lily−white hamletは、雪の白と静寂とに包まれていた。
 人が消えてしまったのかと疑いたくなるほどしんと静まり返った村に響くのは、時折吹雪のようにゴウゴウと鳴る風の音と、日が昇ると同時に鳴り響く教会の鐘の音だけ。
 日の出と共に鐘が鳴り、静かな村の一日は始まる。
 ロジェの葬儀が行われてから、既に三日の時が経っていた。
 明日からは、鐘の音で人々が目を覚まし、祈りを捧げることもなくなる。
 lily−white hamletでは、葬儀を執り行った翌日は、村人全員が丸一日家にこもり死者の冥福を祈る風習があった。そして、三日間、日が昇ると同時に鐘を鳴らす。死者の魂を送る弔いの鐘の音だ。三日を過ぎると、死者の魂はこの村から遠く離れ、鐘の音も聞こえなくなる。そうして、教会も鐘の音を鳴らすことをやめ、死者と近しい者以外は喪服を脱ぐのだ。
 そして、その弔いの日も、今日で終わる。
 村に古くから残る風習に習い、ケイも喪服を身につけ家の中にいた。家の中にいなくてはならないのは葬儀の翌日だけ。ケイが家にこもっている必要はない。ケイが家にいるのには他に理由があった。
 ハルの体調が思わしくなかったから。
 ロジェの凍り付けの遺体が見つかった日から体調を崩し寝込んでいるハルだったが、一向にその調子は良くならない。寒さが急に増したこともその原因の一つだろうが、最たる原因は精神的なショックによるものだろうと医者が言っていた。
 そんな彼を一人家に残しておけるはずもなく、ケイはリビングに一人佇んでいた。
 一日中窓際に立ち、森を見つめていた。
会いたいなぁ・・・」
 思わず、唇から零れ落ちる。
  シュウに会いたい。
 その思いが行動を伴わないのは、あの日幼馴染みのモリと交わした約束の所為だった。
 ハルの体調が治るまでの間でいいから森に行くのはやめて欲しいと言われ、頷いたあの時の約束が、彼女を家の中に縫いとどめていた。
 そして何より彼女自身、唯一の家族である兄の体調が思わしくない今、彼を放っておくことはできなかった。
 それでも彼女の意識は兄の体調のことよりも、おそらく森で自分が来るのを待ってくれているシュウのことへと向かってしまう。それだけは、どうしようもない。
シュウ・・」
 シュウはきっと心配しているだろう。明日も会おうと言って別れたのに、やってこない自分を心配してくれているだろう。
 もしかしたら、怒っているかもしれない。
 せめて、どうして自分が彼に会えないのか、それだけでも伝えられればいいのに。
  変わらずあなたのことを愛しているのだと、伝えられたらいいのに・・・!
