冬が完全に村を支配し、常緑の木々もそのほとんどが雪に覆われ色を変えていた。
 lily-white hamletの日々は、白い雲とそこから降り注ぐ雪、そして暖かな暖炉と共に穏やかに過ぎていく。
 そんな村を出て、ケイは相変わらずShamrock squareに通っていた。ハルの体調も治り、その足取りも軽い。だが、それは森に入ってから。森に出るまでは、こそこそと、村人に見つからないように行かなければならなくなっていた。冬の森に行くことに、村人達が敏感になっているからだ。何故なら、未だロジェが見つかっていないから。
 ロジェが居なくなって既に3日が経つ。夏場ならまだしも、今は冬。その生存は、絶望視され始めていた。それでも、村の男達はシフトを組み、仕事の合間にロジェを捜しに行っている。
 雪は、容赦なく降り注ぐ。村人の侵入を拒むかのように、森の中にも雪が深く積もっていた。だが、Shamrock squareへの道だけは、村人の侵入を拒む雪はなかった。否、ただ一人の村人―ケイのために、シュウが雪に頼んでいるおかげだということを、つい先日ケイは知ったのだった。
 シュウといつも通りShamrock squareで逢瀬を重ねる。
 けれど、冬の時間は残酷に過ぎていく。先程まで真上にあった太陽は、いつの間にか山の後ろに隠れ始め、空を赤く染め始めるのだ。
 短すぎる逢瀬。夕日が、二人を引き離す。
 二人で居る時間は、何にも代え難いほど幸せだというのに、この別れの言葉を口にする瞬間だけは、辛い。
「また明日来るわ」
「うん。また明日会おう」
 別れの言葉を告げても、なかなか離れられない。そうして、森に夜が近づき、闇が二人を急かす。そこでケイはようやく村への帰路を歩き始めるのだ。その隣には、シュウが寄り添ってる。
 村までの短い道のり。二人は黙って歩き、お互いの空気を感じている。
 ケイが踏みしめる地面から、サクサクと音がする。見下ろすと、くっきり足跡が続いていた。次に空を見上げると、そこにあるのは月。闇夜にポッカリと月が浮いている。
「綺麗な月・・」
「・・綺麗だね」
 満月を迎えんとした月が、太陽に代わって二人を照らしていた。


 月は、村にも同様に光を注ぎ込んでいた。
 珍しく雪が止み、冬の澄んだ空気の先、キラキラと星たちが瞬き合っている。そんな空の下、暖かな暖炉の火に守られ、ハルが薄い本をゆっくりと読み進めていた。ページをめくる細い指を止めたのは、玄関の扉が開いた音と、続いて開いたリビングのドアから顔を見せた幼馴染みだった。
「ハル、ケイ。お袋が飯食いに来いってさ」
「お。やった」
 リビングに入って来たモリは、そこにハルの妹の姿がないことに気付き、ハルに視線を戻した。
「ケイは? まだか?」
「ああ」
 ハルが頷いてみせると、モリは暖炉の上にある時計にチラリと視線を遣る。
「・・遅いな。迎えに行って来ようか?」
「いや、大丈夫だろ」
 心配そうな面持ちのモリに、ハルは答える。いつもケイが、シュウという精霊に村まで送ってもらっていることを彼は知っていた。だが、それを幼馴染みには言わない。言えば彼も安心するのだろうが、それ以上に、嫉妬するに違いない。たとえ、すでに叶わない恋だと知っていても。
 妹なら大丈夫だと言い切ったハルに、モリがなぜだと追求することはなかった。その代わり、ハルが膝の上にのせている本についてモリは訊ねてきた。
「・・何読んでたんだ?」
「コレ」
 不思議そうに問うモリに、ハルはその本の表紙を彼に向けて見せた。
「絵本か。懐かしいな」
 ハルが持っていたのは、この村の人間ならば、一度は呼んだことのある絵本だった。それというのも、この村出身の絵本作家が描いた絵本だったからだ。
 タイトルは『FLOWER and RABBIT』。
「よくじいちゃんが読んでくれてたなァと思ってさ」
「へー」
 再び絵本に視線を落とし、ハルは小さな声で呟くように言った。
「昔はさ・・・小さい頃は、何も感じなかったんだけどな」
