KINGDOM →→ リダーゼ

   TOWN →→ アルバ




 何か、聞こえる・・・。
 何かを告げるような木々のざわめきと、次いでそれをかき消す咆哮。
 そして、凄まじい悲鳴。
 耳をつんざくような音の洪水。
 それがようやく通り過ぎたと思ったら、今度は耳に残る嫌な音が鼓膜を震わせる。 水気を含んだ肉の切り裂かれる音と、漂ってくるのは鼻を突く血の匂い。
 そして、断末魔の声は、すぐに消えた。
 残るのは、血。血、血。真っ赤な、血。
 生暖かい飛沫が頬を濡らす。それが気持ち悪くて、 頬を拭ってみた掌は、ドロリとした赤に染まっていた。


『─────ッ!!』

 強く抱き締めてくる腕と、耳元で悲鳴と共に叫ばれる自分の名とが、うるさい。 何も聞こえない。何がどうなっているのか、よく分からなくなってしまった。 自分に危機が迫っているのだということは分かる。
 だが、不安や恐怖よりも、強く抱き締めてくるぬくもりが、 とても温かかったことを覚えている。
 強い、強いぬくもり。
 温かくて、優しい。
 母さんの、ぬくもり────。


『アノン!』


 叫ばれたのは、自分の名。
 何度も、何度も。何度も、何度も…。


「アノン!」
 頭の奥で響いているその声を掻き消すかのように、何処か遠くから、母のものではない、 でもよく知った声で自分の名を呼ぶ声が聞こえる。


 ───誰?


 ───あの声は…?