 珍しく晴れ渡った空に、白く薄い月がその姿をひっそりと主張している。
 僅かに欠けた月。
 いつの間にか満月を過ぎ欠け始めた月を、ケイは切ない瞳で見上げる。その背中に、不意に声がかかった。
「心配ね、ハルちゃん」
 驚いたように振り返ると、いつの間にリビングに入ってきたのか、セーラの姿がそこにはあった。ハルの様子を見ると言っていたセーラが戻ってきたらしい。その手には、ハルに食べさせたのだろう、昼食にと彼女が持って行った食器が乗せられてあった。
「・・・うん」
 ケイは、小さな声でセーラに答えた。セーラの労るような優しい瞳を直視することは出来ず、彷徨ったあげくにまた窓の外へと戻してしまった。
  本当は、彼のことを考えていたのに。
 あのShamrock squareで自分のことをずっと待ってくれているであろうシュウのことを思っていたのだが、セーラにはその背中が、思わしくない兄の体調を心配し憂えているように見えたのだろう。
 本当は違うのに。
 本来ならばセーラが思ったように、兄の体調を憂えているべきなのだろう。そのことは、自分でも分かっていてる。だから、情けなくなる。
 背中に感じるセーラの優しい瞳を見つめ返すことはできそうになかった。
 手際よく食器を洗い、棚に片付けたセーラは、窓の外に視線を向けているケイの背中にそっと声をかけた。
「じゃあ、おばさんは店に戻るわね」
 エプロンを外しているセーラに、ケイは慌てて彼女の側による。
「ありがとう、おばさん。ごめんね。仕事中なのに」
 申し訳なさそうに視線を落とすケイに、セーラは気にしないでと彼女の肩を撫でた。
「いいのよ。何かあったらすぐに呼んでちょうだい」
「うん」
「晩ご飯はまた作りにくるから」
「ありがとう」
 心の底から感謝の気持ちを言葉に乗せる。
 それを受け取ったセーラは笑みを返し、リビングのドアを押し開けた。しかし、
「ケイちゃん」
 不意に、その歩みを止めた。
「なに?」
 そのままリビングを出て行くと思っていたセーラが急に立ち止まった理由が分からず、ケイはきょとんと首を傾げる。するとセーラは首だけで振り返り、少し寂しそうな微笑を浮かべた。
「ハルちゃんの側にいてあげてね?」
うん」
 セーラのその言葉に、ケイは僅かに目を瞠り、その後、言葉少なに頷くことしかできなかった。その後、「じゃあね」と手を振ったセーラに向けて反射的に手を振り返しながら、ケイはカッと頬が赤くなるのを感じていた。
 きっと、彼女は知っている。
 自分の心が、この家の中にはないのだということを。窓の外をじっと見つめているのは、この家を今にも飛び出したいと思っているのだということ。そして、この憂える瞳が見つめているのは兄ではないのだということを、きっとセーラは気付いているのだろう。
 その事実を情けなく、そして恥ずかしく思いながらも、視線は再び窓の外へと戻してしまう。そうなると、すぐさま意識も森へと向けられる。森の中にいる、シュウのことで一杯になってしまう。
 そして、心は悲しみという色一色に染められてしまうのだ。たった三日会えなかっただけだというのに、悲しみは心の奥底からじわじわと湧き出てきて、やがて冬の寒さに凍らされてしまう。そうして、寒さに凝り固まった悲しみは不安へと姿を変える。その不安は小さな小さなトゲでチクチクと胸を刺す。そのむず痒い痛みは焦りとなって、ケイの足を森へ向かわせようとする。
 幸せだったのにうまくいかない。
 幸せになれると思ったのに、会えない
 その瞳から、堪えきれず涙が零れそうになった。
「ケイ」
 突然背中にかけられた声に、ケイははっとしていったん思考を中断する。幸いなことに、涙もその姿を消してくれた。それを確認してから振り返ると、ハルがリビングの入り口に立っていた。
「お兄ちゃん。起きて大丈夫なの?」
 自分の腕を支えるため慌てて駆け寄ってきた妹に、ハルは朗らかに笑ってみせる。
「大丈夫大丈夫。少しくらい動かないとな」
