KINGDOM →→ リダーゼ

   TOWN →→ アルバ


 三十分ほどかけて辿り着いたカーノの家は、 アノンとティスティーが進んでいた方向とはまるで逆で、リダーゼ王国の端の方にある村だった。 逆戻りをしてしまったわけだが、魔物がウヨウヨ出る、夜の森で眠ることに比べれば、安いものだ。
 家の中には父親がいるのか、明かりが点いている。
「ただ今帰りました」
 カーノの母親─イリアがただいまを言ってドアを開けた瞬間に、 家の中でドタドタと慌ただしい足音が聞こえてきたかと思うと、中から背の高い、がっしりとした体格の男性が飛び出してきた。
「おかえり。一体どうしたんだ? こんなに遅くなっ・・・て」
 勢い込んで訊ねていた途中に、彼は妻子の後ろに見知らぬ少年と少女が立っていることに気付いて、言葉を切った。
 誰だい? と視線で訊ねてきた夫に気付いて、イリアが二人を振り返る。
「この子たちはアノンくんとティスティーさん。森の中で迷子になっていたカーノを助けてくれたの」
「そうか。どうもありがとう」
「いいえ」
 最初、目を合わせるためにはかなり見上げなければいけない程身長差のある彼に、 何だか怖い人? な印象を持った二人だったけれど、優しい笑顔で二人に頭を下げたカーノの父親に、 その第一印象はすぐに消えてしまった。ティスティーは黙ったままペコリと会釈を返し、アノンはニッコリ笑って首を振った。
「さ、母さん。早いとこ飯にしよう。カーノも、お二人さんも腹が減ったろうしな」
「ええ。すぐに用意するわ」
 頷いてから、イリアは足早に家の中に入って行った。
「さ、どうぞ」
 玄関前に突っ立ったままでいるアノンとティスティーの後ろに回ったカーノの父親は、二人の背を軽く押す。
「ほーら、お兄ちゃん、お姉ちゃん。早くっ」
カーノに手を引かれ、二人はちらっと視線を交わした後、薄く微笑んでアノンが言った。
「・・じゃ、お邪魔します」
「どうぞどうぞ」
 軽く頭を下げた二人に、にこりと笑い返してから、カーノの父親は二人を家の中へ招き入れた。


 カーノの母─イリアが忙しそうに夕飯を作っている間、アノンはお風呂の用意をしているカーノと、 彼の父親─レグラス手伝いをし、ティスティーも仕方なくイリアを手伝っていた。
 完全に日が暮れ、三人がお風呂の用意を済ませて戻ってきた頃、ちょうどおいしそうな匂いと湯気を漂わせている料理が、 机の上に並べられた。
「さ、どうぞ」
「いただきまーす」
 イリアからお許しが出た途端に、お腹をすかせていたアノンとカーノが手を合わせた。
 ガツガツと食べているアノンに、チラリと冷たい視線を送ってから、 ティスティーも小さな声でいただきますと手を合わせた。
「ん─── 、おいしいっ
 忙しく手と口を動かしていたアノンだったが、 どうにか空腹も満たされ始めたところで手を止め、幸せそうに微笑む。
そんなアノンに、イリアは少し照れくさそうに笑って言う。
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
 料理を作った彼女も、そしてその料理も、こんなに幸せそうに食べてもらえるのなら、本望だろう。
 ニコニコしながら、アノンは食事を続けている。
 村から旅立って三日。二回ほど夕食をご馳走になったのだが、 いつでもアノンはこんな風に幸せそうに料理を食べた。お愛想で、というわけではない。 ただアノンは、誰かが作ってくれたもの、手料理が好きなのだ。
 母親を亡くし、自分を十二になるまで育ててくれた人も旅に出ていってしまってから今まで、 アノンは自炊してきた。料理の腕には自信があり、決してまずくはなかったけれど、 自分ではなく、誰かが作ってくれた料理の味とは何だか違うような気がするのだ。 もしかしたら、一人じゃない。ただそれだけの違いなのかもしれないけれど。
「こら、カーノ。きちんと前を向いて食べなさい。零しちゃ駄目よ」
 スプーンで掬ったものの、三分の一は落としているカーノに気付いて、イリアが彼を窘める。
 はーい。と良い子の返事をしたカーノの頭を、彼の隣に座っていたレグラスがガシガシと撫でた。
