「お姉ちゃん」 つい先程目を覚ましたラドは、まだ眠たいのだろう、うっかりしていると閉じそうになる瞳をごしごし擦りながら、 姉のレラに声をかける。 「お兄ちゃん、大丈夫なの?」 ラドがどうして必死で目を開けているのかというと、自分たち姉弟が自ら引き受けてアノンの看病─と言っても、 ただアノンの側についているだけなのだが─をしているからだった。 この船にやってきてから、ずっと自分たちの相手をしてくれていた船長のおじいさんは、 疲れてしまったのか、ウトウトしていた。だから、自分たちがこの役目をかってでたのだ。 「ねぇ、お姉ちゃーん」 じっとアノンを見つめたまま何も答えてくれないお姉ちゃんに焦れて、 ユサユサと自分の服の袖を掴んで揺らす弟に、レラはようやくラドの方に視線を遣った。 「大丈夫に決まってるわよ。オウドのおじいちゃんも寝てるだけだって言ってたでしょ」 そうは言ったものの、アノンを見つめるレラの瞳も弟のラドと同様に、心配そうだ。 不意にドアが開き、潮の香りと共に部屋に入ってきたのは、アノンの友達だという女の人と、 彼女らの良く知っている人だった。 「あっ、タタラお姉ちゃんっ!」 ティスティーの後について船室に入ってきたタタラの姿を見て、ラドが嬉々とした声を上げ、無邪気にタタラに飛びついた。 「ラド。良かった、無事で。レラも」 自分に向かって飛びついてきたラドに、タタラは膝を付いて彼を抱きとめると、 交互に二人を見遣って微笑む。そして、ラドを抱えたまま立ち上がると、レラが側についているアノンの方へ歩みを勧めた。 彼は、静かに瞳を閉ざしていた。彼の美しく整った顔立ちの所為だろうか。 そこだけ空気も、時間も、何もかもが止まっているような気がして・・・。 彼を取り巻く全てのものが、この彼を取り巻く静けさを・・・、美しくも空恐ろしい風景を、 永遠に壊さぬよう、彼を眠らせているかの如くに感じられて・・。 誰もが皆、このまま彼が眠り続けるのではないかという恐怖を覚えずにはいられなかった。 「お兄ちゃん、いつまで寝てるんだろうね」 そんなラドの言葉が、タタラの中にある恐怖をあおった。 「・・すぐよ」 少しの間を置いて、ティスティーはそう言った。ラドの言葉の後、数秒の間に、きっと彼女も少なから ずタタラのように恐怖心を抱いたのだろう。だが、彼女はもう一度、はっきりと言った。 「大丈夫。すぐに目を覚ますわよ。すぐに・・・」 「・・・・そうですわね」 ラドの代わりに、というわけではなかったのだが、タタラはそう返事を返していた。 自分の中で執拗に渦巻いている不安を、消したかったからなのかもしれない。 ―――早く・・、一刻も早く、彼のあの澄んだ青が見たかった・・・。 辺りが、宵闇に包まれ始める時刻。 あまりにも静かな部屋の空気に耐えきれなくて、先程ティスティーがそうしたように、 タタラもまた甲板へと出た。気分転換にレラとラドも外へ出てみてはどうかと誘ったのだが、 二人はアノンの側にいると言ってきかなかった。 そう。まだアノンは眠り続けていた。 一応魔物とされているタタラとは違い、アノンは何の変哲もない人間だったから、 催眠ガスの効きようが違ったのかもしれない。 辺りが夕暮れに包まれ始めている中であるというのに、タタラの背の翼は、そんな薄暗い中でも、 はっきりとその存在を誇示しているかのように、白く純粋な光を纏っているように見える。 見ようと意識しているわけではないのだが、船員たちの視線が自然と彼女に集まる。 別にいやな感じはしないのだが、その視線が少し恥ずかしくて、タタラは顔を俯けた。 「そう言えば、言ってなかったわね」 俯いていたタタラに、不意に声をかけてきたのは闇の中に溶け込むような黒髪をした、ティスティーだった。 所在なさげに立っていたタタラを、彼女なりに気遣ってのことだったのかもしれない。 「精霊が、アンタたちを助けてくれたのよ」 「あ・・・」 ティスティーの言うとおり、アノンのことが心配で、すっかり忘れていた。 自分たちが一体どうやって助かったのか。どうやってこの船までやって来たのか。 その疑問を。おそらく、この魔法使いの少女が助けてくれたのだろうと、勝手に自分の中で解釈していたタタラは、 精霊≠ニいう思いがけない第三者の存在に、少し目を丸くする。 「精霊・・・」 意識が途切れるその瞬間、自分たちを包み込んだ優しい光と、美しい人の姿。あれは、精霊だったのだ。 「でも、何故・・・?」 自分に精霊を召喚するほどの力は残っていなかったし、 アノンも精霊を召喚する術を知らないようだった。ならば・・・。 「あ、貴女が?」 「違うわよ」 やはりティスティーが助けてくれたのかと訊ねたタタラに、ティスティーはそう答えた。 「私もよく分からないわ。