 しかし、その顔は青白い。凍らされたロジェを見たその瞬間に引いた血の気がまだ戻ってきていないかのように、青白いままだった。
 それでも明るく笑ってみせる兄の姿に、ケイは思わず眉を寄せてしまう。きっと兄は、自分のために明るく振る舞っているのだということが明白だったから。
「お兄ちゃん、座って」
「お。さんきゅ」
 兄の腕を取り、暖炉に一番近いソファに座らせる。握った彼の腕が細くなっているようにケイは感じ、彼には気付かれないように再び眉をひそめた。
 パチパチと炎が音を立てて薪を焼いている。
 ハルはソファに体を預け、しばしその不規則な旋律に耳を傾けていた。その音はハルの心を落ち着けてくれる子守歌だった。何故ならその旋律は、常にここにあるものだったから。
 冬の間、リビングにこの旋律が絶えることはなかった。
 ハルが生まれ育ち、両親がいた頃もそう。今も、そう。常にここにある不変のメロディー。絶対になくなることのないその存在が、ハルに安堵感を与えてくれていた。
 そんな炎の音色を消さぬよう、ハルが押し殺した声で妹を呼んだ。
「・・・ケイ」
「なに?」
 そしてやはり静かな声で囁かれたその言葉に、
「オレは大丈夫だからさ」
「え?」
 ケイはきょとんと目を瞠り、首を傾げる。どういう意味なのか、すぐには計りかねたのだ。どう見ても彼の体調は大丈夫な状態ではない。では、彼は何が大丈夫だと言ったのだろうか。
 きょとんと目を瞬いている妹に、ハルは穏やかな笑みと共に告げた。
「行きたいんだろ? 会いに」

 兄のその優しい言葉に、ケイは応えることができなかった。
 ハルも、ケイの答えを必要とはしていなかったのだろう。ケイの言葉を待つことなく、言葉を紡いでいた。
「行っていいんだよ、ケイ。オレは一人でぐーすか寝てればいいんだから、お前がいなくたって別にいいんだ」
 そう言ってカラカラと笑ったハルに、ケイは即答していた。
行かない」
 その答えに今度はハルの方が驚きに目を瞠り、無言で「どうして?」と問う。
 その問いにケイは笑みと共に答えた。
「だって、寒し、ね。春が来てからまた会えばいいもの」
 妹のその言葉に、ハルは目をますます丸くする。
「え!? 春になったら会えないんじゃないのか?」
「ううん。会えるんだって」
 どうやら自分と同じように、勝手な先入観で白い精霊は冬の間しかいないものと思っていたらしい兄に、ケイは思わず笑ってしまっていた。
「へー。オレ、てっきり冬限定かと思ってたよ」
「もう、商品じゃないのよ?」
 腰に手を当てて自分の言葉を訂正させようとしている妹に構うことなく、ハルは「へー」としきりに感心している。 どうやら今まで作り上げていた壁が壊されもたらされた予想外の事実を受け入れることに必死らしい。
「冬眠しないのか??」
 その言葉に、ケイは腰に当てていた手を解き、思わず笑いを洩らしていた。
「もう。クマじゃないんだから! しかも冬眠だったら逆じゃない」
 ハルはその言葉に「そうか」と頷き、しばし考えた後、
「・・・春眠? 気持ちいいもんな」
 そう言って顔を綻ばせた。
 眠ることが大好きな兄らしいとケイも笑みを零す。
「もう、お兄ちゃんじゃないんだから」
「それもそうだな」
「そうよ」
 そう言ってハルと笑みを交わし合い声を上げて笑い合っていると、ふっと心が軽くなった。
 絶えずにじみ出す悲しみが固まり、やがて不安へと姿を変えていた。その不安の塊が溶けていくのを感じる。
 きっとすぐにまた悲しみは湧き出てきて、不安へと姿を変えるのだろうが。今胸の中にある不安の固まりは、ハルの笑みによって完全に溶かされてしまっていた。
 本当にハルという名に相応しい人。
 その事実を、ケイは誇らしくさえ思うのだ。
 春が皆に愛される季節であるように、彼もまた皆から愛される春のような人間だということに。
 そして、その温もりと同時に、驚くほどあっという間に去っていってしまう春の儚さにも、彼はよく似ている。
