しんしんと雪が降る朝。空は白く厚い雲に覆われ、太陽がその姿を見せる気配は一向にない。
 煙突から白い空へとパンの香りを届けているのは、モリの家。家の中では、開店に向け、セーラがパンを焼いていた。
 ふくよかな体型の彼女は50才を超えたくらいだろうか。笑い皺の刻まれた顔は、よく笑う明るい彼女の性格を如実に表している。わずかに白髪を混じらせ始めたブロンドは一つにまとめ、大きなおだんごにしてあった。
 セーラの焼いたパンを店頭に並べているのはハルとケイ。 その店の中に、セーラの一人息子、モリの姿はない。彼はというと、父・カズが運営している村はずれの工場に出かけていた。
 モリの家は主に、繊維工場を営んでおり、この村の衣類、布団、シーツ等々ほとんどの布製品をカズの工場で作っていると言っても過言ではなかった。 更に、カズの工場で織られるシアールの布は、この村の特産の一つとなっていた。
 シアールの布とは、lily−white hamletでしか採れない、シアールという、染料となる花の茎で染め、春先の未だ冷え切った水にさらし作られる布だ。シアールの布は、見事な紅の発色が評判で、街で高値で売買される。春先になると、ハルやケイも手伝って、一斉にシアールの花で布を染める。その作業は、春先のまだ冷たい川の水に手をつからせなくてはならず、大変な仕事だった。だが、春が来るまでの今の季節は普通の布製品の製品を行っている。一人息子のモリは、おそらくその工場を継ぐことになるのだろう。彼もそれを厭うことはしておらず、毎日父親と共に工場に通っていた。
 夫と息子が工場に行き、セーラは趣味で作り始めたパンを売るようになった。最初は慎ましやかだったそのパン屋も、セーラの人柄と手の凝ったパンのおかげか繁盛しており、ケイとハルはそちらのパン屋を手伝っていた。
「ケイちゃん。これも運んでおいてちょうだいね」
「はーい」
 トレイに乗せられたパンを受け取り、ケイが店頭へと向かう。
「おばさん、これも?」
「そうね。熱いから気を付けてちょうだいよ」
「はーい」
 ハルも同様にパンを受け取り、並べていく。
 それは、5年もの間、毎朝繰り広げられてきた光景。だが、それ以前はこのパン屋に、ハルとケイの母―エレの姿もあった。幼い兄妹と年若い母―エレ。そして、セーラの居るその風景は、仲の良い母と娘、そしてその孫たち。そんな幸せな風景に見えた。
 だが、今、ここにエレはいない。それを悲しむことも、もうなくなって久しい。
「ねえ、ケイちゃん」
「なに?」
 パンの生地を作っていたセーラが突然手を止め、小声でケイに声をかけた。手招きまでされたケイは、一体何の話だろうと手招かれるままセーラの側に寄る。するとセーラは、ハルが厨房内にいないことを確認したあと、ケイの耳元で言った。
「ケイちゃん、恋してるでしょ?」
「え!!?」
 セーラからの唐突な言葉に、ケイは目を瞠る。思わず頬が赤くなるのを感じて、ケイはますます頬を赤くする。
 そんなケイの様子に、セーラはカラカラと笑いながら言った。
「やっぱり! 最近綺麗になったと思ってたのよォ」
 先程までの周囲を気にした様子は何処へやら。うってかわって大声で言い放ち、セーラはバシバシとケイの背を叩いた。
「そ、そうかなぁ」
 女の子は恋をすると綺麗になる。よく聞く台詞だが、そんな実感はない。
 首を捻っているケイに、セーラは「そうそう」と大きく頷いて見せ、再びケイの肩を叩いた。
「おばさんには分かるわよ。やっぱりねぇ。ふふ。ケイちゃんも女の子なのねー」
 満足そうに笑いながら、セーラは視線を感じ振り返る。そこには呆れたように自分たちのやりとりを見つめているハルの姿があった。
「ね、ハルちゃん」
 と笑顔で声をかけてみると、ハルは肩を竦めながら言った。
「おばさんはめざといなー」
 どうやら話の内容はだいたい察しているらしい。
