いつもと同じように、再び朝はやって来る。 朝日が暗く沈んだ地を照らし始めるにつれ、アノンの夢も終わりに近付いていた。 それは、自分の過去への旅の終わり。 父母との死別と、ルウとの出会い。 幸せな二人での生活。 そしてその過去への旅は、ルウとの別れに至る前に、 終わりを迎えた。 それはいつもと同じく、ティスティーの声で。 「アノン、朝よ。起きなさい」 ティスティーに揺らされて、アノンはゆっくりと瞼を持ち上げる。 ・・・何だか、気分がいい。 たまには昔のことを思い出してみるのも良いかもしれない。 自分の中にしまいすぎた思い出は、己の存在を誇示するかのように、不意に心の中で暴れ出すようだから。 「ぼーっとしてないで早く支度しなさい。イリアさんがご飯作ってくれてるから」 「ほーい。すぐ行くよ」 よっ、と勢いを付けてアノンがベッドから体を起こしたのを見届けてから、 ティスティーは部屋を出て行った。 ふかふかのベッドの上であぐらをかき、 布団に残ったぬくもりをしばし楽しんでいたアノンは、不意に首を傾げる。 「あれ? オレ、何で・・・」 ようやく気付く。 確か自分は昨夜、原っぱでティスティーと喋っていて、そのまま寝てしまったはずだ。 それから、それから・・・。 「・・・レグラスさんだ」 夢の中に落ちていく途中、突然やってきた体が浮くような感覚。おそらく、 レグラスがここまで運んでくれたのだろう。温かくて力強い腕の感触。 ・・・・父親の腕と同じ。 「・・お礼、言っとかなくちゃ」 そう思ってようやくアノンはティスティーに言われた通り、支度を始めた。 服装を整えてから、カバンの中を整理していたアノンの手が、不意に止まる。 カバンの底の方に入れてあったものに目がいったのだ。 それは、アノンの宝物。 端の方が所々折れていたり破れていたりはするけれど、ずっと大切にしていた 、母からの最後の手紙と、銀のペンダント。 夢だか記憶だか分からない映像が脳裏をよぎっていく。 しばしその映像と、手中の宝物とを眺めていたアノンを現実に引き戻したのは、 勢いよく開けられた扉と、部屋に駆け込んできたカーノの元気な声だった。 「お兄ちゃんっ。ママがご飯できましたよ、って」 「あ。う、うん」 慌てて手紙とペンダントを胸のポケットに入れたアノンは、カーノに手を引かれるままに部屋を出た。 「おはよう、アノンくん」 「よく眠れたかしら?」 優しい、レグラスとイリアの笑みに、アノンははい。と頷いて微笑みを返した。 そんなアノンに微笑み返してから、イリアは彼にイスを勧め、座らせた。 「あ、そうだ。レグラスさん、昨日はどうもありがとう」 お礼を言わなくてはと思っていたアノンは、席に着くなり真っ先に言ったのだが、 レグラスには唐突すぎて、いったい何のことに礼を言われたのかが、 咄嗟には出てこなかったらしい。しばし首を捻った後、ようやくアノンの言っているのが、 昨夜彼をベッドまで運んであげたことに対してのお礼なのだと言うことに気付く。 「いやいや。どういたしまして」 「重くなかったですか?」 心配そうに訊ねたアノンに、レグラスは陽気に笑って言う。 「大丈夫。僕もまだまだ若いからね。それよりアノンくん。君はもう少し食べて大きくならなくちゃな」 「あはは。はい」 確かにアノンは背もこの年の少年にしてはそう高くはなく平均的で、 それに加えて体つきも華奢だった。力仕事を主とするレグラスにとっては、 彼を運ぶことなど、造作のないことだったのだろう。 「さ、スープが冷めない内に食べましょう。じゃ、アノンくん、しっかり食べて頂戴ね」 レグラスの言葉を引き継いだイリアに、アノンは笑いながら頷いて見せた。 アノンとカーノの元気ないただきますが響いた。 相変わらずおいしそうに朝食を食べているアノンを笑顔で見つめていたイリアは、 ちょっとごめんなさいね。と、みんなに断って席を立った。 部屋を出てすぐ戻ってきたイリアは、アノンの後ろに立つ。 「アノンくん、ちょっと良いかしら?」 「?」 「少しじっとしててね」 イリアに言われ、アノンはスプーンを持っている手もそのままに、動きを止める。 アノンの背後に回ったイリアは、彼の肩に流れている金茶の髪を掬い、持ってきた青いリボンで結んだ。 「スープに入ったらいけないものね。そのリボン、あげるわ。・・・あ、 アノンくんは男の子だから、リボンなんてもらっても、嬉しくないわよね」 そう言って微笑んだイリアの姿が、遠い昔、同じように微笑んでくれた母と重なる。 途端に、胸が熱くなった。 「・・・ううん。ありがとう」 アノンは少し照れくさそうに笑って、礼を言った。 賑やかな朝食の後に訪れたのは、別れ。 アノンにはルウを捜し出すという目的が、ティスティーにも北へ行かなくてはならない理由がある。 いつまでもここに留まっているわけにもいかないのだ。 「お昼ご飯まで持たせてもらっちゃって・・・。本当にありがとうございました」 お昼にどうぞ。