「・・アノン!・・・・アノン!!」


 ティスティーの怒声を浴びせられたアノンの瞼が、ゆっくりと持ち上がる。 青く澄んだ瞳が少し周囲を見回した後、真っ直ぐにティスティーを映した。
 ティスティーはどこか困ったような顔で、瞬きを繰り返すアノンを見下ろしていたが、 しばらくして口を開いた。
「…こんな所で寝てたら風邪ひくわよ」
 風呂から出てきてみるとアノンの姿が見えない。キョロキョロしていると、 レグラスが「アノンなら外にいるよ」と教えてくれた。
 その言葉に従って外に出、歩を進めると、少し丈のある草に埋もれるようにし て横になっているアノンを見つけた。辺りが暗やみに包まれていることもあった、 危うく踏むところだった。
「あー・・、おはよう」
 ぼ───っとしつつ、アノンは体を起こす。
 そんなアノンの行動を見守っていたティスティーは、小さく溜息をついてから、 彼の隣に腰を下ろす。まだ完全に目が覚めていないのか、それとも何か考えているのか、 夜空に輝きを放つ星々を、ぼーっと眺めているアノンの横顔を、チラリと盗み見た後、 ティスティーは静かに口を開いた。
「・・・・アンタ、怖い夢でも見てたの?」
「え?」
「・・・うなされてるようだったから・・」
 そう。だから、アノンを起こしたのだ。
 ・・驚いた。
 覗き込んだ彼の顔にあったのは、いつものあの幸せそうな、 あどけない寝顔ではなかった。何故か苦しそうに眉を寄せ、 まるで泣き出しそうな顔をしていた。 いつもなら、決して見せない表情。今にも、そのきつく閉ざされた瞼の間から、 冷たい涙が頬を伝っていきそうで・・・。
 夢の中で、何か辛い思いをしているのかもしれない。
 そう思った途端、彼の寝顔を見ていた自分の方が苦しくなってしまった。 息苦しさを覚えたティスティーは、無意識のうちに、急いでアノンを起こしてしまっていた。
 ティスティーの問いに、アノンは夜空に視線を漂わせたまま答える。
「・・・今日はね、昔の夢をよく見るんだ」
「昔の?」
「うん。そう」
 アノンの言う昔≠ェ、一体どれくらい前のことを指しているのか、 ティスティーには分かった。
 きっとそれは、彼がまだ両親と暮らしていたときのこと。
 カーノと彼の両親の姿に、今は亡き自分の両親と幼い頃の自分の姿とを重ねてしまっていたのだろう。
「・・・・」
 ティスティーは僅かに眉を寄せる。アノンの切ない横顔の所為で。
 時折アノンはこんな淋しそうな顔をした。 いつもは馬鹿みたいに明るく振る舞ってはいるが、 やはり心のどこかに未だ色濃く、父母を亡くした悲しみがや淋しさが刻まれたままなのだろう。
 いつも幸せそうな、無垢な笑みを浮かべているアノンだ ったからこそ、ふとした拍子に見せるこんな表情は非道く痛々し くて、何か声をかけようにも、ティスティーの口からは何も出てこない。
 知らないのだから。
 アノンがどんな風に父母と別れ、どうやって生きてきたのか知らないから、 下手な慰めや同情は、逆に彼を傷付けてしまいそうで・・・。
「ねぇ、アノン」
 しばらく沈黙した後、ティスティーは思いきって言った。
「訊いても、いいかしら?」
「何?」
 妙に改まった雰囲気のティスティーに、アノンは不思議そうに首を傾げる。
 そんなアノンに、ティスティーは何度か口を開き、でもまた閉ざして 、を何度か繰り返した後に、遠回しな言い方ではあったが、ようやく自分の質問を口にした。
「・・アンタ、どうしてあんなに一生懸命カーノの母親を捜してあげようとしたの?」
 近くの町に届けようと言ったティスティーの意見に聞く耳を持たず、とにかくカーノ を彼の母親に会わせたいと言ったアノン。
 きっとそこに、ティスティーの知ら ないアノンの過去があるのだ。
「独りぼっちなのが辛いから。ってアンタは言ってたけど、他にも何かあるんじゃないの?」
 ティスティーの真っ直ぐな瞳の中に、真剣な光を見つけたアノンは、 少し辺りに視線を漂わせた後、徐に口を開いた。
「・・・オレ、父さんも母さんもいないって言ったよね?」
 草の上に投げ出した足の先で視線を止めて、アノンはポツリと言った。
「ええ。聞いたわ」
 ティスティーは真っ直ぐアノンを見つめたまま、彼の次の言葉を待った。
 そして彼の口から紡がれた言葉は、ティスティーの言葉を失わせるのには十分だった。
「・・・・父さんは、オレが五歳の時、オレと母さんの目の前で、魔物に喰い殺されたんだ」
「───え?」
 驚きに思わず口を開けてしまったのだが、そこからは何の言葉も出てこなかった。
 無理矢理に出すとすればその言葉はきっと、「どうして!?」だっただろう。
 ティスティーは見ていた。姿は違えども、彼が自分の父親を喰い殺したという魔物と仲良く戯れ、 彼らを友達と呼び、彼らに手をかけようとした自分に、殺しては駄目だと言ったアノンの姿を。
 ────・・自分は違う。たとえ目の前にいる魔物が、 親兄弟の仇でなくとも、そいつが自分から大切なものを奪っていった魔物という種族であれば、 何の躊躇いもなく殺すだろう。
 ティスティーが言葉を繋げずにいることに気付いてか気付かずか、 アノンはその場に完全な沈黙が落ちる前に口を開く。
「オレが覚えてる父さんについての記憶ってさ、たった一つなんだ。 しかもそれって・・、父さんが、魔物に喰い殺されてるところだったりするんだよねー」
 でも、もう映像的なものなんだけどさ。と、ことさら明るい調子で付け加えたアノンは、 自分の爪先から、しきりに動かしていた指へと視線を移す。
「母さんが死んだのは、それから一年ぐらい後」
 そこで言葉を切ると同時に、アノンの顔から表情が消えた。 そして唇から零れた言葉にも、何の感情もこもってはいなかった。
「───・・自殺しちゃった」
「自殺!?」
 思わずティスティーは鸚鵡返しに訊ね返してしまっていた。
 彼女には信じられなかったのだ。
 夫を亡くし、我が子を守り育て、 愛するのは全て自分の役目になってしまったというのに。 息子に唯一家族の愛を注ぐことのできる存在である自分を、自ら消してしまうなんて、 信じられなかったのだ。
「どうして・・・・?」
「・・父さんが死んだとき、オレはまだ小さくって、ちょっと現実味に欠けててさ」
 幼く純粋な心が壊れてしまわないように、その青く澄んだ瞳に映し出された映像は、 そのまま瞳に刻まれることはなく、ひどく現実味の欠けた『絵 』としてアノンの中に残ったのだが・・・。
「でも母さんは、父さんが魔物に喰われていくところを、はっきり見ちゃってるんだよね。 当たり前だけど、相当ショックだったらしくてさ、オレたちは・・・・、 良く覚えてないけど、どうにか助かったって言うのに、殺さ れる殺されるって叫んだり、泣いたりして・・・・」
「どういうこと?」
 ティスティーに問われて、アノンは彼女の方に向けた顔に、 少し困ったような笑みを浮かべて言った。
「・・・おかしくなっちゃったんだよ、母さん」
「・・・・・そう、なの」
 そんな、曖昧な返事を返すこと以外に、今この場に相応 しい対応の仕方は見つからなかった。
 アノンの方も、特に何か期待していたものはないらしく、再び視線 を落として話し始める。
「時々正気に戻るんだけど・・・、特に赤いものとか、血を思わせるも のを見たときはすごくって、オレを連れて一目散に逃げ出すんだ」
 夫を目の前で無惨にも引き裂かれ、精神に異常を来した彼女には、 ろくに子供の世話をすることもできなくなっていた。 勿論働くこともできず、 食事を作って与えることもできない。
 そんな彼女とアノンを心配して、 村の人たちは彼女に、街の病院に入院することを勧め、 アノンを預かると言ったのだが、彼女は一時でも息子を手放すことを良しとしなかった。
 更には、近所の人が作り与えてくれる食事も、頑なに食べようとはせず、 息子にも食べさせようとはしなかった。
 その所為で、アノンが口にすることがで きたのは、時折正気に戻った母が作ってくれる料理か、母の目を忍んで近 所のおばちゃんや友達が届けてくれるものだけだった。
 ───そう言えば、自分が戦士になりたいと思ったのも、ちょうどこの頃だった。


