KINGDOM →→ リダーゼ

   TOWN →→ アルバ


 アノンの住む街─チェスタを旅立ってから三日が経っていた。
 そして四日目の昼には、二人はリダーゼ王国とフェレスタ王国との境にある森の中を歩いていた。


 前を歩いていたティスティーは、ついさっきまで自分の後ろにいたはずのアノンの姿が 少し遠くにあることに気付いて立ち止まる。
「はぁ・・・」
 溜息が出て当然だろう。アノンは常にキョロキョロし、 何か面白いものを見つけるとフラフラ〜ッとそちらへ行ってしまい、 気を付けていなければいつの間にか消えてしまっていたりするのだ。
 ティスティーは今、好奇心旺盛でチョロチョロ動き回る幼い子供のママ。な心境を味わっていた。
「さ、行くわよッ」
「うん」
 タタタッとティスティーの所へ駆けてきたアノンは、また彼女の後ろについて歩き始めた。
 が。
「あれ?」
「・・・今度は何よ?」
 突然首を傾げてピタリと歩みを止めたアノンに、ティスティーが溜息混じりに彼の方に視線を遣る。
「・・・・何か、聞こえる」
 今までのように、綺麗な花がある。とか、向こうにリスがいた。 とかではないらしい。アノンの言葉に、ティスティーも辺りを見回し、耳をすましてみる。 そのティスティーの耳に、確かに何かが聞こえてきた。 本当に気を付けて聞かなければ気付かないくらいに微かではあったけれど、あれは・・・?
「・・・泣き声、かしら」
 何処からか、泣き声が聞こえてくる。
「何かしら。って、アノン!?」
 物も言わずに駆け出したアノンに気付いて、ティスティーが慌てて声をかけたのだが、 その時にはもう、彼女の声の届かないところに、彼は行ってしまっていた。
「・・まったく」
 まだあの泣き声が人間のものかどうかも分からないというのに。 もしかしたら、魔物が人間の泣き声を真似て人を誘い、喰らうための罠かもしれない。
 ティスティーの疲れ果てた溜息が、重たく地面の上に落ちていった。
 ティスティーが仕方なくアノンの去っていった方向へ向かい始めた頃、 アノンは歩みを止めて、キョロキョロと声の主を捜していた。 近くから聞こえるのは確かなのだが、誰の姿も見えない。ガサガサと茂みをかき分けていたアノンは、 実をいっぱいに付けた野苺の後ろにしゃがみこんでしくしくと泣いている子供の姿を見つけた。
「・・・どうかしたの?」
 なるべく驚かせないようにそっと声をかけたのだが、その子は大きく肩を震わせてアノンを見上げた。 ひっくひっくとしゃくりを上げるその少年の瞳は薄いブラウンで、 さらさらとした髪も、所々金色の筋を混じらせてはいるが、瞳と同じ茶色だった。
 ひとまずその男の子を立ち上がらせて茂みから出したアノンは、 地面に膝を付いて少年と同じ目線を作ると、もう一度問う。
「どうしたの? こんな所で」
 長い時間泣いていたのか、赤く腫らした目でアノンを見つめていた男の子だったが、
優しく微笑みかけてくるアノンに、彼を頼ってもいいのかもしれないと思ったのだろう、徐に口を開いた。
「あの・・ね、ママ、と・・・、はぐれちゃって・・」
 切れ切れながらもアノンの問いかけにちゃんと答えた男の子に、アノンはよしよしと彼の頭を撫でてやる。
「そっか。迷子かー」
「うん。・・・・うわあ───んっ」
 改めて自分が迷子だということを自覚してしまったのだろう、少年は今度は大声で泣き始めてしまった。
 そんな少年に、アノンは少し困ったような顔をしてから、徐に手を伸ばし、少年をそっと抱き締める。
「泣かないでよ。大丈夫。一人じゃないから。オレがいるから、大丈夫だよ。ネ?」
 少年を抱き締めて優しく囁くアノンの横顔を、ようやく彼の追いついてきたティスティーが、 訝しげに眉を寄せて見つめていた。
「アノン?」
 いつも笑顔を絶やさない彼の表情が、今は何だか切なく見えて、 ティスティーはそっとアノンに声をかける。けれどそれ以上何を言っていいのかは分からずに、口を閉ざした。
 しばらくして少年が泣きやんだことに気付いたアノンが、少年から体を離して言う。
「オレの名前はアノン。で、あっちの人はティスティー。君は?」
 いつの間にかやって来ていたお姉さんと自分の自己紹介をしたアノンに、 少年は手の甲でぐいっと涙を拭い、小さな声で言った。
「カーノ」
 ちゃんと自分の名前を教えてくれたカーノの頭を、えらいえらいと撫でてやってから、アノンは立ち上がる。
「よし、カーノ。一緒にカーノのお母さんを捜そう。ここで泣いてても仕方ないし。ね?」
 アノンの言葉にカーノは小さく頷いた。