 大仰に肩を竦めてみせたハルに、セーラは腰に手を当て、怒ったふりをしてみせる。
「あら。鋭いと言ってちょうだいよ」
「はいはい」
 笑いながらも受け流そうとするハルを、セーラは逃がさなかった。
「お兄ちゃん、心配でしょー」
「別にー」
「あら、強がっちゃってまあ」
 そう言って笑うセーラに、ハルは「強がってないって!」とムキになって反論している。そんな兄の子供っぽい様子に笑いながら、ケイが言った。
「お兄ちゃんも好きな人作ればいいのよ」
 サラリと言い切ったケイに、ハルは「おいおい」とケイに視線を遣る。
「お前、そんなパン作るみたいなノリで言うなよ」
 とハルが笑っていると、
「だめだめ! ハルちゃんはまだだめ。おばさんが許しません」
 と、セーラがハルの腕を取りながら口を開いた。
 エレによく似ているハルは、セーラのお気に入りで、これまでずっと可愛がっていたのだ。それは、本当に目に余るほどの可愛がりようだった。特に、ケイが生まれるまでは、「私、女の子が欲しかったのよー」とことあるごとに洩らし、まだハルに物心が付いていないのをいいことに、エレと共にハルを女の子として扱っていた程だ。
 セーラもセーラだが、エレもエレだと誰もが苦笑していた。
「おばさんのハルちゃん離れはまだまだね」
 言ってケイが笑う。
 では、ケイはと言うと、彼女は猫可愛がりされかなり困っている兄の姿を教訓に、さっさと大きくなり、しっかりした子になった。セーラの手から早期に上手く逃げおおせたのだ。下の子は上の子を超えるというが、ケイもまた兄よりもうまくセーラをかわす方法を身につけていったのだ。よって今でも兄がセーラのお気に入りとして髪の毛をいじられたりしていた。彼が髪を伸ばしているのも、セーラの為だと言ってもいいかも知れない。一度、伸ばしていた髪をばっさり切った際、本気でセーラに泣かれたため、ハルは髪すら自分の意志で切れなくなっていた。
「ケイはいいの?」
 どちらかと言えば、女の子の方を心配するべきだろうと問うてみれば、
「いいのよ。ケイちゃんはハルちゃんよりも大人だもの」
「は――?」
 そんな答えが返ってくる。心外だと眉を寄せ講義するハルを余所に、セーラは笑いながらケイに向き直って言った。それは、勿論冗談だった。
「ケイちゃん。ハルちゃんの面倒はおばさんが見るから、安心してお嫁に行ってちょうだいよ」
「はーい」
 ケイは笑って答えた。それも、勿論冗談だった。だが、
「―――」
 ハルは、目を瞠り、黙り込んでしまった。
 そんなハルの様子に気付いたのはセーラだった。
 ハルが、一人ぼっちになることを何よりも恐れていることを、セーラも知っていた。エレが他界してからは、セーラが彼の母親役だったのだ。知らないはずがない。だから、常に彼には気を遣ってきた。傷付けないように守ってきたつもりだったのに、ふとして拍子に彼の傷は再発する。
 セーラはしまったと視線を泳がせた後、すぐさまハルの側に寄っていった。
「もう! ハルちゃんにはおばさんがいるでしょ!」
 そして、ぎゅうううっとハルを抱き締める。それは愛情の域を通り越して、殺意さえも感じることが出来るほど、強い力での抱擁だった。否、もう締め上げていると正直に申し上げた方がハルのためだろう。
「く、苦しいって! 分かったから!!」
 解放してくれと暴れるハルを、セーラは逃がすまいと抱き締める。そんな二人の様子を、ケイはゲラゲラと笑って見ていた。
 ハルの傷の痛みは、一瞬にしておさまったようだった。
 それを見てケイは、セーラを尊敬する。そして、このパワフルさに爆笑する。
 セーラに羽交い締めにされているハルを助けたのは、
「ハルー。・・って、またか」
 厨房に姿を現したセーラの息子・モリだった。
「お袋、やめてやれよ」
「あら。お邪魔虫が来ちゃったわ」