『誰か助けて!!!』


 泣き叫ぶ母の姿に、強くなろうと決めたのだ。母を守ってあげられるように。 もう誰も、自分の前で悲しむ人がいないように、強く。強く・・・・!
 ある日、そんな母子の生活は、 プツリと途切れる。
「・・真夜中、だったかな。急に母さんの悲鳴が聞こえて、オレは、目を覚ましたんだ」
 ベッドからおりて急いで母親の所へ言ったアノンが見たのは、 母の前に赤々と灯ったランプの炎に自ら飛び込んでいき、バラバラになった蛾の姿。
 テーブルの上に散らばる、蛾の残骸=B
 バラバラ。
 真っ赤に染まった『絵』が目の前をよぎる。
 その絵の中でも、何かの残骸≠ェ、バラバラになって散らばっている。 気持ちの悪い赤い水が残骸≠フ上にまき散らされていて・・・。
 ────広がる。
 飲み込まれていく。
『絵』の中に。
 そう、『絵』。『絵』なんだ。ほんの少しだけ気味の悪い、『絵』なんだよ。


あれ?
真っ赤でよく分からなかったんだけど、バラバラになってるのってお父さんだよね
お父さん、動かないよ?
あっ、そっか
バラバラなんだもん
動けないよね
ねぇ、お母さん
ボクはどうすればいいの?
何をすればいいの?
ねぇ、お母さん
お父さんがこっちを見てるよ
きっとボクたちの方に来たいんだよ
でも、足が取れてちゃ来れないね
そうだっ
ボク、いいこと思いついたよ
このバラバラになったのをくっつけたら、お父さん、元通りになるよね
ね?
そうでしょ? お母さん


 体が、動かなくなった。
 息苦しくて、気持ちが悪い。
 もしかしたら、その瞬間だけ、気を失ってしまっていたのかもしれない。 次に我に返ったときには、何処だろう・・? 暗い森の中を走っていた。 あの『絵』の中で、自分を強く強く抱き締めてくれていたのと同じ、あたたかな手に引かれながら・・・。
「母さんはオレを連れて森の中に逃げて行ったんだ」
 例の如く、殺される、逃げなくては。と。
「んで、木の根本にあった穴の中にオレを入れて、 すぐに戻ってくるから、ここで待ってるのよ?≠チて言って、どっかに行っちゃった…」
 真っ暗な闇の中に一人残されるのが嫌で、自分も連れて行ってと縋り付いた息子に、 彼女は困ったように、でも優しく微笑んで言うのだ。


大丈夫よ、アノン。すぐに戻ってくるわ。母さんが戻ってくるまで、 絶対にここから出ては駄目よ?