 そんなカーノの手を取って歩き出そうとしたアノンを呼び止めたのは、 今まで黙って二人を見守っていたティスティーだった。 どうやら泣いていたのはこのカーノという男の子で、 この子は母親とはぐれたらしい。ということで、今から彼の母親を捜そう。 と、そういうことになっているらしい。
「ちょっと、アノンッ。私たちは北を目指してるんでしょ? こんな所で寄り道してていいわけ?」
「でも・・・・」
 確かに、北の地にいるであろうあの人、ルウには一秒でも早く会いたい。 だけど、こんな森の中にカーノを置いて行けるわけもない。
 渋るアノンを、ティスティーが促す。
「その子の母親捜すより、近くの街に届けた方がいいわよ」
 むやみに森の中を探し回っても、カーノの母親が見つかる保証はない。 ならば、近くの街に届けた方が、時間も労力も使わなくて済む。
 それに、彼の母親も、子供が帰ってきてはいないか確かめに、村の方に帰ってくるかもしれないし。
 ティスティーの言っていることは正論だ。
 だけど・・。
「・・・・嫌だ」
 しばらく考えた後、アノンは首を横に振った。
「アノン──」
 アノンの答えに、ティスティーは呆れ気味に溜息をついた後、 説得を試みようとしたが、アノンがそれを遮って先に口を開いた。
「オレはカーノのお母さんを捜したい。お母さんだってカーノのことを捜してるはずだよ」
 アノンはいつも通りの笑みを浮かべていたけれど、 彼の青い瞳はいつになく真剣な光でティスティーを見つめている。
「・・アンタはおせっかいすぎるのよ」
「そうかもしれないけど、でもオレはお母さんが見つかるまでカーノといる」
「アノン」
 どうあっても意志を変えないアノンに、ティスティーは咎めるように彼の名を呼ぶ。
 ティスティーだって、何もカーノを置いて行こう、と言っているわけではない。 ただ、近くの町村に届けた方が懸命だと言っているだけなのだ。
「・・・・」
 アノンとティスティーのやりとりを、カーノはオロオロしながら見守っている。
 勿論カーノは、母親を捜したいけれど、アノンとティスティーに迷惑をかけたくもないのだ。
 しばしの沈黙の後、先に口を開いたのはアノンの方だった。その口調は静かなものだったけれど、 何としても自分の意志を貫き通そうとする、強固なものでもあった。
「独りぼっちになったときってさ、すっごく不安になるんだ。怖くて、 淋しくて、誰でもいいから手を差し伸べて欲しくて・・・」
 周りを見渡しても誰もいない。たった一人でいる不安と恐怖。 そんな中、誰でもいいから自分の所へ来て欲しい。助けて欲しい。そう思うのは当然だ。 一人じゃない≠ニいうことが、どれ程心強いか・・・。
「────・・オレが、そうだったから」
「何?」
 呟きが小さすぎて聞き取れなかったのかティスティーが訊ね返してきた。だが、 アノンにはもうその言葉を繰り返す気はないらしく、ただニッコリと微笑みを返しただけだった。
「ねぇ、カーノ。君とお母さんは何をしにこの森に来たの?」
 ティスティーに深く追求される前に、アノンは話をそらせるためにカーノにそう訊ねた。
「あ、うん。ボクね、ママと二人で野苺を摘みに来たんだ」
 急に自分の話が振られたことに最初少し戸惑ったものの、カーノはアノンの問いに答える。
「ボク、ここに苺がたくさんなってるのを見つけて走ってきたら、ママとはぐれちゃってて・・・」
 思い出して瞳を潤ませたカーノに、アノンはよしよしと、彼の頭を撫でて言う。
「大丈夫。見つけような」
「・・うん」
 小さく頷いたカーノに、良い子だね、と笑いかけているアノンを見ていたティスティーが、 徐に彼に声をかける。
「・・どうすんのよ。この森、けっこう広そうよ」
 どうやら彼女も、もうカーノの母親を捜すことを認めているようだった。
 いや、諦めたのだろう。絶対に彼が、自分の言葉に従わないであろう事を悟ったのだ。 いつものアノンは、本当に聞き分けのいい子だが、この件に関しては全くティスティーに意見を譲る気はないようだ。 何か深い思いがあるのだろう。そうしてティスティーの方が妥協したのだ。
 自分のしたいようにさせてくれるのだと気付いたアノンは、 嬉しそうにティスティーの方に視線を移してくる。その顔には、溢れんばかりの笑みが咲いていたものだから、 ティスティーは少し照れくさくなって、そっぽを向く。
「で、どうするって聞いてんのよ」
 嬉しそうにしているアノンの姿を見て、思わず自分の方も嬉しくなってしまい、 それを彼に気付かれまいとぶっきらぼうに言ったティスティーの言葉に、アノンは腕を組んで考える。
「うーん」
 そしてたどり着いた結論は・・・。
「ま、どうにかなるよ♪」
 だった。
「はぁー・・・」
 アノンの能天気な言葉にティスティーはもう怒る気力も失せて、ただ溜息をつくしかなかった。


