ハルとモリはサクサクと軽快に雪を踏み、パン屋から村はずれの工場へと向かっていた。 雪を蓄えた雲は灰色。早く雪を落とさないかと、ハルは密かに願っていた。 家々の前を通っていると、中から子供を学校へと急かす親の声が聞こえてきたり、兄弟喧嘩をしているらしい賑やかな声が聞こえてくる。それに一つ一つ笑いながら歩いていると、すぐに工場が見えてくるのだが、今日は違った。工場よりも先に瞳に移ったのは、工場から先に広がっている森に、村の男達が入っていく姿だった。おそらく、森で行方不明になった少女―ロジェを捜しに行くのだろう。そして、数軒先の家の前には、そんな男達をただただ頭を下げ見送る女の姿があった。 「カーヤおばさん・・」 いつの間にか痩けてしまった頬と、青白い顔。ひどく虚ろな顔をして男達を見送っているその人の名を、ハルは知らず呼んでいた。女はロジェの母―カーヤだった。 「・・ハルくん、モリくん」 ハルとモリが自分の方にやって来たことに気付いたカーヤは、笑顔を浮かべた。いや、浮かべようとしたらしい。笑おうとして、引きつるだけの頬。笑うことに失敗したカーヤは、すぐに笑みとも呼べない表情を消した。笑うことすらできない己の精神状態を思い知ったのだろう。無表情になった彼女は、動揺に見開いた瞳を泳がせている。唇からは、彼女にしか聞こえない囁きが零れていた。 「」 カーヤの危うい精神の均衡を目の当たりにし、ハルは茫然とする。 今の彼女は、以前の彼女とはまるで別人だった。カーヤはとても強い人だと思っていた。確か、夫を亡くした時にはこんな弱い姿を見せていなかったはずだ。喪服を着て、それでも背筋を伸ばし毅然としていたはずた。いつだって物をはっきりと言う質の女で、二人もよく怒られていた。そんな彼女が今は、頬を痩けさせ、常に俯いているせいか背中は曲がって見え、強い意志を宿していたはずの瞳は、ただただ泳ぐだけ。 そんな彼女の姿に、かける言葉など見つかるはずもなかった。ハルは、ただ彼女を抱き締めることしかできない。そうして遠慮がちに抱き締めた彼女の体は、僅かに震えていた。だから、より一層強く抱き締める。 「ありがとう。ハルくん」 体と同様に震えた声ではあったが、カーヤははっきりとそう答え、ハルの背を僅かに抱き返した。 そんなカーヤの背に手を触れさせ、モリはそっと彼女に声をかける。 「おばさん。祈ってれば、きっとロジェも」 「祈ってるわよ」 「」 モリの言葉を唐突に遮ったカーヤの声は、静かなものだったが、明らかにモリの言葉に反発するものだった。言わないで、聞きたくない、と。 「祈ることならもう何万回としたわ。でも帰ってこないのよ。これ以上私は何をすればいいの。何をしたらあの子が帰ってくるの。分かるなら教えてちょうだいよ」 震える声が、静かな口調で激しい感情を吐露する。カーヤの手は、いつの間にかハルの背を強く抱いていた。そうすることで恐怖から逃れようとしていることを、ハルは知っていた。自分がよく、モリやカーヤにそうして縋り付いているのだから。だから、苦しくても我慢する。そして、カーヤの悲痛な叫びを、ハルは黙って聞いていた。 「お願い。返してちょうだいよ。あの子を失うなんて私には考えられないのよ。私の全てだったんだからさぁ・・。帰ってきて・・お願いよ、ロジェ。お願いだから母さんを一人にしないで!!」 「」 ハルは、きつくカーヤを抱き締める。彼女の静かで、そして激しい叫びが、胸を裂く。そして同時に、胸の中に染みこむ。 一人にしないで。 彼女の叫びは、彼自身の叫びでもあったから。 「カーヤ」 いつの間にやって来ていたのだろうか。そっと声をかけてきたのは、村の女たちだった。