KINGDOM →→ リダーゼ

   TOWN →→ ― ― ―




 そこはとても静かで、淋しい、独りぼっちの世界。
 ずっとずっと自分の中にあって、ずっとずっとしまっていた記憶の世界。
 ――それはとても遠い、昔々の物語。


 サワサワと鳴る葉擦れの音の中、僅かに聲のようなものが混じっている。 それは言葉として認識することはできないけれど、広い広い森の中をたった一人で、 泣きそうになるのを堪えながら彷徨う子供を励ますよう、勇気づけるような囁き。
「母さ――ん! 母さん、どこー?」
 幼い子供の必死な叫びが、木々の間にこだます。
 だが、何処からも返事は来ない。
 澄んだ青い瞳に、じわりと涙が滲む。 そんな子供の茶金の髪を、優しい風が撫でていく。
 その風に励まされたのか、頬に零れそうになった涙を、 手の甲で拭ってから、再び母を捜し始めようとした、その時だった。


 ガサ、ガサガサッ。


 風で揺れて鳴るのとは明らかに違う、不規則な葉擦れの音。
 ビクッと体を強張らせた後、今もまだ揺れている茂みに視線を遣る。
 硬直している子供の目の前で、茂みが大きく揺れて、
「―――!」
 ギュッと目を閉じてしゃがみ込んでしま った子供に降りかかってきたのは、とても穏やかな声だった。
「あ、ごめん。驚かせちゃったね」
 魔物でも出てくるのではないかと思っていた子供は、 予想に反した事態に、そっと瞼を開ける。 真っ先に瞳に飛び込んできたのは、自分と同じ青い瞳と、 太陽の光を浴びて輝く目映い金髪。穏やかな微笑と、細い体に似合わず、 背には彼の身長ほどもある大きな剣を軽々と背負っている。
「声が聞こえたから来たんだけど、君の声だったのかな?」
 キョトンと自分を見上げている子供の前に膝を付いた少年は、 小さく頷いた子供に、優しく微笑みかけてから再び問う。
「名前、言える?」
 少年の言葉に、再び頷いた子供は、小さな声で言った。
「・・・アノン」
「アノン、か。俺はルヴィウス」
 ルヴィウスと名乗った少年の名を、 子供─アノンは繰り返そうとしてみたが・・・。
「ル・・、ルー・・・?」
 ヴィという音が、言いにくいらしく、 ルから先が出ないアノンに、彼は小さく笑って言う。
「ルウで良いよ」
「るう?」
「そ」
 これなら難しくないだろう? と付け加えて言ったルヴィウスに、 アノンは頷いてから、ルウ、ルウ。 と、何度か繰り返してみた。
 先程までシュンとしていたアノンが、少し元 気になったことに微笑みを零してから、ルウは彼に再び訊ねる。
「ところで、アノンはどうしてこんな所に一人でいたんだい?」
 昼間とはいえ、魔物が出ないという保証はない。 まだ十にも満たない男の子が一人きりで歩くにはこの森の中に危険すぎる。
「・・・アノン?」
 黙りこくってしまったアノンの瞳に再び涙が滲む。 改めて、自分が独りぼっちだという事実を思い出してしまったのだ。
「・・・母さんが、待っててって言ったのに、帰ってこなくて・・・」
 ついにポロポロと涙を零し始めてしまったアノンの頭を、 ルウの手が優しく撫でた。
「泣かないで。ナ? 俺も一緒にお母さんを捜してあげるよ。 一人じゃないから、大丈夫だよ」
「・・・・」
 しばらくの間、アノンは目の前に出された自分より大きな手と、 彼の穏やかな笑みとを見つめていたが、
「さぁ、行こう」
 再び促され、差し出されていたルウの手を、 アノンはおずおずと握ったのだった。