 カーノの母親を捜し始めて、どの位この樹海にも似た森を彷徨ったのだろう。 いつしか太陽が真上から三人を照らし始めている。
 そろそろお腹もすいてきたし、カーノにも疲れの色が見え始めたので、 お昼にしようということになった。カーノの摘んだ野苺と、ティスティーが持っていた少し固いパンを、 三人で─詳しく言うとティスティーを除く二人が─ワイワイ言いながら食べていた。
「お。この野苺、おいしいな」
「ホントだー」
 赤く熟した野苺を口に放り込んだアノンは、口の中に広がる甘い香りに顔を綻ばせる。
「うん。おいしい! これなら絶対お母さんも喜んでくれるよ」
「ホント?」
「ホントホント」
 嬉しそうに訊ね返してくるカーノに、アノンはニコニコしながら大きく頷いて見せた。 母親は見つけたいけれど、見つけたときに、「どうして離れたりしたの!」 と怒られてしまうのではないかという不安を持っていたカーノは、ママがこの野苺に喜んでくれるよ、 と言ってくれたアノンに、その不安を少し和らげることができたようだ。
 お昼を終えて、アノンの膝の上にちょこんと座っていたカーノは、ポカポカした陽気と満腹感で、 いつの間にか眠ってしまっている。同じくアノンも、暖かな陽気と満腹感に加え、 カーノのふんわりとしたぬくもりの所為で、木に背を持たせかけたまま、こっくりこっくりと船をこいでいた。
「・・・・もう。仕方ないわねー」
 お昼の後片付けを終えて、いやに静かな二人に目を遣ると、二人仲良く夢の中。 今日何度目かの溜息の後、ティスティーは立ち上がり、静かに二人の側から去って行った。



あぁ──ん・・。あぁ──ん


 何処かで、誰かが泣いている・・・?


 夢と現との狭間で、アノンはぼんやりと考える。


あぁーんっ。あぁ── ん


 いったい誰が泣いているんだろう?


 答えは、何処からも返ってこない。
 ただ、小さな子供の泣き声だけが、延々と続いている。


 ・・・オレはこの泣き声を、よく知ってる。
 ・・・・カーノ? いや、違う。もっともっと昔。遠い過去の日に・・・・。
 誰だったっけ? こんなに、不安そうに泣いているのは・・・・・?