彼女らは、カーヤをハルから優しく引き離すと、彼女の肩を抱き家へと歩き始めた。 「中で待ちましょう、カーヤ。ね?」 「じゃあね、ハルくん、モリくん」 女たちに連れられて家の中へと戻っていくカーヤの後ろ姿は、驚くほど小さい。そして、カーヤのその後ろ姿は、彼女一人だけが老婆のように年を取っているように見えた。それほど彼女の背は、頼りなかったから。 そんな彼女の背を見つめ、ハルは立ち尽くしていた。そして、ポツリと彼は呟く。 「オレと一緒だ・・」 「どういう意味だ?」 ハルの言葉の意味を計りかねたモリが問い返すと、ハルは視線をモリに移し、弱々しく笑いながら言った。 「オレだったら、どうなってしまうんだろうな」 もしも、カーヤと同じように唯一の家族、唯一の支えであるケイが居なくなってしまったら? 一人ぼっちになってしまったら? そうなったとき、どうやって自分はその悲しい現実を受け止めるのだろう。 いや、まず受け止めることができるのだろうか。自分のこの弱い精神は、辛い現実をきちんと受け止めきることができるのだろうか。もしかしたら、耐えられないかもしれない。己を保つことさえできないかもしれない。 だって、ケイがいなくなるんだから。 唯一の家族がいなくなるのだから。今まで彼女を幸せにするために兄として生きてきたのに、 居なくなってしまったら存在する意味を、どこに見いだせばいいのだろうか。妹が居るからこその兄だというのに。 「」 そう考えるだけで、震え始める手。止まれ、と握るけれど止まらない。ならば、考えなければいいのに、考えてしまう。 それは、自己防衛だった。もしもそうなった時のために、今から考えておくのだ。何度もシミュレーションし、本当にそうなった時の痛みに耐えることが出来るように、予め備えておこうとしているのだ。 そう分かってはいるのに、恐怖は慣れることなく襲いかかってくる。それを荒々しく遮ったのはモリだった。 「バカなコト考えるなよ。バーカ」 黙り込んでしまったハルの頭を、モリが容赦なくはたいた。 あまりにも突然の攻撃にハルは面食らう。ポカンと目を瞠り、とりあえず叩かれた頭をさする。そうして改めてモリに頭を叩かれたことを確認したあと、ハルは遅まきながら口を開いた。 「痛いな、もう! おい、急に」 急に叩くなというその台詞を、モリが遮った。その台詞に、ハルは再びポカンとすることになる。 「俺はいる!」 「は?」 何を言っているんだと首を傾げると、モリは次なる台詞を恥ずかしげもなく、堂々と言ってのけたのだった。 「俺は絶対にお前の側にいる」 「な・・何恥ずかしい台詞言ってんだよ」 クサイ台詞を堂々と言ってのけたモリに、逆に聞いていたハルの方が赤面する。おいおい、ご乱心かよ、と心中で怯えていると、再びモリが口を開いた。 「俺はいる」 ご乱心どころか、モリの表情は真剣そのものだった。 「誰がお前の側から消えても、俺はずっとあの家にいる。だからお前も、ずっと俺ん家の隣に居れば良いんだ。そうすれば一人になることなんてないじゃないか。俺もお袋も親父もお前の側にいるじゃないか」 ハルが口を挟む隙を与えないよう、一気にモリは言いきる。そして、言い切ってから自分の台詞に恥ずかしくなったらしく、視線を伏せた。そしてそれを誤魔化そうと、一つわざとらしい咳をしてから彼はまた口を開いた。今度の彼は、先程の真剣な表情とはうってかわって横柄に胸を張り、ハルを小突きながら言った。 「分かったか、バカハル! お前が望まない限り、一人にはなれないんだよ。行くぞ、バカ」 「・・バカバカ言いすぎだよ、お前」 やたらとバカバカ言っているのは、彼が照れているからだと、ハルも分かっていた。だから、抗議の声に力は入らない。 何故か、力が入らない。 