 そう言って、彼女は駆け出して行った。
「・・・で?」
「うん。帰ってこなかった」
 アノンの言葉の続きを促したことを、ティスティーは後悔する。 半ば予想できていたこととはいえ。
「オレ、頑張って待ってたんだ」
 ここで待っておいで。必ず戻ってくるから。と、そう言った母親が正気だったのか、 それとも狂っていたのか、よく分からなかった。
 彼女の言葉はまったくもって意味が分からなかったけれど、瞳は・・、 笑顔は、とても真剣で、とてもとても優しくて・・・ 。
 だから、分からなかった。
 それでも、アノンは待っていた。待っているし かなかったのだ。アノンにはもう、母親しかいなかったのだから・・・。
「ずっとずっと待ってたんだけど、朝になっても母さんは帰ってこなかった」
 アノンは遠い昔、木の穴の中でそうしていたように、伸ばしていた足を曲げ、 両手で包み込むと、その中に顔を埋める。
「最初は、魔物に襲われたのかな? 何かあったのかな?  って心配だったんだけど、だんだん違うことが心配になって来ちゃって・・・」
「違うこと?」
 訊ねたティスティーに、アノンは小さく頷き返していった。
「・・・オレは、もしかしたら捨てられたのかもしれない、って・・・・」
「────アノン・・」
 自嘲気味に笑ったアノンの淋しい言葉に、ティスティーは眉をひそめた。
「・・・そんな、母さんを疑う自分が嫌で、オレ意地でも待とうって決めたんだ」
 信じることをやめてしまったら・・・。いったい何のためにこ こにいるのか分からなくなってしまう。淋しさや不安で逃げ出したくなるのを必 死にこらえて、待っているのだ。ただ、母の帰りだけを。笑顔で自分 に向けて差し伸べられる、あたたかい手のぬくもりだけを支えに。
「でも、昼になっても母さんは来てくれなくて、一人なのが怖くなって、 オレ、穴から出て森の中を歩き始めたんだ」
 いつまで一人でいればいいのか分からない、とてつ もない不安と募ってくる孤独感に耐えきれず、ここが何処だか分か らないながらも、とにかく穴から出て歩き始めた。
「そのときに、オレはルウに会ったんだ」
「ルウって、アンタが捜してるって言う人?」
「そ。ルウがオレと一緒に母さんを捜してくれたんだ」