あぁ───んっ。母さ──



「アノン!」
「ッ!」
 突然、泣き声が途切れた。
 ガクン、と派手に揺れて、アノンは目を覚ました。何だか頭がジンジンする。
「・・・あれ? ティスティー?」
 ゆっくりと開けた瞳に飛び込んできたのは、おそらくアノンが頭部に痛みを感じる原因 を作ったのであろうロッドを持って仁王立ちしているティスティーの姿だった。
 杖で、容赦なくぶたれたアノンは、痛みを訴える部分をさすりながら、ティスティーを見上げた。
「痛い───」
「うるさい! アンタいったいいつまで寝てるつもりなのよ」
 そう言われて気付けば、いつの間にかカーノは目を覚ましたらしく、 くりくりとした茶色の瞳で、アノンとティスティーとを見つめていた。
「・・・・・」
 あら? とティスティーは首を傾げる。いつもならあの笑顔で、
“ごめんごめんっ”
 と謝ってくるはずなのに・・・。
 何も言わないアノンの瞳に、涙が浮いていることに気付いたティスティーはギョッとする。 確かに殴りはした。が、勿論手加減はした。それでもやはり痛かったのだろうか。
「ちょっとアノン、泣かないでよ! 軽ーく叩いただけでしょ?」
「え? あ・・・」
 ティスティーの言葉で初めて、アノンは自分の瞳に涙が滲んでいることに気付く。
 何故?
 すぐにそんな疑問が浮かんだけれど、アノンは何食わぬ顔でティスティーに言う。
「もぅ、ティスティーの馬鹿力! 痛いじゃんか──っ」
 えぐえぐ、と泣き真似をしたアノンに、本気で彼が泣いているのではないだ ろうかとヒヤヒヤしていたティスティーは、ホッと安堵の溜息をついた。
 泣き真似をしながら密かに涙を拭ったアノンは、いつもの笑顔で顔を上げる。
「大丈夫? アノンお兄ちゃん」
「うん。大丈夫大丈夫っ」
 少し心配そうな顔で覗き込んでくるカーノに、アノンはニッコリ笑って、 Vサインを作って見せた。そして、フと思い出す。
 そう言えば、夢の中でも誰かが泣いていて、 その泣き声は、よく知っているもので。その涙の冷たさも、そう、 ちょうど今、自分の瞳に滲んでいたものと同じ。


 ────ああ、どうりで。
 知っているはずだ。

 あの、泣いていた小さな子供は、遠い昔の自分の姿なのだから。
 納得して、アノンは一人小さく頷いていた。急に夢の世界に引き戻されてしまったアノンは、 あの自分の泣き声を遠くに聞きながら、物思いに耽る。そしてアノンは、 そのぼーっとした意識のままティスティーに訊ねていた。
「ねぇ、ティスティー」
「何よ」
「・・もしオレが迷子になったら、ティスティーは捜してくれる?」
 唐突に黙り込んだアノンに首を捻っていたティスティーは、あまりにも唐突な彼からの質問に、 思い切り眉をひそめる。だが、その答えを待つアノンの眼差しは真剣そのもので。
「・・・勿論よ」
「ホント!?」
 少し迷った末の答えだったが、確かにそう言ったティスティーにアノンは思い切り嬉しそうな顔をする。
 だが、思わず訊ね返してしまったアノンに返ってきたのは、
「勿論、置いていくわよ」
 という、冷たーいお言葉。
「───・・そっか」
 そう答えたアノンの顔に浮かんだのは、悲しみにも似た苦笑で・・・。
 顔を俯かせたアノンの顔から、再び一切の感情が消える。何処か遠くを見ているような目で、 自分の手元をじっと見つめている。
 アノンの様子が何だかおかしいことに、ティスティーは気付いていた。
 先程の質問の答えが悪かったのだろうか? だげ、短い付き合いながらも、 どうしても素直になれないところのある自分の性格は、十分に伝わっているはずだ。 「勿論、置いていくわよ」そう言った自分の言葉が、本心からではないと言うことに気づいているはずだ。 だからきっといつもの調子で、「非道いな〜」と返ってくると思っていたのだが。
 先程の言葉は冗談だと言ってやった方がいいのかもしれない。と、思いもしたのだが、 それも出来ないのがティスティーだった。
 アノンの不可解な行動に首を傾げつつも、 ティスティーは彼に何を言っていいのかも分からず、視線を泳がせるしかなかった。 その泳いだ視線の先に止まったのは、赤く染まり始めた空だった。
「あー・・。ね、アノン。そろそろ行きましょ。日が暮れてきたら厄介だから」
 様子のおかしいアノンを放っておくことは出来ないけれど、かといって何かが出来るわけでもない。 とにかく、自分達にはカーノの母親を捜すという大事な目的があるのだ。 ずっとここにいるわけにもいかない。少し傾きかけた太陽を見た後、ティスティーはそうアノンに提案した。
「あ、ん。オッケー」
 ティスティーに声をかけられて、アノンはハッと現実に戻ったらしく笑みを浮かべて立ち上る。 その微笑みにはもう、先程までの翳りはなかった。いつも通りの、見る人を温かな気持ちにしてくれる微笑みだ。
「さ、急ぎましょ」
 ティスティーは再び促した。
 実は彼女は先程、アノンとカーノが眠っていた小一時間ほどの間だが、 一人でカーノの母親を捜してみていたのだ。けれど、この付近に人の姿はなく、気配すら窺えなかった。
 早く彼女を捜し出さなければ、日が暮れ、魔物たちが活発に動き出す夜になってしまう。 そうなれば、小さな子供を連れている自分達も否応なく危険になってくる。 おそらく、この森を出なくてはいけなくなってしまうだろう。 アノンもカーノも、母親を見つけたいと切に願っている。その思いを遂げさせてやりたい。 ティスティーはそう思っていたのだ。
 立ち上がったアノンの手に、カーノが甘えて自分の手を繋げたその時だった。
[グルルルルルル]
 三人の背後から、低い唸り声と、三人に向けられる殺気にも似た敵意が、辺りに漂う。
「お兄ちゃん・・・!」
 不安そうに、カーノがアノンの手をぎゅっと握って体を寄せてきたことに気づいて、 アノンもカーノの体を自分の方へと引き寄せる。
「・・・魔物ね」
 ティスティーが小さく呟いた。
 茂みの向こうでは、不気味に赤く光る一対の瞳が、じっと三人を見据えている。
「ティスティー。ロッド、おさめて」
 アノンは自分の腰に提げている剣を魔物の視界から隠すように後ろにやりながら、 彼女の手に握られている杖を見て、小さな声で言った。魔物を刺激しないように、ということらしい。
「え? えぇ」
 アノンの言葉にティスティーは小さく頷いてから、 杖を魔物からは見えないよう、背後に隠した。魔法で消さなかったのは、急に襲いかかられたときのためだ。
 魔物を刺激するような武器類は隠したというのに、それでも警戒を解かずに、魔物は唸り声をあげ続けている。
(おかしいな・・)
 アノンは首を傾げた。茂みの中から姿を現さないので、 一体どんな種類の魔物なのかは分からないが、今までアノンが接してきた魔物たちは皆、 こちらが無防備であれば殺気を向けることはなかったのに、一体何故・・・?
「・・・・なるほど」
 魔物の動きにも神経を配りながら、注意深く周囲を観察したアノンは、 少し離れたところに立っている木に、あるものを見つけ、そう呟いた。
「何がよ」
 アノンの小さな呟きを聞きつけて、ティスティーが声を潜めて彼に訊ねる。
「あれだよ」
 ティスティーの問いに、アノンはある木の幹を指さしてみせる。
 そこにあったのは、鋭い爪で引っかかれた木だった。それが何を意味するのか分からず、 ティスティーは説明を求めて訝しげな視線をアノンに向ける。
「あれは縄張りだよ。ここは私の縄張りだって言う印なんだ」
「縄張り?」
「そう。早くここを離れた方がいいよ。わざわざああして縄張りを示してるって事は、 よっぽど縄張り意識の強い魔物なのか、それとも守りたい何かがあるのかも・・・」
 ジリジリと後退していきながらも、アノンとティスティーの目は、 茂みの中で光る赤い瞳を見つめている。背を向ければその途端に襲いかかってくるかもしれない。
 そんな緊張の中でもアノンは冷静に考えを巡らせていた。
「・・・多分後者だよ。今ちょうど子育ての季節だし、きっと近くに子供がいる──」
 アノンの言葉が、突然の魔物の咆哮によってかき消される。一瞬、ピンと空気が張りつめ、 そして次の瞬間、弾けた。


