ケイは走っていた。手袋もマフラーもすることなく、ただコートを引っかけた姿で降り積もった雪に足下を掬われながらも、 暗い森を懸命に駆けていた。 彼女の後に残るのは、白い大地に線を引く足跡と、赤い唇から白い息だけ。 肌を刺す冬の寒さも払いのけ、ただただ目指すは Shamrock Square。愛しい人が、いつも自分を待っていてくれた森の広場。 空にポッカリと浮ぶ月。その光は降り注げど、常緑を誇る森の木々はその光を受け入れることを拒んでいるようだった。 そんな暗い道を、ケイは迷うことなく駆けていく。通い慣れ、そして会いに行きたいと思い描いていた道を、彼女が見失うことはなかった。 不意に、視界に光が映る。 Shamrock Squareが見えてくる。木々が唐突になくなり、ぽっかりと円形状の穴が開いているその広場には、月光が惜しみなく降り注いでいるようだった。 そこは、いつも逢瀬を重ねていた場所。彼が、自分を待ってくれていた場所。大切な場所。 暗闇が終わる。 ケイは月光に照らされたShamrock Squareへと駆け込んでいた。そして、 「シュウ !!」 声の限り、叫ぶ。この森の何処かにいるシュウに届くように、声の限り。 会いたい。 会いに来て欲しいと、愛しい人の名前をケイは叫ぶ。 その声に、答えなど 「ケイ !!」 応える声が、あった。 ケイの瞳が、大きく見開かれる。そして、そこから静かに、涙が溢れ出す 涙の泉に映る愛しい人の姿。 ここに居るわけもないと思っていた人。 会いたくて会いたくて仕方がなかった人。 愛しくて愛しくて 何よりも誰よりも愛しいのだと気付いたあの人が、 「 シュウ」 目の前に、居た。 自分を、待ってくれていた。それけで、涙は止めどなく溢れ出る。頬を伝う涙は冬の冷気で凍り付き、痛みを伴うけれど、それでもケイにはその涙を止める術はなかった。 愛しい人がそこにいるのだ。その喜びが溢れるのを止めなければ、きっとこの涙も止まらない。でも、喜びは底知れずケイを覆い尽くす。涙は、止まらない。 「 ケイ・・どうして」 立ち尽くしただただ涙を零す恋人に駆け寄り、シュウは驚きに声を震わせ、ケイの頬に手を伸ばす。涙を拭ってあげたいけれど、それは叶わない。そんなことすら叶わない。その空しさに、シュウは伸ばした手をきつく握り締める。 悲しげに細められたシュウの瞳を真っ直ぐに見つめ、ケイは徐に口を開いた。それは、胸の中に溜め込みすぎた熱い熱い想いをシュウへと伝えるため。 「会いたかったの・・! どうしても・・・どうしても会いたかったの!」 ケイの言葉に、シュウの細められていた瞳が見開かれる。彼女の瞳が、言葉が、唇が、彼女の自分への思いの熱さを吐露している。ハラハラと涙と共に降り注ぐ、真っ直ぐな愛の熱さ。その熱さは、すぐにシュウの胸に眠っていた想いを呼び起こす。火を点す 「ケイ 僕もだ。どうしても会いたくて、ここに来たんだ」 見つめ合い、口を閉ざす。 懸命に駆けてきた所為で乱れたケイの息と、降り注ぐ雪だけが支配する空間。しばしの沈黙を二人は享有する。 何を話すでもなく見つめ合う。互いの呼吸を感じる。愛を 募らせる。何をしているわけでもないこの時間が、何よりも幸せ。二人で一緒に居られること。それだけで幸せなのだ。 確かに、今、ここにある幸せを、ケイは確認する。 ここには、幸せがある。誰が何と言おうとも、私たちにとって最高の幸せがあるの。 そして、ケイはゆっくりと瞬き涙を落とすと、シュウに微笑みを向けた。 「・・・願い事を、したの」 「月に?」 「そう。満月は過ぎてしまったけど・・・それでも、どうしても叶えて欲しかったから」 「どんな願い事?」 静かに語るケイの言葉を、シュウは柔らかな口調で促す。その瞳は、一時も離れることなくケイを見つめている。そして、そこにあるのは優しい眼差し。愛していると、言葉以上に語る瞳が、ケイを見守っている。 その瞳が、ケイの想いを募らせる。次第に、更に 熱くする。 「 側にいたい。もう、離れたくない、って」 ケイが月に届けた願い事を、シュウは少し驚いたような瞳で受け止める。 しかし、すぐに見開かれていた瞳を愛しげに細めていた。 「同じだよ」 「・・え?」 「僕も願ったんだ。君と離れたくない。一緒にいられますようにって」 照れくさそうな笑みを浮かべながら言ったシュウに、ケイは泣き出しそうに顔を歪めていた。 嬉しかったから。 会えなくなって三日以上が経っていた。もしかしたら嫌われてしまったかもしれないと不安に思っていた。もう自分のことなど忘れてしまっているかもしれないと涙した時もあった。けれど、彼の愛は変わることなく自分に向けられていた。慈悲深い、絶えることのないシュウの愛。 ケイの瞳から、再び涙が溢れ出していた。 「いるわ! 私、シュウが好きなの。離れたくない! もう、一秒だって離れたくないの !」 零れ落ちた涙が、地面の雪を溶かす。 そして、シュウの唇から溢れ出した言葉は、 「 離したくない」 熱い想い。 「離さないで」 もう、止まらない。 シュウは僅かな逡巡の後、徐に口を開いていた。欠けた満月を見上げながら、決して口にするまいと思っていた願いが、そこから零れ落ちてしまう。もう、止めることは出来なかった。 