KINGDOM →→ デリソン

 PLACE →→ 明青海コバルトブルー


 刻々と夜は更けていく。
 何か、夢を見ていた。その夢がいったいどんなものだったのかは、思い出せない。 けれど、決して嫌な夢ではなかったような気がする。 もしかしたら、アノンが目覚めた。という、予知夢だったのかもしれない。そう思った。
 何故なら、タタラが目を覚ましたとき、アノンの青い瞳が、天井を見つめていたのだから。
「アノン? アノン!?」
 ティスティーの声で、いつの間にか眠ってしまっていたタタラは目を覚ました。
 そして、同じようにアノンも今し方目を覚ましたようだった。だが、美しく澄んだ青い瞳は、 まだ夢の中を彷徨っているのか、意思の光を宿さない。 もしかしたら、催眠ガスの所為で、脳に何らかの障害を受け、記憶が歪んでしまっているのかもしれない。 そんな不安がティスティーとタタラの中を駆け巡っていく。
「アノン? アノン!」
 次第に膨らんでいく不安を蹴散らすためか、ティスティーは再び彼の名を呼び、 アノンの肩を揺らす。すると、今まで虚空を見つめていた青い瞳がゆっくりと瞬き、そして次にティスティーの方に向けられる。
「・・・・ティスティー? タタラ?」
 自分を覗き込む、心配そうな二対の瞳を代わる代わる交互に見つめた後、 アノンは掠れた声ながらも、はっきりと二人の名を呼んだ。
 それを聞いた二人は明らかにホッとした様子で、身を乗り出すようにして少し浮かせていた腰をイスに戻す。
「アノン、良かったですわ」
 深い安堵の溜息をついたティスティーの隣では、タタラが泣き出しそうな表情で、アノンを見つめている。 本当に心配していたのだ。もう、目覚めないのではないか、と。
 アノンはと言うと、まだ完全に意識が覚醒しきれていないようで、 天井や部屋を見回している。今自分がどういう状況に置かれているのか、理解できていないらしい。
 必死に記憶の糸を手繰ってみる。
 あの店でシャワーを浴びて、逃げ出そうとして、白い霧がモクモクで、眠たくなって・・・。
(・・・・・。ここは、何処?)
 混乱気味の意識の中で、ようやく一つだけ、もっともな疑問がわく。
 その答えを捜すべく、しきりに視線を動かしてみたアノンは、自分が眠っていた部屋に、 見覚えがあることに気付く。ここは・・・。
「なぁーんだ。船の中かー」
 アノンとしては、ホッとしたが故の言葉だったのだが、
 ぴしっ。
 と、あまりにも呑気なアノンの言葉に音を立てたのは、一体何だったのだろう?
「アノン・・・」
 上からアノンを覗き込んだティスティーは、何とも言えずぬるい笑みを浮かべた。
「???」
 その表情からティスティーの意思が読みとれなくて、アノンは困惑する。
「・・・・。・・・・・。ああ、そう」
 人が死ぬほど心配していたというのに、その言い種とは・・・。 人の気も知らないで・・。 きっとアンタは人が睡眠もとらないで側についていてやったことも知らずに、のうのうと幸せな夢の中で楽しーい思 いをしていたんでしょうね? えー?
 ティスティーの発するオーラはそう物語っている。
 そしてついに、オーラだけでなく彼女自身の口からも、勢いよくアノンに対する文句が吐き出されていった。
「なぁーんだ。船の中かー。・・・・・ですってぇ――――――――――ッッ!?」
 先程、嫌な音を立てて罅の入ったティスティーの理性が、今度は完全に壊れたようだ。 それはあまりにも呑気なアノンの台詞の所為か、はたまた彼が無事に目覚めた事への安堵感の所為か・・。
「ティスティーさん!? お、落ち着いてください」
 もう船員達も皆眠りについている時間だし、アノンもたった今目覚めたばかりなのだから、 もう少し穏便に・・・。と、決死の覚悟でそうティスティーに声をかけたタタラの行為は、空しいものになってしまった。
 タタラの控えめな忠告なんて何のその。ティスティーはグイッとアノンの胸ぐらを掴むと、 「本当に女!?」と、思わずツッコミたくなるような力強さで、ベッドに横になっているアノンを引きずり起こす。 そして、息をつく間もなく怒鳴り始めたのだった。
「ここが船の中でがっかりって? そう、そーうなの!? アンタは船の中で、 心優しきティスティー様にお目覚めは今か今かと待っていられるよりも、 さっさと売られてた方が良かったってのー!!? ああ、 そう。なら私が売り飛ばしてあげるわよ! 高く売れるでしょうねー。顔だけはいいアノンくーん」
「うわーんっ。ごめんなさーい!」
「ティ、ティスティーさん。落ち着いて下さーいッッ!