 そうして歩き始めてから、数時間は経っただろうか。 辺りが闇に落ち始める。
「アノン、ストップ!」
「?」
 唐突にかけられたルウの制止の声に、アノンは驚いて歩みを止める。
 暗くなり、視界が悪くなってきたので、アノンは目の前が 切り立った崖になっていることに気付かなかったのだ。
 ルウに手を引かれて崖の方から連れ戻されるその一瞬、 アノンは崖下に、何か白いものがあることをその瞳に捕らえていた。 風にはためくその白いものが何なのか直感的に悟ったアノンは、 勢い込んでルウに訴える。
「ルウ、母さんがいた!」
「お母さんが?」
「崖の下だよ」
 あの白い色は、きっと母親の着ていた服の白だ。
 表情を輝かせて崖の方へ寄ろうとするアノンを、 ルウは慌てて引き止めた。
「待って、アノン。危ないから俺が見てくるよ」
 そう言って崖の方に寄り、下を覗き込んだルウの表情が変わる。
 深まっていく闇の中に浮かび上がる白は、 アノンの言ったとおり人の形をしていた。 だがその白を染める、黒い影はいったい何だろうか。
 アノンの行ったとおり、そこにいるのは、 彼の母親に間違いない。
 いや。正しくは、アノンの母親だった人に、だ。
「―――・・」
「ルウ? どうしたの?」
 じっと崖下を見つめたまま、何 も言ってくれないルウにアノンは首を傾げる。
「ねぇ。母さん、いた?」
「―――え、あ・・・・」
 ぎこちなくアノンを振り返ったルウは、 彼の期待に満ちた眼差しに、何も言えなくなってしまった。
 言えるはずもない。彼が探し求めていたその人はもう 死んでいたのだ、なんて。
 どんなに言葉を飾ってみても、その残酷な真実から、 アノンを守ってあげることはできそうにない。いっそのこと、 お母さんじゃなかったよ。と言ってしまおうかとも思った。 だが、そうしたら彼は、永遠にこの森の中、母の姿を捜し、 彷徨い続けなければならなくなってしまうのだ。
「―――・・」
 何気なく転じた視線の先に、何かの影が映ったような気がして、 ルウはハッと我に返る。
「!」
 アノンの少し後ろに、頬を涙に濡らした女が立っていた。
「―――・・貴女は・・・・・?」
「? どうしたの? ルウ」
 自分の後ろの方をじっと見つめたまま動きを止めてしまったルウに、 アノンは不思議そうに首を傾げて振り返ってみる。 だが、そこには誰もいない。
 けれどルウは、そこに女の姿を見ていた。
 所々に金色のものを混じらせ、背に流れる美しい髪。 その茶金の前髪から覗く瞳は、涙に濡れてもなお澄んだコバルトブルー。 けれど美しいその女からは、生きているものの気がしない。 亡霊、と言うより、彼女は精霊に近かった。 微かに漂う魔力が、それを物語っている。
「・・・え?」
 女の薄紅色の唇が徐に開かれ、音のないこえで言葉を繋ぐ。
 それは・・・。
《・・・アノン》
 苦しそうに顔を歪ませて、最後に彼女が口にしたであろう言葉。 そして、決してぬくもりを感じ、伝えることのできない腕で、 それでも強く、アノンを抱き締めて囁く。
《――――・・さようなら・・・》
 ルウが魔法戦士系であり、魔力があったが故に聞き 取ることのできたその囁きは、あまりにも切ない響き。
 ルウは、彼女がアノンの母親だということを確信する。
 おそらく彼女には少なからず・・いや、精霊が持っているものに 匹敵するほどの魔力を持っていたのだろう。 その魔力が彼女の強い想いを具現化し、現世に残したのだ。
 名残惜しそうにゆっくりとアノンから離れた彼女の姿は、 風に消えていく。その瞳は最後まで、愛おしげに細められたまま、 アノンを見つめていた。
「ルウ・・・」
 彼女が消えた刹那、突然アノンに声をかけられ、 ルウは意識を現実に引き戻す。そうして改めてアノンに向けた瞳を、 ルウは丸くした。
「どうしたんだい? アノン」
 アノンの方に駆け寄ったルウは、そっとアノンの頬を包み込む。 その拍子に、瞳に滲んだ涙が雫となって頬を、そしてルウの手を濡らした。 そんなアノンの瞳は、涙に濡れてもなお、澄んでいて美しい光を放っている。
 彼の母親がそうであったように。
「・・ルウ。母さん、死んじゃったんだね」
「―――アノン?」
 ルウは驚きに目を瞠る。
 何故、アノンがそのことを知っているのだろうか。 彼女の思念、残像を見ることもできなかったアノンに、 彼女の聲が聞こえたというのだろうか?
 戸惑うルウの腕に縋り、 アノンは泣きじゃくる。
「さよならって・・・。さよならって・・・・・!」
「アノン・・・・」
 魔力があるだとかないだとか、 そんなことは関係ないのだ。《さようなら》と、 そう告げたのは、アノンが必死で捜していた母であり、 その言葉は、彼女が愛する息子に送った最後の言葉だったのだから。
「―――・・アノン・・・」
 泣きじゃくるアノンと、彼を抱き締めるルウとを、 優しく包み込むようにして風が駆け抜けていく。
 その刹那。