 そこで口を噤んだハルに、モリはその先を促す。
「今は?」
「・・今は、違うんだ」
「何が」
 再度促すと、ハルは絵本から顔を上げ、モリに笑みを見せながら言った。その笑みは、どこか苦笑に似ていた。
「・・何で、笑えるんだろうな」
 その言葉に、モリは一瞬首を捻ったが、すぐにその絵本の中で、うさぎが笑っていたシーンを思い出した。
「ああ、うさぎか?」
「そう」
 ラストシーン。石になりたいという願いが叶い、石になった花を見て、うさぎは笑っていた。
良かった。ボクたち、幸せになれたね
 そう言って、幸せそうに笑い、物語は幕を閉じていた。
「うさぎにとってこのエンディングは、幸せなのかな・・?」
 再びハルはモリから絵本に視線を戻し、そう呟く。その視線の先では、石になったお花を見つめ、笑っている可愛らしいうさぎが居た。それをハルは、じっと見つめている。
「昔はオレだって、良かったね、って思ったんだけどさ・・・今は、そう思えないんだ。だってよく考えたら、悲しいじゃないか」
 言ってハルは、労るようにうさぎを指先で撫でる。
 幼い頃はただ、幸せになれると言ったうさぎの言葉に、ハルも良かったと笑みを零したものだった。だが、大人になるにつれ、笑えなくなっていった。
 ――これで本当に良かったのだろうか・・
 そう考えるようになってから、笑えなくなった。
 このエンディングは、悲しいばかりではないかとすら思えるようになった。おそらく、父母もそう感じていたのだろう。この絵本をハルに読んで聞かせてくれたことは一度もなかった。ただ一人、祖父だけが悲しい瞳をして、この絵本をハルとケイに読んで聞かせてくれたのだ。
 その祖父の瞳が忘れられないから、悲しいのだろうか・・・
 絵本を見つめているハルの横顔を、しばらくモリは眺めていた。彼に向けてかける言葉は、もう決まっている。けれどなかなか唇から落とせないのは、この言葉を聞いたハルがどんなことを思うのかが分からないから。
 しばしの逡巡の後、モリは遠慮がちに台詞を唇に乗せた
「・・・この絵本の作者な、精霊に娘を凍らされたんだってさ」
「―――」
 モリの言葉にハルは何も言わず目を瞠る。絵本を撫でていた指も、ピタリと止まっていた。
 そんな彼の様子を慎重にうかがいながら、モリは静かな口調で更に言葉を紡いだ。
「その人も問いたかったのかもしれないな。お前はそれで本当に幸せなのか、って」
「・・・」
 落ちた沈黙は、すぐに破られた。見開いていた瞳を細め、再び絵本の中のうさぎを撫でたハルが、消え入りそうな声で囁くことによって。
「うさぎが精霊で、花が―――・・」
 その台詞が最後まで紡がれることはなかった。最後まで紡ぐ前に、ハルの唇から声が消えてしまっていた。そして、
「ただいま――!」
 玄関の扉が開く音に続いて、元気の良い声が響いてきたから。
 どうやら、ケイが帰ってきたようだ。
 言葉が紡がれることなく、開かれたままだった唇を閉ざし、ハルは立ち上がる。持っていた絵本を机の上に置くと、ハルはコートをまとった。
「よし、ケイも帰ってきたし、行こう、モリ」
 そんな台詞と共にモリに向けられた笑顔は、いつも通りのハルのものだった。そのことに安堵し、モリはハルに「そうだな」と頷いて見せた。
 リビングのドアを開け、玄関に視線をやると、ブーツの紐を解いているケイがいた。その背中にハルは笑みと共に言った。
「ケイ! 今日の夕飯はおばさんのトコだ」
「やった――
 振り返ったケイの顔にも笑顔がある。その笑みに、ハルは更に笑みを零す。
「行って来まーす」
 再び押し開かれたドアの向こうでは、いつの間に降り始めたのだろうか。月の光に照らされ白銀に輝く雪が、3人を出迎えていた。


 夕食後、モリの家を出たハルとケイを、やはり雪たちが出迎える。空に居たはずの月は、白い雲にその居場所を奪われ、姿を消していた。
 しんしんと、雪だけが降り続いている。おそらく朝までずっと降り続き、ますます村は雪に覆われるのだろう。