 こんなに優しい温もりで不安を溶かすことが出来るというのに、彼は彼自身の中にある不安を溶かすことはできないらしい。そして、その不安に耐えられず不意に笑みを消してしまう。そして無理に浮かべた笑みは、見ている方が胸を痛めてしまうような切ない笑みだったから。
「さあさあ、お兄ちゃん、無駄口叩いてないで寝てなさい!」
 元気に笑い合っていても、まだまだ彼の顔色は悪い。僅かに上気してきた頬は、体温が急上昇してしまった所為だろう。それを見て取ったケイは再び腰に手を当て、兄に命令を下す。
「はいはい。おばさんが帰っても監視役はいるんだな」
 そう言って大仰に肩を竦めて見せたものの、ハルにはケイの命令に背く気はないらしい。
 そんな兄に、ケイも肩を竦め返す。
「監視役二人でも足りないわ」
 嫌味たっぷりの台詞だったが、ハルは気にする風でもなく、笑って付け加えた。
「じゃあ、モリも入れて三人だな」
「むしろモリさんがリーダーよね」
「まったくだよ」
 ひとしきり笑ってから、ハルは立ち上がる。だが、
っと」
 その体が不安定にぐらつくのを見て、慌ててケイが兄の腕を支える。
 だがハルはその手を「大丈夫だから」とそっと払いのけ、リビングのドアへと足を向けた。踏み出したその足は、彼の言う通りしっかりしていた。
 そして、ドアまで向かったハルはヒラヒラと手を振りドアを押し開けて行った。そうケイは思い、視線を窓の外へと戻したのだが、
ケイ」
「あれ? どうしたの?」
 てっきりもうリビングを出て行ったと思っていたハルが、ドアを押し開いたまま佇んでいた。また気分でも悪くなったのかとケイは心配し駆け寄るが、そうではなかった。
 ハルは駆け寄ってきたケイに、僅かに細められた瞳を向け、押し殺した声で囁く。
頼むから、オレに遠慮はしないでくれよ。情けなくなるからさ・・」
 そう言ってハルは苦みを堪えきれなかったのだろう、苦笑を浮かべた。
うん」
 その笑みに、ケイはただ頷き返していた。そうすることしか、出来なかった。
 彼も、知っている。
 その事を確認するためにケイが口を開く直前、ハルがそれを拒むかのようにぱっと表情を明るく変えていた。
「まあ、とにかく、行きたかったら、行っていいんだからな。分かったな?」
 先程の台詞とは打って変わったさっぱりした口調で、ハルはそう言った。そして浮かべた笑みに、苦みはもうない。
 それが彼の強がりであることにケイは気付いていたが、また何も言えなかった。何も言えず、ただ首を縦に振って見せただけだった。
「じゃあ、おやすみ〜」
 明るい声と共に、今度こそ閉ざされたドア。
 そのドアを、ケイはじっと見つめていた。
 やはり、兄にもばれてるらしい。自分がどうしてもシュウに会いに行きたいのだということに。
 一瞬、兄の優しさに甘えて、シュウに会いに行ってしまおうかという思いが生まれる。しかし、
駄目」
 自らを制する。
 約束したのだ。兄のために、しばらくはここにいることを。
 しかし、その兄自身が行っていいと言ってくれたのだ。行っても、許されるはずだ。モリは責めるかもしれないが、兄はお帰りといつも通りの笑顔で迎えてくれるはずだ。
 それでも、
行かない」
 頑なにそう言い聞かせる。
 これはもう、ただの意地かもしれない。
 ケイは、そう思った。
 病の兄を放っておく程、自分は薄情な人間ではないのだと、自分自身に示したくて必死で我慢しているだけなのかもしれない。家を飛び出そうとする足を必死で制し、でも、せめて心だけはと、森へとシュウへと思いを馳せる。しかし、それだけでは物足りなくて、視線も森へと向けてしまう。見えるはずもない、Shamrock squareへと。そこにいるであろうシュウの姿を求めて
 そうして見遣った窓の外では、雪がひらりひらりと舞っていた。
 出ておいでよ。
 そう言って、まるで呼んでいるような気がして、ケイは瞳を閉ざす。
 瞼裏まなうらに浮かぶのは、シュウの優しい笑顔と、ハルの悲しい笑み。


私は、行かない」


 もう一度だけ、ケイは自らにそう言い聞かせた。







BACK * TOP * NEXT