外は夕闇に支配されていく。
 そんな時間になっているにもかかわらず、ハルの家に明かりは一つも灯されていない。年若い主がいないわけでもない。それでも、部屋の中をぼんやりと照らすのは、暖炉にくべられた薪を燃やす炎だけ。そのほの暗い部屋の中、ハルはソファに寝転がってうとうとと船を漕いでいた。
 そして、夢を見ていた。それは、とても懐かしい夢。十年以上も前になる、この家に両親がいた頃の夢だった。


 朝が訪れたのを知るのは、
 起きなさい、ハル。スープが冷めちゃうわ。


 そんな穏やかな母の声と、焦れたように体を揺らす温かな手。それは、いつもと同じ朝。
 リビングへと向かうと、自分と同様に、眠そうに瞳を擦っている幼い妹が父の膝に抱かれている。そうして穏やかな朝は眠気と共に過ぎていった。


 じゃあ、行ってくるよ。良い子で留守番しておくんだぞ。


 そう言って頭を撫でてくれる大きな掌が離れるのが、その日だけは何故か悲しかったことを覚えている。


 ・・・行ちゃうの?
 あら、どうしたの、ハル。珍しいわね。


 両親を引き止めると、母の手が頬を撫でて笑った。


 ・・・だって・・・


 その時は言えなかった。胸の中にある気持ちの悪いモノが何なのか、未だ分からなかったから。それが嫌な予感≠セということを知ったのは、もうしばらくしてからのことだったから。


 夕方には帰ってくるからな、ハル。ケイのこと、ちゃんと面倒見ておいてくれよ?
 ・・・父さん。


 セーラさん、お願いします。
 ・・・母さん。行っちゃ駄目だよ。


 ええ、ええ。行ってらっしゃいな。
 ・・・おばさん、父さんと母さんを止めてよ。


 じゃあ、行ってくるわね。ハル、ケイ。
 ・・・駄目だよ。今日は、行っちゃ駄目なんだ!!


 あの時、泣き喚いてでも、引き止めれば良かったんだ。格好悪くてもいい。ただ、わけの分からない嫌な気持ちがおさまらなくて、側にいて欲しいのだと縋り付いてでも止めていれば良かったんだと、後悔したのはもう少し後のことだった。
 すっかり春がやって来ていた。昼にもなると、冬の寒さもその姿を消し、温かさが訪れる。


 ハルと同じ名前の季節になったわね。母さん、春が一番好きなのよ。


 でもこの日、この日が春でなければ、


 雪崩だ! 雪崩が起きた!!!


 こんなことにはならなかったんだよ、母さん。
 だから、春が来ると嬉しい反面、一瞬、胸が苦しくなる。毎年毎年、この季節が来ると、胸が苦しくなるんだよ。


 ・・・父さんと母さんは大丈夫なの!?
 そう言って縋り付くと、セーラは大丈夫よと笑ってくれた。けれど、その口許が僅かに引きつっているのを見てしまった。そして、案の定父さんと母さんが雪崩に巻き込まれたことを聞かされる。否、聞いてしまった。
 父さんと母さんが帰ってきたのは、三日後のことだった。
 セーラおばさんにケイと二人抱き締められながら、静かな両親の帰宅を迎えることになった。その時になって、あの嫌な気持ちが悪い予感だと言うことに気付いた。
 ・・・もう遅いのに。
 お兄ちゃん。お母さんとお父さんは?
 幼いケイの問いに、どう答えて良いのか分からずにいると、代わりにカーヤおばさんが答えてくれた。


