・・・ヒラリ・・・ヒラリ・・・ヒラリ・・・ヒラリ・・・
 雪が舞っている。ひらりひらりと軽やかに舞いおりてきた雪達は、ぼうっと佇んでいる白い精霊シュウにじゃれついてくる。それは、暗い表情で佇んでいるシュウを慰めようとしていたのかもしれない。
 シュウは、いつもケイと逢瀬を重ねるShamrock Squareから更に森の奥深くへ行った場所にある断層に前に立ち尽くしていた。
 その断層は、いったいいつ出来たものかはシュウにも分からなかった。おそらく、太古の昔に地殻変動によって大地が裂けた際に出来た断層だろう。その断層は、そこから森を二つに分けるかのようにして、はるか彼方まで続いている。
 その断層から先の一段高い位置にある森を、人間達はFair’s Forest白い精霊の棲む森と呼んでいた。
 実際、精霊はみな断層から先、人間達が足を踏み入れることのない森に棲んでいたので、あながちでたらめでもない。そしてシュウはというと、ちょうどその断層に住んでいた。
 いったい、何がどうなって出来たのか分からないが、断層にぽっかりと穿たれた穴、その先に広がる洞窟がシュウの住処だった。
 その住処を出て、シュウは雪を振り落とし続けている厚い雲を見上げていた。何をするでもなく、ただただ空を見上げていた。
 そんなシュウの背後、Fair’s Forestから音もなく姿を現した精霊がいた。それは、時折シュウを訊ねてきては明るさを振りまいていく幼い仲間、ティナだった。
 肩にかかるかかからないかの髪は、雪の白に優しく映えるハニーブロンド。大きな瞳は、髪の毛と同じ優しい茶色をしていた。飾り気のない白いワンピースを身に纏っている幼い仲間は、シュウに遠慮することなく彼の頭上にフワリと浮かび、空を真っ直ぐ見つめていたシュウの灰色の瞳と強引に視線を合わせてきた。
「ねえ、今日はでかけないの?」
 問うのは、うっすら薄紅色に染まった小さな唇。零れるのは鈴を鳴らしたように高く軽やかなソプラノ。
 その音色に、シュウの心の中にわだかまっていたものが一瞬薄らぐ。そして、シュウは徐に首を縦に振って答えた。
「・・・ああ」
 いつも昼には出かけている彼が今日に限っては出かけていないことに、ティナは意外そうに目を丸くする。
 先日、可愛い人間の女の子と仲良くなったのだと、彼にしては珍しく表情を綻ばせて話してくれた。そして、彼が毎日彼女に会うため、人間の村に一番近いShamrock Squareに通っていることを、ティナは知っていた。彼から直接来たわけではないのだが、いつ訊ねて来ても、彼はこの洞窟にいなかったため、そうなのだろうと察していた。しかし、今日は出かけないらしい。
「どうしたの?」
 喧嘩でもしたのだろうかと問うと、シュウからは重い口調で答えが返された。
彼女が・・・来ないんだ」
「・・どうして?」
 彼の沈んだ様子からして、ただ喧嘩をしただけではなさそうだと察したティナは、一瞬迷ったものの問う。やはりシュウから返されたのは、変わらず重く沈んだ声音での言葉だった。
「分からないんだ。急に来なくなってしまって・・・」

