朝日が、雪に埋もれたlily−white hamletを銀色に照らす。
 村人が起き出し、朝食を済ませる頃、玄関の扉が開く音が少年の目覚めを促した。それに続いて響いた妹の声に、家の若き主、ハルは目を覚ます。しばしベッドの上に体を横たえたまま、ぼーっと視線を漂わせていると、ほどなくして部屋の戸が開いた。そこから徐に顔を覗かせたのは幼馴染みのモリ。ハルが起きているかどうか確かめに来たらしい。ハルがゆっくりと体を起こすと、すぐに部屋に入ってきた。
「起きてたのか?」
「ああ。今起きたよ」
 一つ欠伸をした後、先程自分を起こしたケイの声を思い出し、モリに問うてみる。
「ケイ、出かけたのか?」
 すると、モリは溜息交じりに言った。
「ああ。また出かけてったよ。愛しい男に会うために、な」
 そのモリの台詞に、ハルは目を瞠る。まだモリは、ケイが精霊に恋をしていることは知らされていないと思っていた。ケイのことを愛しく思っているモリに、その事実を告げることはハルには躊躇われた。だから黙っていたのだが、知ってしまったらしい。
「・・・ケイから聞いたのか?」
 自分が言っていないのだから、ケイしかいない。
 気まずそうに視線を揺らし訊ねるハルに、モリは頷いて見せた。
「ああ。見事にふられたよ」
「言ったのか!?」
 ふられたと言ったモリに、ハルは再び目を瞠る。
 まさか告白したのかと問うたハルに、モリは「まさか」と笑った。
「言うわけないだろ」
「そうか」
ほっとしたような、がっかりしたような、妙な気持ちを抱えつつハルは頷く。するとモリは不意に視線を伏せ、小さな声で言った。
「・・幸せだって、あんな風に笑われたらもう何も言えないしな」
 そんなモリの切ない呟きに、ハルは何も言えず口を閉ざす。こんな時、どんな言葉をかければいいのか、彼はまだ知らない。だから、下手にモリを慰めることはやめた。その代わり、口許に笑みを浮かべおどけた様子で口を開く。
「恋路を邪魔すると〜?」
「馬に蹴られて死ぬのは嫌だからな」
 モリも、おどけた様子で肩を竦めて見せた。
 その様子に、ハルは安堵する。そして、遠慮なく笑った。
 そんなハルを、モリは「笑うなよ」と小突く。その顔が照れくさそうで、ハルは更に笑った。ひとしきり笑い合った後、突然モリがぽんと手を叩く。
「あ。そうだ。お袋が、今日は休めってさ」
 どうやら、それを伝えに朝からハルの家を訪ねて来たようだった。体調がまだ思わしくないだろうと、セーラが気遣ってモリに伝言を言付けてくれたらしい。
「でも――」
 体調も昨日より幾分ましになった。体が少しだるいだけで、仕事に支障はないだろうと判断したハルだったが、
「休め。働かせたら俺がお袋に怒られる」
 と、モリに言われては言う通りにせざるを得なかった。
「そっか」
「お袋は俺よりお前の方が可愛いんだからな」
 申し訳ないと視線を落とすハルを見て、モリは明るい口調で言った。ついでに肩を竦めてみせる。
 おそらく自分を気遣ってくれているのだと言うことに気付いたハルは、それを申し訳なく思いながらも、笑顔を見せた。ここは彼の心遣いに報いなければならないだろう。