 空を見上げながら、ケイがポツリと呟いた。
「ロジェ・・・心配ね」
「ああ」
 雪が降れば降るほど、捜索は困難になる。
 夕食の際にも、行方不明になっているロジェのことが話題に上った。セーラが静かに祈っていたのをケイは思い出す。
 ここは狭い村だ。いなくなったロジェのことも、そしてその母カーヤのことも、誰もが知っていた。そして祈る。
 同様に祈りを捧げながらも、ケイは頭によぎる嫌な予感を振り払うことが出来ない。冬の森での遭難者が無事に帰ってきたことは稀。
「明日中に見つからなければ・・・」
 そこから先の言葉は、唇に乗せないでおく。
「・・・そうだな」
 ハルも、ケイの言葉の続きを問うことはしなかった。彼も、同様のことを考えていたから。
「カーヤおばさん、心配だろうね」
 祈りを終え、ケイは空を見上げながらそう口にした。灰色の雲からは、際限なく雪が舞い降りてくる。
 カーヤの家は、カーヤとロジェの二人だけの家庭。ロジェの父は十年程前に突然の病で他界してしまっていた。突然夫を亡くしたカーヤだったが、彼女は強かった。涙を見せたのは夫が亡くなったその瞬間だけ。そこからカーヤは幼い娘を一心に愛し、女手一つでロジェを育て上げたのだ。
 そんなロジェが、夫が突然他界した時のように、突然消えてしまった。
 カーヤの心境を思うと、やりきれなさばかりが込み上げてくる。カーヤにはもう、ロジェだけだったのだ。
 ケイは視線を落とし、最悪のケースを唇の乗せる。だが、その台詞は、ハルによって掻き消されることになるのだった。
「・・もしロジェが帰ってこなかったら、おばさん一人きりに――」
「やめろ!!」
「―――」
 突然のハルの怒鳴り声に、ケイは驚いて肩を震わせる。視線を兄に向けると、伏せた顔を片手で顔を覆っていた。
「―――お兄ちゃん?」
 徐に声をかけると、ハルはしばしの後、顔を伏せたままではあったが、しっかりと答えを返してきた。その口調に、先程の強さはない。
「やめよう。こんな話」
「・・・・」
 知らず、兄の心の傷に触れてしまっていたことに、ケイは気付く。
 兄には、自分にはない、突然両親がいなくなった時の記憶がはっきりと残っている。幼い妹を抱え、この世界で一人きりになったも同然だった幼い頃の記憶が、時折兄を苦しめていた。
 そして、同様に、自分にはない傷を兄は持っているのだ。その傷は、ハルの心の奥深くに刻まれていて、ケイには見ることが出来ない。だから、不意にその傷に触れてしまう。触れられた痛みを紛らわせるかのように、ハルは感情を露わにする。
 そうした発作にも似た激情を、妹の前では露わにしないよう、ハルが今この瞬間も必死で己を宥めていることを、ケイは知っていた。
「――ごめんね。お兄ちゃん」
 俯いたままの兄にそっと謝ると、しばしの後、彼はゆっくりとケイに顔を向けた。その顔は笑みを浮かべていたけれど、瞳は笑っていない。湧き上がる恐怖を、今も未だ宥めている最中なのだろう。それでもハルは微笑みながら、口を開いた。
「いや、オレこそ、大きな声出して悪かった。ごめんな」
「ううん。いいの」
 ケイは気付いていた。頬にかかる長い髪を払ったハルの手が、震えていることに。
 だが、知らないふりをする。きっと、これからもずっと、そうして何も知らないふりをしていくだろう。
 ――兄の前では、何も知らない、子供でいよう。
 そうすることが、自分には求められているのだということを、ケイは知っている。
 あの日、両親が死んだという事実を知らなかった子供のように。そして、兄の心に刻まれた深い傷の存在など知らないように。何も知らない、無力な子供でいよう。そして、兄が側にいないと泣いてしまう、幼い妹のままでいよう。
「寒いね。早く帰ろう、お兄ちゃん」
「そうだな」
 冷たい風と雪が、そんな二人の背中を押していた。









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