夜が訪れ、太陽は深青海の中に落ちていってしまった。 根気強くアノンが目覚めるのを待っていた姉弟たちにも、ついに限界が来てしまったらしい。 疲れていたついでに、夕飯を食べて満腹感に満たされた所為もあるだろう、 アノンのベッドに寄り添ったまま完全に眠りこけてしまったレラとラドを、船長のオウドが自分の部屋に運んでいった。 おそらく、幼い姉弟にベッドを明け渡し、自分は床で眠るつもりなのだろう。 まるで孫でもできたようだと、彼は嬉しそうに笑って言った。 幼い姉弟の代わりに、アノンの側に付いていたティスティーとタタラは、気まずい─ と感じているのはタタラだけかもしれないが─沈黙の真っ只中にいた。 特に話すこともない。どうしていいのか分からずに、視線を泳がせているタタラとは違って、 ティスティーはじっと、アノンの穏やかな寝顔を見つめていた。そして、呟く。 「・・・ったく、いつまで寝てるつもりなのかしら。コイツは」 その言葉には、苛立ちよりも、彼を心配する気持ちが詰まっていて、彼女の そんな気持ちは、同じくアノンが目覚めないことを不安に思っていたタタラにも、よく分かった。 ティスティーは、アノンの頬にかかっている金茶の髪の毛を、そっと払ってやる。 「・・・・あっ」 不意に、目に飛び込んできたものに、タタラは思わず声を上げてしまったいた。声を上げてすぐに、 黙っていた方が良かったと、後悔する。 彼女が見たのは、アノンに伸ばされたティスティーの左手首に刻まれている、黒い模様だった。 それは、証。彼女が彼の一族の一員であることの証・・・。 「何よ」 突然声を上げたタタラに、ティスティーが首を傾げる。 「何でもありません」と、そう答えた方が良いのかもしれない。 視線をおとして、タタラはそんなことを考えもした。だが、気になって仕方がないのだ。あの模様のこと。 あれは、おそらく三百年ほど前に滅んだ、カナンテスタ一族の・・・。 「・・・ティスティーさんはもしかして、カナンテスタ一族の・・・、方ですか?」 生き残り≠ニいう言葉を口にするのは、やめた。彼の一族の壮絶な滅びは、遠いヒューディスの地にも、届いた。 その一族の生き残りである彼女の心に深い傷が刻まれているであろう事は、想像に難くない。や はり、何でもないと答えておいた方が良かったと、タタラは後悔して視線を伏せた。 けれどティスティーは、タタラの言葉にあまりにもあっけない返答をした。 「知ってるのね」 違う。と否定しても良かったのだ。だが、彼女はあっさりそうだと認めた。 そんなティスティーの反応に少し驚いたように顔を上げ、タタラは小さな声で答えた。 「・・・ええ。私も、長く生きていますから」 そう。それはそれは長く。 彼ら有翼人の寿命は、それこそカナンテスタ族よりもはるかに長いのだ。 これが、彼らを魔物と呼んだそもそもの所以であったのかもしれない。 「あの・・」 再び遠慮がちに口を開いたタタラに、ティスティーはまだ何かあるのかと言いたげな視線を遣る。 「・・・ティスティーさんは、私たち魔物が、憎くはないのですか?」 元はと言えば、カナンテスタ族が滅びるきっかけを作ったのは、人を喰らう魔物だった。 そして、自分も同じ、魔物。 ・・今まで彼女は一体どんな気持ちで、自分と話していたのだろうか。 彼女の心情がはかりきれず、タタラは俯いたまま、彼女の返事を待った。 そして返ってきたのは、またもやあっけらかんとした言葉・・・。 「なに当然のこと聞いてんのよ。憎いに決まってんじゃない」 「・・・・」 そんなティスティーの、全く持って自分に気遣うことなく出された言葉に、 タタラは思わず、彼女は有翼人が魔物であることを知らないのだろうか? とまで思ってしまった。 そこで、タタラは自分が人間ではないことをほのめかしてみる。 「・・・私も、人間の方って、好きじゃないんです」 するとティスティーの返事は・・・。 「あら、奇遇ね。私も魔物と同じくらい、人間も嫌いなのよ」 「―――」 ついにタタラは口を噤んでしまった。 彼女は自分が魔物であることを知っている。それなのに彼女は魔物が嫌いだという意見を翻さないどころか、 人間も嫌いなのだと答えたのだ。魔物である自分に当てつけるため、 はっきり言ったのではない。ただ彼女は、素直に答えただけなのだ。 自分を全く飾らない人。そのサッパリとした口調に、嫌な感じはしない。むしろ気持ちがいいくらいだ。 「アノンも貴女も、不思議な方ですわね」 クスクス笑いながらそう言ったタタラに、ティスティーは少し眉を寄せる。 「私はどうか知らないけど、アノンはおかしなヤツよ」 きっぱりと言い切ったティスティーに、タタラは可笑しそうに笑いを洩らした。 