「まあ、そりゃあなァ」
 と、ふんぞり返ってみると、案の定、モリは目を剥いて反論してきた。
「どォいう意味だ!?」
「ほらほら、怖い顔だー」
「眠れ! さっさと眠れ!」
「あははははは」
 ボスッ! と布団に押し倒され、ついでに布団を頭からかぶせられた。彼なりに、もう少し寝ておけという合図らしい。それに従い、もう一眠りすることにしたハルは、瞳を閉ざす。そして、しばしの沈黙の後、小さな声で言った。
「――ごめんな、モリ」
「は? 何が?」
 突然の詫びに、モリが目を丸くする。ハルが一体何に対して謝っているのかが分からなかったのだ。怖い顔だと言われて怒っては見せたが、それも勿論本気ではない。いつもやっているハルとのおふざけだ。それを謝ったのでないとすれば、ハルは一体何に対して謝ったのだろうか。
 モリが答えを待っていると、ハルは閉ざしていた瞳をゆっくりと持ち上げた。
「・・相手がお前じゃないのは申し訳ないんだけど、ケイが恋をして・・幸せだっていうのが、オレは嬉しくてしかたがないんだ」
 そう言ってうっすらと微笑んだハルは、兄の顔をしていた。
 それを見て、モリも笑いながら言った。その笑みには、若干苦いものが含まれてはいたけれど。
「まあ、俺だって悔しいけど、喜ばしいことだとは思ってるさ」
「ああ。さんきゅ」
 ふられはしたが、それでも妹の幸せを願ってくれているのだろうモリに、ハルは心の底から礼を言う。そして、再度、瞳を閉ざした。
 そんな彼の眉が僅かに寄せられているのを見て、モリは首を傾げる。「どうかしたのか?」とモリが声をかけるよりも先に、ハルが急に体を起こした。そして、そのまま起こした体を深く折り曲げ、俯いてしまう。突然起き上がった所為で、眩暈でも起こしたのだろうかと彼の体を支えたモリだったが、どうやらそうではなかったらしい。すぐにハルはしっかりとした口調で言った。
「そう。嬉しいんだけど・・・何だろうな、コレは・・・」
 言って、歯切れ悪く口を閉ざす。
「・・何がだ?」
 徐に先を促すと、ハルは片手で伏せていた顔を覆い、口を開いた。
「―――・・怖いんだ、何か・・。本当は、行かせたくない・・・!」
「――ハル・・」
 そして、もう片方の手は無意識の内にだろう、モリの腕を掴んでいた。縋り付くようなその手が微かに震えているのことに、モリは気付いていた。だが、何も言わない。どんなにきつく腕を握られようとも、モリは何も言わずに、ハルの言葉に耳を傾けていた。
「・・信じてるんだ。でも、冬の森に行って、もし帰ってこなかったら? 父さんや母さんみたいにオレを置いて居なくなったら・・!? ロジェみたいに行方不明になったら、オレはどうすればいい!?」
 突然のハルの激情にも、モリは黙ってそれを聞いていた。顔を覆っていた手もすぐに縋り付ける場所を求めてモリの胸元を掴む。それは恐怖から逃れるため、幼い子供が必死で母親の胸の中に逃げ込もうとしている様子によく似ていた。
「 一人きりになったらオレはどうなる!!? そんなの耐えられない・・これ以上失うなんてオレは嫌だ! 嫌なんだ・・ッ!! 怖い・・・怖いんだよ、本当は!!」