 シュウのその言葉に、ティナは僅かに目を瞠る。思い当たることがあったのだ。しかし、彼女はまだそれを口にすることはしなかった。
僕は・・嫌われてしまったんだろうか」
 そう言って、シュウは頭上のティナから視線を外し、白く染まった地面へと目を向けてしまった。
 しばし彼の頭上に浮いていたティナだったが、やがてフワリとワンピースの裾を揺らし、シュウの前に体を浮かべた。今度は無理に彼の視線を奪おうとはしなかった。静かな口調で、シュウに声をかけた。
シュウ、知ってる?」
 唐突なティナの問いに、シュウは視線を彼女へと向ける。
 もしかして、ティナは何故ケイが自分に会いに来てくれないのかを知っているのだろうか。僅かに期待のこもった瞳で問い返す。
「何をだい?」
 それに返される答えが、己に衝撃を与えるものだとも知らず。
「ちょっと前に、ジアが消えたの」
 泣きそうに顔を歪めてティナが告げたその言葉に、シュウは目を瞠る。
消えた? ジアが?」
 それは、忘れもしない、仲間の名前だった。そう親しかったわけではないのだが、比較的近くに住んでいたのでよく知っている仲間だった。その彼が、消えた
 視線だけでどうしてと問うと、ティナは瞳に溜まった涙をポロリと零した。その涙は一瞬にして美しい硝子細工のように光り輝く結晶へと変わった後、雪の中にぽすんと落ちていった。
「人間を凍らせたの」
 再び、涙はティナの頬から離れ、結晶へと姿を変え、地面の雪の中へ埋もれていった。
「それを人間たちが見つけて・・・触られて、消えちゃったんだって」
そんな・・・」
 信じられない。そんな言葉を滲ませ洩らしたシュウはそこから先の言葉を紡ぐことは出来なかった。そもそも、その先に続く言葉を考える余裕がなかった。
  あまりにも、哀れすぎる。
 痛ましげにシュウは眉をひそめた。
 ジアが人間を凍らせた。それはきっと、どうしようもなくその人間を愛してしまったから。だから、凍らせたのだ。それは、精霊にとっては当然の行為。人間と恋をする上で、当然の行為だった。愛する者の全てを手に入れるその行為は、精霊にとって最上級の愛の形。そうして愛する者を手に入れることが出来たというのに 愛する者との永遠の時間を約束されていたのに、消されてしまったジア。
  そんなの、悲しすぎる。
 しかし、その姿は自分に似ていると、シュウは感じていた。ケイ
という大切な少女と愛を確かめ合い、幸せになろうと誓い合ったにもかかわらず、突然その少女と会えなくなってしまった自分と。
 ジアの悲劇と、自らの悲しみとを瞳を閉ざして耐えていたシュウに、ティナが遠慮がちに、けれど努めて明るい調子で声をかけてきた。
「・・だから、その所為じゃないかな」
「え?」
「その女の子が来ないの、きっとその所為だよ。人間って、仲間が死ぬと家にこもるって聞いたことがあるもの。だから、会いに来れないだけだよ」
 そう言って、ティナは精一杯の笑顔を浮かべてみせた。いつの間にか、仲間を思う涙はすべて足下に落ち、キラキラと光っていた。たくさんの結晶が、彼女が今の今までずっと泣いていたことを知らせている。そしてそれは同時に、シュウを励ますためにその涙を堪え、止めたのだということを示すものでもあった。
 ケイに嫌われたのではという不安にかられている自分を、ティナが必死で励まそうとしてくれていることに気付いたシュウは、真一文字に引き結ばれていた口を解いていた。
ティナ。ありがとう」
 そうして、シュウはティナに笑みを返す。
 その笑みはいまだ薄弱なものではあったが、それでも笑ってくれたことにティナはほっとする。そして、今度は心の底からの笑みを見せた。
  信じよう。
 花が咲きこぼれているかのように明るいティナの笑みは、シュウの胸の中に巣くっていた不安を取り払ってくれた。
 信じようと、シュウが思えるほどに、彼女の笑みはシュウを救ってくれていた。
 自分と共にいることが幸せだと言ってくれたケイを信じようと、シュウは己に言い聞かせる。
  ケイと、幸せになると決めたのだ。
 それは、ディーレのように悲しく哀れな形ではなく、ましてやジアのような道を辿る形でもなく、二人だけの形で幸せになろうと決めたのだ。
  それは、どんな形?
・・・」
 不意に誰かが問いかけてきたその問いに、シュウはドキッとする。
 どんな形
 自分たちが望んでいる幸せは、いったいどんな形をしている
  見えない。
 シュウには、その形が見えなかった。その事実に、シュウは戦慄する。
 この手で、ケイを凍らせる
 自ら、彼女の温もりに消える
 否。否。違うのだ。そのどちらでもないのだ。
 では、そのどちらでもない幸せの形とは
  ただ、側にいる。・・それだけ?
 足りない。それだけでは、足りない。そうして焦れる心を、シュウは激しく叱咤する。
 それだけでいいではないか。それだけで、十分に幸せではないか。それ以上の幸せなど、いらない。そうだろう
 そう。今までのように、一日に数時間の逢瀬を重ねられるだけで幸せなのだ。毎日、昼を過ぎた頃に会い、他愛のない話をし彼女は昼食を口に運び、時には穏やかな沈黙を共にし、そうして彼女は日々老いていく 。そして、いずれはこの森に来ることすら出来なくなり、死が存在しない自分のことを置いて彼女は死んで逝く。
・・・」
 胸が、一瞬激しくざわつくのをシュウは感じて唇を噛みしめていた。そして、すぐさま言い聞かせる。
  それでいいじゃないか。
 それが人間と精霊の恋。日々老いていく人間と、死が存在しない精霊の恋の結末。
 そしておそらくこれが、一番幸せな形なのだ。
  ほら、見えたじゃないか。
 そう、シュウは己に言い聞かせる。必死で言い聞かせる。ケイを凍らせることなく、自分が溶けていくこともなく、互いが側にいる方法はそれしかなく、それが最も幸せな形なのだと。
  しかし、その幸せには不純物が交じっている。
 老いて逝く者と、置いて逝かれる者との悲しみ。苦しみ。歯痒さ。痛み。
  そんな影を交じらせたその幸せが、最高の形だなんて・・・そんなこと、思えない。