 お父さんとお母さんはね・・雪に、攫われちゃったの。


 そう言った。
 だからオレは雪に・・




 唐突に、ハルは目覚めた。
・・」
 自分が何故起きたのかは分からない。薪がパチパチと燃えている。その音が覚醒を促したのだろうか。
 とても、懐かしい夢だった。
 瞳を閉ざすと、頭を撫でてくれた二つの手の温もりを思い出す。目を開いたら、そこに両親がいてくれるのではないかと錯覚するほど、鮮明に思い出す。しかし、ゆっくりと瞼を上げてみても、
錯覚だ・・」
 やはり、頭が温かかったのは、ただの錯覚だと言うことを思い知らされる。目の前には、ぼんやりとした闇しかいないのだから。
 真実を知らしめられたその瞬間に、眠気は晴れる。驚くほど一瞬で冷めてしまっていた。
・・」
 徐にハルは立ち上がると、リビングの入り口のハンガーに掛けてあったコートを取り、羽織る。そうしてブーツを履くと、ハルは家の外に出た。
雪だ・・」
 外では、雪が降っていた。
 ひらりひらりと舞い降りてくる雪。宵闇の中、雪だけが純白に輝いている。その美しさに、一瞬見とれる。長い髪をはためかせる風の身を裂くような冷たさも、その瞬間にはどこか遠くへと行ってしまう。
「綺麗だなぁ・・・」
 思わず呟く。頭上を振り仰ぐと、そこには雲がない。代わりに、大きな月がそこにはいた。そこから、月明かりに照らされた雪が、キラキラと輝きを放ちながら舞い降りてくる。その美しさは、ハルの心を奪う。雪を眺めながら、ハルは歩き出す。まるで雪に焦がれるハルの思いを知っているかのように、彼の頬に、鼻先に、唇に触れては落ちていく雪の冷たさを感じながら、ハルは森の入り口にある大きな墓地へと向かっていた。
 そうして、雪と戯れつつ歩いていたハルが足を止める。そこは両親の墓の前だった。
「父さん・・母さん・・」
 その囁きを、雪だけが聞いている。
守って欲しい・・」
 ハルはじっと両親の名前の刻まれた墓石を見つめながら、そう囁く。その縋り付くような瞳と懇願とを受け止めるものは何一つない。それでも、ハルは祈るように静かな言葉を唇に乗せ続けた。
「ケイだけは、オレの元から奪われないように、守って欲しいんだ・・」
 答えのないと思われていたその懇願に、唐突に声がかかったのはその時だった。
「お兄ちゃん?」
 その聞き慣れた声に驚いて振り返ると、そこにはやはり妹の姿があった。
「・・・ケイ」
「どうしたの? こんな所で。幽霊かと思っちゃったじゃない」
 一瞬、彼女に聞かれてしまっただろうかと慌てたハルだったが、それは杞憂に終わった。ケイは驚いたように瞳をぱちぱちと瞬かせた後、笑った。聞かれてはいなかったらしい。そのことに密かに安堵しながら、ハルはケイのその問いに答えた。
「久々の墓参り」
 そう言って笑ってみせると、途端にケイは表情を険しくした。
「もう! 外に出る時はマフラーと手袋しなくちゃ」
 そう言われて初めてハルは自分の手がかじかんでいることに気付く。冬の寒さなど、雪の美しさの前ではどうでも良くなってしまう。そうしていつもケイに怒られるのだ。
「まァた風邪引いて倒れるつもりなの?」
 言ってケイは腰に手を当て、ハルを睨みつけた。それを見て、ハルは笑う。そして、唐突に墓へと向き直った。
「このように、ケイが年々口うるさい母親化してるよ、母さん、父さん」
「変な報告しないでよ!」
 困った困ったと、わざとらしく肩を竦めるハルに、ケイは顔を赤くして反撃に出る。足下の雪をすくい上げると、容赦なく兄の顔に向かって放り投げる。しかしハルはそれを難なく避けると、勝ち誇ったようにふんぞり返った。それを許しておけるケイではない。すぐさま第2弾を投げる。
「うわっ! おい!」
 そして、息をつく暇もなくあと数回雪を投げつけてやると、目の前の兄は真っ白になってしまっていた。
「はぁ、スッキリ
 少しやりすぎたような気がしなくもなかったが、自分的にはすっきりしたのでよしにしよう、とケイが手袋にくっついた雪を払って落とす。
 それに倣うようにしてハルも髪の毛に降りかかっている雪を振り落とすと、身震いする。雪は好きだが、こうしてぶっかけられても良し! というわけではない。さすがに寒くなってきたハルは手袋を忘れてきた所為で赤くなっている掌同士を擦り合わせながら歩き出した。
「寒いな。帰るか」
「うん」
 妹と二人、家へと向かって歩き始める。雪は、変わらず降り続けている。月光を浴び、美しく輝きながら、二人の頭を、肩を、腕を白く染めようと降り注ぐ。空を見上げると、やはりそこには月がある。先程は気付かなかったが、月は満月を迎えようとしているようだった。
「もうすぐ満月だな」
「そうね」
 空を見上げている兄と同様に、ケイも月を仰ぐ。淡い黄金色をした月が、自分たちを照らしている。時折薄い雲に隠されながらも、月は己の存在を誇示していた。
「ねえ、お兄ちゃんは何をお願いする?」
 ふと、ケイは訊ねてみる。するとハルは一瞬何のことか分からないように瞳を瞬かせた後、ケイが何故そんなことを言ったのかを察したらしい。
「ああ、お花みたいにか? 満月に?」
「うん」
 満月の夜に、月に願い事をすると叶えてくれる。『FLOWER and RABBIT』の中で、お花が言っていた台詞だ。
「うん」
 ハルは視線を落としたが、すぐにまた月へと瞳を向ける。そうしてしばし逡巡した後、
「・・・秘密」
 思いつかなかったのか、それとも願い事を口にするのが恥ずかしかったのか、ハルはそう言ってはぐらかす。
「えっ」
「じゃあ、お前は何を願うんだよ」
 ケイのブーイングに、ハルは逆に訊ね返す。すると、ケイもしばし考え込んだ後、
「・・・ひみつ!」
 ハルと同じ答えを返す。それを聞いてハルは笑った。
「ほらな」
 お前だって一緒じゃないかと笑った兄に、そうねと頷き返し、ケイも笑う。
 月は、そんな二人を静かに見下ろしていた。