 もう人の迷惑なんて顧みず叫ぶ三人。幸いなことに、もうそれ以上叫び声を船に響かせるほどの元気は残ってい なかったらしい。
 いろんな意味で疲れてしまった三人は、一様に口を閉ざす。
「・・・」
(・・・がらにもなく壊れてしまったわ。私としたことが・・・)
(・・・何か悪いこと言ったかなぁ?)
(・・・お二人とも元気ですわね・・・。本当に・・)
 溜息にそんな思い思いの言葉を乗せた三人は、改めて顔を見合わせる。が、何を言っていいのかが分からない。
 そんな中で、真っ先に口を開いたのはティスティーだった。
「寝るわ」
「え?」
 短くそう言って、ティスティーは颯爽と部屋から出ていってしまった。
 そんな彼女の背中を見送ったアノンとタタラは、再び溜息を零す。
 そうしてタタラと目を見合わせたアノンは、心なしか声を潜めて彼女に問う。
「ねぇ、やっぱりティスティー、怒ってるのかな?」
 先程の台詞からしてみて、あれで怒っていないと言われても困る。 が、やっぱり怒っている、と言われても困る。
 不安そうな顔で訊ねてきたアノンに、タタラは気を取り直して、いつも通りの微笑を浮かべて言った。
「大丈夫ですわよ。ティスティーさん、アノンのことが心配で心配で仕方がなかったんです。 だから、安心しちゃって、きっとあんな風に言ったんですよ」
「本当に?」と、言いたげに上目遣いで自分を見上げてくるアノンに、タタ ラは彼を安心させるように優しく微笑んで見せる。
 と、次の瞬間。突然、大きな音を立てて船室の扉が開く。そこに立っていたのは、 寝る、とそう言って去っていったティスティーだった。
 一体どうしたのだろう? と、目をパチクリさせている二人の前で、ティ スティーはつかつかとアノンの前まで歩いてくると短く言った。
「忘れてたわ」
 どうやら、何かを忘れていたらしい。
「何を?」
 そう訊ねたアノンに返ってきた、ティスティーからの返答には、アノ ンもタタラも、思わず訊ね返さずにはいられなかった。
「ぶん殴るのを」
「え!?」
 アノンが逃げる間も、タタラが彼女を止める間も与えず、ティスティーは大きく手を振り上げた。
「!」
 思わずギュッと目を閉じたアノンの頬に、ティスティーの振り下ろした手が容赦なく跡を付ける。・・ということはなかった。 彼女の温かな手は、アノンの頬にそっと触れて、離れた。ただそれだけだった。
「・・?」
 あれ? と目を瞬くアノンにティスティーは言う。
「ほら、言ったでしょう? 迷子になんてなったりしたら、私が見つけ出してぶん殴るって。 今日の所はこれで許してあげるわ。でも・・」
 ティスティーは腰に手を当て、アノンを覗き込むと、怒ったような口調で言った。
「次は本当に殴るから、覚悟しておきなさいよ」
「・・はーい」
 脅すようなティスティーの言葉に、アノンは少し小さくなって頷いた。 今更になって、ティスティーには本当に迷惑をかけてしまったんだナー、と反省したようだ。
「ふぅ。まったくアンタは・・・」
 呆れたようなティスティーの言葉に、更に小さくなったアノンは、突然自分に触れた温か な感触に、驚いて顔を上げる。不意にのばされたティスティーの手が、優しく自分の頭に乗せられていた。
「ホントに、世話が焼けるわね」
 アノンのサラサラとした髪の感触を楽しむかのように、ティスティーは彼の頭を撫でる。 その表情は、とても穏やかで、優しかった。
「・・・」
 ティスティーのそんな微笑と、温かな手のぬくもりに、アノンは母親を思い出していた。
 母親に怒られ、シュンとなって泣いていた自分に、母親はいつもの優しい顔に戻って、「も う泣かなくていいのよ」と、抱き締めてくれた。ちょうどそのぬくもりは、今自分の 頭を撫でているティスティーのぬくもりと同じで・・・。
 不意に蘇ってきた、今まで忘れていた幼い頃の記憶に、アノンは瞳を閉じる。
 そう。こんな時、いつも自分は抱き締めてくれていた母にもう一度謝るのだ。
「・・・ごめんなさい」
 そう。こんな風に。
 しおらしく謝ったアノンに、ティスティーは「別にいいわよ」と返事を返す代わりに、 少し乱暴に彼の頭をくしゃくしゃと撫で、今度こそ部屋から出ていった。
「・・・・・」
 髪に残るティスティーの手の感触に触れてみたアノンは、少し照れくさそうに頬を染める。 ティスティーに、こんな風に優しくされたのは初めてのような気がした。
「ほら、やっぱり心配で心配で、仕方がなかったんですわ」
 ティスティーと、アノンの微笑ましい光景を見守っていたタタラは、口許に優しい微笑を称え、そう言った。