 息子の登場に、セーラは「嫌だ嫌だ」とぶつぶつ言いながらハルを解放した。セーラにとってモリは、お腹を痛めて産んだ実の息子だ。結婚生活15年を過ぎ、ようやく授かった子供。可愛くないはずがないのだが、モリは父親似にてぐんぐんぐんぐん「もうやめて!!」とセーラが泣きたくなるほど逞しく育ってしまった。女の子が欲しかったセーラは、せめてモリが小さなままで居て欲しかったのだが。まあ、そんなことは無理なわけで、モリはこうして立派な男性になってしまった。セーラはそんなモリよりも華奢なハルの方を可愛がっていた。
 モリもそのことを嫉妬するほど子供でもなければマザコンでもない。
「自分の息子を邪魔者扱いするなよ」
 またか、と溜息交じりに母親に訴える。勿論、母親が本気で自分を可愛がっていないなどとは思っていないから、それ以上セーラを責めることはせず、ハルに視線を遣って手招いた。
「ハル。親父がこっち手伝ってくれってさ」
「分かった。じゃ、おばさん、悪いけど」
 どうやら工場の方を手伝いに行かなくてはならないらしい。ごめん、とセーラに断ると、セーラは残念そうな顔をしながらも、
「はい。行ってらっしゃいな」
 そう言って、笑顔で手を振ってくれた。
「行って来まーす」
 パン屋をモリと共に後にする兄の姿を、ケイも手を振る。そうして兄とモリを見送っていると、急にセーラの声に名前を呼ばれた。
「ケイちゃん」
「なに? おばさん」
 視線をセーラに遣ると、彼女は声音と同様、静かで穏やかな顔をして自分を見ていた。
「あのね、ケイちゃん。おばさんは、ハルちゃんと同じくらいケイちゃんのことも心配してるの」
 セーラは一言一言をケイに言い聞かせるように、丁寧に言葉を紡いでいく。
 その言葉の意味は理解できる。けれどケイには、何故セーラが今こんなことを言い出したのかが分からない。セーラは、こうして言葉で伝えてくれなくても自然と感じることが出来るほどに、自分たち兄妹を愛してくれた。ここまで育ってきたのも、セーラのおかげに他ならない。確かにセーラは兄をひどく可愛がっていたが、それが、彼の心の傷を知っているからだということも分かっている。不公平だと不満に思ったこともない。
「・・・」
 ケイが黙ってセーラの言葉を待っていると、彼女はしばしの沈黙の後、再び言葉を紡いだ。
「おばさんはね、エレが祈っているようにケイちゃんには、ケイの名に相応しい、恵まれた人生を送って欲しいと思ってるのよ」
「おばさん・・」
 言ってセーラは、ケイの頭を優しく撫でる。その手の温もりが、彼女の台詞が真実なのだと言うことを、何よりも明確に伝えてくるのをケイは感じていた。
「幸せになってちょうだいね、ケイちゃん」
 そのセーラの言葉に、先程彼女が言った兄のことは自分に任せろというその台詞が、本気だったことをケイは知る。兄が心に傷を負っていることを知っているケイ。そして、兄には気付かれないように、彼を支えているケイを、セーラは知っていた。だから、彼女はそう言ったのだ。兄は任せろ、と。ケイに、兄よりも大切な人が出来たとき、兄が足枷になってはならない、と。それをハルも望んでなどいない。むしろそれを怖がっていることを。だから、言ったのだ。ハルのことは任せて、ケイの好きなようにすればいいと。幸せになればいいと。
「――おばさん・・」
 セーラは、優しい瞳で自分を見つめてくれている。いつだって、エレが与えてくれていた愛情を、彼女は与えてくれる。母の記憶がおぼろげにしかないケイにとってセーラは、母と言っても差し支えのない存在だった。天国にいる本当の母には申し訳がないのだが、今のケイにとっては、セーラこそが母親だった。何を言わなくても、全て分かってくれる人。自分の幸せを、兄にも負けないくらい祈ってくれている人。
「幸せになってちょうだい」
「――はい」


 ――涙が、零れそうだった。






BACK * TOP * NEXT