 ザザッ!


 茂みを大きく揺らして、巨大な黒い影が三人に向かってきたのだ。 鋭くとがった耳と突き出た口から除く二本の長い牙。四つの足にはそれぞれ、鋭い爪があった。
「!」
 仕方なくティスティーは杖を構えた。けれど、
「駄目だよ、ティスティー!」
 アノンの言葉がティスティーに届いたのと時を同じくして、魔物が三人に突っ込んでくる。
 ティスティーは魔法でフワリと浮き、アノンは脅えるカーノを抱いて、咄嗟にそれぞれ左右に飛び、 魔物の攻撃をかわす。
 魔物も今のところ、三人をただ追い払いたいだけらしく、 その鋭い爪を使ったりはしない。だが、そうは言ってもアノンたちに余裕はない。 ましてや、武器なしで魔物と戦うことは出来ない状況なのに、攻撃をしては駄目だというアノンに、 ティスティーは言い返す。
「駄目って、アンタ何言ってんのよ。そんな場合じゃないでしょ?」
 一応、魔物に攻撃はしなかったけれど、まだティスティーは構えた杖をおろさない。
 そんなティスティーに、アノンも食い下がる。
「でも、お母さんが死んじゃったら残された子供たちはどうなるの」
「・・・・・」
 アノンの言葉に、ティスティーは口を噤む。
[グルルル・・・]
 再び重く響いた魔物の声に、ティスティーは下ろしかけていた杖を構え直した。
「ティスティー!」
「うるさい! アンタはその子を守ってなさい」
「う、うん。でも──」
 縋り付いてくるカーノをしっかり腕に抱いてから、やはりアノンは魔物に杖を向けるティスティーを止めようとする。
「いいから、アンタは黙ってなさい!」
 アノンの言葉を遮ったのは、有無を言わせぬ口調のティスティーと、杖から溢れた目映い閃光だった。
 凄まじい閃光からカーノの目を守ろうとアノンは彼の頭を胸に抱き寄せ、自分も咄嗟に瞳を閉ざす。 それでも光の凄まじさはほとんど衰えることなく、アノンの瞼に焼きついた。
 そんな、音さえも光に飲み込まれてしまったのかと思えるような世界の中で、 彼の鼓膜を震わせたのは、凄まじいほどの魔物の咆哮だった。その咆哮が、 あの魔物の断末魔の叫びではないことを、アノンはただ祈るしかなかった。