 目の前にいる幼馴染みが、時折こうして危うい精神の均衡を如実に表す様を、モリは何度も見てきた。幼い純粋な心に深く食い込んだ悲しみの爪は、今でも生傷のまま彼の心を蝕んでいるようだった。それを知って、何年にもなる。いつも朗らかに笑っている彼がふとした拍子に見せる、狂気にも似たその感情を受け止めることにももう慣れた。とにかく、吐き出させてやることが一番なのだと知っているモリは、ハルが落ち着きを取り戻すまで、黙って彼を見守っていた。
「オレは・・怖いんだ・・」
 ようやく落ち着いてきたハルの背を、モリは優しく撫でてやる。自分の腕を、胸元を掴んだ手は、未だ小刻みに震えている。それがやむまで、掴ませておいてやろうと、モリは何もしなかった。ただ、優しく背を撫でる。
「・・ハル」
 彼を驚かせないよう静かに名前を呼ぶと、彼は大きく息を吸い込み、そして吐き出した。数回それを繰り返したハルは、ようやく平常心を取り戻したようだった。無意識の内に、モリの腕や胸元を掴んでいた手をぎこちなく外す。腕の震えはおさまったようだった。
「・・ハル?」
 気遣うようなモリの声に、ハルはベッドの上に視線を落とし、項垂れる。
「・・ごめん・・」
 その小さな謝罪に、モリは彼とは逆に大仰な様子で胸を張り、ハルの背をバンバンと叩く。
「気にするな!」
 鷹揚に言ってのけると、僅かにハルが笑みを零したのが分かった。そのことに安堵した後、モリは項垂れた彼の瞳を、下から覗き込み無理やり視線を合わせる。ハルがそれを拒まないことを確認してから、モリはゆっくりと一言一言彼に言い聞かせるように口を開いた。
「ハル。お前は、一つ一つ吐きだした方がいい。不安なことが一つできたらすぐ俺に言え。ケイには言えなくても、俺だったらいいだろ? お前のことなら何でも知ってるんだ。今更遠慮することなんて何もないだろ? 溜めて溜めて大爆発させるな。溜まったらすぐに出せ。小出しにしろ。な?」
 そう言い聞かせるモリの瞳は、いつになく優しい。まるで父親のようだと、ハルはいつも思う。思うたびに、自分がまだまだ子供のまま、成長できていないことを知り歯痒くも思うのだ。
 あの日、父母が雪崩に巻き込まれたと知り、恐怖したあの日から、何も成長していないのだと言うことを知らされる。それを知られまいと、必死で強がっていた自分を知る。その瞬間、肩の荷がおりたのを感じるのだ。それは、ひどく心地良い感覚。幼い頃からずっと自分の側にいてくれたモリだからこそ、与えてくれる心地よさだった。
「――・・ありがとな、モリ」
 礼を何度言っても言い足りない。その思いを、唇を噛みしめてハルは堪える。
 モリはそれを知っているのだろう。いいんだとでも言うように、また父親のような笑みを向けてきた。彼自身、自分がどんなに穏やかな顔をしているのか知らないのだろう。
「俺が好きで買って出てるんだ。気にするな」
 そう。幼馴染みの両親がいなくなったときに、モリは決めていた。いや、それよりももっと先に、決まっていたのかもしれない。