何故か精霊たちは、アノンに贔屓目なのよ」 肩を竦めるようにして言ったティスティーに、タタラは少し考え込むような仕種を見せた後、ポツリと言った。 「もしかして・・・」 「もしかして、何よ?」 気になるところで言葉を切ったタタラに、ティスティーはその先を促したのだが、 タタラとしてはその言葉に確信がないらしく、少しの間、言おうか言うまいか迷うように視線を彷徨わせる。 口を開けたり閉じたりを何度か繰り返した後、タタラは「早く言いなさいよ」と、無言で責めてくるティステ ィーの視線に気付いて、オズオズと口を開いた。 「最初彼に会ったとき、私、感じたんです。人間のものではない感じ≠・・。 もしかしたら彼の中には、精霊の血が流れているのかもしれませんね」 「・・・精霊の?」 「はい。もしかしたら彼は、精霊だった者かもしれません」 「・・・もしくは、アノンの祖先に、精霊がいるか、ね」 精霊だった者。 それは、前世で精霊だった、と言う意味だ。 精霊を祖先に持っていたり、精霊だった人というのは存在する。 その区別の仕方で最も分かりやすいものは、性別だ。精霊は元来、 無性だとも、両性具有だとも言われている。その所以だろうか。 時折、性別のない人間が生まれることがあるのだという。 他にも、性別はあるのだが、外見が中性的であったり、精霊であったときのなごりか、風や水、 炎や大地の意思を感じ取ることができるといった、不思議な能力を持っていたり・・・。 アノンがそうであるのかどうかは分からない─服をひっぺがして確かめてみることもできるのだが、 それはセクハラになるのでやめておいた方が良いだろう─が、彼が中性的であることは、 誰の目から見ても確かなことだったし、何より、精霊たちからの加護を受けている点からして、 精霊と何らかの関わりがあるのだろう・・・。 「祖先の方に、ですか・・・」 「アンタに一つ、言っておくわ」 突然声の調子を変えたティスティーに、タタラは一体どうしたのだろうかと不安そうに眉を寄せる。 「アノンに、聞かないでちょうだい」 ティスティーの言う、聞かないでというのはおそらく、アノンの祖先の中に、精霊がいたかどうかということを、だ。 最初、何故彼女がそんなことを言ったのか理解できなかったタタラも、すぐに思い出す。 アノンには、両親がいないのだ。 きっと、祖父母もいない。血縁はもういないのだろう。 何でもないことのように彼は言ったけれど、何でもないわけがない。 だから、彼に家族のことを思わせるようなことは言うなと、ティスティーは言ったのだ。 「・・・はい。分かりました」 ティスティーの言葉に、タタラは深く頷いて見せた。 きっとアノンは、そんなこと気にしなくてもいいのにと、そう言うだろう。 そう言って、いつもの笑顔を見せてくれるだろう。例え胸に、本当に小さいけれど、痛みを感じても、 だ。彼自身がその痛みに気付かなくても、きっとこの魔法使いは嫌なのだ。 どんなに小さな痛みにでも、彼の心が傷付くのが・・・。 彼女は絶対にそんな言葉を口に出し、示してみせることはないだろう。だ が、彼女のアノンをとても大切に思う気持ちは、とてもとても強いもので・・。 思わずタタラは、小さく笑いを洩らしていた。 「・・・・何よ、急に」 突然笑い出したタタラに、ティスティーは思い切り訝しげな目を向ける。 一体、何が可笑しかったのだろうか? 笑う場面はどこにもなかったはずだ。 「あ、ごめんなさい」 謝りながらも、まだ笑っているタタラに、ティスティーは更に訝って眉を寄せる。 そんなティスティーに、ようやく笑いのおさまったタタラが言った。 「ティスティーさんは、本当にアノンのことを大切に思っているんですね」 そうタタラが言い切った瞬間のティスティーの顔と言ったら、それはもう本当に驚いたようだった。 が、その後すぐに、僅かだけれど、頬を赤くしてそっぽを向く。 「な、何言ってんのよ。私は別に・・・」 照れ隠しなのだろう。ぶっきらぼうに言ったティスティーを見て、タタラは微笑みを零す。 「いいえ、大切に思ってるんだなって、見てるだけで分かります」 だって、彼のことを話すときの彼女の表情は・・・本当に気のせいかもしれないけれど、 優しいのだ。本気で怒っていたり、心配していたり・・・。 そう。それはまるで。 「・・・まるで、お母さんみたいに」 怒り、アノンを諭す彼女の瞳は、確かに厳しいものではあるけれど、 それは彼を思うが故のものであったり・・・。まるで母親が、我が子を優しく、厳しく見守っているような・・・。 タタラの言葉に、ティスティーは大仰に肩を竦めてみせると、溜息まじりに言った。 「変なとこ頑固で、向こう見ずで、純粋で傷付きやすくって、お人好しで、更には単純だけど、複 雑な子供の母親役は大変よ、まったく・・・」 ティスティーの溜息とタタラの小さな笑い声とが、潮風に吹かれ、波の彼方へと流されていった。 |