 ───・・母さんが死んだら・・、残された子供はどうなるの? どうなるの・・・・?


「んー・・っ」
 強く抱き締めすぎていたのだろう。息苦しくなったらしいカーノが、 腕の中でゴソゴソと動いて初めて、アノンは今まで自分達を覆っていた光が、いつの間にか消え失せていることに気付く。
「大丈夫? カーノ」
「うん」
 ごめん、と謝りながら腕を解いて訊ねたアノンに、カーノはコクンと頷いた。 そんなカーノに、ホッと安堵した後、アノンは恐る恐る視線を動かしてみる。
「・・・ティスティー」
 まず最初に写ったのは杖を片手に佇む、ティスティーの姿だった。 そして彼女を通り越して次に彼の瞳に写ったのは・・・。
「────」
 死んでいるのだろうか。ピクリとも動かず、地に横たわっている、あの魔物の姿だった。
 よろよろと立ち上がったアノンはティスティーの横を通り過ぎ、魔物の側による。
「ごめん・・・。ごめんな・・・・」
 魔物の側に力無く膝を付くアノンの背中を見つめていたティスティーの耳に届いたのは 「何故殺したんだ?」という非難の言葉ではなく、まるで全てが自分の所為だとでも言うような、謝罪の言葉だった。
「・・・」
 何故アノンが謝る必要があるのだろうか? その魔物に手を出したのは自分なのに・・・。
 そんな思いを抱え、しばらくアノンを見つめていたティスティーは、フゥっと溜息をついてから、 彼の後ろに立つ。そして徐に杖を振り上げ、