 そんな彼女に返ってきたアノンの笑顔は、未だに少し照れくさそうではあったけれど、何より嬉しそうだった。


 夜が明け、順調にイレース王国の港に向かって進んでいる船から、 賑やかな声が溢れ始める。
 船を追いかけるようにして飛ぶ海鳥たちが、 子供たちの無邪気な笑い声に誘われるようにして船の頭上を飛んでいく。 真っ白な入道雲を抱えた空は、甲板の上を駆け回る子供たちの笑顔につられたのか、 曇る気配をいっこうに見せないでいる。
「あまり走り回ると、危ないからね。十分に気を付けるんだよ」
 優しい微笑を向けてそう言ったのは、この船の船長、オウドだった。
 そんな彼に「はぁーい」と、いい子の返事を返しつつ、赤毛の姉弟たちはなおも甲板の上を走り回っている。
 もう太陽は人々の頭上を通り越し、時は正午を回っていた。
 昼食を終え、眠ってしまうかと思いきや、この姉弟たちは船旅が気に入ったらしく、 一時の休む間もなく、船の隅から隅まで駆け回っているのだ。 そんな幼い姉弟たちの姿に、少なからず仕事の邪魔をされている船員たちも、微笑みを零さずにはいられないらしい。


「それでは皆さん、本当に有り難うございました」
 船がヒューディスの沖にさしかかった頃だった。タタラが、ここでお別れします、と言いだしたのは。
 イレース王国から陸づたいにヒューディスに向かうより、ここから行った方が近いのだそうだ。 勿論それは、有翼人である彼女の、翼があってのことだ。
 緩くウェーブのかかった茶色の髪を風に揺らし、深々と頭を下げるタタラに、彼女を見送る一同は、優しい笑みを返した。
「お姉ちゃん、バイバイ」
 くるんとした大きな琥珀色の瞳を淋しそうに潤ませ、ラドがタタラを見上げる。
「さようなら。元気でね、ラド。レラも」
 タタラに頭を撫でられたレラとラドは、彼女の言葉に頷いて見せた。
 そんな姉弟にもう一度優しく微笑みかけてから、タタラはゆっくりと視線をティスティーへと移す。
「ティスティーさん。貴女があの方と会えることを、祈っています」
 そう言ったタタラに、ティスティーはありがとうという言葉を返す代わりに、薄い微笑を唇の端に乗せて見せた。
「タタラ、気を付けてね」
「アノン・・・」
 いつも通りの優しい笑みを浮かべているアノンだったが、それでも彼の顔にはタタラとの別れが淋しい。 という言葉が、はっきりと書いてある。
 それは勿論、タタラとて同じだ。別れたくないに決まっている。本当に短い 間ではあったけれども、ずいぶん濃密な時間だったような気がする。その短 い時間の中で人間のことを嫌っていた自分が、こんなにも人間である彼らのことを慕うようになったのだ。別れ が寂しいと感じることができるようになったのだから。今では、本当に自分は人間を嫌っていたのだろうか? そんな疑問すら浮かんでくる。もしかしたら、自分には自主性がないのかもしれない。たった数人、 自分に優しくしてくれる人に出会っただけで、生まれてからこの方、ずっと持っていた人間へ の嫌悪を捨ててしまったなんて・・。
 アノンの所為だ。
 彼のおかげで得た物は何だったのだろ うか?
 形は決してないのだ。けれど、それは本当に優しい気持ち。
 別れたくない。
 けれど、村には自分を心配している両親と兄がいるのだ。帰らなくては・・・。
「・・・私、アノンに会えて良かったです」
 アノンの手をギュッと握って言ったタタラの声が、少し泣き出しそうに震えているのを聞 いて、アノンは殊更明るい声で言う。
「また会えるよ、ね? 絶対」
 優しいぬくもりを返してくれるアノンの掌と、優しい微笑みとに、タタラは頬を伝っていく前に、 冷たい涙を拭う。そして、表情には晴れやかな笑みを浮かべた。
「はい! また、会いましょうね」
 そう。また会えばいいのだ。これで永遠にさよなら≠キるわけではないのだから。
 優しい風が吹いている。フワリと浮かび上がったタタラの手と、アノンの手のぬくもりを包む、優しい優しい風が・・・。
「では、また・・・!」
 名残惜しげにアノンの手を放したタタラは、バサッと大きく翼を羽ばたかせ、空 へと高く舞い上がった。そしてそのまま、ゆっくりと船から離れていく。迷いなく、翼はヒューディスの地を目指して。
 柔らかな茶色の髪が、フワフワとたなびいている。純白の翼は、空の青に、くっき りと跡を残していくようだった。
 そんな彼女の姿は、誰しもの瞳に、美しい天使の姿を刻みつけてい きながら、やがて、遠くを飛ぶ鳥たちと同じように、その姿は小さくなっていった。
「タタラ! またな―――――!!」
 アノンの手の中に、一つの羽根を降らせながら・・・。