 シュウは、驚きに目を瞠っていた。己が、こんなにも欲深い存在だとは思っていなかった。シュウは己を恥じるように視線を地面へと向けた。
 毎日会えることが、本当に幸せだった。数時間、その限られた時間だけでもケイと会うことができれば本当に十分だと思っていたのだ。
 それなのに、少し会えなくなっただけで、怖ろしいほどに強い力で、不安という名の恐ろしいものはシュウの胸を締め付ける。やがてそこからにじみ出した欲望は、見る間にそのかさを増してしまう。
 そして、
  今すぐ、会いたい。
  毎日会いたい。
  帰したくない。
  ずっと一緒にいたい。
  一日中、一生、たとえ彼女が死んでしまっても。
  ずっと、一緒にいたい。


  彼女の全てを自分のものにしたい


 驚くほどの成長を見せたその欲望という名の怪物は、そんな怖ろしい言葉を叫ぶ。シュウの心を激しく震わせる慟哭。叫び続けている。
  違う。
 本当に?
  ・・・違う。
 シュウは、己の中の怪物に必死で言い聞かせる。
「僕は・・側にいたい。ただ、ずっと側にいたいと思うんだ」
 それだけだと、何度も何度も。
 しかし、その言葉に問いを返してきたのは、己の中に現れた怪物ではなく、痛ましげな瞳でずっとシュウを見つめていたティナだった。
「・・・どんな形で?」
 遠慮がちな、ティナの問い。
 それは、シュウが自らの中に怪物を生み出すこととなった一番最初の問い。
 ふりだしに、戻った

 シュウは、答えを出そうとはしなかった。
 否、出せない。出してしまえば、また不安に心を鷲掴みにされ、そこからにじみ出した欲望は怪物へと変じてしまうことをシュウは知っていた。だから、頑なにシュウは答えを出そうとはしなかった。
 激しく彷徨う視線は、巡り巡って、やがて空の月へと向けられる。三日前、厚い雲の上で満ち、そして欠け始めたその姿が、白銀の衣を纏いそこにいた。
 その姿に思い起こすのは、あの童話。ケイが話して聞かせてくれた『FLOWER and RABBIT』という童話。
 うさぎとずっと一緒にいたいと願った花は、満月に願い事を託した。
 そして、
「僕の願いは
 月は、もう欠けてしまっている。
 きっと、願いは叶わない。
・・・」
 シュウは、願い事を唱える為に開いたその唇を、徐に閉ざしていた。
 彼女へと渡すことの出来ない熱い想いが、この三日の間で募りすぎているようだった。
 次に彼女に会った時、この想いを 否、この己の中に生まれた怪物を制御することができるだろうか。
  この激しすぎる想いは、やがて君を ・・・
 叶えたい願い。
 そして、叶ってはいけない願い。

 だから、シュウは唇を閉ざし、決して開かなかった。
 胸を焦がす想いが、一瞬でもいい。その姿を、消すまで 。 
 ・・ひらり・ひらり・ひらり・ひらり・・
 雪が僅かに激しさを増し、空から下りてきていた。






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