 ガンッ☆


 アノンの頭めがけて振り下ろした。
「いっっ、たぁ───っ」
 何するんだよォッ。とアノンが泣きついてくる前に、ティスティーは杖で魔物を指し示して言った。
「よく見てみなさいよ」
「え?」
 ジンジンする頭をさすりつつ、ティスティーに言われたとおり魔物の方へアノンは視線を転じる。 フワフワした毛の所為で、じっと見ないと分からなかった魔物の上下する胸が、そこにはあった。と、いうことは。
「生きてる!」
「ホント!?」
 アノンの言葉に、少し離れたところにいたカーノがトコトコ駆け寄ってきてから、アノンの肩越しに魔物を見てみる。
「本当だよ。生きてる。良かった──」
 アノンはホッと溜息をついてから、微笑みを浮かべた。
 そんな様子を見ていたティスティーは、チョンッっと杖でアノンの頭を小突いて言う。
「最初ッから殺したって決めつけないでよね」
「ごめん、ティスティー。オレ、せっかちだった」
「フンッ」
「ホントごめん。それと、ありがと」
 拗ねた振りをするティスティーに、アノンは少し困ったようにはにかんだ後、 すぐにいつもの朗らかな笑みを浮かべた。
 雲間から射し込む光が、力強く凍えた大地を暖めていくような、そんな絶対的な笑顔。 その笑みには、ティスティーも弱かった。
「わ、私は後でアンタがぐずぐず文句言うのが嫌だったからソイツを殺さなかっただけよ」
 だから、アノンにお礼を言われることはしていない。 と、ティスティーはアノンから顔を背けながら言った。そんな彼女の頬は、少しだけ赤い。
 もう必要の無くなった杖を魔法でパッと消してから、ティスティーは少し火照った頬を両手で包んだ。
 こんな気持ちになったのは、本当に久し振りだった。人が嫌いで、誰とも心を触れ合わせることはなかった。 その所為で、お礼を言われて嬉しくなる、なんて、こんな人間らしい感情が自分の 中にあったのだと言うことを忘れかけていた。
 いつもなら・・・、 アノンではない誰かの言葉であったなら、ティスティーは迷わず魔物を殺していただろう。 だが、そうしなかった理由はただ一つ。“殺してはいけない”そう言ったのが、 昔ティスティーが想いを寄せた、人と同じ瞳をしたアノンだったから──・・?
「・・・さ、早く行きましょ。魔物が目覚めない内にね」
 しばらく黙って俯いていたティスティーが、良かった良かったとはしゃいでいるアノンとカーノの二人を促す。
「あ、うん。そうだね」
 自分達にはカーノの母親を捜し出すという大切な役目があることを思い出して、アノンはやる気満々で歩き始める。
「!」
 その瞬間、ティスティーは微弱だが魔力のようなものを感じて辺りを見回した。
 それは、アノンの周りを漂っている。
「・・・・アノン?」
 アノンの方へ視線を遣ったティスティーは彼の側に二匹の精霊がいるのを見た。  彼らはアノンに何か囁きかけ、前方を指さしている。そしてアノンは、精霊たちの指さす方へと歩き始めたのだ。
「ちょっと、アノン! アンタ見えてるわけ!?」
 アノンからは魔力というものを全く感じない。精霊を見、彼らを使役するにはそれなりの魔力が必要だというのに。
「見えてるって?」
 驚いた様子のティスティーに、アノンはもっと驚いた様子で首を傾げる。
「精霊よ、精霊!」
「え!? ティスティーって精霊が見えるの? すっげぇー」
「・・・・・・は?」
 今度はティスティーが首を傾げる番だった。確かに精霊たちはアノンの側にいて、 しきりに彼に話しかけているのだ。そして彼は精霊たちの言うとおりに歩みを進めていく。 それなのにアノンは精霊なんて見えないと言うのだ。
 少し考えた後、ティスティーは、違う質問をぶつけてみる。
「・・質問を変えるわ。じゃあアンタはどうしてそっちに行ってるの?」
 まるで精霊の声が聞こえ、彼らの言葉に従って進んでいくようなアノンに、ティスティーはそう訊ねた。
「どうしてって・・・、うーん、何て言うのかナー。 ・・・風が教えてくれてるような気がするんだ。こっちだよって」
「───・・そう」
 取りあえず頷いたティスティーは、もう一度精霊たちに視線を転じる。
“風が教えてくれてる”
 アノンはそう言ったが、まさにその通りだった。
 その精霊たちの属性は風だったのだから。どうやら、本当にアノンには精霊の姿も見えていないし、 はっきりと声を聞いているわけでもない。それでも、彼らの存在と意志を、感じ取ってはいるらしい。
 それよりも不思議なのは、何故精霊が魔力を持たないアノンのために道を示し、使役されているのかということだ。
 霊を使役すると言うことはすなわち、魔法を使うということ。普通魔法使いは精霊の力を借りて魔力を使うのだ。
 魔力の強い者の中には、精霊の力は借りず自らの力で魔法を使う者もいるが、 それは本当にごく僅かだ。魔力を使えば、その魔法のレベルによって己の生命力を削られてしまう。 それが魔法を使うことの代償なのだ。それ故、ほとんどの魔法使いたちは、 不屈の生命力を持つ心優しき精霊たちの魔力を借り、 魔法を使っているのだ。そうすることによって、最小限自分の生命力を削らないようにしているのだ。