 和やかな雰囲気に、アノンは微笑を零す。
「こんなにたくさんでご飯食べるの、久し振りだなー」
 家でも、ここ数年は一人で食べることが多かったし、昨日、一昨日と夕食を共にさせてもらった家も、 一人暮らしのおばさんと、老夫婦だけだったので、こんなに賑やかな食事は、本当に久し振りだった。
「ご家族の方とは一緒に食べてなかったの?」
「────・・・」
 イリアの問いに沈黙したのは、彼女に訊ねられたアノンではなく、 ティスティーの方だった。アノンと知り合ってからまだ日は浅いが、 ティスティーは彼が真っ白で純粋で、何よりも繊細な心を持っていることを知っていた。 だから彼女は、アノンが両親を亡くした幼い頃の悲しみを思い出して、胸を痛めるのではないかと心配になったのだ。
「あ───、オレ、一人暮らしだったから・・・」
 家族とは死別してしまったのだと言っても、自分は構わなかったのだが、 今のこの和やかな雰囲気を壊したくなくて、アノンは無難な答えを返した。
「ティスティーさんとは、姉弟じゃないの?」
 二人きりで旅をしているようなのでイリアは、二人が姉弟なのかと思ったらしい。
「ティスティーとは、ちょっと前に知り合った旅の仲間なんです」
「何の目的で旅を? 二人ともまだまだ若いのに」
 見た目からして二人はまだ親の保護下で遊んでいてもおかしくはない歳だろう。 そんな彼らが何故、二人きりで旅などしているのか不思議に思ったらしく、レグラスが訊ねてきた。
「オレは、ちょっと人を捜してて・・・」
「人捜し・・か。で、ティスティーさんは?」
 アノンの答えにふむふむと頷いてから、レグラスは黙々と食事を続けているティスティーに視線を遣った。
「・・・」
 黙ったまま、何も答えようとしないティスティーに、 アノンは彼女が自分は人嫌いなのだと言ったことを思い出した。
「あ。ティスティーも、オレが向かってる方に、何か用事があるらしくて・・。だから、一緒に」
「そうかい」
 曖昧な答えだったけれど、レグラスに深く追求する気はないらしく、納得して食事を再開した。
 そのことに安堵してから、アノンはティスティーの方を盗み見る。彼女はと言うと、自分の代わりに 返事をしてくれたアノンに礼を言う気はないらしく、黙々と食事を続けていた。
 ティスティーは人が嫌いだと言った。でも、アノンとは全く普通に喋ったり、 彼の世話を焼いてくれたりするので、アノンは人嫌いだというティスティーの言葉を忘れていた。 けれどこうして、二人だけではない空間にいると、ティスティーは必要最低限のこと以外は、 喋らなくなってしまう。そうした時に、アノンはティスティーの言葉を思い出すのと同時に、あることを思うのだった。
(・・もしかしてオレって、人間として見られてないから、嫌われてないのかな?)
 好かれてるのかな? とは思わない所が味噌だ。何故、そう謙虚になるのかというと、 時折、もしかしなくても自分、嫌われてる? と思いたくなるような仕打ちをされる─大抵その場合は、 アノンが悪いのだが─ことがあるからだ。
「ごちそーさま」
 うーん、と何やら考え事をしているアノンを余所に、一人でぱくぱくもぐもぐ順調に食事を続けていたカーノが、 一番最初に食べ終えて、お行儀良くごちそうさまをする。
「カーノ。お風呂に入ってきなさい」
 カーノが眠たそうに目を擦っているのを見たイリアがそう促す。
「はーい」
 そう返事をしてから、カーノはピョンッとイスから飛び降りると、アノンの所まで駆けてくる。
「お兄ちゃん、一緒に入ろ」
「こら、カーノ」
 まだ食事中のアノンを見て、イリアがカーノを窘める。
「うん。いいよ」
 イリアに、構いませんよと笑いかけてから、アノンはカーノに返事をした。やったぁ。 と手を叩いたカーノにちょっと待っててな。と断ってから、 アノンは残り僅かになった料理を口の中にかき込んでごちそうさまを言うと立ち上がる。
「少し大きいかもしれないけど、お父さんの服を出しておくわね」
「あ、ありがとうございます」
 カーノに手を引かれていきながら、アノンはイリアに礼を言ってから、 二人は賑やかにお風呂へと向かって行った。


