一方、船上ではティスティーが苛立っているのだろう、カツカツと音を立てて甲板を行ったり来たりしていた。 オウドもイスに腰掛け、心配そうな面持ちで足もとに視線を落としている。 所在なさげに動いていた手が、ポケットに入れていたキセルを無意識に取り出し口に運んだのと、 事態に変化が見られたのとは同時だった。 グラリと船が揺れ、船員の一人の声が響いた。 「ああっ、また奴が戻ってきやがった!」 奴=魔物。だと、誰もが悟り、その途端船上が大きくどよめく。 が、その中でも特に大きな声を出したのは、誰でもなく彼女、ティスティーだった。 「何ですって!? ・・・ったく、あのバカッ」 「わっ、駄目だ!」 またしても海に飛び込もうとしたティスティーを、オウドを始め船員たちが必死になって止める。 「危険だ」 「でも、アノンがまだ・・・!」 ティスティーの必死な叫びが静かな闇の中にこだましたのと、船が突然淡い光に包まれたのとは同時だった。 「なっ・・・・」 誰もが突然のことに驚き、茫然と立ち尽くす。 淡く優しい光が船全体を包み込み、そしてゆっくりと船を動かしていくのだ。 「いったい、これは・・・・・?」 ティスティーもまた、茫然と立ち尽くすほかなかった。 海中では、ようやく待ちわびていた月光を浴び、蕾のままでいたホロメリアが 、フワリと花弁を広げ、海中を照らし始めた。 それを見た魔物は、小さく泣き声を上げると、その花の側に降り体を丸めた。 が、不意に海底に沈んでいるアノンの存在を思い出したらしく、触手で彼の体を自分の近くへと引き寄せた。 つい先程まで動いていたアノンが、ピクリともしないことに疑問を持ったらしく、魔物は触手で彼をつついてみる。 その触手を、優しく撫でる者がいた。 水中に長い髪を漂わせているのは、水に属する精霊。 いや、一人だけではない。魔物の目の前に立って、何か言い聞かせているらしい子供の姿をした精霊と、 海に沈んでいるアノンを腕に抱き上げる精霊がいた。人間が水中では生きていけないことを魔物に悟らせた彼らは、 飛ぶようにして海面へと向かっていく。 優しい腕の感触に、うっすらと瞼を持ち上げたアノンはそこに美しい精霊たちの姿を見、 そして安心したように再び瞳を閉ざしたのだった。 精霊たちが向かっていた海上では、ようやく船を包んでいた光が消えたところだった。 「・・止まった・・・」 船を運んでいた光が消え、ホッとしたところに、新たな声が上がった。 「おいっ、あれ・・・っ!」 大きな飛沫を上げて海面を突き破り、船員たちの前に姿を現したのは・・・。 「あれは・・・・」 「精霊か?」 「おお・・・」 満月の光は魔力を帯びており、それ故に、魔力を糧とするホロメリアは花弁を開く。 同じく月光を浴びた者は、元来魔力を持たないものでもこの夜だけは多少の魔力を持つという。普段は視認することのできない 精霊の姿を船員たちが認めることができたのもその所為だろう。 船員たちがじっと見つめる前で、精霊たちは船に降り立つと、腕に抱いていたアノンを甲板に下ろした。 「・・・ア、アノン!?」 突然現れた上級位の精霊に驚き立ち尽くしていたティスティーだったが、 彼らの腕から下ろされ、ぐったりとしているアノンの姿にサーッと音を立てて、 血の気が引いていくのを感じ、慌てて彼の方に駆け寄る。 「ちょっと、アノン!?」 どうやら息をしていないらしいアノンに、いよいよティスティーは青ざめる。 そんな彼女に声をかけたのは、精霊だった。 〈大丈夫。僕たちに任せてください〉 そう言って、精霊はアノンに向けて手を翳した。船を覆ったのと同じ、青い光がアノンに降りそそぐ。 固唾を呑んで見守っている船員たちの方へ、突然子供の精霊がヒュンと飛んでくる。 いきなり目の前までやって来た精霊に驚いている彼らに、精霊は無邪気な笑みを浮かべて言った。 〈満月の夜には停泊場所に気を付けてネ。月の光が当たらないとホロメリアは咲かないの。 だからホロメリアの守護者が怒ったんだよ〉 フワフワと船員たちの周りを飛び回りながら、精霊は彼らにそう教えた。 今まで精霊を見たことのなかった─あっても、言葉を交わしたことはなかった─男たちは、 想像していた精霊に対する神秘的なイメージとは異なり、少し人間くさい無邪気な様子に、またもや驚いている。 そんな船員たちの反応を、楽しそうに見ていた子供の精霊は、仲間たちが介抱していた少年が、 少量の水を吐き出し呼吸を再開したことに気付き、そちらの方へと飛んでいく。 〈ね、もう大丈夫?〉 〈ええ、大丈夫よ〉 〈僕たちの出番は終わった。行こうか〉 〈そうね〉 風の囁きにも似た涼やかな声でそう言葉を交わし合うと、三人の精霊はフワリと浮かび上がった。 「待って!」 彼女らが風に消えようとした刹那、ティスティーの声が彼女らを止めていた。 「・・・貴方たちは何故・・・・」 今、目の前にいる精霊たちだけではない。行く先々で色々な精霊たちが皆、 自分達を・・・、いや、アノンを助けてくれる。何の見返りも求めずに。 いったい何のために? 〈・・・〉 ティスティーの問いに、三人は少し困ったように顔を見合わせた後、穏やかな微笑を浮かべ、 ティスティーたちの前から消えていった。 「・・・全く、不思議な子だ」 いつの間にかティスティーの隣に立ち、消えていった精霊たちのいた場所を見つめていたオウドが、 そう呟いた。そして、穏やかな顔で、甲板に横たわっているアノンの側に寄り、良かった、と彼の髪を撫でる。 「おや?」 起こさないようにそっと彼の茶金の髪を撫でた船長は、不意に首を傾げた。 海に落ちてずぶぬれだったはずの彼の髪が、すっかり乾いていたのだから。 これもきっと、精霊たちがやったことだろう。 「この子は人だけでなく、精霊すらも惹きつける何か・・・、魔法のようなものを持っているのかもしれないな」 「・・・・」 彼の言葉に、ティスティーは何も言わなかった。が、否定もしなかった。 人を惹きつける魔法。 その魔法はきっと、たとえどんなに強い魔力を持っている魔法使いでも得るこ とはできないのかもしれない。そんなものが彼にあるのかどうかは知らないし、分 からない。けれど、大の人間嫌いな自分が側にいることは、事実以外の何ものでもなかった。 |