 精霊を使役し魔法を使う場合に必要となる魔力は、精霊を呼び出すその際に必要となる。
 アノンには、その魔力というものが備わっていない。 アノンが精霊を召喚をしたわけではないのだ。もし召喚できたとしても、 それ相応のクラスの精霊が出てくるだけで、今ティスティーが見ている人型の、 高級ハイクラスの精霊が出てくるはずはない。
 精霊は己の主人を選び、相応の力のない者を、 時には攻撃し、死に至らしめてしまうことさえあるのだ。
 アノンの場合、彼が精霊を使役しているのではなく、精霊の方が自らアノンのために現れているようなのだ。
 カーノと手を繋いで、そして二匹の精霊に導かれて歩いて行くアノンの後ろについて、 テクテク歩いて行くながら、ティスティーは難しい顔をしてアノンと精霊たちとを見比べていた。 が、急にティスティーの視線の先にいた精霊たちがスッと消えた。 まるでもう自分達の役目は終わったのだ、とでも言うように、穏やかな微笑を浮かべ、姿を消してしまったのだ。
「???」
 わけが分からないティスティーは、?マークを飛ばしていた。
 とその時、タカタカと何かが駆けてくる音がして、ティスティーはビクッと肩を揺らす。
「何か、来る?」
 夕暮れが近い所為で少し暗くなってきた森の中で、アノンは足音が聞こえる方へ目を凝らす。
 遠くでぼんやりと揺れていた白い影が、次第に近付いている。
 そしてその影が何なのかいち早く気付いたのは、カーノだった。
「ママ!」
「ちょっとっ、カーノッ」
 一目散に駆けていくカーノに、アノンは慌ててその後を追う。その足音が、カーノの母親である保証はない。
「ママッ」
 けれどアノンの心配は杞憂に終わった。
 白い影に向かって飛びついていったカーノを抱きとめたのは、カーノと同じ茶色の瞳と髪をした女性だった。 カーノの母親だろう。そのことは、何よりもカーノの表情と、その女性の表情から窺い知ることが出来た。
「カーノ! もう何処に行ってたのよ。心配したじゃない」
「ごめんなさい、ママ。ごめんなさい」
 母親に会えて気がゆるんだのか、カーノは暖かな腕の中で泣き出してしまった。
 そんな息子の頭を撫でながら、泣かなくていいのよ、 と優しく微笑んでいる母親の姿に、アノンは歩みを止めて、母子を見つめている。
「・・・アノン?」
 アノンに追いついたティスティーは、黙って突っ立っている彼の姿に、訝って眉を寄せる。
 じっと何かを見つめているアノンの視線をたどっていくと、カーノと彼の母親の姿があった。
「・・・・・いいなァ」
「え?」
 突然ポツリと呟かれたアノンの言葉に、ティスティーはますます怪訝そうな顔でアノンを見上げた。
 アノンの方は、そんなティスティーの視線には気付いていないらしく再び口を開く。
「オレも──」
 その言葉の先は、カーノの言葉が介入してきたことによって、紡がれることはなかった。
「あのね、ママ。このお兄ちゃんたちが、一緒にママを捜してくれたんだよ」
 泣きやんだカーノがトコトコと二人の方へ寄ってきて、アノンの手を取る。
 カーノの母親も、ゆっくりと二人の方へ寄ると、ぺこりと頭を下げる。
「本当に、息子が迷惑をかけてしまって・・」
 改まって礼を言う彼女に、アノンは少し照れくさくなってヒラヒラと手を振って言う。
「オレたちは別に、何もしてませんよ」
「いいえ。是非ともお礼をさせて」
 そう言った彼女に、アノンは困ったようにティスティーに視線を遣ったけれど、 ティスティーの方は我関せずと言う顔で、アノンを冷たく見遣っている。
「貴方たち、旅の途中でしょう? もしも今夜の宿が決まってないのなら、 どうぞ家においでなさいな」
「えっ? いいんですか!? あっ・・」
 彼女のありがたい申し出に、勿論今夜は野宿だと覚悟を決めていたので、 思わず遠慮なく喜んだアノンは、ティスティーにわき腹をどつかれて初めて、しまったという顔をした。
 そんなアノンの様子に、くすくす笑いながら、カーノの母親は言う。
「大歓迎よ。遠慮しないで」
「そうだよ。泊まって行ってよ」
 グイグイとカーノに手を引かれたアノンは、少し困ったように笑って、 ティスティーを見る。少し困ったようではあるが、彼の目はもうカーノの家にお邪魔する気満々で、 どうする? と訊ねかけてきている。と言うよりは、ねぇ、行こうよッ!  というおねだりの目になっている。
 そんなアノンの瞳を見つめた後、 ティスティーはいいわよ。と返す代わりに、僅かに肩を竦めて見せた。
「わぁ──い。それじゃ、お邪魔してもいいですか?」
「ええ。勿論」
 ニッコリとアノンに笑みを返してから、カーノの母親は息子の手を取り、家への帰路を歩み始めた。
 母子の後ろをテクテクついて行くアノンの目が、ずっと母子を見つめている事。 そしてその瞳が、優しく細められていることに気付いたティスティーは、再び首を捻る。
 両親を亡くしているのだと言ったアノン。もしかしたら、母親のことを思いだしているのかもしれない。 それとも、他に何かあるのか・・・。
 いろいろな考えが頭の中をよぎったのだけれど、結局は何も聞けなかった。