 騒がしいお風呂を終えたカーノは、イリアとレグラスにお休みなさいを言ったあと、 寝室に入って行った。同じようにアノンも、カーノにねだられて、一緒にベッドに横になる。
 一人っ子のカーノは、憧れのお兄ちゃんが出来たような気分になって、とにかくはしゃいでいる。 いつもなら、もうぐっすり眠っている時間だというのに、眠そうな目を必死で開き、 近所に住む仲良しの友達のことや、好きな遊びのことなど、とりとめのないことをアノンに話してくれる。
 アノンとしても、カーノが自分を慕い、懐いてきてくれることは嬉しい。何だか弟が出来たような気分だった。
「・・・ボク、迷子になったのって今日が初めてでね、すごく怖かったんだ」
 自分が迷子になっていたときの事を話し始めたカーノは、そう言った。
 ついさっきまでママと一緒にいたのに、いつの間にか一人になっていた。 不安になってウロウロしていたら、自分が何処にいるのかがますます分からなくなって・・・。
「そっか。じゃ、オレが一つアドバイスしてあげよう」
「なぁに?」
「迷子になったとき、どうすればいいのか。だよ」
「うん。教えて」
 真面目な顔でじっと見られて、そんなに大層なことを言うつもりではなかったアノンは、 少し苦笑しながらぽつぽつと話し始めた。
「んー。迷子になったときにはね、むやみにウロウロせずに、じっとしてた方がいいんだよ。 もし自分がどっちから来たのかが分かるなら、慌てずに戻ってみればいいんだ」
 アノンはカーノにも分かるように、なるべく簡単な言葉を選びながら、ゆっくりと言って聞かせる。
「とにかくさ、自分が何処から来て何処で迷ったのか分かれば、戻れるだろ? 例えば、三つに別れてる道があって、 まず一番右の道に行った」
「うん」
「でも行き止まりだった。また元来た道を戻って、別の道を行ってみる。 それでも駄目だったら、また別れ道まで戻ってみる。そしたら、新しい道が見つかる。だろ? とにかく、来た道を戻ってみれば、新しい道が開けるんだよ」
「・・うん」
 アノンの言葉の全てがカーノに伝わったかどうかは分からなかったけれど、 カーノは一生懸命アノンの言葉を聞いていた。そして、訊ねてくる。
「ねぇ、お兄ちゃんも、迷子になったこと、ある?」
 欠伸を噛み殺してから、カーノは涙の滲んだ目でアノンを見た。
「うーん、一回ね」
 少し考えた後、アノンは苦笑混じりに頷いてみせる。
「その時はオレもどうしていいのか分からなくて、泣いてたんだ。 だから、さっき言ったことは、こうしてれば良かったのかもっていう教訓なん──」
 突然、アノンは言葉を切る。いつの間にか、カーノが眠っていたのだ。 規則正しい寝息を立てて、幸せそうに眠っているカーノに、アノンは微笑みを零してから、そっとベッドをおりる。
「おやすみ」
 カーノを起こさないように気を付けながら、肩までしっかりと布団を掛けてやり、アノンはカーノの部屋を出た。


「カーノは寝たのかい?」
 息子の部屋から戻ってきたアノンにイスを勧め、レグラスが訊ねてくる。
「ついさっき」
 そう答えてからイスに腰掛けたアノンの前に、イリアが甘い香りを漂わせているハーブティーを置く。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
 礼を言ってから、カップを口に運んだアノンは、じんわりと体を温めてくれるハーブティーに、ほうっと溜息をつく。
「・・・・あったかいナ───」
 おそらくティスティーが入っているのだろう、 お風呂の方から聞こえる水音とを何気なく聞いていたアノンがポツリと呟いた。
「・・入れたばかりだもの」
「うん。お茶もそうだけど、何て言うのかなー。 ・・家族のぬくもり、みたいなのが、何か、すごくあったかいな、って」
 はにかみつつ言ったアノンに、穏やかな微笑みを返して、イリアが訊ねる。
「アノンくんは一人暮らしって言ってたわよね」
「うん」
「ご両親は何処に住んでおられるの? 遠いところ?」
「えっと・・・」
 イリアに他意はない。会話の流れとしても、こんな質問が出ることも十分に予想は出来た。
 どう答えようか少し迷った後、アノンは徐に口を開いた。