とイリアが持たせてくれたお弁当をカバンの中にしまったアノンは、 ペコリと頭を下げ、それに合わせるようにして、ティスティーも軽く会釈をした。 「こっちこそ、家族が増えたみたいでとても楽しかったわ。ありがとう」 「また、遊びにおいで」 「はいっ!」 元気良く頷いたアノンの頭を、レグラスはガシガシと撫でた。 「ほら、カーノ」 さっきまでは賑やかにしていたカーノも、アノンたちがいなくなってしまうのが淋しくて仕方がないらしい。 先程からイリアの後ろに隠れるようにして、黙り込んでしまっていた。 「お兄ちゃんたちにお別れを言わなくていいの?」 再び母親に促されて、カーノはおずおずとアノンの方に寄ると、そっとアノンの服の袖を掴んだ。 「お兄ちゃん、行っちゃうの?」 淋しそうな瞳で見つめられて、アノンは、「そうだよ」と頷くのを一瞬躊躇ってしまったが、 それでも頷いてみせる。 「うん。でも、また来るよ。今度は旅での話をお土産にさ。な?」 「・・・約束だよ?」 そう言ってカーノが差し出した小指に、アノンは微笑みを零しながら自分の指を絡める。 「うん。必ず守るよ」 アノンがはっきりと頷いたのを見て、ようやくカーノの顔に、笑みが戻る。 「お兄ちゃん、お姉ちゃん。気を付けてね。行ってらっしゃい」 カーノの顔にいつもの人懐こい笑顔が戻ってきたのを見届け、安堵したアノンは、ゆっくりと歩き始める。 「行ってきます!」 そうして振った手の先で、優しい笑顔と、無邪気に揺れる小さな手とが、次第に遠退いていった。 「うーん、いーい気持ち! 風が気持ちい・・・・・ん?」 樹海の木々の下をのんびりと歩いていたアノンは、うーん、 とのびをしていた腕を止めた。何かがカチャン、とぶつかる音がしたような気がしたのだ。 何だ何だ? と音のした方を見たアノンは、自分の胸ポケットで視線を止め、 ポケットの中に指を滑り込ませた。その指にまず当たったのは、カサカサとした紙の感触。 次にぶつかったのは、ひんやりとしたペンダント。 どうやら、ペンダントと、ポケットに入れておいたの戦士証がぶつかったらしい。 「────」 手に当たったペンダントを、そのまま掴んで取り出して見る。 シャラシャラと、鎖が涼しい音を立てた。 カチリと音をさせてペンダントの中央にある赤い石を押すと、 ペンダントはぱっくりと口を開ける。その中では、父と母、 そして幼い頃の自分が微笑んでいた。 母と自分を守ろうと必死に魔物と戦いながらも、 死んで逝った父。 愛している、と。ごめんなさい、と囁きながら死んで逝った母。 (・・・母さんが、オレに謝る必要はないよ) 写真の中の母に、アノンは微笑みかける。 (だって母さんは、ずっとずっとオレのことを想っていてくれたから・・・) 狂気の中でも、死の間際にでも、彼女は自分のことを思っていてくれた。 いいお母さんだね 不意に、いつだったか、ルウの口にした言葉が蘇ってきた。 自分の精神を見失っても、君への愛情は、最後まで見失わなかったんだよ ────だから、母さんは何も悪くないんだ。 どうしてオレを置いて逝っちゃったの!? そんな風に父や母を責めたことはない。 ・・・もっともっと、一緒にいたかったよ。 そう思った日はあったけれど。 「アノン!」 アノンの意識を途切れさせたのは、前を歩いていたティスティーの怒声だった。 「あ、何?」 ペンダントを隠すように握りしめたアノンは、慌ててティスティーに視線を転じた。 仁王立ちになって、じっとアノンを見つめていたティスティーは、彼の意識が現実に戻ってきたことに気付いて、 小さく溜息をつく。 「ぼーっとしてたら、今度はアンタが迷子になるわよ」 「・・・・ごめん」 アノンは素直に謝った。 もし自分が迷子になってしまったら、ティスティーはアノンを置いて行くと言っていた。 そうなればアノンはまた独りぼっちだ。あの時と同じように広い森を、 ティスティーを捜して彷徨わなくてはならなくなる。 ────あんな思いは、もうしたくない。 謝罪の言葉を述べてから俯いたアノンに、ティスティーは彼に気付かれないように溜息をつく。 そして、いつまでたっても歩き出そうとしないアノンの頭を軽くはたいてからスタスタと歩き出す。 叩かれた頭を撫でながら顔を上げたアノンに向けられた彼女からの言葉は、ぶっきらぼうだったけれど。 「迷子になんてなったりしたら、私が見つけだして、ぶん殴ってやるからね。よーく覚えておきなさいよ」 昨日は勿論、置いていくわよ≠ネんて言っていたくせに・・。 私が見つけだして ティスティーは確かにそう言った。その後に続いた、 ぶん殴ってやるわよ、という言葉はいただけないが、 それはティスティーの照れ隠しなのだと言うことを、アノンは知っている。 しばしティスティーの言葉を反芻し、茫然としていたアノンだったが、 すぐに笑みを零す。そして、さっさと前を歩いて行くティスティーを追って走り始める。 「うん! 覚えとく!」 元気の良い返事が、爽やかな木々のざわめきと共に、ティスティーに届いた。 |