が、すぐに自分達の話し声でアノンが起きてしまったのではないかと心配して、 彼の方に視線を遣ってみたけれど、喜んでいいのか、がっかりしていいのか、彼が目を覚ます気配はなかった。 複雑な思いで彼の顔を見つめていたタタラだったが、すぐ口許に微笑みを浮かべ、何処か懐かしむような瞳をする。 「・・・アノンは、私がはじめて好意を抱いた人間に似てますわ」 おそらくその人のことを思いだしているのだろう。穏やかな表情で窓から波の彼方を見つめているタタラの横顔を眺め、 ティスティーは彼女の言葉を黙って聞いていた。 「青い瞳もそうですけど、何よりもあの笑顔がそっくりなんです。とても優しくて、とても温かい笑顔・・・」 「私にはのほほ〜んとして、とぼけてるように見えるけどね」 水をさすわけではないが、そう意見を述べたティスティーに、タタラは小さく笑いながら言った。 「確かにそうとも言えますけど、少なくともあの笑顔を向けられてもなお、彼に敵意を向けていられる人はいませんわ」 まあね。と肩を竦めて見せたティスティーに笑い返してから、 タタラは再び遠くを見つめ、口を開いた。 「三年前に出会った、あの人もそうでした。凶暴な魔物が多くいるヒューディスの地で、 私たちに向けて臆することなく歩み寄り、笑いかけてきたんです。驚きましたわ」 彼女の話を何気なく聞いていたティスティーだったが、タタラの口にした三年前・ ヒューディス≠ニいう言葉に反応し、顔を上げる。 「アンタが言ってる人って!? 名前は!?」 突然勢い込んで訊ねてきたティスティーに、タタラは驚いて目を丸くする。 「え? さ、さぁ。名前は聞きませんでした」 「その人のこと、詳しく聞かせてちょうだい」 理由は分からないが、どうやらティスティーは人を捜しているらしい。 三年前≠ノヒューディス≠ノ来た人を、だ。 あまりにも必死な様子のティスティーに、タタラは少し古くなった記憶を蘇らせる。 「そうですわね・・・。その人に出会ったのは、三年前のことです。私の兄が、海賊たちの仕掛けた罠に かかってしまったことがあったんです。兄を助け、怪我の手当をしてくれたのが彼でした」 自分達の仲間を捕らえる卑劣な海賊という人間しか知らず、彼に向けて思い切り敵意を示した 自分に、彼は穏やかな笑みを浮かべ「どうしたの?」と、声をかけてきたのだ。 「・・確か、青い瞳に、金色の髪で・・・。大きな剣を背中に背負っていましたから、おそらく戦士だと思います」 タタラの言葉に、ティスティーは腕を組んで何事かを考えていたが、しばらくして、低い声で呟いた。 「・・・間違いないわ」 「え?」 「ねぇ、彼が今どこにいるのか知らないかしら?」 ティスティーの言葉に少し考えた後、タタラは首を振った。 「・・・お役に立てなくてすみません」 つまり、分からない、と言うことだった。 「そう・・」 「すみません」 「別にいいわよ」 申し訳なさそうに視線を落とすタタラに、ティスティーは気にするなと言う風に肩を竦めて見せる。 そんな彼女にもう一度謝ってから、タタラは訊ねた。 「お二人は、これからその方を捜しに行かれるんですか?」 ティスティーの口振りから、彼女が彼を捜していることを悟ったのだろう。 そう訊ねてきたタタラに、ティスティーは答える。 「私はアンタの言っていた男を探しに行くわ。アノンも人を捜してるようね」 そこで口を閉ざしたティスティーは、少しの沈黙の後、徐にタタラへと視線を遣った。 「もう一つ、聞いてもいいかしら?」 「何でしょう?」 「私の捜している男は、三年前に魔王を倒したと言われている人なの。 でも、魔王を討ったと伝書鳩をよこした後、彼は消えてしまった。ねぇ、本当に魔王は死んでいるの?」 ヒューディスの地に住んでいる有翼人の彼女なら、魔王についても自分より詳しいはずだ。 そして、その魔王を倒し、今や人々の英雄となりながらも、姿を消した男の事も。 「・・・魔王。ええ、彼が・・、ラーンが一人の戦士に倒されたことは知っています。 でも、彼はまだ死んでいないのかもしれない」 タタラの言葉に、ティスティーは眉をひそめる。彼女は、魔王が倒された、と言ったが、 同時にまだ死んでいないかもしれない、とも言った。 「・・・どういうこと?」 ティスティーの問いに、タタラはどう答えていいのか少し迷った末に、口を開いた。 「・・・ラーンというのは、私たち有翼人種をまとめていた若長です。魔王となった彼は、 確かに死にました。私たちがこの手で埋葬したのですから、間違いありません。 ・・・・でも、魔王が死んだかどうかは定かではないんです」 そこでひとまず口を噤んだタタラは、ティスティーを見遣る。彼女はまだ意味がよく分からないと言う表情で、 タタラの説明を待っていた。 