 ようやくハルの家にも明かりが灯される。
 しかし、ケイは部屋に明かりを灯すことなく、窓から外を見つめていた。いつの間にか雪雲はその姿を消し、空は晴れ渡っている。その中で月はますます冴え渡り、lily-white hamletを白銀に照らしていた。
「・・明日かな」
 ケイは、ポツリと呟く。
 明日には満月がその姿を見せるのだろうか、と。
 そうして思いを馳せていると浮かんでくるのは、あの童話『FLOWER and RABBIT』。
願い事かぁ・・」
 もしも、満月に願いを唱えたら敵うのならば、自分は何を祈るだろうか。兄は、その願い事を教えてはくれなかった。同様に自分も教えなかったけれど、それは決められなかったから。兄との変わらぬ穏やかな生活が続くことも祈りたい。自身の幸せも、兄の幸せも、幼馴染みの幸せも。願いたいことはたくさんあり過ぎて決められなかったから。
 しかし、こうして一人きりになった今、願うことは、
私は・・シュウと一緒にいられたらいいな」
 それはとても自分勝手だけれど、今一番叶って欲しい願い事。
「シュウは、何をお願いするのかな」
 空から、森へと視線を移し、ケイはそう呟いていた。
 一緒にいたいと自分が願っている彼は、どんな願いを月に託すのだろうか。願わくば、それが自分と同じ願いでありますように。ケイはそう祈る。
「あ、また願っちゃった」
 願い事はたくさんありすぎて、祈りは次々と現れ、唇から零れ出てしまう。
 お花はただ一つ、『ずっと、ウサギさんといられますように。幸せでいられますように』と満月に願った。そうして一心に月に祈っているお花を見て、ウサギは何を祈っていたのだろうか。


「お月様、お月様。彼とずっと一緒にいられるように、私を


 ケイは、口を閉ざした。
 ケイには、お花のように最後まで願い事を言うことは出来なかった。瞼裏まなうらをちらつくハルやモリの顔。そして、ディーレの姿が目の前をちらつき、ケイの唇を閉ざしてしまう。
 叶わない恋の末、カエデを凍らせ狂い、ケイの温もりによって消えていった悲しい精霊。そして、精霊に愛されたが故に凍り付けにされ、愛する夫と引き離されてしまった祖母。
 それは、悲しい恋の結末。
「・・私は私たちは、幸せになりたい」
 悲しい恋で終わりたくはない。幸せになりたい。幸せになろうと、シュウと共に誓ったのだ。
 明日、満月の夜には、その為に祈ろうとケイは心に決めた。







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