「親は二人とも、オレが小さい頃に死んじゃってるんです」
 正直に答えたアノンに、レグラスもイリアも、瞬時にどう答えていいのか分からなかったらしく、口を閉ざしてしまった。
 途端に凍り付く空気を感じて、先程食事の席で口 にしなくて良かったと思うのと同時に、やはり言わない方が良かったと後悔もした。
 けれど、もう遅い。
 困惑を示す二人の瞳に、当然の事ながら同情の色が浮かんだのを見 て、アノンは慌てて口を開いていた。
「でも、母さんが死んだとき、ルウって人がオレを引き取ってくれたんです!  ルウはその時まだ十八歳だったのに、母さんたちの分までオレを愛してくれて・・・!」
 決して自分が不幸だと、思って欲しくなかった。
 父も母も大切に自分を育ててくれたし 、六歳の時から自分を育ててくれたルウという青年─当時は少年─も十分な程の愛情を注いでくれた。
 父母を亡くしたときはとても悲しかった。本当に言葉では言い表せないくらい。もっともっと側にいて欲し かった。一緒にいたかった。淋しいと思ったこともある。
 そう、何度も。
 けれどもアノンは、自分が不幸だと思ったことは一度だってなかった。
 誰にも自分が不幸だと思って欲しくない。同情なんてしてもらう必要はないのだ。
 そんなアノンの思いが伝わったのか、レグラスは優しい微笑みを浮かべて言った。
「・・・そうか。いい人に出会えたね」
「・・・・はい!」
 レグラスの言葉に、アノンは満面の笑みで頷いて見せた。
 そんなアノンの笑顔につられるようにしてイリアも微笑む。
「あなたがそんな風に笑っていられるのなら、天国におられるご両親も安心しているでしょうね」
 きっと、子供を一人で残して逝くことは、不安だったろうし、心苦しかったことだろう。けれど、 今こんなに幸せそうな笑みを浮かべている息子を見れば、その不安も心苦しさも、少しは薄らぐことだろう。
「・・・・」
 だがアノンは、イリアの言葉にぎこちなく笑い返しただけで、何も言おうとはしない。そ のぎこちない笑みも、決して照れからなるものではなく、何故だか困惑したようなものだった。
「アノンくん?」
 今までにはなかったアノンの反応に、レグラスは首を傾げる。
「あの・・・」
 少し迷うように一度開いた口を閉ざしたアノンだったが、覚悟を決めたのか、ゆっくりと喋り始めた。
「オレ、特に父さんのことはほとんど覚えてないんです。それでも父さんは、オレのこと・・・」
 アノンはそこで言葉を切る。
 父は十一年前、アノンが五歳の時に死んでしまった。
 六歳の時に死んだ母の ことは、映像的なものでしかないが、思い出すことはできる。
 だが、父親に関しての記憶は、全くと言っていいほど残っていないのだ。
 あるのはただ一つ。
 けれどそのたった一つの記憶は、思い起こすには、あまり好ましいものではなかった。
 たった一年、 母より早く自分の前からいなくなっただけなのに、父との思い出がないことが、 アノンにとっては申し訳なくて仕方がなかったのだ。
 そして、不安なのだ。こんな息子のことを父は、愛してくれているのだろうか? と。
 そっと瞳を伏せたアノンに、イリアとレグラスは何も言わずに視線を交わした。 二人とも、アノンが途中で切った言葉の先に何が繋がっていたのか、分かっているようだ。 そのことは、レグラスの口にした言葉から分かった。
「勿論、君のことを愛してくれているよ」
 少し迷った末に、レグラスは率直に言った。アノンがこの言葉を言って欲しかったのは自分ではないこ とも分かっていたし、もっとこの場に相応しい言葉があるのだろうが、 これ以上のものは出てこなかった。それでもレグラスは、この傷付いた瞳をした少年を、 何とかして励ましてやりたかったのだ。
「どれだけ離れていようとも、たとえ君がお父さんのことを覚えていないくても、 君が息子であることに変わりはないんだよ」
「そうよ、アノンくん。子供を愛していない親なんていないの」
 レグラスの言葉に、イリアが付け加えるようにして言った。
 二人の穏やかな微笑みが、何だか懐かしくアノンの目には映った。
「・・・本当に?」
「ええ。本当よ」