そうして立ち尽くしたまま、ズンズンと自分を取り残し進んでいくモリの背中を見つめていると、 「まァた、モリと喧嘩したのか? ハル」 「仲良くするんだよ」 「ま、喧嘩するほど仲がイイってのはあるからな」 と、通りすがりの村の男たちが笑いながら声をかけていった。 一人で立ち尽くしていたはずなのに、一人にはならなかった。村の人たちは、声をかけ、側にいてくれる。娘が居なくなり、一人きりになってしまったカーヤの側には今も、村の女達が付き添ってくれているではないか。この世に二人きりの自分たち兄妹の側にも、モリやその両親、友人達がいてくれているではないか。 自分が望まない限り、一人にはなれない。 その言葉が、胸の中にあったしこりを崩していくようだった。 ヒラリ・・・ヒラリ・・・ヒラリ・・・ 降り始めたのは、雪。小さな粒の雪が、一つ、また一つと降りてくる。それはまるで自分を包んでくれているかのようで、ハルは安堵する。 白い雪の結晶が、体に染みこんでいく感覚。嫌なものが、全て洗われていく。冬の凛とした空気は、弱っている気持ちを引き締めてもくれる。 「大丈夫だ・・」 ハルは、小さな声でそう呟く。それは、自分への言葉だった。 「あれ?」 ズンズンと工場に向かって進んでいたモリだったが、後ろをついてきていると思っていたはずのハルがまだ立ち止まったままでいることに気付いたのは、 雪が降り始めた時だった。振り返ると、ハルは空を見上げていた。おそらく、彼が大好きな雪に見とれているのだろう。 雪なんて嫌と言うほど毎年見ているのに、どうして彼は飽きないんだろうと半ば呆れながら、モリはハルを呼ぶために口を開いた。だが、 「おーい、ハ」 開いた口から、声は急速に失われていった。それは、ハルを呼ぶことよりも他のことに気がいってしまったからだった。モリは、開いていた口を閉ざし、代わりに目を瞠った。 ひらりひらりと舞う雪と、そこに佇むハル。ハルの黒く長い髪に絡まる雪の白。それはまるで飾りのように彼を飾っている。 「」 その光景は、美しい。けれど、儚い。一瞬にして、消えてしまいそうな印象。 消えてしまう? 雪が? それとも・・・ その瞬間、モリは叫んでいた。胸をよぎった不安を吐き出すかのように、声を上げてハルの名を呼んでいた。 「ハル!!」 唐突に大声を出したモリに、ハルが驚いて視線を向ける。そして、自分とモリとの距離がかなり開いていることに気付いたハルは、慌てて走り出した。足下の雪がそれを邪魔をするけれど、ハルは文句の一つも言わず雪を踏みしめ、モリの隣まで並ぶ。そして、僅かに口を尖らせて言った。 「悪かったよ。そんなに怒鳴らなくてもいいだろ?」 「・・・すまん」 素直に詫びると、ハルは一瞬意外そうに目を瞬いたが、「まあ、いいけど」と言いながらモリの横をすり抜け駆けて行く。工場の中から、自分たちの声に気付いて顔を出したモリの父―カズが手を振っていた。それに手を振り返しているハルの姿が、次第に遠ざかっていく。 今度はモリが立ち尽くしていた。 一瞬、この胸に去来した不安はいったい何だったのだろうか? ハルが雪に連れ去れてしまうのではないかと、そんなことを思ったのだ。今、まさに雪の精霊と逢瀬を重ねているケイではなく、ハルが。何故そんな風に感じたのかは分からない。もしかしたら、彼があまりにも雪を好いているから、そんなことを思ったのだろうか。 「何だろうな、これは・・」 数年後。モリがこんな不安を感じたことなど忘れてしまった頃に、彼はその不安の意味を知ることになるのだった。 俺はいる! そしてモリは、ずっとずっとその約束を守り続けることになるのだ。ハルが、家から居なくなってしまっても、それでも。 |