波と風の音に掻き消されないよう、だがしかし、ベッドで眠っているアノンを起こさないような 声で、タタラは再び話し始めた。 「四、五年ほど前のことです。貴女たちが魔王と呼ぶ魔物が、北の地から私たちの村の近くにま で迫ってきたのは・・・。その魔物の名は、ライロス。四本足の獣でした」 (四本足の獣? ライロス?) 先程タタラは、魔王の名はラーンと言い、有翼人種の長であったと、 そう言ったはずだ。有翼人種の長を魔獣が務めるのはおかしな話に他ならない。 彼女の疑問に対する答えは、もう少しの時間と、タタラの話を聞かねば出てこないようだ。 「魔王から一族を守るために戦ったのが、私たちの長─ラーンでした。彼は何とかライロスを倒 しました。けれど魔王は、死んでいなかったのです」 魔王の名は、ライロス。 ライロスは死んだが、魔王は死んでいなかった・・・・? 「良く意味が分からないわ。ライロスと言う魔物は死んだんでしょう?」 「ええ、死にました。けれど死んだのはライロスという器だけで、肝心の魔王は死んでいな かった。・・・つまり彼には体がなかったんです」 器。そして、中身。 これらから導き出された答えは・・・。 「・・・憑依?」 ティスティーの呟きに、タタラはこくりと頷いて見せた。 「彼の本体を見た者一人もいません。黒い霧であるとか、ゼリー状のものであるとか 、石であるとか・・・、色々な話があります。絶大な力を持っていても、体がなくて は何もできません。だから彼は、傷口などから他人の体内に侵入し、その体に憑依するのです」 「じゃあ、さっきアンタが魔王のことをラーンと呼んだのは・・」 「そうです。ラーンとの戦いで傷付き、使い物にならなくなってしまっ たライロスの体を捨て、魔王はラーンの体内に侵入し、再び体を得たんです」 四本足の魔獣の姿をした魔王は、ラーンによって倒されたが、代わりに背に一対 の翼を持った魔王が誕生したのだ。そして、ある一人の戦士によって倒された魔王は・・・。 「・・・魔王はラーンの体を失いはしたけれど、まだ、何かの中で生きているかもしれないって事?」 何かの中。 それは、ラーンと戦った、戦士の中である可能性が高い。 けれど、ティスティーはそう口にはしなかった。そんなこと、考えたくもなかったから。 「あ・・」 そんなティスティーの心情を読みとったのだろうか、タタラは慌てて言った。 「でも、体はなくても彼もまた魔物です。その彼が、人間である戦士の中に入るのは、不可能ではないでしょうか」 実際、魔王は何百年も前から、魔物にしか憑依していないのだから。と、そう付け加えて言ったタタラに、 ティスティーは僅かにホッとしたようだった。 「最近、彼が動いていないところを見ると、あの戦士は本当に彼を倒したのかもしれませんね。 それとも、その戦いで魔力を使い果たして動けないでいるのか・・・」 憑依するにも魔力が必要となる。もしも死んでいる体を器とするのならば、 器が腐らないようにしなければならないし、生きた体に入るのなら、そ の器の意識を組み伏せねばならない。その力さえも残っていないのであれば、彼が 動きを見せないのも納得がいく。おそらく、魔力の回復を待っているのだろう、と。 「ティスティーさんが捜しておられる方が憑依されたなんて事は、きっとありませんわ。 彼は伝書鳩をよこしたんでしょう? 手紙を書くほどの力が残っていらしたのなら、き っと魔王が侵入する隙はなかったでしょうから」 タタラが自分を励まそうとしていることに気付いて、ティスティーは口を ついて出そうになった言葉を、咄嗟に飲み込んだ。 だったらどうして、彼は帰って来ないのよ ただ、誰かにぶつけたいだけの言葉だったから・・・。 それも、ぶつけるとしたら、帰ってきてくれない彼に対してだった。 「・・・そうね。ありがとう。参考になったわ、タタラ」 「・・・・」 ティスティーの言葉に、タタラはまじまじと彼女を見つめると、次の瞬間、溢れんばかりの笑みを浮かべる。 「いいえ。少しでもお役に立てたのなら、嬉しいですわ」 そう、本当に嬉しかった。 最初はあんなに冷たかった彼女が、自分にありがとうと言ってくれたこと。 そして何よりも一番嬉しかったのは、彼女がはじめて自分の名を呼んでくれたこと。 人間が大嫌いだった自分が、人間である彼女から少し優しくされたくらいで喜んでいるのは、 不思議なことだった。 その原因はおそらく、アノンにあるような気がした。 彼との時間が、自分の人嫌いの心を感化してくれたのかもしれない。 そして、隣にいる彼女もきっと、そんなことを感じているのではないだろうか。 ティスティーのアノンを見つめている夜色の瞳は、とても優しかったから。 きっと彼女もアノンも、そのことに気付きもしないのだろうけれど・・・。 |