「きっとお父さんもお母さんも、幸せでいらっしゃるよ」
「幸せ?」
 ぼんやりと訊ね返したアノンに、二人は深く頷いてみせる。
「あなたは今、幸せじゃないの?」
 イリアの問いに、アノンは慌てて首を振る。
「ううんっ。幸せだよっ」
 勢い込んで答えたアノンに、イリアは微笑みを零す。
「そうでしょう。子供が幸せでいてくれたら、それだけで親も幸せなものよ」
 ね? とイリアに同意を求められたレグラスは、勿論だとも。と頷き返す。
「・・・・」
 アノンは黙って、二人を見つめていた。
 何処かで見たことのある笑顔が、眩しい。
(・・・・・ああ、そっか)
 ぼんやりとアノンは思う。この笑顔は、子供を思うお父さんとお母さんの笑顔だ。
 懐かしい。
 そう感じた瞬間、胸がじんと熱くなった。
 ・・・嬉しかった。
 覚えている。
 懐かしいとそう感じるのなら、自分は父母の笑顔の優しさを覚えているのだ。 たったそれだけのことだというのに 、嬉しくて・・・、涙が出そうになった。
 その所為か、 うまく笑ったつもりだったのに、それはぎこちないものになってしまっていた。
「・・・・オレ、これからもずっと幸せでいる」
 何かを決意した、真剣な瞳で、アノンは言う。
「父さんと母さんには、いつまでも幸せでいて欲しいから、オレ、ずっと幸せでいる!」
 アノンの言葉に、イリアとレグラスは再び視線を交わす。
「そうね」
「それがいい」
 穏やかな笑みが、何だかくすぐったくて、少し照れくさそうに笑った後、アノンはすっくと立ち上がる。
「おっと、ごちそうさま」
 カップの中にまだ少し残っていたお茶を飲み干す。
「オレ、ちょっと夜風に当たってきます。目、覚めちゃったし」
「風邪をひかない程度にね」
 イリアの言葉に、はい。と返事を返してから、アノンは静かに戸を開けて外に出た。
 街の端の方に位置するカーノの家を出ると、すぐ左手には原っぱが広がっている。
 サラサラと風に揺れて鳴る草たちに誘われるように、アノンは原っぱへと足を向けた。
 夜になって少し冷たくなった風が草の香りを運ぶついでに、アノンの濡れたままの髪を撫でていく。
 ゴロンと原っぱに横になると、草たちの囁きが、とても近くに聞こえた。
「・・・明日も晴れるな」
 見上げた空に輝いている星たちを見て、嬉しそうに微笑む。  雨も好きだけど、やっぱり晴れている空を見るのが一番好きだったから・・・。
 ・・・手を伸ばせば届きそう。
 欠けた月と、思い思いに瞬く星たちに向かって手を伸ばしてみる。でも、やはり届くはずもない。
 やり場のなくなった手を空に向けたまま、アノンはぼんやりとその手を眺める。
 自然と溜息が零れ落ちた。けれど、それは決して切ないものではなく、満たされた心から零れた気持ち。 久し振りに触れた、父母の優しさ、ぬくもり。
 それはとても温かくて────。
 きっと、父さんと母さんも、こんな優しさを、ぬくもりを注いでくれていたのだ。
 そう思うと、胸の中を少しくすぐったくて、 じんと熱い感情が広がっていった。その中にちらつく淋しさが、何故か一際色濃くなる。
「────何で・・?」
 上げたままだった腕がだるくなってきたのを感じ、ゆっくりとおろす。その途中で、アノンは誰にともなく訊ねた。
 ついさっきまでは平気だったのに、一人になった途端、自分には 両親がいないのだということを胸の痛みを伴って思い出してしまったのだ。
 どうして両親は自分の側からいなくならなくてはならなかったのだろうか。と いう淋しさが、じんと熱くなった胸に、ポトリと冷たい水を落とす。
 もう唇から零れる溜息も、切 ないもの以外の何でもなくなってしまった。
 今まで自分の歩んできた人生を、不幸だとは決して思わない。いや、むしろ幸せだった。
 ────ただ、淋しくて泣いた日も、たくさんあったけれど・・・・。
 そっと閉ざした瞳の奥に広がった色は、赤。
 ゆらゆらと体が宙を漂っているような、心地良い眠りへの道の途中、
こんな所で寝たら、風邪をひいてしまう。イリアさんに、風邪をひかない程度に、 と釘を差されていたのに。
 そんな思考も、微睡んでいく意識の前では、何の役にも立たなかった。