募りすぎた想い 激しすぎるこの想いは、やはりケイを 「 ・・ケイ」 「なに?」 「僕と・・・来て欲しい」 「 」 シュウの僅かに震えた声が、ケイへと願い事を紡ぎ出す。 それを受け止めるケイは、僅かに目を瞠りシュウを見つめ返す。 「側に・・いて欲しいんだ」 今度の願い事は、静かな声で、震えは消えていた。真っ直ぐにケイを見つめ返すその瞳もにも真摯な光があった。ただただ自分を見つめ返しているケイから目を逸らさぬまま、シュウは更に言葉を紡いだ。 「 嫌なら・・この手を取って欲しい・・」 シュウは真っ白な手をケイに向けてのばす。その手は、僅かに震えていた。 「シュウ ・・」 この手を取って欲しい。 その言葉が意味するのは 「 」 ケイはじっと目の前に差し出されたシュウの手を見つめていた。 雪のように白い肌。もしかしたら、本当に雪で出来ているのかもしれない。 だって、触ったら溶けて消えてしまうのだから。人間の温もりに絶えきれない雪のように、あっという間に消えてしまうのだから。 この手を取るか、それとも ケイの逡巡は、一瞬だった。差し出された白い腕から、すぐにシュウの瞳へと視線が戻され、薄紅色に染まった唇が、答えを紡ぎ出す。 「 ・・シュウと行くわ」 そして、ケイは驚くほど鮮やかに微笑んでいた。 「 ・・」 シュウの差し伸べられていた腕が、パタリと落ちる。 ケイの美しい笑みに見とれたのか、彼女の言葉に驚いたのか、それともそのどちらの所為でもあったのか、答えは判然としなかったが。 シュウは、眩しすぎる笑みから逃げるように視線を逸らして しまっていた。そして、押し殺した声でケイに問う。その声に再び、震えが戻ってきていた。 「 分かっているのかい? 僕は・・君を 」 「分かっているわ」 穏やかな声で、ケイはそこから先の言葉を遮っていた。何もかも分かっているから、と。 「 ケイ」 困惑に細められた瞳と、 「シュウ 」 微笑みに細められた瞳が、絡み合う。もう、離れない。 そして、ケイの優しい、全てを許すような優しい笑みが、伝染する。ゆっくりと、シュウの表情も和まされていく。 ひらり、ひらりと、雪が舞い始める。 空を見上げると、僅かに雲が空を覆い始めていた。その灰色の雲から、雪が一つ、また一つと舞い降り始めていた。 その雪は、兄が好きな雪で 「 」 ケイの瞳が、一瞬揺れる。その瞳に、雪が舞い降りてきて、ケイは瞳を閉ざす。閉ざしたまま、胸に落ちてきた冷たいものを堪える。 堪えきれず、閉ざした瞳から、涙が一筋零れ落ちていった。 ごめんなさい。お兄ちゃん・・・ 雪が降る。 ・・ひらり・・ひらり・・ひらり・・ひらり・・ 真っ白な雪が、ケイを祝福するように。もしくはケイを責めるように 降り注ぐ。 「 ・・行こう、ケイ」 促すシュウの声。 これを受け入れれば、願いが叶う。 この声を拒めば、あの人を傷付けずに済む。 分かっていた。分かっていたけれど、 「 ええ」 ケイには、拒むことは出来なかった。 恋は盲目。 彼女にはもう見えない。何も、何も。見えるのは、シュウの姿だけ。それ以外はもう見えないのだ。 否、 もう、見たくない・・。 雪が舞う。激しさを増し、森の奥へ奥へと歩み行く二人を包むように舞い降りてくる。 その雪を見つめながら、ケイは歩みを進める。隣に立つシュウの横顔に視線を向けると、彼もすぐに自分を見てくれる。 やっぱり、幸せなの。 ケイは微笑みを零していた。 誰がこの幸せを悲しいものだと言って泣こうが、自分たちとってはこれが幸せなのだ。一緒にいられることが、唯一の幸せ。それを求めてしまう自分を、どうか許して欲しい。 「 ねえ、シュウ」 「何だい?」 ドサッ。 どこかから、枝に積もった雪が落ちる音が響いてきた。 それが消えたのを確認してから、ケイは口を開いた。 「私がシュウに言った願い事、覚えてる?」 「覚えてるよ」 ケイの問いに、シュウは迷うことなく首を縦に振って見せた。 何があっても、私を独りぼっちにしないで。側にいて。 満月を待っていたあの日、Shamrock Squareでケイがシュウに向けた願い事だった。 覚えていると頷いてくれたシュウに、ケイはホッとしたように笑みを零した後、更に濃く笑みを浮かべた。そして、シュウの瞳を見つめ、彼女は囁くように言った。 「これが私の最後の我が儘だから・・・守ってね、必ず」 ケイは、夜の闇をも押しのけてしまうほど鮮やかに笑っていた。けれど、その笑みが淋しげに見えるのは何故だろう。 「 ・・ああ」 そして、シュウの答えを遅らせたのは、ケイの最後≠ニいう言葉に疼いた胸の痛みの所為だった。 幸せになるはずなのに 胸に冷たいものが走る。 ケイが感じた冷たさを、シュウも感じていた。けれど、それを薄れさせ忘れさせてしまうのは、熱さ。何もかもを溶かしてしまいそうな熱さだった。 もう、止められない。 雪が激しさを増している。 どちらからともなく、天を振り仰ぐ。いつの間にか灰色の厚い雲が、空を覆い尽くそうとしていた。その向こうにおわす神の名を唱えるが、そこから先に続く言葉はない。そして、神からの声も聞こえない。祝いの言葉も、責める歌も、何も聞こえない。 二人の願いを叶えた月が、消えていく 降り注ぐのは、雪だけだった。 |