってくる目眩を早く追い出さなくてはいけなかった。
「・・・うるっさいわね! ちょーっと立ちくらみがしただけよ」
 必死に縋り付いてくるアノンに、ようやく呼吸も落ち着いてきたティスティーはそう怒鳴る。そし て、もう一度深く息を吸い込む。・・・もう大丈夫だ。
「アンタは人のことばっかり心配してないで、自分の傷のことを心配しなさい!」
 まったくもっていつものティスティーに戻ったのを見て、アノンは明らかにホッとしたようだった。 そして、彼女の言葉に初めて、アノンは自分の体のあちこちに血が滲んでいることに気付く。 頬や腕、足の傷から出た血で、服がかなり汚れてしまっていた。
「・・・」
 ふと思い出して巣の方を見上げてみると、もう何事もなかったのかのように、魔物が翼を休めてい た。魔物の子供たちが親の運んできた餌でも食べているのだろうか? 賑やかな鳴き声が聞こえてくる。
 恩を仇で返す。まさしくその言葉が相応しいのだが、この際はもう忘れてしまおう。
 アノンがそう自分に言い聞かせた、その時だった。