『お前の名前はモリよ。いつか大切な人が出来たら、その人を何が何でも守りぬける男になりなさいね』


 そう自分の名の由来を聞かされたのは随分前のことだった。
 そして、初めて守ろうと思ったのは、あの日、両親を突然亡くした幼馴染みだった。
 それが、正しいのかは分からない。母の言った大切な人が本当にこの幼馴染みなのかは未だに分からない。もしかしたら、将来結婚する人のことかもしれない。自分の子供のことかもしれない。もしかしたら年老いた両親のことかもしれない。
 だが今は、ハルとケイだと、モリは決めていた。そう決めたのもやはり、


『助けてあげてちょうだい。ハルちゃんの話を聞いてあげられるのは、あなただけなんだからね。お兄ちゃんなんだから、助けてあげるのよ』


 両親が雪崩に巻き込まれたと知ったその日から、小さな体で精一杯妹を守ってきたハルを見て、母親がそんなことを自分に言ったからだった。
 あの頃のハルは、悲しみながらもそれを見せず、妹の世話もきちんとし、自分の助けなど要らないのではないかと、最初は思っていた。だが、それが間違いだったと気付いたのは、幼馴染みの両親がいなくなって一週間が過ぎた頃だった。ケイが眠った後、一人家の外で、雪降る中じっと佇み、ハルは声もなく泣いていた。本当は、悲しみが和らぐまで泣き喚いていたいに違いない。けれど、それが彼には出来ない。妹の前で、彼は泣くまいとしていたから。だから、夜に一人で泣いていたのだ。妹を起こさないよう、寒い家の外で。妹を起こさないよう、声を殺して。
 その姿を見て、ようやくモリは母親の言葉の意味が分かった。この幼馴染みは、妹やセーラの前では気丈に振る舞っているが、本当はこんなに脆いのだと、まだ子供なのだと母親は言っていたのだ。
 驚かせないように声をかけ、彼の側に寄ると、ハルは泣きやんだ。だが、何も言わずに彼の隣に立っていると、また彼は泣き出した。今度は小さく声を上げ、泣いていた。
 いつの間にか、震える小さな手を自然と握り締めていた。
 ――他に大切な人が出来るまでは、泣き虫のこいつをまもってやろう。
 そんなことを思った。
 その思いは、今も変わらない。ハルを、そしてケイを、全身全霊で守ろう。そう、あの日から決めたのだ。今更それを放棄する権利などない。そもそも、放棄する気すらない。自分で勝手に決めたことだが、それを生涯貫き通そうとも心に誓った。両親のくれたモリという名に、恥じぬよう。
「ありがとう、モリ。落ち着いた」
 そう言ってハルが浮かべた微笑みは少しぎこちなかったけれど、彼の言う通り先程に比べれば随分落ち着いているのは見て取れた。そのことにほっと安堵の息を吐いた後、モリは徐に立ち上がった。
「待ってろ。朝飯持ってきてやるから」
 そう言って踵を返した背に、
「ありがとうな」
 また、ハルからの礼が届いた。それに片手を振ることで答えたモリは、そのまま部屋から姿を消した。
 パタンと、静かに閉まるドア。
「―――」
 一度瞼を閉ざしたハルは、大きく息を吐く。
 あの怖ろしいほど突然にやって来る底知れぬ不安は、いつも激情となって唇から溢れ出す。それは予期できぬ、発作に似ている。始まったと思ったら、もう止まらない。ポツンと生まれた不安は一気にハルを覆い尽くし、そのままハルの意識を絶望という名の奈落の底へと引きずり込む。
 再度溜息をついたあと、ハルは視線を窓へと移した。
「――雪・・」
 窓の外では、雪が降っていた。


 ひらりひらりひらり・・・


 粒の小さな雪が、一つ、また一つと降りてくる。
 その雪に思い出すのはあの日。両親が雪崩に遭ったと聞いたあの日。あの時も、季節外れの雪が降っていた。


 ひらりひらり・・


 そう。こんな雪が降っている中で、両親が雪崩に襲われたのだと知らされた。


『お父さんとお母さんはね、ハルちゃん。雪に攫われちゃったの・・・』


 そう言って泣いていたのは、確かモリの母、セーラだった。幼い自分に配慮したのだろう。”死んだ”とは言わなかった。けれど、父母が死んだのだということを、ハルは察していた。それでも、信じようとはしなかった。
 ――雪に攫われたのなら、雪に頼めば返してくれるかもしれない。
 そうして、何も考えず森の中に入っていった幼かったあの日。どんなに頼んでも、雪は両親を返してはくれなかった。
 しかし、数日後、雪の下から両親は帰ってきた。その体は、やはり冷たくなっていた。


 ひらりひらりひらり・・


 雪が運んでくる思い出は、またハルの中に不安をもたらそうとしている。
「――ッ」
 ハルはすぐさま自らの両手で体を抱き締める。絶望の闇に引きずり込まれないように、きつくきつく。


 ・・ひらりひらり・・ひらりひらり・・



 雪は降り続く。目を細めてそれを見つめながら、ハルは消え入りそうな声でそっと囁いていた。


「―――・・お願いだから、攫わないでくれ・・・」


 ―――願いは、届かない。
 そのことを、ハルはまだ知らない。







BACK * TOP * NEXT