〈こっち・・〉


「・・?」
 吹き抜けていく風の中に、ルウは確かに聲を聞いた。 一人の女の死と、そんな彼女の死に泣く幼い子供とを悼んで、 涙に濡れた聲で囁きかけてくる。
「・・こっち、って・・・・?」
 その囁きに半信半疑のまま、ルウは風の去っていった方に視線を動かす。 二人から少し離れたところにある茂みを、もう消え去ってしまっただろう と思っていた風が揺らしている。 それは、魔力の弱い精霊たちの、精一杯の意思表示。
「・・・これは・・」
 アノンの側を離れ、精霊たちの導く場所へ歩み寄ったルウは、 そこに置かれてある物を手に取る。
 真っ白な紙と、その上に綴ってある言葉たち。 そしてもう一つ、写真の入った銀のペンダントがそこにはあった。
「アノン! コレ、見てごらん」
 手に取った手紙とペンダントを、ルウはアノンの前に差し出して見せる。
 それは、母親から息子への言葉と贈り物。
「お母さんから君への手紙と、ペンダントだよ」
「母さん・・から・・・・?」
 涙に濡れた手で、ルウの差し出した手紙とペンダントを受け取ったアノンは、 何度か目を瞬いて滲んだ視界を直した後、手紙に目を向けた。
 そこに並べられていた言葉は、狂った母の妄想と恐怖。
 そして、優しい母の、自分への不変の愛情―――。


『ああ、アノン。ごめんなさい。母さんはもうすぐ死ぬの。
だって、ほら、見えるでしょう? お父さんの血に濡れた赤い、 赤い魔物が、だんだん近付いてくるのが・・・。 アイツはお父さんを引き裂いてもなお、母さんを、 そしてあなたまでも引 き裂き、喰らおうとして追ってくるのよ。
何度逃げても追ってくる。だから、その度に逃げるの。
でも、もう駄目。
どんなに逃げても、アイツはやって来るわ。
だから、お願い。私を食べて。
だから、お願い。アノンは助けて頂戴。
そしてできることなら、私はちゃんと食べて欲しいの。 夫のように、足や手を残したりしない で。 骨も、血も、何もかも喰い尽くして。 あの子が、私が死んだことを悟らないように・・・。
この願いを聞いてくれるのなら、いいわ。私を食べて。
ねぇ、アノン。あなたにもお願いがあるのよ。
・・・・母さんのこと、忘れないでね。せめて、 こんな愚かな女がいたことは覚えていて頂戴。
もう一つ。
アノン。あなたは幸せになって。そのために必要ならば母さんのこと、 忘れてくれても構わな いわ。あなたをこの世に一人置い て逝く母さんを恨んでくれても良い。 ただ、お願い。あなた は幸せになって頂戴。
ごめんなさいね、アノン。ごめんね。
愛してるわ』


《愛してる》
 その言葉は、延々と白い紙を埋め尽くしていた。何度も何度も・・。
「――――」
 繰り返されるその言葉を一つ一つ確かめた後、 アノンは茫然としたまま、母が残したもう一つのもの、 ペンダントの蓋をそっと開けてみる。
「―――・・」
 そこにいたのは、遠い日の自分達だった。 三歳くらいの自分を腕に抱いて微笑む母。その母の肩を抱く父親。
 覚えてはいないけれど。とても幸せだった時間。
 父母の優しくて、穏やかで・・・。 そんな笑顔が、いやにアノンの胸を突く。 もうこんな笑顔を・・・、父母の笑顔を見ることはないのだ。永遠に・・・。
 そうした事実に気付いた途端、再び涙があふれ出していた。
「・・・父さん、母さん・・・・・」
 それから零れた言葉は、大好き≠ナもさよなら≠ナもなく・・・。
「うわ―――――ん」
「アノン・・・」
 森の中に、アノンの泣き声が響く。
 大粒の涙を零す幼い子供を、ルウと、 そして森とが、温かな腕で包み込んでいた。




************一言二言三言*

あー。全て…もれなく全て書き直したい!!!
でも、そんの無理。
でも書き直したい。
そんな葛藤を抱きつつ…。