俺も一緒に捜してあげるから


 そう言って彼の差し出してくれた手のぬくもりは、 今でも容易に思い出すことができる。
「一人だって事がすごく不安で怖くて・・。 そんなときにルウが助けてくれて、オレ、すごく嬉しかったんだ。 だからオレも、カーノを助けてあげたくなったんだよ」
 そして、どうしてもお母さんに会わせてあげたかった。 自分は会えなかった。だからこそ、カーノにはそんな思いをさせたくなかった。
 遠い昔の、自分の姿が、カーノに重なって見えたのかもしれない。
「そう」
 ティスティーは相槌だけ打ってすぐに口を閉ざした。 危うく「で、お母さんは?」という言葉を零してしまいそうそうだったから。
 ・・答えは分かっている。きっとアノンがまた、悲しそうな顔をすることも。
 ティスティーの細められた瞳に見守られている前で、アノンは一度上げた顔を、 再び膝に埋める。
「ルウと母さんを捜して、数時間くらい経った頃かな」
 どうやらアノンは、最後まで話して聞かせてくれるらしい。
 いや。それはティスティーに話して聞かせている、と言うより、 埃をかぶったまま引き出しの奥の方に沈めてしまった記憶を取 り出し、確かめているようだった。
「崖の下で冷たくなってる母さんを見つけたんだ」
「・・・事故じゃないの?」
 足を滑らせ、誤って崖から落ちてしまったと言うことも十 分に考えられる。ましてや彼女の精神状態では『魔物』から逃げるこ とに必死で、周りが見えなかったのではないだろうか。
(だから自殺なんて・・)
 けれどアノンの答えは、ティスティーの中のそういっ た期待を悉くうち消してしまった。
「・・・遺書が、あったんだ」
「────・・」
「よく分かんないことばかり書いてあったけど、 母さんはオレを助けたかったみたいだった。 自分が死ねば、オレは助かるって思ってたのかもしれない・・・」
「そうだったの・・・」
 結果がどうであれ、子を思う母の気持ちは多少なりとも分かる。 もう、「何故自殺なんて!」と、彼女を責める気はすっかり失せてしまった。
「オレ、もうどうして良いのか分かんなくて・・・。そんなオレを、 ルウが引き取ってくれたんだ。だから、オレは自分のこと  不幸だなんて一度も思わなかったよ。いつもルウが一緒にいてくれたから」
 悲しかった。
 淋しかった。
 それでも、決して自分を不幸だとは思わなかったし 、思いたくなかった。それは、幼い自分の、 ささやかなプライドだったのかもしれない。
「・・いい人に会えて、良かったわね」
 ティスティーの言葉にアノンは膝に埋めていた顔を上げた。
「ハハ。それ、レグラスさんにも言われた」
「・・そう」
 自分に向けられたアノンの表情はもう、いつも通りの彼 の顔で、ティスティーはホッと安堵の溜息を零した。
「ふぁー」
 大きな欠伸をして、アノンは抱えこんでいた足を、草の上に投げ出す。
 闇の中を、サワサワと駆け抜けていく風だけが、お喋 りをしている。肌を優しく撫でていく風が心地良い。
「うーん、いい風」
 夜空に向けて思い切り腕を伸ばしたまま、アノンはボフっと草の上 に仰向けに横になる。視界いっぱいに広がる夜空が綺麗で、感嘆の溜息 をついて目を閉じる。それでも、星や月の放つ光は、瞳の奥に焼きついて いるのか、微かな光を残していた。
 ティスティーもアノンと同じように夜空を見上げ、目を閉じる。 サワサワとなる草の音が涼しくて、耳に心地良い。だが、先程 洗ったばかりの髪が冷えてきたのを感じて、瞼を上げる。アノ ンなんてとっくの昔に、濡れたままの髪も、体も冷えているに違いない。
 アノンに風邪をひかれて足止めをくらうのは御免被る。
 と言うのは、 素直にアノンが風邪を引いては可哀相だと言えないティスティー の、ちょっとひねくれた、けれど優しい気持ちだった。
「アノン。アンタちゃんと髪を乾かしなさい──、っと」
 ティスティーは釘を差そうとして、途中でやめる。 アノンにはもう何を言っても意味がないことに気付いたのだ。
 草の上に寝ころんだまま、彼はもう、寝息をたてていたのだから。
「────仕方のないヤツ・・・」
 確かにこの村は静かで平和だが、樹海と言っても差し支えのな いような森が近くにあるのだから、いつ魔物が来てもおかしくはない。 更に、盗賊からしてみれば、襲ってくださいと言っているようなものだ。
 仕方のないヤツだと溜息をついただけで、ティスティーは彼を起こ そうとはしなかった。魔物や賊が出ても、戦士でもある彼なら何とかするだろう。
「・・・おやすみ」
 そう囁いたティスティーは、そっと立ち上がってアノンの側を離れる。
 本当に風邪を引いてしまうかもしれないが、起こさな くてもいいと思った。
 彼の寝顔がいつも通り、幸せそうだったから。 今は、起こす必要はない。
 カーノの家の戸を開けたティスティーに、すぐさまおかえり、 というレグラスの言葉が向けられた。レグラスは笑顔でティスティーを迎えた後、 彼女の隣にアノンの姿がないことに気付いて首を傾げる。
「アノンくんは?」
 レグラスの問いに、ティスティーは答えざるを得ない。
 人間は嫌い。
 でも、彼らは決して悪い人ではない。 それに、いつもは自分の言葉を代弁してくれる人がいないのだから、自 分で答える他ない。
「・・・寝てます」
 短いながらも、初めてティスティーからまともな返事が 返ってきたことに正直驚いた後、彼女の言葉を反 芻してみて、レグラスは再び首を傾げる。
「・・・寝てるって、外でかい?」
 レグラスのもっともな質問に、ティスティーはそう だと答える代わりに小さく頷いて見せた。
 そこへ、ティスティーにお茶を入れてきたイリアが、あらあらと声を上げる。
「まぁ、風邪をひくわ」
「そうだな」
 イリアの言葉に頷いて立ち上がったレグラスは、その まま戸を押し開けて外に出ていってしまった 。おそらく、アノンを起こしにでも行ったのだろう。
「・・・・」
 その瞬間にふと思い出されたアノンの幸せそうな寝顔に、 ティスティーはレグラスを引き止めそうになる。
 今は、起こさない でいてあげて欲しかった。きっと今、彼は幸せな夢の中にいるのだろ うから、もう少しそのまま・・・。
 それはまるで、幼い子供を思っている母親のような、そんな感情。
「よいしょ、っと」
 そんなかけ声と、押された戸の軋む音とが聞こえた後、室内に 少し冷たい風と、その風に運ばれた草の香りとが迷い込んで来る。
 ゆっ くりと開く戸に視線を遣れば、両手でアノンを抱き上げ、その塞がっ た手の代わりに肩で戸を押し開けて帰ってきたレグラスの姿があった。
「まぁ、あなた。大丈夫?」
「大丈夫だよ。何だか、起こすのが可哀相でね」
 慌てて駆け寄り、戸を開けたイリアは、夫の視線がアノンの顔に 注がれたのを見て、つられるようにして視線を落とす。 そこには、レグラスが起こすのが可哀相だと言った理由に相応し い答えがあった。
 整った顔立ちの所為で、少し大人びて見えるアノンも 眠っていると年相応か、それよりも幼く見える。そんな彼の寝顔 はあどけなくて、思わず微笑みを零してしまうものがあるのだ。
 そして、祈る。
 願わくば、彼の見る夢が、幸せなものでありますように・・・・。